「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角

2016-12-21 04:17:25 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称であった。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、七世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平六年(894年)、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。両部曼荼羅密教末法思想浄土信仰金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇、藤原道長、藤原師通、白河上皇などがいる。このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している。金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗の傘下に置かれることとなった。明治維新に入り修験道信仰は多大な打撃をこうむった。1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年全国各地で行われてきた神仏習合の信仰は廃止され、寺院は廃寺になるか、神社に変更し生き延びるほかなかった。1872年(明治五年)には追い討ちをかけた形で修験道廃止令が発布され、1874年(明治七年)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれた。僧侶・修験道者らの嘆願により、1886年(明治十九年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続が果たせた。ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され現在に至っている。太平洋戦争後の1948年(昭和二十三年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和二十七年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。


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「神仏霊場巡り」金剛輪寺・滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。本尊は聖観音、開基は行基とされる。

2016-12-16 04:24:16 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」金剛輪寺・滋賀県愛知郡愛荘町にある天台宗の寺院。本尊は聖観音、開基は行基とされる。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山の一つに数えられる。琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、寺伝によれば奈良時代の僧・行基の開創とされ、創建は天平九年(737年)または天平十三年(741年)と伝える。金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があったとする見方もある。その後、平安時代前期の嘉承年間(848 - 851年)には天台宗の僧・円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。以上の創建伝承を裏付ける確かな史料はないが、伝来する仏像の制作年代などから、平安時代後期には寺が存在したとみられる。平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残る。本堂の須弥壇金具には弘安十一年(1288年)の銘があるが、これは前身本堂のもので、現存する本堂は南北朝時代の再興とみられる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
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「神仏霊場巡り」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮

2016-12-15 04:56:57 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。創建は後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。明応3年(1494年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無瀨宮に改称した。後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。明治6年(1873年)に官幣中社に、昭和14年(1939年)に官幣大社に列格し、水無瀬神宮と改称された。
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「神仏霊場巡り」真正極楽寺・京都市左京区にある天台宗の寺院で通称・真如堂(

2016-12-14 04:21:57 | 神仏霊場巡り
<font size="4">「神仏霊場巡り」真正極楽寺・京都市左京区にある天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。正暦三年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄六年(1693年)、現在の場所に再建された。本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、円仁(慈覚大師)が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある。三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である
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「西国四十九薬師巡り」延暦寺・滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山

2016-12-12 04:21:38 | 神仏霊場巡り
「西国四十九薬師巡り」延暦寺・滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成六年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁十四年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。最澄は俗名を三津首広野といい、天平神護二年(766年)、近江国滋賀郡に生まれた(生年は767年説もある)。十五歳の宝亀十一年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。二十歳の延暦四年(786年)、奈良の東大寺で受戒し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」を研究した。
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「神仏霊場巡り」妙法院・京都市東山区にある天台宗の寺院。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える

2016-12-07 12:41:16 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」妙法院・京都市東山区にある天台宗の寺院。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。妙法院は著名社寺が集中する京都市東山区南部に位置する。付近は後白河法皇の居所であった法住寺殿の旧地であり、近隣には智積院、京都国立博物館、方広寺、三十三間堂、新日吉神宮、後白河法皇法住寺陵などがある。近世初期建立の豪壮な庫裏(国宝)や大書院(重文)などが建つが、寺内は秋季などの特別公開の時を除いて一般には公開されていない。天台宗の他の門跡寺院(青蓮院、三千院など)と同様、妙法院は比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主は伝教大師最澄とされている。
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「神仏霊場巡り」湊川神社・兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。

2016-12-04 05:10:31 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」湊川神社・兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿や結婚式などのための楠公会館などがある。また兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所がある。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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「神仏霊場巡り」平等院・京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・十一世紀の建築、仏像、絵画、庭園

2016-12-02 04:16:13 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」平等院・京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・十一世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。宗派は十七世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、九世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳四年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿四年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承七年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような鳳凰堂が建立された。現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という二つの寺院が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年 - 1501年)、最勝院は承応三年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)からである。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「神仏霊場巡り」海神社・海神社は神戸はJR垂水駅の直ぐ前にあって、浜大鳥居は海から本殿

2016-12-02 04:10:28 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」海神社・海神社は神戸はJR垂水駅の直ぐ前にあって、浜大鳥居は海から本殿に向かって、一直線にあり、「海神社」(わだつみ)名の通り海に関わる神である。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神,上津綿津見神の三神に配神に大日孁貴尊(天照皇大神)由来に寄れば千数百年前に神功皇后が三韓征伐の還りの時に、暴風雨の為に御座船が進む事ができず、皇后自ら綿津見三神にお祭になり、祈願された所、たちまち波風が立ち無事に都に帰れたと言う。その場所に綿津見三神の社殿を建てられて鎮座されたのが由来である。この神功皇后に纏わる話は摂津では住吉大社、生田神社、廣田神社、長田神社と良く似た由来があるが、海神社の祭神の綿津見大神は伊弉諾神の子神で天照皇大神・素盞鳴尊と住吉三神とは綿津見三神は兄弟神である。これらの神徳に海に纏わる神として、漁業繁栄と航海安全の祈願の神社として信仰を集めている。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。
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「神仏霊場巡り」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地

2016-11-28 04:17:47 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地、修験道の霊地である。熊野三山は本宮・速玉・那智大社化の形成されている。紀伊半島から西側に南下し、田辺から入る中辺路(筆者も少し歩いた)高野山からの小辺路、大峰山からの行者道、伊勢からの伊勢路を古代の人々は熊野に目指した。祭神は中央本殿(第三殿、証誠殿)には家都美御子大神(素盞鳴尊・本地は阿弥陀如来)相殿の第一殿(西側前)熊野牟須美神(伊奘冉尊・本地は千手観音)事解男神、第二殿(中御前)には、御子速玉之男(本地は薬師)・伊奘諾尊を祀る。第四殿には天照大神(本地は十一面観音)を祀る。以上を上四殿と言う。後第五殿から第十二殿までを中・下に各四社を祀り合わせ熊野十二社権と言う。鎌倉時代には時宗の開祖一遍上人が参篭し阿弥陀仏を感得したという。所が熊野本宮大社は明治二十二年(1889)熊野川の洪水で社は流され、現在の地に移築された。熊野川と支流の合流の中州にあった場所は今は「大斎原(おおゆはら)」として大切に守られている。熊野速玉大社、熊野那智大社に比べ本宮は古式蒼然として鎮座し霊気が漂う気がする。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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「神仏霊場巡り」日牟禮八幡宮・祭神は誉田別尊・息長足姫尊・比売神。近江八幡市の日牟禮八幡宮

2016-11-27 04:39:26 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」日牟禮八幡宮・祭神は誉田別尊・息長足姫尊・比売神。近江八幡市の日牟禮八幡宮は創建は成務天皇が高穴穂宮で即位の時、武内宿祢に命じて大嶋大神を祀ったのが始まりという。天皇が近江行幸の際に、沖津島神社の帰りに日牟禮社に立ち寄ったが、後年そこで日輪を見る奇端があって、祠を建てて「日群八幡宮』称した。一条天皇の正暦二年(991)法華峰(八幡山)に社を建て宇佐八幡宮を勧請し「上の八幡宮」を祀ったと伝えられる。寛弘二年((115)遥拝の麓(現在地)に「下の社」した。皇室の崇敬深く、綸旨を下して天下泰平を祈願する事再三に及んだ。足利尊氏・徳川両将軍を始め武家の崇敬深く受けた。天正一三年(1585)八幡城が築かれ、安土城から多くの人々が移住し城下町が築かれた。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。
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「神仏霊場巡り」永源寺・滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の本山。本尊・世継ぎ観世音菩薩

2016-11-26 04:17:03 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」永源寺・滋賀県東近江市にある臨済宗永源寺派の本山。本尊・世継ぎ観世音菩薩・山号は瑞石山。1361年創建。開山は寂室元光(正灯国師)、開基は佐々木氏頼(六角氏頼)。中世戦乱期に兵火により衰微したが、江戸時代中期に中興の祖とされる一糸文守(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇や東福門院、彦根藩の帰依を受けて、伽藍が再興された。1873年に明治政府の政策により東福寺派に属したが、1880年に永源寺派として独立した。鈴鹿山脈を挟んで東側の三重県いなべ市にも永源寺の一部があったといわれ、永源寺跡と呼ばれる場所がある。三重県いなべ市の伝承では、永禄年間(1558年 - 1570年)織田信長家臣である滝川一益の軍勢が、北伊勢地方の寺を焼き払いながら迫って来たため、三重県側の永源寺の僧は兵火を逃れるため、寺の宝物などを持ち一夜にして竜ヶ岳の南側にある鈴鹿山脈の石榑峠を越えて、近江の永源寺へ逃れたとされているが、永源寺側の記録には一切ふれられていない。[1]。三重県いなべ市の永源寺の建物は滝川一益の軍勢によって焼き払われたが、水田周辺に石垣の一部が残されている[2]。本尊は世継観世音菩薩。寺内には彦根藩主井伊直興公の墓所がある。東近江市永源寺地区は、永源寺コンニャクや政所茶の産地であり、木地師発祥の地として知られる。また付近からは平成二十二年に国内最古級・一万三千年前の土偶が発掘された。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
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京都十六社巡り・御香宮・祭神・正中:神功皇后、左御間:仲哀天皇、右御間:応神天皇、東御間:瀧祭神他二柱、西御間:仁徳天皇他二柱・

2016-11-21 04:22:20 | 神仏霊場巡り
京都十六社巡り・御香宮・祭神・正中:神功皇后、左御間:仲哀天皇、右御間:応神天皇、東御間:瀧祭神他二柱、西御間:仁徳天皇他二柱・
京都市伏見区御香宮門前町174・貞観四年(863)九月九日、境内に大変香の好い水が湧き出て、この水を飲むと病がたちまち癒ったという奇瑞から清和天皇より「御香宮」の名を賜った。天正十八年(1590)天下統一した豊臣秀吉は当社に願文と太刀を奉納、伏見築城に際し、鬼門除けの神として城内に勧請した。慶長十年(1605)徳川家康は当社を元の地に戻し本殿を造営した。また表門は水戸の徳川頼房、拝殿は紀伊の徳川頼宣の寄進によるものである。慶応四年(1868)の伏見鳥羽の戦では、官軍の陣営が置かれたが、幸いにして戦火をまぬがれた。古来より伏見一帯の氏神として、多くの人々から信仰を集めている。本殿・拝殿は近年大修理の結果、桃山時代の豪壮華麗な極彩色の建物が蘇った。

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「神仏霊場巡り」東大寺・奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺)

2016-11-20 04:25:04 | 神仏霊場巡り
「神仏霊場巡り」東大寺・奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺)ともいい、奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の十八世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の六〇余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平五年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀五年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門 - 中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平十七年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。東大寺は、近隣の興福寺と共に治承四年(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久六年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。その後、戦国時代の永禄十年、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。天正元年(1573年)、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している[5]。仮堂が建てられたが慶長十五年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄四年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永六年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。
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「神仏霊場巡り」熊野那智大社・熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山・旧官幣中社・

2016-11-19 04:20:42 | 神仏霊場巡り

「神仏霊場巡り」熊野那智大社・熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山・旧官幣中社・
当社の起源について諸説あって定かではない。一説には仁徳天皇五年の鎮座と伝えらえている。もう一つの説に裸行上人と伝えら、熊野那智大社と向かい合う西国観音一番札所青岸渡寺の創建の裸形上人と同じである。元々隣接している熊野那智大社も青岸渡寺も明治維新の神仏分離令まで神仏習合の霊地と一体であった。従って祭神が少々複雑、第一殿滝宮・大己貴命(千手観音)★この第一殿は133M大滝が御神体の遥拝殿を指し、★第二殿は証誠殿は家都御子大神(国常立尊・阿弥陀)★第三殿・中御前は御子速玉大神(伊奘諾尊・薬師)★第四殿の西御前は熊野夫須美大神(伊奘冉尊・千手観音)を祀る。この第一殿から第四殿までが主祭神で★第五殿の若宮に天照大神(十一面観音)★第六殿には禅師宮には忍穂耳(地蔵)聖宮には瓊瓊杵尊(竜樹)児宮には彦火火出見尊(如意輪観音)子守宮には草葺不合尊(聖観音)一万宮には国狭槌尊(文殊)十万には豊斟渟尊(普賢)勧請十五カ所には諸神・諸仏を一対づつ祀る。これら神仏習合の本地垂迹思想は平安から鎌倉に掛けて形成され、本来の境地の神道に迹から垂れる意味で法身上、神が仏の形を取って借りに現れることである。化身として表れることである。要するに神仏の融和の象徴で共栄共存の日本人の知恵だったろう。那智大社は熊野三山に二山と違って那智山中の一の滝、二の滝、三の滝の中でも三滝の大滝を信仰の対称としている。また早くから役子角は当地を第一の霊場と定めて修行をした。また花山法王が熊野御幸した時には滝籠りをされた。平安時代には蟻の熊野詣と云われ京都から公家、上皇、天皇まで列をなして熊野詣がなされた。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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