36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

易流行

2017-03-25 00:07:33 | 意識を整える

 前回は父の死をきっかけに強く意識したこと、
即ち人間が死ぬまで思いのほか時間がない、という事実を書きました。
今回のコラムはその延長線上でOzakiが考えたことをお伝えします。

 人間死ぬまでの期間は短く、人生は有限です。
そして、その間にできることも限られていると言えるでしょう。
例えばOzaki自身が経験する年越しはせいぜいあと50回程度ですし、
その間に食べられる食事の数は6万食が関の山です。
死ぬまでに読める本の数は頑張っても1万冊を超えることはないはず。
世界中すべての都市をくまなく回ることはほぼ不可能ですし、
経験したことのない業種、職種をすべて経験することも不可能でしょう。


 自分がどのように生きていようと時間はどんどん流れて行きますし、
時代と共に流行や価値観も移り変わっていくのだと感じます。
Ozaki自身のこれまでの少なく、そして狭い人生経験においても、
日本経済はバブルのこともあれば、バブル崩壊後の不況があり、
ITが持てはやされた時期もあれば、金融関係者が栄えた時期もありました。
そんな経緯の後にリーマンショック等を経て世界的な経済停滞が続き、
今や一流企業でも公務員でもなくソーシャルビジネス、NGO、NPOが
最先端という時代と言えるかもしれません。


 これだけ激しく移り変わっていく価値観の中で、
一人の人間の短い人生、あちこちフラフラと移り気に動いていては、
何か大きなことを達成するのは難しいかもしれない、
Ozakiはそんな風に考えるようになりました。


 時代や価値観が変わったとしても、それはそれ。
自分自身が本当に大切だと感じることにまずはじっくりと取り組み、
その取り組みを通じて移り変わっていく社会に貢献する、
そんな生き方が、短く有限な人生を最も有効に活用する方法ではないか?
というのが現在のOzakiの考え方です。

 
 この考え方を確立するまでに、似たような発想の言葉に出会いました。
それが今回のタイトルに掲げさせていただいた「不易流行」という言葉。
この言葉の由来は松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念とのこと。
松尾芭蕉の弟子の一人である向井去來が芭蕉の言葉をまとめた
「去來抄」という本に

 「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」

と記されているようです。

現代的な日本語に訳すとすれば

 「この世の不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、
 この世の移り変わりを知らなければ新たな進展がない」

といったところでしょうか。「不易」つまり、どんなに世の中が変化し状況が変わっても
絶対に変わらないもの、変えてはいけないものがあるということ、
反対に、「流行」は移り変わるもの、社会や時代の変化に伴って、
どんどん変わっていくもの、適応しなければならないもののことです。


 松尾芭蕉自身はこの「不易流行」という言葉を当時の俳句の世界に
対して発したそうですが、人生そのものにも当てはまると感じました。
世の中の変化とは無関係に自分が信じられる「不易」を軸としつつ、
その軸をその時代、その時代の価値観に寄り添わせることで、
より大きな価値が得られ、社会にも大きなインパクト、進展を加える
ことができるのではないでしょうか?


 ここ数年の世界は

 流行りものに飛びつく、
 勝ち馬に乗る、
 次の「飯のタネ」を必死で見つけようとする

といった「流行」を重視する傾向が強く出ているようにも思います。
しかしながら、有限の人生を持った人間が悪戦苦闘しながら生きている、
という実態があまり変わらない以上、「不易」の部分の重要性は
文字通り不変のはず。

 
 短い人生で自分自身が何を成し遂げたいのか、

いまだにOzakiははっきりとした回答を得られていませんが、
松尾芭蕉が旅の中で思い至ったという「不易流行」の思想と
似た胸中まで来ていることをささやかな自信としつつ、
もう一歩、Ozakiにとっての「不易」はなんだろうか、
と考え続けたいと思います。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

人生は有限

2017-03-11 10:27:47 | 意識を整える



 今週は結論としてはごく当たり前のことを書きます。
タイトルにもある通り、人間はいつかはわからなくとも必ず死を迎えます。
毎日朝目が覚めて、「いつも通り」過ごしていると
ついつい忘れがちになってしまいそうですが、人生は有限です。
ある日突然、どんな形かはわかりませんが、毎日が終わることは確実です。


 こうやって書き始めるとOzaki、何を考え始めた!?と言われそうですが、
父の死亡後の手続きをやってみると、人間というのは思っている以上に
自分が死ぬ準備というものはやっていないのだなぁと感じたのです。


 それは例えば

 自分自身の銀行口座がどこに存在しているのか、であったり、
 毎日の暮らしでどういうお金の流れを作っていたのか、であったり
 (ささやかながら祖父の農地を受け継いでいるので)
 土地の管理を誰に任せ、その権利を理解しているか、であったり

といった点に集約されてきます。
Ozaki父の場合はこういった情報を整理しておらず、
その分息子であるOzakiが一つ一つ情報を洗い出すところで苦労しています。
(平均より若い年齢で突然死んだのでやむを得ない面もあります。
個人的には父を責める気持ちはありません)

 こうした背景を踏まえ、自分自身の場合はややこしいことを
関係者に負担として遺すことはしたくないという思いを強く持っています。
そのため、まだ30代ではありますが、自分の銀行口座や保険の情報を
一つにまとめる作業を行いました。
これで万が一今死んでも、多少は負担が軽くなるはずです。
(とはいえ、今死ぬ気はさらさらありませんが)


 相続財産の話だけを例に挙げると生生しすぎるかもしれません。
しかしながら、連日銀行等の手続きを行う中で、
いつ死ぬかわからないという事実を否応なく突きつけられます。
そしてその事実から考えを巡らせていくと、

 いつ死ぬか分からないのだから毎日が最後の一日だと思って生きよう
 感謝できる相手にはしっかりと感謝しておこう
 自分がやりたいことリストはとっとと手をつけよう

といったごくごく当たり前の、しかしながらなかなか一歩を踏み出せない
そんな結論に達しました。
人生が有限であるからこそ、限りある期間内でやりたいことは
早めにやらねばなりません。

 思いがけず早く死んでしまったOzakiの父はもとより、
天災やテロや事故等想定できない理由でいつ何時人生の終わりを迎えるか、
分からないものです。これまでもOzakiは

 思い立ったが吉日
思ったら言え、言ったらやれ
 今日が残りの人生で一番若い日

といった表現で、やりたいことは今すぐ着手しましょう、
いいと思ったことはすぐに実践してみましょう、ということをお伝え
してきました。
今回も字面だけ見ると同じ趣旨ですが、
Ozakiが実際に経験し、心底実感した人生の有限さを踏まえると、
最もニュアンスが強烈ですし、それだけ皆さんにも強くお伝えしたい、
と考えています。


 人生はどんなにがんばっても有限です。
生きている間にやりたいことはやれるだけやろう。
そう感じたからこそ、皆さんにも改めてお伝えしたいと思いますし、
自分自身もいつ死んでも悔いのないように生きることにします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『未知の領域』が存在するということ(その2)

2017-02-25 21:11:11 | 意識を整える


 前回は葬儀やお寺とのやりとり等、
自分自身で体験する機会が限られているが故に
「未知の領域」のまま人生を過ごしてしまうことが
たくさん存在しているのではないでしょうか?
というお話をしました。

 こういった実際にその立場に置かれて初めて、
どういうことなのか理解できる機会、
それまで頭では何となくわかったような気になっていたとしても
実際に体験してみると「未知の領域」だった、と感じるケースは
葬儀やお寺とのやりとりに限らず世の中いくらでも存在しています。

 例えば前回の雑感コーナーで触れたような天災の被災者の立場
 例えば宝くじに当たって高額な当選金を手に入れた場合
 例えば世界的に大きな注目を集めたテロで家族が死んだケース
 例えば起業をして日々商品開発や販売ルート確保、金策に走り回る
 例えば人知れず新築マンション完成直前に全室掃除をする関係者
 
などなど。
思いつくままに書いているので、ばらばらとしていますが。

  戦争や天災、テロの被害者といった事例は努力して
経験値を積むということは難しいものばかりです。
ですから、その場その場で「未知の領域」に対して歯を食いしばって
対応する必要があるのだと思います。
そしてひとたびそういったエクストリーム体験を経験したのであれば、
例えその時は極めて不幸な状況であったとしても、将来的には
貴重な経験を持った人間として生きていけると捉えることもできます。
(こういった考え方に至るまでに、
Ozakiの場合は友人が複数死亡した
阪神大震災から約15年必要でした。
ただ、父の不慮の死は震災経験があったためか、
比較的早く消化できました)


 一番上の被災者の事例にしても阪神大震災と
その他の地震では状況は全く違うと思います。
まして地震よりも津波の被害が大きかった東日本大震災では
「大きな地震の被災者」という共通項が意味をなさないほどです。
↑に書いた事例は世界中どこかで発生しており、自分たちも
そういった出来事を認識しているはずのものです。
しかしながら、実体験として未経験であれば、「未知の領域」のまま。
本当の意味でその状況を理解することはできません。

 その状態に置かれた時に
 
 どんな心境になるのか、
 どういう考え方、悩みが生じるのか、
 具体的にどういった支援が必要なのか、

想像はできてもそれが的外れであることも当然あり得るわけです。
頭でわかったつもりになっていたとしても
現実問題としてどのような状況になっているか、
はっきりと認識できていないことは無限に存在するということ、
この事実は謙虚になって頭の片隅に置いておく必要がありそうですね。


 インターネットの広告欄は過去のクリック履歴や検索履歴を基に
自分の関心事項の周辺情報しか表示されませんが、新聞広告はそういった
バイアスのかかっていない情報も多々含まれています。
例えば、お墓のセールスや老人ホームの案内などは
Ozakiの場合、父の死まで自分が受け取っていたことすら知りませんでした。
今のネット中心社会で自分でも気づかないうちに「未知の領域」を
意識しないまま暮らしている、ということになっていないでしょうか?

 起業であるとか、他業種(お寺等も)の日常であるとか、
普段まったく興味がない、そもそも存在すら認識していないような世界
で普段過ごしている方との交流は自力で「未知の領域」の未知度合を
下げられるはず。
 普段から情報感度を上げるだけでも「未知の領域」を少しずつ減らす、
ということはできます。
また常に情報を集め続けるという姿勢を維持していれば、
次々に新しい情報が入ってくるわけで、
どれだけ情報を集めてもなお知らない世界が存在すること、を
常に意識するという大事なポイントを忘れずにいられるのかもしれませんね。


 特殊な事例も含め「未知の領域」が存在すること、
どんなに経験を積んでも理解しえない「未知の領域」が残ること、
これを理解した上で「未知の領域」に迫る心構えをしておくとよいのでは?
というOzakiの考え方をお伝えしたシリーズでした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『未知の領域』が存在するということ(その1)

2017-02-18 17:22:23 | 意識を整える


 父親の葬儀や納骨の手続きをやってみて、

 世の中にはいかに自分の知らないことが多いか、
 特定の業界の日常を自分自身無視して生きてきて来たか、
 実際にある立場、経験を積まなければわからないことがあるのか、

といった点を深く、考えさせられました。


 日本人の場合お葬式、納骨を仏教に基づいて行うのが多数派だと思います。
その場合、当然ながらお寺にお願いする必要があるのですが、
では具体的にお寺には何を依頼することになるでしょうか?
そして、その依頼に対してどの程度お金がかかるものでしょうか?

 お葬式や49日といった儀式の名前や概念はある程度理解していた
つもりのOzakiではありましたが、住職がそのためにどのような準備をし、
遺族がどのような依頼や準備をする必要があるのか、
恥ずかしながら今回の事態に至るまで全く認識していませんでした。

 もう一歩踏み込んで言えば、今回一通り、故人を送るという
プロセスを体験したわけですが、お寺が経済的、物理的に
どのように成り立っているのか、
住職やお寺の関係者がどのような日常を過ごしているのか、
についてはまだまだ分からないことが多いな、というのが
住職と何度かお話をしてみての素直な感想です。

 一口に仏教とまとめていますが、
おそらくは宗派によっても細かな違いが多々あるはずです。
最も初歩的なところで言えば、
Ozaki自身今回お世話になったお寺が何宗の何派であるのかすら
知りませんでした。
宗派というものがざっと13もあり、○○宗という中にも
細かく派が分かれているらしいです。

 大多数の日本人は何となく仏教徒として生活されていると思いますが、
仏教の宗派と開祖をなんとなく日本史の時間にやったような…、
というのが多数派ではないかと想像しております。

このメルマガの読者の皆様も実家がお寺です、という方を除けば
よほど何か事情がない限り、
 
 各宗派の違い
 住職の日々の暮らし、
 お寺における一年間のさまざまな行事の流れ、

といったものを
本当に理解し、日常生活の中で意識している方は
いらっしゃらないのではないでしょうか?


 数十年生きていれば、曾祖父母や祖父母がお亡くなりになった際等、
何度か御通夜やお葬式にはご出席されているとは思いますが、
ただ出席するのと、自分で取り仕切るのとではまた世界が違うように
思います。

 いざ自分の両親等が亡くなってご自身でお寺にお願いしてはじめて
これまで全く知らなかった「未知の領域」が存在していることを認識し、
その時点で未知との遭遇を経験することになるのだと感じます。



 こうした事例はおそらくお寺やお葬式関連だけではないでしょう。
読者の皆様にもさまざまな日常があるかと思います。
ただ、その日常の範囲内で起こることは思っている以上に
「閉じた」世界の中でまとまってしまってはいませんか?

 そうは言っても毎日いろいろなことが起こって大変だよ、
 あっちもこっちもトラブルだらけで波乱万丈なんだ、
 人付き合いの幅は広いから、「閉じた」世界にとどまってなんかいないよ


とおっしゃる方もおられるかもしれませんね。

人それぞれ活動の範囲も人脈も異なるので、
一概には言えないと思いますが、
それでも世の中にはこれまでの数十年自分たちが全く知らずに、
場合によっては存在すら認識していないまま生きてきているような
「未知の領域」というものがたくさん転がっているように思います。


(次回に続けます)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

水が流れ出さないから『死の海』になる

2017-02-11 16:58:29 | 意識を整える


 みなさんは中東にある死海をご存知でしょうか?
英語名Dead sea、その名の通りほとんど生物が生存していない湖です。
(英名、和名とも「海」ですが、実際には海の一部ではなく湖です)
死海と聞くと水面にぷかぷか人が浮きながら
新聞や雑誌を読んでいる写真を思い浮かべる方もいらっしゃるかも
しれませんね。


 この死海、生物が生存できないのも人間が浮かぶのも
普通の海に比べて相当濃度の高い塩分が原因です。
なめるとしょっぱく感じる海の水が塩分濃度約3%なのに対し、
死海の塩分濃度は30%程度とのこと。
そのため生物は生きられませんし、湖水の密度が高いため人が浮かびます。


 さて、ではこの死海、なぜこんなに塩分濃度が高いのでしょうか?

それはこの死海が海面よりも400メートル以上低く、水がここから先に
流れ出ていかず、水分は太陽の光にさらされて蒸発する一方だからです。
通常の湖では流れ込んでくる水量と出ていく水量が均衡しているのに対し、
死海では流れ込んでくる水量と蒸発する水量が均衡しているわけです。
つまり、水が流れ出ず水に含まれる塩分が凝縮され、
生命が住めない文字通り「死の海」になってしまっている
ということになりますね。



 この死海の状況は人間にも当てはまりそうです。
 
 たくさんお金をため込んでも、誰のためにも使わない
 読書をしても頭の中にだけとどめておいて実際に活用しない
 役に立つノウハウを教えてもらっても周りの人に教えない

といった事例はまさに水が流れ込むだけ流れ込み、外に流れ出ない状況。
お金も知識もノウハウも実際に使ってナンボなのだと思います。
使わずに自分だけのものにしておくといずれは自分自身が誰も近寄らない
「死の海」になってしまう危険性すら感じさせますね。


 自分に入ってきたものはお金であれ、情報であれ、ノウハウであれ、
必要としている人にどんどん出してみるのがよいのだと思います。
そうすることによって、助けた相手からはなんらか御礼や別の情報、
人脈が提供され、自分自身の環境を充実させることにつながります。


 自分自身を「死の海」にせず、魚や水鳥が集まる豊かな湖になるために、

 お金を頂いたらお金を使う
 教えてもらったら教える
 人を紹介してもらったら紹介する

などなど、「水を流れ出す」ことを意識してはいかがでしょうか?

コメント
この記事をはてなブックマークに追加