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真宗界の崩落の歴史(9) 神道国教化政策

2010-06-12 16:01:04 | Weblog
 神祇不拝(神に仕えない)――これが親鸞聖人以降、江戸時代まで受け継がれてきた真宗の伝統であり、宗風だった。天台、真言の僧侶らが、「神仏一体」などという説をでっち上げ、日本古来の神道と、仏教を融合して外道化させたのに対し、真宗はそれら因果の道理に反する迷信邪信を近づけず、釈尊の真精神を発揚し続けていた。

神仏一体化した仏教を嘆かれる親鸞聖人のお言葉はたくさんある。

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す

五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり
(悲嘆述懐和讃)


親鸞聖人のみ教えに従い、真宗が神信心と決別していた傍証として、江戸時代の儒者・太宰春台の『聖学問答』や、幕末に書かれた福田義導の『和合海中垂訓』などが上げられる。
「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」(『聖学問答』)

明治以前の浄土真宗では、「弥陀一仏以外、諸仏や諸神を信ぜず、祈祷せず、神棚も設けず」が普通だったことが分かる。なぜここまで「弥陀一仏」ということが徹底されるのか、その理由は昨日書いた通りである。

それが今日、真宗のどの家にも神棚が置かれ、初詣には神社参詣、結婚式や棟上げに神主を呼び、門徒総代と氏子総代を兼ねる者さえいる。浄土真宗とは名ばかりで、実態はガラリと変わっている。

なぜそんなに変わってしまったのか。
この〃変質〃の歴史的な経緯を、明らかにしていきたいと思う。


 今から約150年前、300年間、日本を支配してきた徳川幕府が崩壊し、薩摩、長州藩を中心とした新政権が樹立された。明治維新である。
 新政府は、自らの立場を権威づけ、正当化するために、将軍に代わる新たな権威を必要とした。そこで着眼したのが天皇だったのである。

 だが天皇は、鎌倉時代からの武家政治の陰に追いやられ、当時、政治的にはほとんど無力な存在だった。まして一般庶民にとっては、その存在さえよく知られていないのが実情だったという。
 このような天皇を、全国民帰順の対象にまで高めるには、天皇の神格化を作為的に行う必要があり、そこで明治政府の執った政策が、王政復古をスローガンとした「神道国教化政策」だったのである。

では具体的に、何が行われたのだろう。

まず、『古事記』『日本書紀』の神話を根拠に、明治天皇に神権的な権威づけを施した。
さらに天照大神を祭る伊勢神宮を頂点とし、全国各地の神社を末社として再編した国家宗教を誕生させた。これを国家神道という。

国家神道の教義の核心は、天皇を「生ける神」として神格化し、全国民に絶対的帰順を要求するものである。その目的に沿って、教育勅語(明治23年)を制定し、全国の学校に徹底した。また全国民を強制的に氏子とし、各家庭に神棚を設置したのである。

このように、神道国教化が進められていく背景には、当時、アジア諸国が西欧列強にどんどん植民地化されていた、という事情がある。列強に対抗し、独立を守れる強い国家を築くには、天皇の命令一つで、全国民が身を捨てて戦えるようになる必要があったのである。

さて、このような政府の方針に対し、滋賀県など浄土真宗の盛んな地方では、当初、強い反対運動が起きた。だが、それを擁護すべき肝心の真宗本山が傍観、もしくは政府や軍部の言いなりと化したので、地方の反乱は、自然消滅していかざるをえなかったのである。

やがて時代は昭和に入り、全国民を戦争一本に駆り立てるため、狂信的な神信心がいよいよ強要されていく。

昭和3年、治安維持法の改悪を契機に、政府は大々的な宗教・思想弾圧に乗り出した。
手始めにスケープゴート(生け贄)とされたのが「大本教」であった。(つづく)
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