「歴史の憧憬」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「西国四十九薬師巡り」西明寺・紅葉の名所で知られる古東三山の北にある。滋賀県は犬上郡甲良町にある西明寺は天台宗で本尊は薬師如来

2016-12-15 05:07:16 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」西明寺・紅葉の名所で知られる古東三山の北にある。滋賀県は犬上郡甲良町にある西明寺は天台宗で本尊は薬師如来、西国薬師32番札所である。寺伝によれば平安初期、三修上人が創建という。三修は修験道の霊山として伊吹山の開山上人と伝えられ伝説化された行者である。また伝承によれば湖岸の対岸から三修は紫雲のたなびくのを見て不思議に思い、そこで神通力で一機に湖面を渡り西明寺のある山中で紫の光射すところで三修が祈念をすると薬師如来が出現し、その姿を刻んで祀ったのが寺の始まりで、その場所を「池寺」と称した。この伝説に基づき承和三年(836)仁明天皇の勅願寺となった。その後寺領が寄進され諸堂が建立され「西明寺」と寺号は西の方に紫の光が射した由来によるものである。元気二年(1571)比叡山延暦寺の焼打ちによって織田信長は近江の国の天台宗の傘下に有った寺院を焼き払った。往時寺坊三百余りの祈祷道場として栄えた西明寺は焦土化と化した。その後德川家の庇護を受けて徐々に復古がなされた。
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「西国四十九薬師巡り」久米寺・奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山

2016-11-29 04:13:23 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」久米寺・奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院久米寺と称する。本尊は薬師如来坐像。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子ともいうが未詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。仏塔古寺十八尊第九番。大和三山の一つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。開基は聖徳太子の弟・来目皇子とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。『和州久米寺流記』には来目皇子の開基を伝える。一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙人と結び付けている。久米仙人の伝説(後述)がフィクションであることは言うまでもなく、創建の正確な事情は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思われる。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の一つである『大日経』を感得(発見)したとされている。空海が撰文した「益田池碑銘并序」には、「来眼精舎」(くめしょうじゃ)として言及されており、空海とも関係があったと思われる。なお、橿原市の隣の明日香村奥山に「奥山久米寺跡」があり、この寺についても来目皇子創建とする伝承がある。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国49薬師巡り・神仏霊場巡り」・「霊山寺」奈良市中町にある霊山寺真言宗大本山の寺院。山号は登美山

2016-10-24 04:21:08 | 西国49薬師巡り
「西国49薬師巡り・神仏霊場巡り」・「霊山寺」奈良市中町にある霊山寺真言宗大本山の寺院。山号は登美山(とみさん)または鼻高山(びこうさん)、開基(創立者)は行基と菩提僊那、本尊は薬師如来である。寺名の読みは「りょうせんじ」が正式であるが、「りょうぜんじ」「れいざんじ」と呼ばれることもあり、地元ではいずれの呼称でも通じる。奈良市の西郊・富雄川沿いにあり、戦乱に巻き込まれずに古い面影を残す。バラ園があり、世界のバラの花を集めていることで有名である。奈良市の西郊、富雄地区にあり、富雄川の支流湯屋川をはさんで南北両側の丘陵上に鎌倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。これら古建築とともに、全面金箔貼りの黄金殿、バラ園、温泉、ゴルフ練習場、大霊園などの設備を有する異色の寺院である。伝承によれば、小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けた。これは、彼が熊野本宮大社に参篭した際に出現した薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)のお告げにしたがったものであった。神亀5年(728年)のこと、聖武天皇の皇女(のちの孝謙天皇)は、病に苦しんでいた。ある晩、天皇の夢枕に鼻高仙人が現われ、登美山の薬師如来の霊験を説いたので、僧・行基を登美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒した。天平6年(734年)、聖武天皇は行基に命じて霊山寺を建立させた。2年後の天平8年(736年)に来日したインド僧・菩提僊那(東大寺大仏の開眼供養の導師を務めた)は、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから霊山寺と名付け、聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の額を賜ったという。以上のように、寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開いたとされているが、このことは正史には見えず、開創の時期や事情、中世以前の歴史についてはあまり明らかではない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代の本格的な建築であり、本尊薬師三尊像は平安時代後期にさかのぼるものなので、古くから栄えた寺院であったと思われる。兵火に遭わなかったため、建物、仏像などに古いものが残り、近世には徳川幕府の朱印寺として一定の規模を維持していたが、明治の廃仏毀釈以後は衰退した。宗派は中世には興福寺の末寺であり、のち高野山真言宗に属したが、昭和26年(1951年)に独立して霊山寺真言宗を称している。昭和期以降は本尊薬師如来とともに、奥の院(主要伽藍の西方約1キロの山中にある)の弁才天が信仰の中心となっており、昭和10年(1935年)に奥の院の弁才天を勧請して大弁才天堂を建立したのをはじめとして、「弁才天のお告げ」によって造ったとされる多くの堂や施設が山内に建てられている。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「神仏霊場巡り」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社の一社。旧社格は官幣中社

2016-10-05 04:13:37 | 西国49薬師巡り
「神仏霊場巡り」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は以下の四柱春日神で、勧請元の春日大社と同じ。建御賀豆智命(武甕槌命)伊波比主命(経津主命)天之子八根命(天児屋根命)比売神(ひめのかみ)貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦二年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道を創始し、その拠点として文明十六年(1484年)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永五年(1665年)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、終焉の地当山

2016-09-28 04:06:07 | 西国49薬師巡り

「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、終焉の地当山は白雉二年(六五一年)天竺より渡来したとされる法道仙人によって開かれたと伝えられています。ちなみに西国三十三カ所の二十五番清水寺と二十六番一乗寺も、法道仙人によって開かれています。法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。後に花山法皇(人皇第六十五代花山天皇)は、西国三十三カ所観音霊場巡礼をご再興の後、当山に錫を留められました。
眼のあたりには秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめるゆうすい幽邃かんが閑雅の景色はいたく法皇の御感に召したのでしょう。この山こそ終生仏道修行に励む聖地として他に勝るものはなしと思い定められたのです。その御心は、御製に「名にしおう 我が世はここに尽くしてむ 仏の御国近きわたりに」(当山第二番の御詠歌)と詠まれたことが如実に物語っています。
そして寛弘五年(一〇〇八年)御年四十一歳でご崩御なされるまで、当地で仏道修行にご精進なされたのです。法皇亡き後、当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として、寺号を花山院菩提寺と称するようになりました。
法皇は後の人から西国三十三カ所観音霊場中興の祖として仰がれ、観音霊場を巡礼する人たちは、花山法皇への尊崇帰依の心を示すべく当山に参詣するのがその勤めとなり、薬師霊場であるこのお山が、西国三十三カ所観音霊場の番号外の札所となったのです。
なお麓には女官たちが花山法皇を慕い来たるも、その時代の出家僧の戒律では男女共に住むこと許されず、自らも尼僧となって生涯を過ごした女官たちの墓「十二尼妃の墓」があり、村の名前もにん尼じ寺村と称して哀史を今に伝えています。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。
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「一ノ宮巡り」大鳥神社・大阪府堺市西区鳳北町/式内社・旧官幣大社 和泉国一ノ宮は大鳥神社である。

2016-09-27 04:13:41 | 西国49薬師巡り

「一ノ宮巡り」大鳥神社・大阪府堺市西区鳳北町1の1の2・式内社・旧官幣大社
和泉国一ノ宮は大鳥神社である。
祭神は日本武尊と合わせ地域の豪族大鳥連祖神を祀っている。
社伝に依れば東夷征伐の帰途我に病蒙り、伊勢国は能褒野に於て薨去(こうきょ)され白鳥と化し当地に留まったという。
大鳥氏は『新撰姓氏録』に和泉国神別で大中臣朝臣と同祖、天児屋根命の後なりとある。大同元年(806)神封二戸が寄せられた。神階は『日本三代実録』貞観元年(861)従三位昇叙された。
その後『和泉国神名帳』には正一位とある。
『延喜式神名帳』では名神大社に列し、祈年、月次、新嘗の官幣、祈雨神祭に八五社に一として臨時奉幣に預かり和泉国一ノ宮として朝野の崇敬を受ける。
平清盛、重盛父子が熊野詣の帰途に当社に祈願をして和歌、神馬を奉納している。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も社領を寄進し社殿の造営を行なっている。
天正年間には戦火で社殿は焼失、慶長七年(1602)豊臣秀頼により再興された。德川綱吉は柳沢吉明に修繕をせしめた。
★『古事記』のヤマトタケル説話の日本武尊命を祭神としている。
元来は一豪族の祖神を主体に祀っていたが、日本武尊が征西し熊襲を平定、再びイズモタケルを征伐し、再度東征し、伊吹山で病に倒れて、伊勢国の能褒(のぼ)野(の)で死去する。
遺体はその地に葬られるが、陵墓から白鳥が飛び立ち、大和国の琴引原で留まり、再び河内国の古市舞い降り、最後に大鳥の池に舞い降りた古事に習って社殿を建てて祀った。
この白鳥の舞い降りた由来で日本武尊の祭神として祀ったようである。
しかし本来大鳥氏は中臣氏と同じく天児屋根命を祖神としていたので、一時天照大神を祭神として祀っていた経緯があるようである。
和泉国で唯一の神名大社になって、境内の面積も一万五百坪の広さで、大鳥氏が強力な豪族として大きな影響力を有し、武功の神として平清盛も戦勝祈願をしたと伝えられており、一ノ宮大鳥神社として形成されていった。
鎌倉期には大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社と共に「大鳥五社」を形成し、「大鳥荘」となる。中世では和泉国一ノ宮として国衙から崇敬を受けるが、その後大鳥氏に代わって田代氏が主導権を奪われ衰退する。
神仏習合の時代には別当寺に大鳥山勧学院神鳳寺の行基なども関与し、三重の塔が建立し栄えた。
織田信長などの寄進を受けるが、戦火で焼失し豊臣秀頼の社寺造営の籠を受けて、神鳳寺共に栄えるが明治の廃仏毀釈によって神鳳寺の五重の塔など破却され、末寺共々大鳥神社も衰退していった。
明治維新の社格制度で再び官幣大社として再建され、祭神も祭神考証の結果、大鳥連の祖神に変更された。
これには神社側の反発が有ったが内務省の通達で決定された。
神社側の意向に沿った日本武尊が加えられ祀られたのは、国家管理から離れた戦後の事だった。
本殿の造りも大鳥造りと言う。「切り妻造・妻入り社殿」と言う出雲大社に次ぎ古い形式を持つ古形式を保っている。神の妹と言われていることもあり、謎の多い神である。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

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『戦後日本の あの日あの時』178「昭和35年文化・芸術」 ◎1月5日、三池労組、1214人の解雇通告

2016-09-17 04:24:51 | 西国49薬師巡り
『戦後日本の あの日あの時』178「昭和35年文化・芸術」
◎1月5日、三池労組、1214人の解雇通告を一括返上。
◎1月25日、三井鉱山、三池鉱をロックアウト。三池労組全山無期限スト突入。
◎2月23日、皇太子妃、男子(浩宮徳仁】出産。
◎3月28日、三池炭鉱、就労再開で第一、第二組合衝突。
◎4月2日、「毎日新聞」暴力団記事に憤慨した松葉会会員、東京本社を襲撃する。輪転機3台止める。
◎4月7日、警視庁、サド原作「悪徳の栄え・続」をわいせつ文書の疑い押収。
◎5月24日、太平洋岸にチリ地震津波襲来、北海道南岸、三陸に大被害(死者139人被害家屋4万6214戸。)
◎5月24日、慶大登山隊(隊長山田二郎)ヒマラヤのヒマルチュリ(7864M)に初登頂。
◎5月28日、岸首相、記者会見で「声なき声」を尊重と言明。
◎5月28日、元日本兵2人、グアム島から帰国。
◎6月2日、渡米歌舞伎第一回公演。中村勘三郎、中村歌右衛門、尾上松緑、「勧進帳」「籠釣瓶」
◎7月10日、奈良県大峰山龍泉寺、1300年間続いた女人禁制を解く。
◎7月19日、中労委員会、三池争議に対し、労使双方に白紙一任と休戦を提案。
◎7月29日、北富士演習場で農民300人、米軍・自衛隊の演習を中止要求、うち10人が着弾地に座り込み。
◎8月1日、東京、山谷のドヤ街で住民3000人が暴動、マンモス交番に投石・放火。
◎8月25日、ローマオリンピックに日本選手169人参加。体操で男子団体総合小野喬(鉄棒・跳馬)相原信行(床運動)金メダル。
◎9月12日、訪中新劇団(俳優座・文学座・民芸・ぶどうの会・東京芸術座)は出発『夕鶴』「女の一生」などを上演。
◎9月20日、将棋名人大山康晴、王位戦に勝ち4冠王独占(名人・王位・9段位)
◎10月19日、東京地裁「朝日訴訟」で現行生活保護水準は違憲と判決。
◎11月12日、自民・社会・民社党首、初テレビ・ラジオ討論会(除外された共産党、NHK,民放3局を告訴)
◎12月4日、東京都営地下鉄押上=浅草橋間開通、京成電車と相合乗り入れを開始(地下鉄と郊外私鉄の初の相合乗り入れ)
◎この年の、映画製作本数・映画館数がピーク。

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『河内史跡巡り』慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。親鸞の東国布教

2016-09-16 04:48:17 | 西国49薬師巡り
『河内史跡巡り』慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。親鸞の東国布教の際、那須資村が帰依して信願房法心と号した。二十四輩のひとりでもある法心は、下野国那須郡志賀崎に念仏道場を開き、これを慈願寺と名付けた。その後、法心は親鸞とともに上洛し、終始親鸞に仕えた。親鸞の死後、親鸞の遺命を受けて河内国渋川郡久宝寺村に建立されたのが当寺である。本願寺の東西分裂期に顕証寺と対立し、江戸時代初期に古大和川(現在の長瀬川)東岸の若江郡八尾へ移転した。
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「西国四十九薬師巡り」家原寺・高野山真言宗別格本山 通称・家原の文殊さん、智慧文殊・大阪府堺市西区家原寺町●行基菩薩生誕のご実家

2016-09-12 04:06:45 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」家原寺・高野山真言宗別格本山 通称・家原の文殊さん、智慧文殊・大阪府堺市西区家原寺町●行基菩薩生誕のご実家。寺の歴史は古く、今から千三百年昔、奈良時代に生誕されて、後に人々から菩薩と慕われた人がいた。名僧「ぎょう行き基(六六八~七四九)」である。行基様は生誕のご実家を、七〇四年、三十七歳のときにお寺として開山された。山号の一乗山とは、菩薩修行記から引き、菩薩として修行を行なう所という意味です。寺号のえ家ばら原じ寺は、家とは実家、原とは母の腹をさすと伝えられている。つまり、両親の菩提を弔うことと、恩に報いることだというのである。本尊は文殊菩薩で、日本で文殊菩薩を祀られた最初といわれている。菩提僊那(七〇四~七六〇年、インドから来た東大寺大仏開眼導師)ゆかりの文殊菩薩として信仰を集め、その霊験は古来より国内随一の名声を誇り、この文殊様は「智慧文殊」と呼ばれ、各種試験を志望する人々や学生たちの合格祈願で、お参りの人々が後を絶たず、祈願ハンカチという楽しい祈願の方法も人気があり、本堂の文殊殿は一見の価値がある。お薬師さんを祀る薬師堂は、文殊殿の東側にあり、広い境内の中でもひときわ大きな「やまもも」の木が目印で、薬師堂は朱塗りの小さなお堂である。中は一般には公開されていません。堂内には厨子を収めた内庫式の壇が祀られている。厨子の中には、薬師如来坐像と両側に日光菩薩、月光菩薩、それを囲むように十二神将が安置されている。何度か修復の跡があり、江戸中期の修復と言われ、この薬師さんも長い間人々に信仰されてきたに違い考えらえている。というのも、もう一つの薬師さんがあるからで、家原寺から南へ徒歩三十分程の所に、行基様のご母堂様の実家という奥の院「けい華りん林じ寺」がある。本尊の薬師如来は、地元の人々から「こ子やす安薬師」「こやすさん」と親しまれ、安産・健康の祈願をしている。そして、家原寺の薬師さんを「すこやかさん」と呼びならわしている。
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「西国四十九薬師巡り」久安寺・高野山真言宗・大阪府池田市伏尾町・●近衛天皇の勅願所として再興。久安寺は、神亀二年(七二五)に僧行基

2016-09-11 04:13:54 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」久安寺・高野山真言宗・大阪府池田市伏尾町・●近衛天皇の勅願所として再興。久安寺は、神亀二年(七二五)に僧行基によって開かれたと伝えられ、天長年間(八二四~三四)には、弘法大師が真言密教の道場として中興、安養院と呼んでいた。久安元年(一一四五)には、賢実上人が近衛天皇の勅願所として再興、楼門、金堂、搭などの伽藍と、四十九の坊舎を建立し、久安寺と号した。豊臣秀吉はここで月見や茶会を楽しんだと言われている。そのときの手植のかや榧の木や腰掛石が残されている。江戸中期には、歌人の平間長雅がこの寺に在住し、寺の興隆に力を尽くしました。現在は霊園事業を基に昭和の興隆事業を起こし、曼荼羅思想によって諸堂や庭園を整備している。お参りは、国の重文に指定されている楼門から始まり、楼門は久安元年に建立されたもので、近衛帝の勅願額を掲げている。昭和三十四年(一九五九)に解体調査をされ、室町初期に大修理されたことが分かり、室町の彫刻である金剛仁王尊を安置している。楼門をくぐれば、苔むす石垣、楓の老木が古刹の雰囲気を漂わせ、参拝の方々を迎えます。楼門から北に三百五十メートルの参道が金堂跡まで続いています。一万坪を越える境内には、季節の花々が咲き乱れ、趣き深い庭園が広がる。薬医門の奥には、小坂院が本坊として残っています。小坂院は、賢実上人が再興した四十九の坊舎の一つで、往時を偲ぶことができる。
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「近畿三十六不動巡り」如意輪寺・(吉野は金峯山寺へ行く手前に寺はあります、。)奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。

2016-09-10 04:01:49 | 西国49薬師巡り
「近畿三十六不動巡り」如意輪寺・(吉野は金峯山寺へ行く手前に寺はあります、交通の便が悪いので車で行きました。)奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵、世泰親王墓がある。平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安三年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。正平二年(1346年)楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。金峯山寺、吉水神社などがある吉野山からは谷ひとつ挟んで離れた山の中腹に位置する。山門を入ると正面に寄棟造檜皮葺きの如意輪堂(本堂)があり、左方に庫裏、宝物殿、一段高いところに多宝塔がある。
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『戦後日本の あの日あの時』170「昭和34年世情・娯楽」 ◎3月、中田機化鉱業、◎共同通信、通信用伝書鳩を廃止。◎芝浦電気、 ◎4月、兵庫県で白タク登場、 ◎6月札幌でファクシミリ伝送受像

2016-09-09 04:48:38 | 西国49薬師巡り

『戦後日本の あの日あの時』170「昭和34年世情・娯楽」
◎3月、中田機化鉱業、証券用ボールペンを発売。60年には銀行でも使用。◎共同通信、通信用伝書鳩を廃止。◎芝浦電気、ビデオ・テープレコダー実用機の公開実験に成功。
◎4月、兵庫県で白タク登場、以後各地広がる。
◎6月、朝日新聞社、札幌でファクシミリ伝送受像機による印刷発行開始(新聞社では世界初)
◎7月、雑司ケ谷霊園に3段階建ての墓登場。墓のアパート。◎児島明子、ミスユニバースに決定。
◎9月、炭鉱失業者救済の為に、黒い羽根募金運動が福岡で始まる。
◎10月、南海、巨人を破り、初の日本一。(MVP杉浦忠)
◎11月、交通整理の「緑のおばさん」登場。
◎12月、東京で個人タクシー173人の営業許可。(白タクは取締)◎レコード大賞(第一回受賞曲(黒い花びら)
◎この年に話題。皇太子成婚のテレビ中継の為に売れ行き急増。◎家庭の電化急速に進む。◎マイカーの普及で、東京丸の内にパーキングメーター初登場。◎種なしぶどうが登場。◎トランジスターラジオ1000万台突破。◎週刊誌ブーム「少年サンデー」「少年マガジン」「朝日ジャーナル。」3月創刊。「週刊現代」「週刊文春」4月創刊。「週刊平凡」5月創刊。
◎流行語。◎「パパな何でも知っている」◎私の選んだ人を見てもらいます。◎カミナリ族。◎タフガイ(日活の石原裕次郎売り出し用語)◎岩戸景気。◎神風タクシー。
◎流行歌。「南国土佐を後にして」ペギー葉山。「黒い花びら」水原弘。「東京ナイトクラブ」フランク永井、松尾和子。
◎話題のテレビ。「スター千一夜」「ローハイド」「番頭はん丁稚どん」「パラソルチョコレート」「ブルーワンダフル」(花王)
◎流行小説。井上靖「敦煌」。三島由紀夫「不道徳教育講座」。正宗白鳥「今年の秋」松谷みよ子。「滝の子太郎」
◎話題の映画。「人間の条件」にんじんくらぶ・仲代達也。「浪速の恋の物語」東映、中村錦之助、有馬稲子。「にゃーんちゃん」日活、長門裕之。「ギターを持った渡り鳥」日活、小林旭。◎洋画。「灰とダイヤモンド」「恋人たち」「いとこ同志」「12人の怒れる男」「さすらい」

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「京都古社寺探訪」実相院・京都市左京区岩倉にある仏教寺院。宗派は単立(元天台宗寺門派)、開基は、静基、本尊は不動明王(鎌倉時代作の木像)。門跡寺院の1つである。

2016-09-07 04:28:45 | 西国49薬師巡り
font size="4">「京都古社寺探訪」実相院・京都市左京区岩倉にある仏教寺院。宗派は単立(元天台宗寺門派)、開基は、静基、本尊は不動明王(鎌倉時代作の木像)。門跡寺院の1つである。岩倉実相院門跡とも呼ばれる。鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基された。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、応仁の乱を逃れるため現在地に移転したとされる。室町時代末期までに多くの伽藍等が戦火で焼失し、江戸時代初期に足利義昭の孫義尋が入寺。母古市胤子が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と将軍徳川家光より援助を受けて実相院を再建した。門跡寺院であり、代々の住職は天皇家と繋がりのある人物が務めた。本堂は東山天皇の中宮、承秋門院の女院御所を移築したものであり、四脚門・車寄せも御所より移築されたものである。老朽化が進み主な建物は多数のつっかい棒が施されてようやく倒壊を免れているのが現状であり、修理のための資金集めが課題となっている。幕末には岩倉具視も一時ここに住んでおり、当時の密談の記録などが残されている。庭園は池泉回遊式庭園と枯山水の石庭の2つがある。前者の池にはモリアオガエルが生息している。新緑、紅葉の頃とも見所となっており、特に部屋の黒い床に木々が反射する光景は「床緑」「床紅葉」と呼ばれ知られている。
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「西国四十九薬師巡り」浄瑠璃寺・真言律宗・京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来

2016-09-06 04:21:48 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」浄瑠璃寺・真言律宗・京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。浄瑠璃寺の創立については、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』が唯一の史料である。以下、『流記事』の記載に沿って初期の沿革を記す。永承二年(1047年)、義明上人により本堂が建立され、檀那は阿知山大夫重頼であった。それから干支が一巡した60年後の嘉承二年(1107年)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。
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「西国四十九薬師巡り」浄瑠璃寺・真言律宗・京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来

2016-09-06 04:21:48 | 西国49薬師巡り
「西国四十九薬師巡り」浄瑠璃寺・真言律宗・京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。浄瑠璃寺の創立については、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』が唯一の史料である。以下、『流記事』の記載に沿って初期の沿革を記す。永承二年(1047年)、義明上人により本堂が建立され、檀那は阿知山大夫重頼であった。それから干支が一巡した60年後の嘉承二年(1107年)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。
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