gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

記事のタイトルを入力してください(必須)

2017-06-22 12:43:46 | 日記

TV番組[編集]
『天皇の世紀・第二部』(1973年、朝日放送、龍馬役:沖雅也…#1,原口剛…#9〜#11・#15,中尾彬…#16・#18)
『笑う犬の発見』「ひとり徳川三代」(2002年、フジテレビ、龍馬役:大嵐浩太郎)
『時代劇法廷 CASE 10 被告人は坂本龍馬』(2015年、時代劇専門チャンネル、龍馬役:溝端淳平)
舞台[編集]
『坂本龍馬』(ミュージカル、1989年・1991年、龍馬役:西城秀樹)
『硬派・坂本竜馬!』(宝塚歌劇花組公演、1989年、竜馬役:真矢みき)
『また逢おうと竜馬は言った』(演劇集団キャラメルボックス公演、1992年・1995年・2000年・2010年、竜馬役:川原和久…1992年,上川隆也…1995年,岡田達也…2000年・2010年,大内厚雄…2010年)
『RYOMA -硬派・坂本竜馬!II-』(宝塚歌劇花組公演、1996年、竜馬役:真矢みき)
『俺たちは志士じゃない』(演劇集団キャラメルボックス、1998年、竜馬役:岡田達也)
『彦馬がゆく』(2002年、竜馬役:松重豊)
『維新回天・竜馬伝! -硬派・坂本竜馬III-』(宝塚歌劇宙組公演、2006年、竜馬役:貴城けい)
ミュージカルオペラ『龍馬』(2009年、龍馬役:平良交一)
グランステージ『JIN-仁-』(宝塚歌劇雪組)、2012年、龍馬役:早霧せいな
PV出演[編集]
『SAKAMOTO』(アーティスト:GReeeeN、2015年)
脚注[編集]
[ヘルプ]
注釈[編集]
^ 「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬」という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年(1999年)3月実施北海道 公立高校 入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍。平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応3年1月20日付姪春猪宛. - ウィキソース.
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応元年9月9日付池内蔵太家族宛. - ウィキソース.
^ a b 別説に10月15日生(坂崎紫瀾『汗血千里駒』)と11月10日生(瑞山会『維新土佐勤王史』)がある。11月15日説では、現行の太陽暦に照らすと龍馬が生まれた日は年明け後になり、1836年になる。
^ 詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。
^ 清河八郎記念館が所蔵する「玄武館出席大概にも坂本龍馬の名前が見られる」
^ (嘉永6年9月23日付書簡)原文「(前略)、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。かしく。」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.46
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/嘉永6年9月23日付父坂本八平直足宛. - ウィキソース.
^ a b 「北辰一刀流長刀兵法目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。
^ (安政5年7月付書簡) 原文「又、明日は千葉へ、常州より無念流の試合斗り申候。今夜竹刀小手のつくらん故、いそがしく (後略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.51
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/安政5年7月? 坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ 従来の通説では、刀を授けたのは二姉の栄になっているが、これは才谷屋七代坂本源三郎の養女宍戸茂の証言(『土佐史談』115号)を採用した司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1963年)以降に信じられた話で、これ以前の史料では刀を授けたのは三姉の乙女になっていた。昭和63年に柴田佐衛門に嫁いでいた栄の墓が発見されて彼女の没年が脱藩の17年前の弘化2年(1845年)と明らかになり、通説は覆されている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.62-63、139-140
^ 「坂本は飄然として江戸に下り、彼の旧識なる鍛冶橋外桶町の千葉重太郎方に草蛙を解きぬ」瑞山会『維新土佐勤王史』
^ 千葉佐那の回顧(「千葉灸治院」)では安政5年に帰国した以降、龍馬は小千葉道場に現れていないと述べており、脱藩後の小千葉道場寄宿を疑問視する見方もある。『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.52
^ 拝謁の紹介者については明らかではなく、龍馬史研究家の平尾道雄は千葉重太郎と推定し、池田敬正(『坂本龍馬』中公新書)と松浦玲(『勝海舟』中公新書)は横井小楠、飛鳥井雅道は間崎哲馬と推定している。飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.173-176
^ (文久3年3月20日付書簡)「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、(後略)」 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.60-61
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年3月20日付坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ a b 『維新土佐勤王史』を典拠に一般には五千両として知られているが、より信頼性の高いこの時に龍馬と対面した横井小楠の記録では千両になっている(『横井小楠関係史料』)。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.30
^ (文久3年5月17日付書簡)原文「この頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、大先生にことの外かはいがられ候て、(中略)すこしエヘンがをしてひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン、」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.64-67
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年5月17日付坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ 文久3年(1863年)3月に「留守居組」になり上士に取り立てられている。
^ a b (文久3年6月29日付書簡)原文「平井の収二郎ハ誠にむごい いもふとかをなげき、いか計か」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.75-87
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年6月29日付坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ (文久3年6月29日付書簡))原文「(前略)右申所の姦吏を一事に軍いたし、打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事二いたすくとの神願二て候。(以下略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』 (講談社学術文庫、2003年) pp.75-87
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年6月29日付坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ a b ただし、勝海舟の研究者として著名な歴史家の松浦玲をはじめとして何人かの歴史家は、龍馬が塾頭を務めたという説には懐疑的である。詳しくは松浦玲『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)・濱口裕介「師とともに目指したアジア諸国共有海軍への夢」(『新・歴史群像シリーズ (4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
^ a b しかし浪人は入所資格を認められなかったこともあり、龍馬は入所できなかったのではないかと指摘している研究者もいる(松浦玲『検証・龍馬伝説』など)。
^ この西郷と龍馬との初対面の逸話について時期的に疑問とする見方もある。佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)pp.62-68
^ 「亀山社中」の名称は同時期の記録にはなく単に「社中」と記されていた。「亀山社中」の名称は明治期の文献以後に生じている。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.144-145
^ 初期の株式会社は出資者のことを「社中」と称した。ただし、亀山社中の「社中」にはそのような意味は含まれていないのではないかとういう人もいる。坂本藤良『幕末維新の経済人』pp.201-203
^ ユニオン号所有権問題の談判を行っていた。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.92-94
^ a b 。なお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を主張する研究者もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。その後、青山忠正を皮切りに、芳即正・三宅紹宣・宮地正人・高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」 (『新・歴史群像シリーズ(4)維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。
^ 上京した際に会見した大久保一翁から警句されていた。『三吉慎蔵日記』
^ 原文「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」
Wikisource reference 坂本龍馬. 坂本龍馬/坂本龍馬手帳摘要. - ウィキソース.
^ a b 小松清廉が先であるという異論もある。「日本初の新婚旅行は小松帯刀? 通説“龍馬”に異論登場」読売新聞 2008年10月16日
^ 『維新土佐勤王史』などの記述をもとに龍馬本人は実戦には参加せずに陸上で観戦していたとする説もある。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.110-117、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.91
^ ただし、万国立法は海事のことは扱っておらず基準として出したにすぎない。
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 大築拙蔵訳『万国公法』
^ しかし、近年沈没したいろは丸に対して行われた調査では、龍馬が主張した銃火器などは見つかっていないことが明らかになっている。リーフレット京都 No.216 (2006年12月) (PDF) - (財) 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
^ a b ただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらない。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ (4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。
^ (慶応3年10月13日付書簡)原文「建白の議、万一行はれざれば固より必死の後覚悟故、御下城これ無き時は、海援隊の一手を以て、大樹参内の道路に待受け、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否二論なく、先生に地下に御面会仕り候」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.483-484
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応3年10月13日付後藤象二郎宛. - ウィキソース.
^ 世界の咄しも相成可申か(陸奥宗光宛 慶応三年十一月七日)
^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)p.309、1994年の初版時ではやや薩摩藩陰謀説に含みを持たせた構成だったが、2008年の文庫版のあとがきで著者の一人の菊池明はその後の新史料の発見から京都見廻組であると断定している。同書pp.350-351
^ 一説には勝を暗殺するために面会に行ったと言われるが、色々と異説があり、正確な史実は確定していない。また、入門時期や、一緒に勝を訪問した人物についても諸説ある。諸説を、春名徹「勝海舟」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しくまとめている。
^ (文久3年8月14日付)原文「(前略)今年廿六歳ニなり候。馬によくのり劔も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみ/\の男子よりつよく、(中略)かほかたち平井より少しよし。(後略)」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.95-97、
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久3年8月14日付?坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ (慶応2年12月4日付書簡)原文「此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり。」宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.257-258、
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応2年12月4日付坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ おやべなる人物は乳母とも姪の春猪とも言われている。
^ これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
^ 財津は、他にもニセの竜馬を演じている。
出典[編集]
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.2
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.3
^ 『坂本龍馬とその時代』p.19
^ a b c 坂崎紫瀾『汗血千里駒』(明治16年)
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 坂崎紫瀾『汗血千里駒』
^ 弘松宣枝『阪本龍馬』(大正元年)
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 弘松宣枝『阪本龍馬』(明治29年版)
^ 千頭清臣『坂本龍馬』(大正3年)
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.5-7
^ 高知県立坂本龍馬記念館 龍馬の生涯 少年期
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.58
^ 新・歴史群像シリーズ 20『坂本龍馬と海援隊』(学研パブリッシング、2009年)p.47
^ a b c d 京都国立博物館蔵
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.242
^ 足立史談508号 (PDF) (足立区教育委員会)
^ 「武士道教育総論」P.155〜182).
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.72
^ a b 『及門録』(増訂『象山全集』五巻、信濃毎日新聞、1934年)
^ 河田小龍回顧録『藤陰略話』(明治20年代)
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.12
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.60
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.12-13
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.122-123
^ 『維新土佐勤王史』p.63
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.127-128
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.128-130
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.17-18
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.18-19
^ 「通天閣: 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯」P28〜29
^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p.108,『那須信吾書簡』文久二年十一月十六日那須俊平宛
^ a b 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.20
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)p.168
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.20-21
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.344
^ 福井藩記録『続再夢紀事』
^ 『枢密備忘』
^ 『海舟日記』
^ 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20))(学研パブリッシング、2009年)p.80
^ a b 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.142-143
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.24-25
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)pp.172-173
^ 『氷川清話』p.24
^ 『氷川清話』p.202
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.57-60
^ この写真の女性はお龍ではないとする説も有力である。(平成26年1月5日付読売新聞朝刊10面記事参照)
^ 松浦玲『坂本龍馬』 (岩波新書、2008年)pp.60-61
^ 『海舟日誌』、松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.61-63
^ 松浦玲『坂本龍馬』 (岩波新書、2008年) p.61
^ a b 安岡秀峰『反魂香』(明治32年)。『坂本龍馬大事典』p.348、『坂本龍馬伝』p.139
^ 『大西郷全集』。『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.348
^ 『氷川清話』p.51
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.69
^ 松浦玲『検証・龍馬伝説』など
^ 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.125
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)p.256
^ 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.126
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.82-84、87-93
^ a b 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)。
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.96-98
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.96-97
^ a b 1月21日とする説もある。松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.100
^ a b 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.237-243
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応2年12月4日付坂本権平・一同宛. - ウィキソース.
^ 川田瑞穂『千里駒後日譚』(明治32年)
Wikisource reference 千里駒後日譚. 楢崎龍関係文書/千里駒後日譚. - ウィキソース.
^ 『坂本龍馬伝』p.42
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.110-112
^ (慶応2年7月28日付書簡)宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.207-209
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応2年7月28日付三吉慎蔵宛. - ウィキソース.
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.353
^ 松浦玲『坂本龍馬』 (岩波新書、2008年) pp.119-120
^ 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)pp.110-111
^ 松浦玲『坂本龍馬』 (岩波新書、2008年) pp.120-121、126
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)pp.150-151、『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.128
^ 佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)pp.153-154
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.129-130
^ 川田瑞穂『千里駒後日譚』(明治32年)
Wikisource reference 千里駒後日譚. 楢崎龍関係文書/千里駒後日譚. - ウィキソース.
^ 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.129
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.176
^ 佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)p.197
^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.242-244
^ 『坂本龍馬伝』pp.106-109
^ 千里駒後日譚
^ 国立国会図書館、下関市立長府博物館蔵
^ a b c 坂本龍馬暗殺5日前の直筆手紙発見 高知の幕末維新博で公開へ 高知新聞、2017年1月14日閲覧。
^ a b 佐々木克『坂本龍馬とその時代』(河出書房新社、2009年)p.209
^ 『坂本龍馬と海援隊』(新・歴史群像シリーズ 20)(学研パブリッシング、2009年)p.96
^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.303-305
^ 松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.186-187など
^ 菊池明『龍馬暗殺 最後の謎』(新人物往来社、2009年)pp.78-121
^ 相川司『龍馬を殺したのは誰か』(河出書房新社、2009年)pp.199-202
^ 『吉田数馬先生』川田正澂「逸事数節」
^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.343-345
^ 『坂本龍馬伝』pp.116-117
^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』pp.346-348
^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』 (講談社学術文庫、2002年) p.9
^ TBS「歴史ミステリー 龍馬の黒幕」(2006年2月26日放送)
^ テレビ東京「新説!?日本ミステリー 第26回 坂本龍馬も薩長もフリーメイソンだった!? 」(2009年2月10日放送)
^ テレビ東京「ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説2010 春の2時間スペシャル! Mr.都市伝説 関が、坂本龍馬と秘密結社の関係に迫る!」(2010年3月15日放送)
^ 加治将一『あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』(祥伝社、2006年)、加治将一『石の扉―フリーメーソンで読み解く世界』(新潮社、2004年)
^ 加治将一『石の扉 フリーメーソンで読み解く歴史』(新潮社、2004年)
^ a b 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.56-57
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/文久元年9月13日付平井かほ宛. - ウィキソース.
^ 平井家文書『平井女史涙痕録』(東京西山家所蔵)、宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)p.57
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.61
^ 『幕末のこと』司馬遼太郎 1964 毎日新聞
^ 「竜馬の婚約者さなが結婚? 暗殺後、元鳥取藩士と」--共同通信、2010/07/03配信
^ (慶応元年9月9日付書簡) 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.133-146、
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛. - ウィキソース.
^ 宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)pp.257-264、
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応2年12月4日付坂本乙女宛. - ウィキソース.
^ 安岡秀峰『反魂香』(明治32年)。鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007年)pp.190-191
^ 阿井景子『龍馬と八人の女性』(戎光祥出版、2005年)pp.33-39
^ 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.97
^ 阿井景子『龍馬と八人の女性』(戎光祥出版、2005年)pp.109-118
^ 安岡秀峰『反魂香』 (明治32年)。鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』(新人物往来社、2007年)pp.200-201
^ 童門冬二『坂本龍馬の人生訓』pp.82-83
^ 『坂本龍馬 幕末歴史検定 公式テキストブック』(新人物往来社、2008年)pp.97-98
^ 菊地明、伊東成郎、山村竜也『坂本龍馬101の謎』(新人物往来社、2009年)pp.220-222
^ 小椋克己『龍馬が長い手紙を書く時』(戎光祥出版、2007年)pp.15-17
Wikisource reference 坂本龍馬の手紙. 坂本龍馬の手紙/慶応3年11月13日付?陸奥宗光宛. - ウィキソース.
Wikiquote坂本龍馬
^ 写真と当時着用していた紋付のサイズを元に研究者が計算したところでは180cm(「爆笑問題のもうひとつの龍馬伝」NHK総合テレビ、2009年12月30日放送)
^ “龍馬大男説に1つの異論…169cm62kg”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月27日) 2010年4月27日閲覧。
^ a b 童門冬二『坂本龍馬の人生訓』p197、php研究所
^ 坂本龍馬の家紋
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 記事のタイトルを入力してく... | トップ | 記事のタイトルを入力してく... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。