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2017-06-17 14:13:04 | 日記
ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan, 1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の俳優、政治家。カリフォルニア州知事、第40代大統領を歴任。
歴代2番目の高齢(69歳349日)で選出されたアメリカ大統領であった[1]。離婚歴がある[2][3]。身長185cm。
なお、大統領就任頃までのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「リーガン」と表記されていた(後述)。対日関係上の愛称は「ロン」[4]。
目次 [非表示]
1 概要
2 来歴
2.1 生い立ち
2.2 ラジオアナウンサー
2.3 映画俳優
2.4 結婚と離婚
3 政治経歴
3.1 保守主義者
3.2 カリフォルニア州知事
3.3 大統領選
3.3.1 過去の大統領選
3.3.2 1980年の大統領選
4 第40代大統領
4.1 暗殺未遂事件
4.2 内政
4.2.1 レーガノミクス
4.2.2 麻薬との戦争
4.2.3 人種差別対策
4.2.4 エイズ対策
4.2.5 労組対策
4.3 外交
4.3.1 冷戦の終結
4.3.2 対中南米政策
4.3.3 イラン・コントラ事件
4.3.4 レバノン平和維持軍
4.3.5 各国首脳との関係
4.3.6 日本との関係
4.3.7 韓国との関係
4.4 健康
4.5 内閣
5 引退
5.1 アルツハイマー病
5.2 空母「ロナルド・レーガン」
6 死去
6.1 歴代2番目の長寿
6.2 葬儀
7 逸話
7.1 「リーガン」から「レーガン」へ
7.2 バック・トゥ・ハリウッド
7.3 爆撃は5分後に始まります
7.4 銅像
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
概要[編集]
俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1980年に大統領に就任した。なお、俳優時代にハリウッドでスパイとしての活動を行い赤狩りのため協力を行っていた。そのことでその後の為政者としての地位を高めたと言われている。1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復とともに双子の赤字をもたらした。外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく、レーガンは外交に関しては殊、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた[4]。
2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などの同盟国の首脳と密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援した。前者はソ連の解体、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に大きく貢献した。
2期目の大統領に就任した時点で75歳に迫る高齢であり、また暗殺未遂事件にも遭ったが、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降の「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、いわゆる「テカムセの呪い」にも終止符が打たれた。
1989年1月の大統領退任から5年後、自らのアルツハイマー病を告白。公の場には出ず、闘病に専念するようになった。2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去した(93歳没)。
来歴[編集]
生い立ち[編集]

兄(左)と
イリノイ州タンピコで、父ジョン・レーガンと母ネル・ウィルソンの間の2人の息子の2番目として生まれた。数年間にわたり町から町へ引っ越した後、1920年に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。
アイルランド系の父親はカトリック教会に属していたが、スコットランド系の母親はプロテスタント「主流派」のディサイプル教会の熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。なお兄のニールは父と同じカトリックを選んだ。父はアルコール依存で、母の属する教派は禁酒派だった。幼少の頃のレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。父は、毎週土曜日、子供たちを映画に連れていったが、人種差別を嫌ったため、子供であるレーガンに、人気があったものの黒人差別主義の映画(「國民の創生」)を見せなかったと伝えられる[5]。
1924年にディクソンのディクソン高校に入学した。1926年、ディクソンの北5kmにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでのライフガードが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私にありがとうを言わなかった」とジョークを話したという。
イリノイ州のユーリカ大学(英語版)に1928年に入学し、経済学と社会学を専攻し、1932年に卒業した。
ラジオアナウンサー[編集]

ラジオアナウンサー時代

『Cowboy From Brooklyn』の予告編より(1938年)

ナンシーとの結婚時の写真
幼い頃より話術と演技に才能があり、後にそれをさらに発展させ、イリノイ州シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーになった。
ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像と話し方の才能をつかって実況放送を行った。1934年のセントルイス・カージナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。
映画俳優[編集]
その後レーガンはハリウッドに向かい、映画俳優としての経歴を歩み始めた。映画初出演は『Love is On the Air』(1937年)で、その後二枚目俳優としての地位を築き上げ1939年末までに19本の映画に出演した。1940年には『Knute Rockne All American』で、大学フットボールのスター選手で25歳で早世したジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じ、そこから彼はギッパーという愛称を得た。この頃に『風と共に去りぬ』のオーディションにも参加した。
デビュー後には次代のハリウッドを代表する二枚目スターとしての将来を嘱望されていたが、同時に俳優組合などでも要職に就くなどの政治的活動に若い時期から携わっていた。なお俳優デビュー直前の1935年にアメリカ陸軍の予備役将校になっている。
第二次世界大戦時には、1941年12月8日のアメリカの参戦の後に招集され、視力が弱かったためアメリカ陸軍航空軍第1映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わった。終戦までハリウッドに残り陸軍大尉まで昇進した。
その後、1950年代の終わり頃には映画に出ることは少なくなったが、映画スターとしての知名度と巧みな話術を生かし、テレビショー『General Electric Theater』の司会やテレビCMへの出演など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへとその活動の場を移していった。テレビでも人気を博し様々な番組に出演したものの、その後政治の世界へと本格的に軸足を移し、『Death Valley Days』の司会がレーガンの俳優としての最後の仕事となった。
レーガンの出演作は日本でも数多く公開され、日本でも知られている映画の出演作に『カンサス騎兵隊』(1940年)、『殺人者たち』(1964年 ドン・シーゲル監督)などがある。レーガン本人によると、自己最高の作品は『Kings Row』(1942年)であるという。そのほかの代表作には、『Law and Order(邦題:決闘の町)』『Hellcats of the Navy』『This Is the Army』『Bedtime for Bonzo』などがある。
なお、レーガンの長年のテレビ出演を顕彰して、ロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、レーガンの名前が刻まれた星形の敷石がある。
結婚と離婚[編集]
1940年に女優のジェーン・ワイマンと結婚した。ワイマンとの間には長女モーリーン(英語版)(1941年 - 2001年)と養子に迎えた長男マイケル(英語版)(1945年生)がいる。1947年にも娘が生まれたが4ヵ月の早産で翌日に死去している。
しかしレーガンの政治への指向が増すと、あくまでも女優であり続けたいとするワイマンとの関係が悪化し、1948年に離婚した。なお、レーガンは離婚歴のある最初のアメリカ大統領である(2番目はドナルド・トランプ)。
1952年には女優のナンシー・デイビスと再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。ナンシー夫人との間には次女パトリシア・アン(英語版)(1952年生)と次男ロン(英語版)(1958年生)がいる。
政治経歴[編集]
保守主義者[編集]

バリー・ゴールドウォーターとともに(1964年)

スピロ・アグニュー副大統領夫妻、ボブ・ホープ夫妻、リチャード・ニクソン大統領夫妻とともに(1971年)
1940年代後半から1950年代にかけてアメリカを吹き荒れた反共・反ソ機運はレーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンはフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持して、リベラル派としてキャリアを始めたが、のちに保守主義者に転じた。
レーガンは、俳優かつ映画俳優組合(SAG)の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーやリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。しかしレーガンは多くの反共主義者と異なり、アメリカ共産党の非合法化には強く反対した。
政府と取引が多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリックがスポンサーとなったテレビ番組「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会を務めるきっかけとなったのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。
その後行われた1964年の大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。その後レーガンはゼネラル・エレクトリックがタービンを納めているテネシー川流域開発公社に反対して「ジェネラル・エレクトリック・シアター」のパーソナリティーから降板させられた。
カリフォルニア州知事[編集]
その後レーガンはカリフォルニア州知事に出馬し当選し、1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任した。レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。
例えば、州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険かわかって乗っているはずだ。ならば、ヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要はない」というものだった(カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義務化された)。
また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。レーガンはベトナム戦争終結後の1975年1月までカリフォルニア州知事を務めた。
大統領選[編集]
過去の大統領選[編集]
レーガンは1968年に大統領選に初出馬したが、同じくカリフォルニア州を地元とするニクソン元副大統領相手に予備選の段階で票が伸びず敗退した。その後の1972年の大統領選では、同じくニクソンが勢いを保ったこともあり出馬しなかった。
1976年の大統領選にも再出馬した。この時は現職のフォード大統領に肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票で、フォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗した。
1980年の大統領選[編集]

大統領予備選の討論会に参加したレーガン(1980年)
しかし満を持して臨んだ続く1980年の大統領選では難なく党大統領候補指名を獲得した。選挙活動は、民主党選出で現職の大統領でもあるジミー・カーター政権下で起きたものの、人質解放に向けた軍事作戦が無残な失敗に終わったのちに、有効な打開策が無いまま1年近く解決されないままであったイランアメリカ大使館人質事件への対応で特徴づけられた。さらに経済的な不況から現職のカーターが苦戦を強いられた。また、大統領選の公開討論ではカーターがアンダーソンとの公開討論を拒否、カーターとレーガン、レーガンとアンダーソンの間でのみ公開討論会が行われた。
カーターに批判が集まり支持率が落ち続ける中で有利に選挙戦を進めるレーガンに対し、海外の反米そして反共和党的なマスコミは、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営がイラン政府と秘密の取り引きを結んだ」と根拠のない非難をした。
最終的にレーガンは、選挙人投票では489対49と大差をつけた上に、一般投票でもカーターに約10%の差(50.7%対41.0%)をつけて当選した。その後ほとんどのアナリストは、カーターのイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北およびレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた[4]。このとき、民主党員までもが、現職のカーター大統領を見限り、大勢がレーガンに投票している。彼らは、「レーガン・デモクラット」と呼ばれるようになる。また、俳優時代に培われた演技力、演出力もレーガンの有力な武器の一つだった[4]。
第40代大統領[編集]

就任式(中央はナンシー夫人)
1981年1月21日に大統領に就任したレーガンは、1984年の再選をかけた大統領選挙でも民主党候補のモンデール前副大統領に空前の地滑り的大勝を果たした。なお就任当日に、イランのアメリカ大使館人質事件において人質となっていた大使館員らが、444日間ぶりに解放された[4]。1989年まで在任、アイゼンハワー(在任 1953年–1961年)以来久々に2期8年の任期を満了した大統領となった[4]。
暗殺未遂事件[編集]
詳細は「レーガン大統領暗殺未遂事件」を参照
レーガン政権の船出は、イランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。
大統領就任から69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退
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