ここのところとても寒いね。駅でみる人みんなコートを羽織り下を向きながら電車が来るのを待ってる。隣の人が今年はまだクリーニングは出せないねなんて会話をしてたり。ホームにあるジュースバーから大好きなオニオンスープが消え、今日からはコーンスープもなくなった。冬、電車の中で移り変わる東京の景色見ながらスープをすするのがちょっとした楽しみだった。今日は自販機かな。傘の水を切ってあったかいココアをかった。
手をあたためながらホームで降りしきる雨をみながら穏やかに微笑んだ。
今日も雨か。
いつもだね。いつも岐路のときに。
でもきらいじゃないんだ。はじまりの前はこうだから。
自分を断崖の底に突き落として数ヶ月。
強迫と向き合い、対話し、背負って這い上がってきたよ。
生活がまたたくまに変わっていった。
大きくトイレ、お風呂、家事の三つ。そして試される場面にも遭遇した。
自分の生活の中でトイレというのは問題の度合いとしてとても大きなものだった。
この数ヶ月半裸で入らなくなり冬の寒さに耐える必要がなくなった。トイレの電気のスイッチを押し、ノブをまわしてその手でズボンやトランクスを下ろす。お尻を拭くときにオシュレットでお尻の周りに飛び散るよごれた水滴が手のひら手首付近につく。その手でかゆくなった頭や顔や体に触れてかいた。便座とシートの間から時々オシュレットや流したときに通り抜ける水滴がふくらはぎについたのも洗わなくそのまま。以前はもう一日が終わったと思った。ふせぎようがない。そんな隙間から飛ぶ水滴なんて。当たりか外れの宝くじみたいなものだった。
お腹がくだったときには出すときは当然それがとびちりお尻につく。水たまりからも跳ね返る。そのよごれたお尻を触って体を触りズボンを持った。日曜洋画劇場のCM中にトイレに入り携帯を持ち込み台の上に立てて映画を観た。
もう映画の間我慢しなくてよくなった。トイレは緊張する場ではなくなった。
トイレの後手洗いではレバーをその手でがっしり持ち、この数ヶ月一切石けんを使わず手のひらをサット流すだけ。レバーも洗わない。家でお尻がかゆいときは直接手でかいている。その手で日常のもので使うものを触った。意図的ではなく普段のルーティーンで。トランクスの上からがマナーだけど。
街中の駅やデパートでもお腹が痛くなったときはすぐに入った。男ならわかると思うけど街中のトイレってとてもよごれてる。なぜなら床に尿が多く落ちてる。それは水たまりまではいかないけど見える形で。特に立ち便器のところ。みんなそれを踏んで歩いている。そのトイレでズボンを下ろして床につける。感覚で言えば尿がついたと思うのも致し方ない。洋式一つのお店なんてそこに尿が必ず見える形で落ちている。不潔恐怖でトイレがだめという人はこの「見える」形のものはかなり辛く高い壁だと思う。
でももう大丈夫。流れの中でその場で止まらずにスムーズに事を運んでいける。計画を立てずに外出して公共のトイレに入りズボンを下ろせる。
立ちのときは性器を触る。当然触らないと位置とか調整できなくなるからとんでもないことが起きてしまう。その手できれいない私服、これから人に会う服を触った。前は用を足し終えたらズボンのボタンチャックを開けっ放し。トランクス丸見えの状態で手を体から少し離し洗い場に行っていたけどなくなった。いつもこのはたからみたら変態っていうのかな。奇異な目で当然見られてた。洗い終わるまでチラチラっと。だからトイレで会った人と外でまた会うときは何ともいえない気持ちになる。もうそんなことは考えなくてすむんだ。
お風呂はシャワーを浴びるためにトランクスを脱ぐとき、その内側を足の裏で踏みつけて脱いだ。以前なら真っ先によごれたと苦しむことだった。バスルームでトランクスを脱いで開けっ放しのドアから開きっぱなしの洗濯機にそっと入れていた。周りにつかないようにそっと。手もこの時点で汚れていてシャワーの蛇口を捻った後石けんで洗いながしてからやっとシャワーが始まる。
それを脱衣所でやりその手で洗濯機を開けてついでにスイッチ入れて回し、その足で脱衣所のじゅうたんを歩きバスルームに入っていった。蛇口をその手で回しイスにはよごれたお尻をそのまま座った。もうずっと立ちっぱなしで足裏を洗うときにフラミンゴにならなくてもよくなった。イスにすわりながら髪を洗い体を洗うってとても快適だった。いつもシャワーでカロリーを使ってると思うぐらい疲弊してた。むかし何時間も洗い続けていたときが懐かしい。洗い終わっても周りは自分から出たきたない水が散らばってるからあちこちながしていた。きたないものに水がついたら感覚でそれが「とける」っていうイメージだから。今はイスを水だけでサッと流すだけで終わり。普通の人はどうなのかな。公共で自分が使ったイスはながすものなのかな。
家事もスムーズになった。特に洗濯と灯油ストーブ。洗濯はまず上記のように洗濯機のふたから開けてそれからよごれた服をカゴからだしてた。カゴはよごれたものを入れるカゴときれいな洗い終わったものを入れるカゴに分けてた。前は両親が平気で洗い終わったものをきたないカゴに入れてよくケンカになった。それで専用のきれいなカゴを買った。よごれてるカゴは今二個積み重なってる。今は洗い終わったものをそれに入れても大丈夫。
よごれた服を引き上げるときにカゴの内側につかないように気をつけて少量ずつ服を洗濯機に入れていた。多いと洗濯機の周りについて終わりだから。それをやって手を洗ってスイッチをやっと押して機械が示した量の洗剤を入れていた。一日ならいいけどこれを毎日ってとても負担だった。
それが今はふたをしめてようが開けてようが関係なく洗濯カゴからわしづかみし洗濯機にブチ込む。両親の下着もそのままわしづかみ。強迫に向き合うようになってから初めて他の人の下着をつかむときは緊張した一つだった。下着の外側、そして内側関係なくつかんで洗濯機に入れる。その手でスイッチを押し洗剤を入れてフタをバンとしめて終わり。その手を洗わず自然に冷蔵庫開けたりテレビのリモコンを持つ。自動で洗う時代に生まれてよかったと思う。洗濯をスムーズにやり、回してる間テレビをみるってなんていう気持ちなんだろう。このうまくやったぜという幻想に浸る。
灯油は冬、外の玄関で入れるんだけどそこまでタンクやポンプを触った手で家の引き戸や玄関を開けたくなかった。後々それを触り食べ物を食べるときに灯油も食べているイメージになるから。今は構わず灯油をたべてる。
家事ではないけど玄関のドアを足で開けなくなった。自分がトイレが長くなり父親が外でしてその洗ってない手で触れてから半年以上靴を履いて玄関を足で開けてた。
そして集大成の場面が来たんだ。それは野良猫が家に入って父親のふとんにおしっこをした。2階を掃除機掛けてるときにふとんをどかそうとしたら濡れてるからおかしいとおもった。それも黄色い。父親は病院に入院してるからあり得ない。トラは外で必ずするからそれはない。そうすると野良猫しかない。今うちにいるネコはトラだけど母親が子猫の野良ちゃん2匹にごはんをあげたり冬場には塀と家の間に湯たんぽと毛布を用意してかわいがっている。今は成人したネコのように成長した。トラが小さかった頃のように動き回っている。家を開けるともう入ってくるようになった。ごはんがほしくなったときは窓から開けてとうったえてくる。玄関を開けっ放しにしてたからやられた。よく2階に上がろうかなというときに勢いよく降りて逃げていくから。
シーツを替えるときにちょっと緊張した。でも以前のような苦しく重い緊張感ではなかった。頭が軽くてスッキリした状態で着々とシーツをはいで丸めた。シーツみたいなでかいのなんて完璧に体から離すことはできないしその手で丸めてるからイメージとしては全体がよごれた感じ。でも平気だった。片手でがっしり体に抱きかかえ、もう一つ片手のよごれた手で道を阻んだ掃除機をがっしりつかんで乱暴にどかした。性格が出てる。そして一階のカゴに放り込んだ。そのカゴはいつも通り洗濯のルーティーンで使っている。手を水だけでサット洗いぞうきんを持って2階へ戻り畳に染みこんだところをゴシゴシ拭いた。20秒ぐらいできりあげた。折ってそこらへんに置いた。濡れていれば全体がつながっていてよごれたと思うんだけど気にせず大丈夫だった。また掃除機をかけ始めその染みこんだところを平気で踏んだ。前なら畳を一部分掘り出してくりぬいて捨てたいぐらいだ。そして隣にある母親のふとんも「くせ」で気になった。隣同士で濡れたところは端だから確実にふれてるしついてる。でも形として見えない。もうそんな見えないものはどうでもいい。そのついたと思われる部分関係なく母親のふとんを思いっきり豪快にどかして掃除機をかけた。家事をやるときに障害がほんとになくなったんだ。効率よくこなせるようになった。
最近は真ん中の姉が前日にいきなり明日姪を連れてくるからといって来た。そのおかげで朝から父親と掃除に奔走した。お昼の準備は何でも食べる子でもあるので野菜などは八分の一の大きさにカットした。トマトが好きなのはいいことだ。小さい頃自分はおいしいと思ったことがない。お昼を食べれば当然おむつ替えが待っている。この前まで2階に上がったり隣の部屋に移動して見ないようにして避難していたのだけど、今回は横で寝そべりながらみてた。おむつ替えをしてる間姉にやり方を聞いていた。次回やろうと思って。もちろん小から。おむつ替えの間姪を見ると直接お尻がカーペットについてねころんでいた。それを見ても特に動揺することなく何事もなかったかのように自分はそのカーペットを歩き寝転がった。
とても生きやすいんだ。今までその障害で目の前のやるべきことを外側からゆっくり手を伸ばして探りながらつかんでいた。それを一直線に掴めるというこの気持ち。今はこの表現しかできない。
でも、自分の中で強迫はなくなってはいない。なくなってはいけないと思う。
自分には全治という言葉は一生縁がないと思う。
だって 自分が生み出したものだから。
自分の一部だから。
それを避けないでほしい。逃げないでほしい。
それは合わせ鏡に写ってるあなただから。
だから泣かないで 笑ってよ
そして写っているあなたを抱きしめてあげてほしい。
結果を書いた。今おもえばすべては一日、二度と来ない瞬間に決した。
でもこれは副産物なんだ。これをやったからこんなにできたんだよということを伝えたいわけじゃない。未熟な自分は書いているうちにそれに気づいた。
ミチシルベは道の最後にあるテープじゃない。
そこに立ち向かう。
シセイ
誰かかが建てるんじゃない。
ミチシルベは自分自身にある。あなたの心にある。
どしゃぶりの雨の中、ぬかるんでる地に起たせてほしい。そして光を照らしてほしい。
きっとそれをみてまた一つ また一つと
希望が建っていくから。
そう信じてる。
手をあたためながらホームで降りしきる雨をみながら穏やかに微笑んだ。
今日も雨か。
いつもだね。いつも岐路のときに。
でもきらいじゃないんだ。はじまりの前はこうだから。
自分を断崖の底に突き落として数ヶ月。
強迫と向き合い、対話し、背負って這い上がってきたよ。
生活がまたたくまに変わっていった。
大きくトイレ、お風呂、家事の三つ。そして試される場面にも遭遇した。
自分の生活の中でトイレというのは問題の度合いとしてとても大きなものだった。
この数ヶ月半裸で入らなくなり冬の寒さに耐える必要がなくなった。トイレの電気のスイッチを押し、ノブをまわしてその手でズボンやトランクスを下ろす。お尻を拭くときにオシュレットでお尻の周りに飛び散るよごれた水滴が手のひら手首付近につく。その手でかゆくなった頭や顔や体に触れてかいた。便座とシートの間から時々オシュレットや流したときに通り抜ける水滴がふくらはぎについたのも洗わなくそのまま。以前はもう一日が終わったと思った。ふせぎようがない。そんな隙間から飛ぶ水滴なんて。当たりか外れの宝くじみたいなものだった。
お腹がくだったときには出すときは当然それがとびちりお尻につく。水たまりからも跳ね返る。そのよごれたお尻を触って体を触りズボンを持った。日曜洋画劇場のCM中にトイレに入り携帯を持ち込み台の上に立てて映画を観た。
もう映画の間我慢しなくてよくなった。トイレは緊張する場ではなくなった。
トイレの後手洗いではレバーをその手でがっしり持ち、この数ヶ月一切石けんを使わず手のひらをサット流すだけ。レバーも洗わない。家でお尻がかゆいときは直接手でかいている。その手で日常のもので使うものを触った。意図的ではなく普段のルーティーンで。トランクスの上からがマナーだけど。
街中の駅やデパートでもお腹が痛くなったときはすぐに入った。男ならわかると思うけど街中のトイレってとてもよごれてる。なぜなら床に尿が多く落ちてる。それは水たまりまではいかないけど見える形で。特に立ち便器のところ。みんなそれを踏んで歩いている。そのトイレでズボンを下ろして床につける。感覚で言えば尿がついたと思うのも致し方ない。洋式一つのお店なんてそこに尿が必ず見える形で落ちている。不潔恐怖でトイレがだめという人はこの「見える」形のものはかなり辛く高い壁だと思う。
でももう大丈夫。流れの中でその場で止まらずにスムーズに事を運んでいける。計画を立てずに外出して公共のトイレに入りズボンを下ろせる。
立ちのときは性器を触る。当然触らないと位置とか調整できなくなるからとんでもないことが起きてしまう。その手できれいない私服、これから人に会う服を触った。前は用を足し終えたらズボンのボタンチャックを開けっ放し。トランクス丸見えの状態で手を体から少し離し洗い場に行っていたけどなくなった。いつもこのはたからみたら変態っていうのかな。奇異な目で当然見られてた。洗い終わるまでチラチラっと。だからトイレで会った人と外でまた会うときは何ともいえない気持ちになる。もうそんなことは考えなくてすむんだ。
お風呂はシャワーを浴びるためにトランクスを脱ぐとき、その内側を足の裏で踏みつけて脱いだ。以前なら真っ先によごれたと苦しむことだった。バスルームでトランクスを脱いで開けっ放しのドアから開きっぱなしの洗濯機にそっと入れていた。周りにつかないようにそっと。手もこの時点で汚れていてシャワーの蛇口を捻った後石けんで洗いながしてからやっとシャワーが始まる。
それを脱衣所でやりその手で洗濯機を開けてついでにスイッチ入れて回し、その足で脱衣所のじゅうたんを歩きバスルームに入っていった。蛇口をその手で回しイスにはよごれたお尻をそのまま座った。もうずっと立ちっぱなしで足裏を洗うときにフラミンゴにならなくてもよくなった。イスにすわりながら髪を洗い体を洗うってとても快適だった。いつもシャワーでカロリーを使ってると思うぐらい疲弊してた。むかし何時間も洗い続けていたときが懐かしい。洗い終わっても周りは自分から出たきたない水が散らばってるからあちこちながしていた。きたないものに水がついたら感覚でそれが「とける」っていうイメージだから。今はイスを水だけでサッと流すだけで終わり。普通の人はどうなのかな。公共で自分が使ったイスはながすものなのかな。
家事もスムーズになった。特に洗濯と灯油ストーブ。洗濯はまず上記のように洗濯機のふたから開けてそれからよごれた服をカゴからだしてた。カゴはよごれたものを入れるカゴときれいな洗い終わったものを入れるカゴに分けてた。前は両親が平気で洗い終わったものをきたないカゴに入れてよくケンカになった。それで専用のきれいなカゴを買った。よごれてるカゴは今二個積み重なってる。今は洗い終わったものをそれに入れても大丈夫。
よごれた服を引き上げるときにカゴの内側につかないように気をつけて少量ずつ服を洗濯機に入れていた。多いと洗濯機の周りについて終わりだから。それをやって手を洗ってスイッチをやっと押して機械が示した量の洗剤を入れていた。一日ならいいけどこれを毎日ってとても負担だった。
それが今はふたをしめてようが開けてようが関係なく洗濯カゴからわしづかみし洗濯機にブチ込む。両親の下着もそのままわしづかみ。強迫に向き合うようになってから初めて他の人の下着をつかむときは緊張した一つだった。下着の外側、そして内側関係なくつかんで洗濯機に入れる。その手でスイッチを押し洗剤を入れてフタをバンとしめて終わり。その手を洗わず自然に冷蔵庫開けたりテレビのリモコンを持つ。自動で洗う時代に生まれてよかったと思う。洗濯をスムーズにやり、回してる間テレビをみるってなんていう気持ちなんだろう。このうまくやったぜという幻想に浸る。
灯油は冬、外の玄関で入れるんだけどそこまでタンクやポンプを触った手で家の引き戸や玄関を開けたくなかった。後々それを触り食べ物を食べるときに灯油も食べているイメージになるから。今は構わず灯油をたべてる。
家事ではないけど玄関のドアを足で開けなくなった。自分がトイレが長くなり父親が外でしてその洗ってない手で触れてから半年以上靴を履いて玄関を足で開けてた。
そして集大成の場面が来たんだ。それは野良猫が家に入って父親のふとんにおしっこをした。2階を掃除機掛けてるときにふとんをどかそうとしたら濡れてるからおかしいとおもった。それも黄色い。父親は病院に入院してるからあり得ない。トラは外で必ずするからそれはない。そうすると野良猫しかない。今うちにいるネコはトラだけど母親が子猫の野良ちゃん2匹にごはんをあげたり冬場には塀と家の間に湯たんぽと毛布を用意してかわいがっている。今は成人したネコのように成長した。トラが小さかった頃のように動き回っている。家を開けるともう入ってくるようになった。ごはんがほしくなったときは窓から開けてとうったえてくる。玄関を開けっ放しにしてたからやられた。よく2階に上がろうかなというときに勢いよく降りて逃げていくから。
シーツを替えるときにちょっと緊張した。でも以前のような苦しく重い緊張感ではなかった。頭が軽くてスッキリした状態で着々とシーツをはいで丸めた。シーツみたいなでかいのなんて完璧に体から離すことはできないしその手で丸めてるからイメージとしては全体がよごれた感じ。でも平気だった。片手でがっしり体に抱きかかえ、もう一つ片手のよごれた手で道を阻んだ掃除機をがっしりつかんで乱暴にどかした。性格が出てる。そして一階のカゴに放り込んだ。そのカゴはいつも通り洗濯のルーティーンで使っている。手を水だけでサット洗いぞうきんを持って2階へ戻り畳に染みこんだところをゴシゴシ拭いた。20秒ぐらいできりあげた。折ってそこらへんに置いた。濡れていれば全体がつながっていてよごれたと思うんだけど気にせず大丈夫だった。また掃除機をかけ始めその染みこんだところを平気で踏んだ。前なら畳を一部分掘り出してくりぬいて捨てたいぐらいだ。そして隣にある母親のふとんも「くせ」で気になった。隣同士で濡れたところは端だから確実にふれてるしついてる。でも形として見えない。もうそんな見えないものはどうでもいい。そのついたと思われる部分関係なく母親のふとんを思いっきり豪快にどかして掃除機をかけた。家事をやるときに障害がほんとになくなったんだ。効率よくこなせるようになった。
最近は真ん中の姉が前日にいきなり明日姪を連れてくるからといって来た。そのおかげで朝から父親と掃除に奔走した。お昼の準備は何でも食べる子でもあるので野菜などは八分の一の大きさにカットした。トマトが好きなのはいいことだ。小さい頃自分はおいしいと思ったことがない。お昼を食べれば当然おむつ替えが待っている。この前まで2階に上がったり隣の部屋に移動して見ないようにして避難していたのだけど、今回は横で寝そべりながらみてた。おむつ替えをしてる間姉にやり方を聞いていた。次回やろうと思って。もちろん小から。おむつ替えの間姪を見ると直接お尻がカーペットについてねころんでいた。それを見ても特に動揺することなく何事もなかったかのように自分はそのカーペットを歩き寝転がった。
とても生きやすいんだ。今までその障害で目の前のやるべきことを外側からゆっくり手を伸ばして探りながらつかんでいた。それを一直線に掴めるというこの気持ち。今はこの表現しかできない。
でも、自分の中で強迫はなくなってはいない。なくなってはいけないと思う。
自分には全治という言葉は一生縁がないと思う。
だって 自分が生み出したものだから。
自分の一部だから。
それを避けないでほしい。逃げないでほしい。
それは合わせ鏡に写ってるあなただから。
だから泣かないで 笑ってよ
そして写っているあなたを抱きしめてあげてほしい。
結果を書いた。今おもえばすべては一日、二度と来ない瞬間に決した。
でもこれは副産物なんだ。これをやったからこんなにできたんだよということを伝えたいわけじゃない。未熟な自分は書いているうちにそれに気づいた。
ミチシルベは道の最後にあるテープじゃない。
そこに立ち向かう。
シセイ
誰かかが建てるんじゃない。
ミチシルベは自分自身にある。あなたの心にある。
どしゃぶりの雨の中、ぬかるんでる地に起たせてほしい。そして光を照らしてほしい。
きっとそれをみてまた一つ また一つと
希望が建っていくから。
そう信じてる。
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