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2017-06-22 12:43:01 | 日記

「(龍馬の写真を見て)あれはよくできすぎちょる。ほんとは色が黒うてのう。背丈は大がらで五尺七寸くらい。あんな好男子じゃなかった」
「闊達磊落な男で、長州で言えば高杉晋作の型に似てる」
「(龍馬がお龍を連れて出歩くことに対し)これにはどうにも驚かされた。男女同行はこの頃はやるが、龍馬は維新前石火刀杖の間において平気でこういう狂態を演じていた。そういうところは高杉とそっくりである」
「あまり人には見せなかったが、裸になると背中は真黒だ。そのうえ黒毛がさんさんとして生えていたのは珍しい。『龍馬のいわれがわかったか』彼はそう言ったものだがなるほど、この背中を見ると龍馬の名にふさわしかった」
千葉佐那 「土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月に再び私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延長の許可を得たとかで、引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例の無いことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門した時からずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが、私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。(中略)私は心を定めて良い縁談をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」
土居楠五郎 「道場へ来て龍馬は心機一変、おねしょも泣き虫も一ぺんに飛んでしもうた。朝は真っ先に夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、面白うてたまらん、そんな気持ちでなんぼでもやる。『坂本、もうよかろう』と言うと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる。(中略)そこで体当たりをやると、体は大きいが若いのでぶっ倒れる。すると跳ね起きてまたかかってくる。襟首をつかんで前に引き倒すと腹ばいに延びる。それでもすぐ起きてまたかかってくる。この根性にはすっかり感心した。一度道場内の試合、龍馬が勝ち放し。二つも三つも年上のものを。この時は祖父も師匠達もびっくり。弟子達もびっくり。龍馬自身もびっくりということだった」
徳富一敬 「坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差し、色の真っ黒い大男で至ってゆったりと物を言う人であった」
今井信郎 「土佐は恐るるに足らぬが一人の坂本が恐ろしかりき」
岩井徳 「坂本さんは本当に男らしい方でした。好きだったかどうか、オホホホ、いつも詩を吟じながらお帰りになりました」
大石弥太郎 「龍馬は帯解けひろげのバタラゲたる男なり」
岡本常之助妻女 「いつも無言のままでぶらりと入ってきて、用談が終わると無言で帰って行く。一言の会釈もないし、時には憎らしく見えた」
東久世通禧 「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
勝海舟
「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
(土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見の時も、全くの日和見をしていた」
「土佐では(人物と言えば)坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人だった」
(龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
(同じく龍馬の西郷評について)「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」
勝逸子 「小曾根にいたころ坂本龍馬が『お嬢さん、お嬢さん』とよく抱いてくれました。龍馬は首をふる癖があり、胸毛が濃かった」
西郷隆盛
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」
有馬藤太「先生(西郷)は龍馬(りょうま)を龍馬(りうめ)と呼んでいた」
土方久元 「維新の豪傑としては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし。三士共に其の言行頗る意表に出で、時として大いに馬鹿らしき事を演じたれど、又実に非凡の思想を有し、之を断行し得たりし」
岡内重俊 「藩商高知より来る。人物最も狡猾なり。余之を龍馬に告げたるに、龍馬平然として『商人の狡猾なるは当然なり。狡猾ならずんば利を得る能わず』と答え、余をして辞に窮せしめたり」
三吉慎蔵 「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」
大江卓 「坂本は広野の猛獣であった」
関義臣
「坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕に富み、百方金策に従事し、資本を募集して汽船帆船を買い求め、航海術を実地に演習のかたわら、他の商人の荷物を運搬し、その資金によって、ほぼ同志の生活費を産出することが出来た。全く龍馬は才物である」
「龍馬の風采は躯幹五尺八寸に達し、デップリと肥って筋肉逞しく、顔色鉄の如く、額広く、始終衣服の裾をダラリと開けて胸を露して居た。(中略)何しろ顔に黒子が多く、眼光爛々として人を射、随分恐い顔つきじゃった。平生は極めて無口じゃが、真に卓励風発の概があった。その部下を御すること頗る厳正で(中略)その威厳はあたかも大諸侯の如き観があった。そうかと思うと隊士などを率いて玉川、花月などへ登楼し、平生の無口に似合わず、盛んに流行歌など唄う。(中略)龍馬は顔に似合わぬ、朗々、玉を転ばすような可愛い声で『障子開ければ、紅葉の座敷・・・』と、例のヨイショ節を能く唄った。よさこい節はその本場だけに却々、旨いもんじゃった。(中略)龍馬は小事に齷齪せず、一切辺幅を飾らず、人との交際は頗る温厚、厭味と云うもの一点もなく、婦人も馴れ、童子と親しむ。相手の話を黙って聞き『否』とも『応』とも何とも言わず、散々人に饒舌らして置いて、後に『さて拙者の説は』と諄々と説き出し、縷々数百千言、時々滑稽を交え、自ら呵々として大笑する。誠に天真の愛嬌であった。国を出づる時に父母より訓戒の辞を書して与えられたのを丁寧に紙に包み、上に『守』の一字を書き加え、袋に入れて常に懐中にしたなどは豪宕にして、而も赤子の如く愛すべき所があった」
吉田数馬「少年の時分二三の友人と共に坂本先生に伴われて種崎へ桃見に行った。其の休憩した掛け茶屋の女は嘗て、坂本先生の家に奉公したものであったが、坂本先生が黒い盲縞の羽織袴を著けて居るのを見て、『坂本の旦那、弥智がないじゃありませんか(土佐の方言にてとんでもないことをするとの意)。そんな着物を着て』と言いしが、坂本先生は只にやりにやりと笑いながら、何も答もしなかった。帰途についた時、坂本先生は『今日は下駄が三分で刀が二朱じゃ。滔々たる天下只奢移淫靡を是事としている。世の先覚者は率先して三百年の惰眠を打破せねばならぬ。それで俺は女の注目を惹く様な縞柄の着物は著ぬ』と云った」[87]
殿井力(寺田屋お登勢長女)
「べつだん人目をはばかるふうもなく現れた坂本さんを見て、険しい顔のお武家が多い昨今『ずいぶんのんきそうなお方だなあ』とみんなして拍子抜けいたしました。それに美男というわけでもないのに、お洒落っぽいところがなんとなくおかしゅうございました。(中略)坂本さんときたら絹のお着物に黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平。時には大胆に玉虫色の袴などをお履きになって、一見おそろしくニヤけた風でございましたが、胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくのお洒落が台無し。後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか。武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふり何度も不思議がっていらっしゃいました。まず娘の私たちが坂本さんになついてしまいました。(中略)坂本さんは昼と夜ととりちがえたようなお暮らしぶりで、昼間はぐっすり寝込んで夜になりますとどこかへ出かけて行かれる、そんな日がしばらく続いたかと思うと、突然何ヶ月もお留守。毎日毎日、判で押したように規則正しく暮らしております私たちには、まったくわけのわからぬ風来坊のようなお方でした。でも、いつしか私たちは坂本さんのお帰りを心待ちにするようになっておりました。そしてその気持ちは母も同じようでございました。母は坂本さんに対して、ずっと年上の姉か母親の様な態度で接しておりました。でも、坂本さんが御逗留のとき、いつもと変わらず忙しく立ち動きながらも、母の気持ちはいつも二階にあったようです」
「『瑞夢』という新体詩が発表されました。そこであの坂本さんが『死んで護国の鬼となる』と歌われていらっしゃいます。生前のずぼらでのんき坊主の坂本さんを知る者には『護国の鬼』となられた坂本さんを想像しにくうはございますが、もしかしたら坂本さんは実はあのころから私ども女子供にはわからないくらいお偉い方だったのかもしれないと、弟妹たちと語り合ったものでございます」
「坂本さんは色が黒く眼が光っていてずいぶん恐いお顔でしたが、笑うととてもあいきょうがおありでした。母の目をぬすんでは、妹たちをひきつれて私は坂本さんのお部屋におしかけましたものですが、坂本さんは『よく来た、いいものを見せてやろう』と行季からオモチャのような鉄砲をとりだして『これは西洋のピストルというんだ。捕手が来たらこれでおどかしてやるきに』とニコニコ笑われました。ある雨降りの夜など、私たちをずらりと前に並べて、みぶりてぶりよろしく怪談をはじめられるのです。(中略)ただでさえ恐い顔をいっそう恐くして両手を前にたれ『お化け』と中腰になる、実に凄い。私たちはなかば本気で『キャッキャッ』と叫びます。そうするときまって母が階段をかけ上がってきて、『騒いではいけまへん、なんべんも言うておりますやろ。坂本はんも気いつけておくれやす』と説教を始めますが、『なあに構うものか、知れたら知れたときのことさ』と取りあわない坂本さんを母がもうムキになって注意するそれは楽しい光景でございました。父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございました。この先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心に願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません」
尾崎三良 「あの人は経済の方に眼を着けておった人」
香川敬三 「剣客、航海学の志あり」
高松太郎
「直柔、容貌温厚、言語低静にして志気卓犖英気なり。武技を喜くし、好んで史書を読む」
「資性豪宕、不羈小節に拘わらず。嘗て読書を好み、和漢の史子を渉漁す」
「我輩はハシゴをしても及ばず」
日原素平 「坂本先生は真に気柔かに、夫人のみならず何人にも親切であった」
広瀬丹吉 「坂本先生はまことに天衣無縫で無頓着の人でありました。ボーと大きなことを言うかと思うと小さいことにも存外気が届いておった」
安田たまき 「龍馬さんは六尺豊かな大男で優男のように世情では伝えられていますが、背丈は中位で色も黒く、決してトント(美少年)の方ではありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激しい撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないやら判らぬ位でし、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました。当時の若者の気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。龍馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初めて見たが龍馬の左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そうに龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言って、その後母は非常にその事を心配していました果して龍馬さんは人手に倒れました。(中略)銅像の写真を見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです」
山川須磨 「龍馬って、嫌な男でしたよ」
結城礼一郎 「志士と言うより寧ろ策士と言った方の質で、慶喜に大政返上を決意させたのも表面は後藤象二郎と言う事になっているが、その裏には坂本が居た」
由利公正「(龍馬の歌声は)其の声調が頗る妙であった」
佐々木高行
「元来、坂本と言う男は時と場合とにより臨機応変、言わばデタラメに放言する人物なりき。例えば温和過ぎたる人に会する時には非常に激烈なる事を言い、これに反して粗暴なる壮士的人物には極めて穏和なる事を説くを常とせり。斯様の筆法なる故に、坂本には矛盾などという語は決してあてはまらぬなり。昨日と今日と吐きし言葉が全く相違するといっても少しも意とせず、所謂人によりて法を説くの義なりと知るべし」
「坂本は時として随分過激な語を吐きしが、性来は頗るやさしき男なりき。老人、幼者、婦女等に対しては殊に穏かにせり。長崎に在りし際、時々部下の壮士を率いて酒楼に上りし事がありしが、女共は何時も『坂本サン、坂本サン』と言いて非常に慕いたり。尤もこれは単に個人として坂本の親切に感ずるばかりでなく、坂本が居る時は壮士等は敢えて乱暴の振舞いをなさぬ故に、坂本の来るは彼等の歓迎すべきはずなりき。坂本また言いし事あり。『我々は今国事に奔走して幕府の指目する所となり居れば、何日何時縛につくやも測られず。もし萬一我々が、芸妓風情と相携えて撮影することありて、之により其踪跡を物色せらるるあらば、志士の面目として大いに恥づべき業なれば、我々じゃ断じて此の如き卑猥の行為あるべからず』と。彼は疎大豪放なるが如くして、其實思慮の周密なること斯の如し」
「坂本は目的を定めなば必ず之を達する手段を講究したり。余はある夜、坂本と種々の談話を交換したりしが、此時坂本言う『我国に耶蘇教を輸入し、以て幕府を苦しめ倒さん』と。余言う『もし幕府を倒し得るとするも、該教の蔓延は我国體上の大変なり』と。双方論ずる事久し、結局両人共に耶蘇教の何にものたるを知らず。俗に言う盲人の叩き合いにて何の厄にも立たず。深更に至り此等の研究は他日に譲るとなし、果ては大笑いを催しつつ寝につきたり。坂本が目的に対して其手段を講究すること此類なり」
「才谷は一見婦人の様な風采であるが、度量はなかなか大きい」
「才谷はなかなかの計画家」
「才谷は実に時勢によく通じて居る」
「才谷は度量も大きいが、其の遣り口はすべて人の意表出て、そして先方の機鋒を挫いて了とうにする。実に策略は甘い(心地よい)ものであった」
信田歌之助 「勝の手紙には坂本は剣術は中々つかえる、組打も上手だと書いてありましたが、さて道場に通して見ると坂本は大きな男でした。私は五尺二寸、彼の男は五尺九寸で胴も太い。立ち上がると私の口が龍馬の乳房の辺に当たるのです。双方とも若い血気の盛です。しっかりやりましょうと取組んで見ると組打は中々上手だ。(中略)実に偉い元気の男でありました」
楢崎龍
「(龍馬伝の挿絵を見て)この顔は大分似て居ます。頬も、も少し痩せて目は少し角が立って居ました。眉の上には大きな痣があって、その外にも黒子がポツポツあるので写真は綺麗に撮れんのですよ。背にも黒毛が一杯生えて居まして、何時も石鹸で洗うのでした。長州の伊藤助太夫の家内が坂本さんは、ふだんきたない風をして居った顔付も恐ろしい様なんだったが、此間は顔も綺麗に肥え大変立派になって入らっしゃった。きっと死花が咲いたのでしょう、間もなく没くなられたと云いました。これはのちの話です」
「龍馬は、それはそれは妙な男でした。丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白にあやまりさえすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く斯くせねばならぬぞと、丁寧に教えて呉れました。衣服なども余り綺麗にすると気嫌が悪いので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物をきて出て、戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから、誰れのと問うたら、己れの単衣を誰か取って行ったから、おれは西郷から此の衣物を貰って来たと云いました」
「龍馬の酒量は量り兼ねる」
「龍馬は詩を作らなかったのです」
「坂本はハキハキしたことが好きで、私がどんなことをしたって決して叱るようなことはなかったのです」
「龍馬・中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄まじく、後藤を捕えて『おい後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れて置いたら、こむな事にならないのだ。全体土佐の奴等は薄情でいかん』と怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし『いや、苦情を云った訳ではない。実はそこにその色々』、『何が色々だ。面白くも無い、如何だ。貴様も片腕を無くして落胆したろう。土佐、薩摩を尋ねてもほかに、あの位の人物は無いわ。ええ惜しい事をした』と流石の西郷も悔し泣きに泣いたそうです」
三宅謙四郎妻女 「坂本さんはサイサイ使いなどに行きてよく見覚えたり。姿勢あしく肩を斜に傾けタホウで行く様に見えたり」
下山尚 「氏、状貌雄偉、眉間に黒子ある。風采閑雅、音調晴朗、一見凡夫に非るを知る」
大久保一翁
「この度、坂本龍馬に内々逢い候ところ、同人は真の大丈夫と存じ」
「龍馬は土佐随一の英雄、いはば大西郷の抜け目なき男なり」
「(土佐に非凡の人なきやの問いに)アル、アル、大アリである。坂本龍馬という男がある」
永井尚志 「後藤(象二郎)よりも一層高大にして、説く所も面白し」
伊藤博文 「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」
横井小楠 「坂本君、君は考え一つ違えば乱臣賊子になる恐れがある。ご注意あれ」
中江兆民「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるがゆえに、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐なまりの言語もて、『中江のニイさん、煙草を買ってきてオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使いせしことしばしばなりき。彼の眼は細くして、その額は梅毒のため抜けあがりおりたり」
(近江屋養女)すみ「慶応三年十一月十五日でした。もう三日もあれば、殿様が大坂から京都へお着きになる。殿様がお着きになれば、拝謁が叶うて再び帰参ができ、土佐の藩邸にお引き取られになるわけで、長々厄介になった。マア喜んでくれ、わしも屋敷へ帰れるがと、私どもにもお話がございましたが、ちょうどその日に殺されたので、いかにもお気の毒でたまりません。品行はいたって正しい方で、中岡慎太郎さんなぞが来られて、おい才谷、今夜は祇園へ飲みに行こうじゃないかと誘いましても、イヤ少し調べ物があるからよそうと、二階へ閉じこもってばかりいました」
陸奥宗光
「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」
死後[編集]

本山白雲作の坂本龍馬像(高知桂浜・地図)
箱館戦争が終わった直後の明治2年(1869年)6月から9月に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。明治3年(1870年)8月に政府は龍馬と中岡慎太郎の家名存続を沙汰し、龍馬の長姉・千鶴の長男・小野淳輔(高松太郎)が坂本直と改名して龍馬の家名を継ぐことになり、永世15人口(30石)が下された。なお、他の維新の元勲の行賞は西郷隆盛は2,000石、木戸孝允は1,800石、後藤象二郎は1,000石であった[88]。
坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、明治16年(1883年)に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになった[89]。 明治24年(1891年)には正四位が追贈された。
次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。開戦直前の明治37年(1901年)2月6日、皇后・美子の夢枕に龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。事の真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となった[90]。 日本海海戦で大勝したことで、皇后の御意思により京都霊山護国神社に『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が建立された。
庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画が多数製作されている。
昭和2年(1927年)、旧自由党員の今幡西衛らは「坂本中岡両先生銅像建設会」を組織し、その銅像建設資金に充てようと自ら『雋傑坂本先生傳』を執筆した。これが昭和9年(1934年)1月、京都円山公園に建立された龍馬と中岡慎太郎の銅像である。
昭和3年(1928年)には高知の青年たちが募った寄付により、本山白雲の製作による龍馬の銅像が桂浜に建立された。第二次大戦中の金属供出の際もこの銅像だけは「海軍の祖」であるとして供出を免れている。
さらに、昭和37年(1962年)に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表され、司馬の代表作の一つとなるとともに、戦後期における龍馬像の典型が形づくられた[91]。
異説[編集]
2000年代に入ると坂本龍馬とグラバーとの関係を強調して、論者がグラバーがメンバーであったと主張するフリーメイソンと龍馬とを結びつける陰謀論が現れ、テレビ番組でも取り上げられている[92][93][94]。 主な論者は作家の加治将一[95]。
異説の内容は以下のようなものである。
龍馬は脱藩後に継続的に接触したグラバーの影響を強く受けており、薩長同盟、亀山社中創設、船中八策は龍馬の完全な独創ではないという指摘がある。グラバー商会は、アヘン戦争を推進したイギリスのジャーディン・マセソン商会の直系であり、グラバーの肩書きは、「マセソン商会長崎代理人」であった。龍馬が幅広く権力者と交流できた理由は、彼個人の資質よりも、彼が当時の東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」だったからだというのが真実に近い、という主張がある[96]。
人物[編集]

千葉さな子の墓(甲府市・清運寺)

坂本龍馬・お龍『結婚式場』跡 石碑(京都市東山区・青蓮院塔頭金蔵寺跡・地図)
女性関係[編集]
龍馬の女性関係は華やかである。恋人とされる女性には史実で明らかになっているだけでも平井加尾、千葉さな子、そして妻の楢崎龍などがいる。
平井加尾
龍馬の初恋の人とされる。土佐勤王党幹部・平井収二郎の妹で、安政6年(1859年)頃から公卿・三条公睦に嫁いだ山内容堂の妹・恒姫の侍女になっていた。龍馬が京都の加尾宛てに脱藩用意の品(または男装用意の品[97])の調達を依頼する文久元年(1861年)9月13日付の書簡が残っている[97]。加尾はこれらの品を用意したが、結局この時は龍馬は脱藩を決行せず、翌文久2年(1862年)3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。龍馬の脱藩後、兄・収二郎から「龍馬からの相談には迂闊に乗るな」と咎められている[98]。
文久3年(1863年)6月に平井収二郎が切腹させられると龍馬は6月29日付の姉・乙女宛ての手紙で「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」[注 16]と加尾を案じている。加尾は後に土佐藩士・西山志澄に嫁ぎ、明治42年(1909年)に72歳で死去した。
千葉さな子
江戸遊学中に師事した千葉定吉の娘で龍馬と恋仲になり、千葉さな子本人が婚約した事実を語っている[99]。龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(さなは)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりもよい」と評している[注 36]。定吉が結婚のために坂本家の紋付を仕立は疎遠になってしまった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見としてさなは生涯独身を通し、明治29年(1896年)に59歳で死去した[100]。甲府市清運寺にある墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれている。一方、明治7年 (1874年)に元鳥取藩士山口菊次郎と一時結婚していたとの説もある[101]。
楢崎龍
京都の医師の長女で、父が死に一家は困窮していた。龍馬はお龍を元治元年(1864年)頃に見初め、同年8月頃に祝言を挙げた[47]。龍馬はお龍の境遇と妹二人を人買いから取り返した武勇談を家族宛ての手紙に詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している[102]。各地を奔走していた龍馬は、お龍を懇意にしていた伏見寺田屋のお登勢に預けた。
慶応2年(1866年)1月23日の寺田屋遭難の際に、お龍の機転により危機を逃れた話は有名で、龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と述べている[注 37]。寺田屋遭難後の同年3月から6月、龍馬はお龍を伴って薩摩へ下り、療養のために各地の温泉を巡った。龍馬は日本最初の新婚旅行といわれる[注 27]、この旅行の様子を詳細に姉・乙女に報告している[103]。
その後、お龍は海援隊の拠点がある長崎、下関で過ごし、慶応3年(1867年)12月に龍馬の訃報に接した[104]。お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入ったが、義兄夫婦と反りが合わずに3ヵ月ほどで土佐を出ている。京都、東京、神奈川と縁者を頼って居を移し、明治8年(1875年)、35歳のときに大道商人・西村松兵衛と再婚した。明治の中頃以降に龍馬が世間の注目を集めるようになると取材に応じて龍馬についての回顧談を残した。明治39年(1906年)に66歳で死去。墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本ママ龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。
その他に、高知の漢方医の娘・お徳[105]や公家の腰元・お蝶[106]、長崎の芸妓・お元[107]、京都の旅宿の娘・お国[108]などの名が伝わるが詳細真偽は不明である。多くの女性は、坂本龍馬と出会って、命がけで助けようとしたとされる。フィクションの世界では、断片情報から龍馬が女性に好かれたとの記録が残っている事から、さらに多くの女性を登場させている。これは、藩の要職にあった他の歴史的志士と違い、一介の素浪人に過ぎない龍馬の記録が極めて限定的な事から、記録があまり残っていないため推測の余地が大きく「おそらくこうであったろう」との作家らの推測で記述されている。その多くは、美男子との記述が特に残されていない龍馬が女性に好かれたのは、人間的魅力に溢れていた事を示唆し、その女性関係も龍馬人気の一助となっている。
手紙と変名[編集]

龍馬の署名

龍馬の手紙(京都国立博物館蔵)
慶応2年(1866年)12月4日付乙女宛 重要文化財
現存または筆写された龍馬の手紙は、一部で疑問視されるものも含めて、130余通が確認されている。もっとも多いのは姉乙女宛のもので13通、次に伊藤助太夫と佐々木高行宛の各12通、これに三吉慎蔵宛が10通、桂小五郎宛が9通と続いている。ほかに乙女宛と推定されるものが2通、乙女・おやべ[注 38]連名のものも2通、兄の坂本権平・乙女・おやべ連名のものが1通、乙女と姪の坂本春猪連名のものも1通あり、乙女を対象としたものが圧倒的に多い。妻・お龍宛の手紙は1通のみ残されている。
姉乙女に宛てた手紙には文久3年5月の手紙のように「勝海舟の門弟になったこと」を「エヘンエヘン」とユーモラスに自慢しているものがあり、龍馬の暖かい人間性をほうふつとさせている。その後も乙女には詳しく自分の行動を報告する習慣があったようだ[109]。
龍馬の変名といえば、慶応2年(1866年)11月16日付で溝渕広之丞に宛てた手紙に、初めて記された「才谷梅太郎(さいたに うめたろう)」が有名であるが、慶応元年9月9日付で乙女とおやべに宛てた手紙には「西郷伊三郎」と名乗っていることが記されている。他に「高坂龍次郎」「大浜涛次郎(とうじろう)」「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」等がある。なお、これは変名ではないが、慶応3年(1867年)11月13日付と推定される陸奥宗光に宛てた手紙では、「自然堂(じねんどう)」の号を署名している[110]。
愛用の品[編集]

S&W モデル1
当時、土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会した時、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや檜垣はついていけなかったという。龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはなく、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である[111]。
龍馬が愛用した拳銃は2丁あると言われている。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径6連発で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であると言われている。後日、兄坂本権平宛ての手紙の中で「右銃ハ元より六丸込ミな礼(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば」と6連発銃であることを示唆している。しかし同事件の際に紛失し、後に買い求めたのがS&Wモデル1/2 32口径5連発で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し、姉乙女宛てに「長サ六寸計(ばかり)五発込懐剣より八ちいさけれども、人おうつに五十間位へだたりて八打殺すことでき申候」と書き送っている。薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺された時も携帯していたが、発砲することなく殺害されている。

銘「陸奥守吉行」
龍馬最期の刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行」である。龍馬の手紙には、随所に刀の話が出てくる。彼が兄権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、山内容堂に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「吉行」の刀をことづけ、3月中旬頃長崎の龍馬のもとに届いた。京都に行く時は、いつもこれを差して、兄の贈り物だと自慢していた[112]。
龍馬が姉乙女などに宛てる手紙などの紙入れとして使った三徳。江戸時代に紙入れとして流行したもの。遊里に出入りし、都々逸を謡ったという粋なセンスを感じる品。牡丹と菊の模様が綴織され、金具には二羽の蝶がデザインされている。縦十四・五センチ、横二一・五センチ。
身体的特徴[編集]
一説では身長6尺(約182cm)[113]とされ、江戸時代の当時としてはかなりの大男であったといえる。なお、他の研究では174cmや169cm・62kg[114]という説もある。
親戚である武市半平太も大男で、武市とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
その他のエピソード[編集]
龍馬のエピソードには、素朴な人間愛を感じるものが多い[115]。
龍馬の従弟山本数馬が切腹を申しつけられた時、「こんなことで死ぬな。馬鹿馬鹿しい」と逃がしたという。数馬はのちにニコライの弟子となり、大司教として一生を終えた[115]。
家系・家族[編集]

組み合わせ桝に桔梗[116]
龍馬自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。 坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。 天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の三番目の百姓として登録されているにすぎず、三代目太郎左衛門までは公認の名字を持たない百姓身分と考えられる。二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。四代目守之、五代目正禎の頃に豪農としての頭角を現し才谷村の字の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。
寛文6年(1666年)、三代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にて質屋を開業し(屋号は才谷屋)、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。享保15年(1730年)ごろ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、六代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男・直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家三代目直足は白札郷士山本信固(覚右衛門)の次男としてうまれ坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はお龍(楢崎龍)、また、千葉さな子は婚約者だったと言われる。龍馬には子がいなかったため、甥(姉・千鶴の長男)の直が家督を継いだ。
郷士坂本家は五代目当主の直寛(姉・千鶴の次男で龍馬の甥)の時の明治30年(1897年)に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。直寛は、武市半平太の後に武市家を継承した武市安哉らとともに、キリスト教精神に基づく自由民権運動を行っており、この考えによる理想のまちづくりを夢見て、新天地である北海道に移住した。北海道開拓は生前の龍馬の夢でもあった。
自由民権運動家の板垣退助は、同じ土佐藩出身であり、坂本家は山本信固(覚右衛門)家と宮地茂春家を通じて親戚関係の間柄である[117]。直寛は、その縁で板垣とは親しく、自由民権の遊説活動を行っていた。
小説では、坂本家は明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔[注 39] とし、坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現在の滋賀県大津市坂本)に由来するとの話もあるが、坂本の地名は全国に多数ある。このようなことからも、後世の創作だろうとする声も強い[118]。
坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗」。
2010年1月15日横須賀市の信楽寺にて、龍馬死後143年ぶりにお龍との合同慰霊祭が催された。
略系図[編集]
坂本家の紋


八郎兵衛 直益












郷士坂本家
(1) 八平 直海 才谷屋坂本家
八次 直清




(2) 八蔵 直澄









(3) 八平 直足
(山本信固の次男)


伊予
(後妻、北代平助の長女)
















































千野
(川原塚茂太郎の姉)


(4) 権平 直方 千鶴
(高松順蔵の妻) 栄
(柴田作左衛門の妻) 乙女
(岡上樹庵の妻) (I) 龍馬 直柔


お龍
(楢崎将作の娘)



















春猪
(婿は鎌田清次郎) (II) 太郎 直
(龍馬の没後養子に)










(III) 直衛


鶴井







(5) 南海男 直寛
(権平の養子に)




(後妻、旧姓中沢)
















(7) 弥太郎
(浜武弥平の次男)



直井 (6) (IV) 直道
(直衛の没後養子に)




(8) 直行
実線は親子関係、破線は夫婦関係。
括弧内のアラビア数字は郷士坂本家当主の代数、ローマ数字は分家した坂本龍馬家当主の代数。
名前を冠した施設[編集]

高知県立坂本龍馬記念館

龍馬の生まれたまち記念館

高知龍馬空港

龍馬のぶーつ像
龍馬の銅像がある高知県高知市桂浜近くには平成3年(1991年)11月に開館された高知県立坂本龍馬記念館がある。
龍馬の出生地である高知市上町には平成16年(2004年)に開館された高知市立龍馬の生まれたまち記念館があり、周辺の史跡をめぐるルートとして「龍馬を育てた道」と名づけられた道がある。全国で唯一、実在する人物の名前のついた郵便局である龍馬郵便局(既存局を改称)もある。
龍馬の同僚であった海援隊隊士の新宮馬之助の出身地である香南市野市町には蝋人形館の龍馬歴史館がある。
亀山社中が結成された長崎県長崎市には平成元年(1989年)に建立された坂本龍馬之像と同7年(1995年)に建立された龍馬のぶーつ像がある。
坂本家の子孫にゆかりがある北海道函館市には平成21年(2009年)11月より開設された北海道坂本龍馬記念館がある。
平成17年(2003年)8月、高知県内経済団体などから成る「高知・龍馬空港を実現する会」の請願活動により、橋本大二郎高知県知事が高知空港の愛称を「高知龍馬空港」とすることを表明。同年11月15日に愛称が公式化された[119][120]。
その他[編集]
平成22年(2010年)のNHK大河ドラマ『龍馬伝』の番組と並行して2010年NHK大河ドラマ特別展「龍馬伝」と称して、江戸東京博物館、京都文化博物館、高知県立歴史民俗資料館、長崎歴史文化博物館と四箇所で坂本龍馬に関する展示会が行われた。坂本龍馬の手紙や遺品など170点を一堂に集めた過去最大の龍馬展となり、入場者数は東京14万1千人、京都6万7千人、高知3万2千人、長崎4万6千人を記録した。
平成22年(2010年)、郵便局会社近畿支社が作製した龍馬とおりょうの写真を用いたオリジナルフレーム切手が販売されたが、原写真の持ち主である井桜直美から無断使用のクレームが、神戸にある制作元の印刷会社に寄せられ、発行元の郵便局は発売を中止にした。しかし、この判断については、龍馬の写真自体はパブリック・ドメインになっているため、誤った判断ではないかとの指摘がなされている[121]。
京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った『梅椿図』という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。
平成12年(2000年)、京都国立博物館所蔵の坂本龍馬関係の資料が国の重要文化財に指定された。幕末の人物資料が重文に指定されるのは、初めてだった。龍馬が乙女あてに、西郷との交流や妻・お龍との新婚生活ぶりを詳細に記した書状や、海援隊に関する基礎資料などの記録類、『梅椿図』、衣類なども指定された[122]。
平成24年(2012年)に高知県が展開した観光キャンペーン『リョーマの休日』のポスターは、当時同県の観光大使をしていた大橋巨泉が発案し、坂本龍馬に扮した同県の尾崎正直知事がスクーターに跨るという構図だったが、この構図が、彫刻家・岩崎祐司の彫刻作品(タイトルは同じ『リョーマの休日』)と酷似しているとの指摘が、同県に対して岩崎サイドをはじめ複数から出された。県は「大橋さんのアイデアであり、著作権の問題は生じておらず、問題ない」と主張している一方、岩崎サイドは「一言断りを入れるべきでは」とコメントしている[123]。
龍馬が与えられた免状「北辰一刀流長刀兵法目録」は長年行方不明になっていたが、平成27年(2015年)11月、高知県香南市の龍馬歴史館に保管されていたことが判明した。また、龍馬が取得したのは剣術ではなく薙刀術であると疑問視されていたが、この問題も終止符を打つことになる。北海道の坂本家が高知県立坂本龍馬記念館に寄託した資料に剣術皆伝書の存在を示す文書が残っていた。北海道で行われた坂本龍馬遺品展に関する遺品預かり書の写しで、明治43年(1910年)8月30日付。秘伝巻物として「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」と記されていた。
龍馬の絆都市間交流[編集]
2014年11月15日 龍馬の絆で結ぶ都市間交流宣言締結[124]
Flag of Kochi Prefecture.svg高知市(高知県)
Flag of Kyoto Prefecture.svg京都市(京都府)
Flag of Tokyo Prefecture.svg品川区(東京都)
Flag of Hiroshima Prefecture.svg福山市(広島県)
Flag of Yamaguchi Prefecture.svg下関市(山口県)
Flag of Nagasaki Prefecture.svg長崎市(長崎県)
Flag of Kagoshima Prefecture.svg鹿児島市(鹿児島県)
Flag of Kagoshima Prefecture.svg霧島市(鹿児島県)
作品[編集]
伝記[編集]
『雋傑坂本先生傳』(今幡西衛著)[125]
小説[編集]
坂本龍馬を主人公とした小説
『汗血千里駒』(坂崎紫瀾著)
『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)
『坂本龍馬』(山岡荘八著)
『竜馬』(津本陽著)
『坂本竜馬』(豊田穣著)
その他の小説
『さなとりょう』(谷治宇著)
漫画[編集]
坂本龍馬を主人公とした漫画
『雲竜奔馬』(みなもと太郎)
『お〜い!竜馬』(作:武田鉄矢、画:小山ゆう)
『坂本龍馬』(黒鉄ヒロシ)
『坂本龍馬』(作:山岡荘八、画:横山まさみち)
『龍馬へ』(むつ利之)
『人斬り龍馬』(石川雅之)
『天翔の龍馬』(作:梅村真也、画:橋本エイジ)
『龍馬滾ル!』(原作:北大路龍星、漫画:かたやままこと)[126]
その他の漫画
『風雲児たち』(みなもと太郎)
『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』(画:川原正敏)
『JIN-仁-』(村上もとか)
『サムライガン』(熊谷カズヒロ)[127]
『AZUMI』(小山ゆう)
映画[編集]
坂本龍馬を主人公とした映画
『坂本竜馬』(1911年、龍馬役:尾上松之助)
『坂本竜馬』(1911年、龍馬役:藤沢浅二郎)
『坂本竜馬』(1914年、龍馬役:尾上松之助)
『坂本竜馬』(1921年、龍馬役:嵐璃徳)
『坂本竜馬』(1924年、龍馬役:市川幡谷)
『憂国の少年』(1926年、龍馬役:中村仙之助)
『竜馬暗殺 前後篇』(1927年、龍馬役:明石緑郎)
『阪本竜馬』(1927年、龍馬役:高木新平)
『阪本竜馬』(1928年、龍馬役:葉山純之輔)
『坂本龍馬』(1928年、龍馬役:阪東妻三郎)
『海援隊長 阪本竜馬』(1931年、龍馬役:市川百々之助)
『海援隊長 阪本竜馬 京洛篇』(1931年、龍馬役:市川百々之助)
『阪本龍馬』 (1932年、龍馬役:葉山純之輔)
『海援隊快挙』(1933年、龍馬役:月形龍之介)
『坂本竜馬』(1936年、龍馬役:市川右太衛門)
『海援隊』(1939年、龍馬役:月形龍之介)
『幕末』(1970年、竜馬役:中村錦之助(萬屋錦之介))
『竜馬暗殺』(1974年、竜馬役:原田芳雄)
『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、竜馬役:武田鉄矢)
『ゴルフ夜明け前』(1987年、竜馬役:渡瀬恒彦)
その他の映画
『螢火』(1958年、竜馬役:森美樹)
『てなもんや大騒動』(1967年、竜馬役:財津一郎[注 40])
『人斬り』(1969年、監督:五社英雄、竜馬役:石原裕次郎)
『商魂一代 天下の暴れん坊』(1970年、龍馬役:北大路欣也)
『竜馬を斬った男』(1987年、竜馬役:根津甚八)
『幕末純情伝』(1991年、竜馬役:渡辺謙)
『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002年、竜馬役:トータス松本)
『ボディ・ジャック』(2008年、監督:倉谷宣緒、竜馬役:笠兼三)
『新選組オブ・ザ・デッド』(2015年、龍馬役:渡辺一志)
TVドラマ[編集]
坂本龍馬を主人公としたTVドラマ[編集]
『ドラマ青年 第一部 維新編 渦潮<坂本竜馬伝>』(1961年、NHK、竜馬役:戸浦六宏)
『竜馬がゆく』(1965年、MBS、竜馬役:中野誠也)
『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、竜馬役:北大路欣也)
『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、竜馬役:萬屋錦之介)
『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』(1982年、日本テレビ、竜馬役:武田鉄矢)
『坂本龍馬』(1989年、TBSテレビ、龍馬役:真田広之)
『竜馬におまかせ!』(1996年、日本テレビ、竜馬役:浜田雅功)
『竜馬がゆく』(1997年、TBSテレビ、竜馬役:上川隆也)
『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京、竜馬役:市川染五郎)
『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、龍馬役:福山雅治)
『新解釈・日本史』第2話(2014年、MBS、龍馬役:ムロツヨシ)
その他のTVドラマ[編集]
『三姉妹』(1967年、NHK大河ドラマ、竜馬役:中村敦夫)
『天皇の世紀』(1971年、朝日放送、竜馬役:山口崇)
『勝海舟』(1974年、NHK大河ドラマ、竜馬役:藤岡弘)
『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、竜馬役:夏八木勲)
『俺達の明日』(1980年、日本テレビ、竜馬役:中村雅俊)
『幕末青春グラフィティ 福澤諭吉』(1985年、TBSテレビ、竜馬役:武田鉄矢)
『影の軍団IV』(1985年、関西テレビ、竜馬役:世良公則)
『白虎隊』(1986年、日本テレビ、竜馬役:中村雅俊)
『田原坂』(1987年、日本テレビ、竜馬役:竹脇無我)
『奇兵隊』(1989年、日本テレビ、竜馬役:武田鉄矢)
『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、竜馬役:佐藤浩市)
『勝海舟』(1990年、日本テレビ、竜馬役:梨本謙次郎)
『幕末高校生』(1994年、フジテレビ、竜馬役:仲村トオル)
『壬生義士伝〜新選組でいちばん強かった男〜』(2002年、テレビ東京新春ワイド時代劇、龍馬役:筧利夫)
『新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ、龍馬役:江口洋介)
『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、龍馬役:玉木宏)
『日曜劇場 JIN-仁-』(2009年・2011年、TBSテレビ、龍馬役:内野聖陽)
『陽だまりの樹』(2012年、NHK BS時代劇、龍馬役:賀集利樹)
『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、龍馬役:伊原剛志)
『サムライせんせい』(2015年、テレビ朝日、龍馬役:神木隆之介)
『仮面ライダーゴースト』(2016年、テレビ朝日、龍馬役:関智一)
『最後のレストラン』第8話 (2016年、NHK BSプレミアム、龍馬役:池内万作)
坂本龍馬が、主人公となっているゲーム[編集]
『維新の嵐』
『維新の嵐 幕末志士伝』
『維新の嵐 疾風龍馬伝』
『龍が如く 維新!』
TV番組[編集]
『天皇の世紀・第二部』(1973年、朝日放送、龍馬役:沖雅也…#1,原口剛…#9〜#11・#15,中尾彬…#16・#18)
『笑う犬の発見』「ひとり徳川三代」(2002年、フジテレビ、龍馬役:大嵐浩太郎)
『時代劇法廷 CASE 10 被告人は坂本龍馬』(2015年、時代劇専
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