6月4日(土)ワークショップ「震災報道と一人称のジャーナリズム」を行いました。 ゲストは、河北新報社寺島英弥編集委員と全国紙の記者の方です。 2人からお話を伺った後、グループでの議論を行いました。
読者に寄り添って書く
まず、寺島さんから震災後河北新報がどのように新聞を作ってきたのかお話して頂きました。記者と被災者、2つの立場を抱えながらの取材。寺島さんや河北新報社の方々はどんな取材を行い、どんな新聞を作ってきたのでしょうか。 寺島さんは、自分達の取材のものさしは、記者各々の愛着や記憶だったと話していました。残したいものや守りたいもの、伝えるべきものはなにか、というものさしを持って見知った町の震災前と今の様子を比べながら歩いて取材したそうです。なるべく多くの地元の人と出会い、取材をすることで、その人たちを記録し、その人達を通して伝えていきたい、と話していました。「我々自身が被災者達と一緒に希望を探したいというのが、ほんとのところだったと思います」という言葉にもあるように、河北新報の方々は地元の人と一緒に地元のために新聞を作っていたのでした。
誰に向けて書いているのか
次にお話頂いた全国紙の記者の方は、全国紙の新聞は被災地の外の都会の読者への訴求性を追求するあまり、新聞の網羅性が欠けてしまうのではないか。と指摘しました。大きな写真や図を使うこと、一人の人に絞ったルポ風の記事を書き、ストーリーのおもしろさを提供する事で、読者にインパクトを与えることはできるが、他の載せるべき情報や細かい情報が削られているのではないか。 また、被災地の人について書いた記事では、「当事者が読む」ということを意識して書いているか?被災地の人が読む可能性は切り捨てて書いているのか?という問題を投げかけ、これは新聞社の中でもまだ解決していない、とおっしゃっていました。テ―マである一人称のジャーナリズムに関しては、一見一人称に見えるルポ記事は、よそものが書くからこそルポなのであって、実は三人者報道の典型なのではないかと話していました。
記事を通して伝えようとしているものは、河北新報と全国紙では大きく異なっていて、当事者意識を持った人と持っていない人では考えることや感じることは大きく違っていると感じました。
震災の直後、東北出身の学生運営委員と長い時間一緒に過ごしましたが、私は2人に何も言う事ができなかったことを思い出しました。震災のことを2人と話すのは何だか気まずいような気持ちになったからです。理由は今思うと、2人が当事者で、私が当事者でなかったことだと思います。その土地に家族や友達や学校や家がある2人の気持ちを理解するのは難しいです。他人事にしたくなかったし思えなかったけれど、当事者でないし、何も失ってないのに、当事者のように振る舞うのは何だか申し訳ないと思ってしまったのです。
*参加者の方によるレポートブログ
*寺島さんのブログ「余震の中で新聞を作る」はこちら
(学生運営委員 木村 愛)









