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2017-06-22 12:42:18 | 日記
坂本龍馬
坂本 龍馬
Sakamoto Ryoma.jpg
坂本龍馬
通称: 直陰、直柔、龍馬、才谷梅太郎
生年: 1836年1月3日
生地: 日本の旗 土佐藩 高知
没年: 1867年12月10日(満31歳没)
没地: 日本の旗 京都
活動: 尊皇攘夷、倒幕運動
藩: 土佐藩(高知県)
所属: 海援隊
受賞: 贈正四位
廟: 京都霊山護国神社(霊山墓地)
靖国神社
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坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注 1]。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 幼少年期
1.2 江戸遊学
1.3 土佐勤王党
1.4 脱藩
1.5 勝海舟と神戸海軍操練所
1.6 亀山社中 (後の海援隊)
1.7 薩長同盟
1.8 海援隊
1.9 船中八策と大政奉還
1.10 暗殺(殺害)
2 年譜
3 評価
3.1 同時代
3.2 死後
3.3 異説
4 人物
4.1 女性関係
4.2 手紙と変名
4.3 愛用の品
4.4 身体的特徴
4.5 その他のエピソード
5 家系・家族
5.1 略系図
6 名前を冠した施設
7 その他
7.1 龍馬の絆都市間交流
8 作品
8.1 伝記
8.2 小説
8.3 漫画
8.4 映画
8.5 TVドラマ
8.5.1 坂本龍馬を主人公としたTVドラマ
8.5.2 その他のTVドラマ
8.5.3 坂本龍馬が、主人公となっているゲーム
8.6 TV番組
8.7 舞台
8.8 PV出演
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 関連文献
10.1 原典
10.2 書籍
10.3 論文
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
生涯[編集]
幼少年期[編集]

高知市の生誕地・地図
龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)[注 2]、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した[1]。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった[2][3]。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て[4](または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも[5])、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があった[6]という伝説がある。
弘化3年(1846年)、10歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された[7]。 幼年の龍馬は12、13歳頃まであたかも愚人のように夜溺れの癖(寝小便癖)があったとされる[4]が、愚童であったとの記録はない[8]。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれているが、これも諸説あり、はっきりした退塾理由はわかっていない[9]。以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという[10]。
龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている[注 3]。
嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」[11]を得た。
江戸遊学[編集]
小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」[11]を授けられ、溝渕広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷[12](または鍛冶橋の土佐藩上屋敷[4])に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現: 東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉の他に長男・重太郎と3人の娘(その内一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、共に稽古をすることも無かった。後に小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するがそこでも館名が無いのはこのためである。ただし、汗血千里駒では坂本龍馬は千葉周作の門人としており[注 4]、嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから2度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある[13]。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している[14]。

黒船来航
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている [注 5] [15]。
同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した[16]。 そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中に、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」[11]を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている[17]。 また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。
安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した[18]。 同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している[19]。
安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、後に日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす[20]。 安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、発見、現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられた物である。一般にいう剣術では無く薙刀術であり[注 6]、北辰一刀流「初目録」である。ただ、千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」など様々な同時代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠も残っている[注 7]。 同年9月に土佐へ帰国した。
土佐勤王党[編集]
土佐藩では幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主・山内豊信 (容堂) が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。だが、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった[21]。
同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑った[22]が、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。
文久元年(1861年)3月、土佐で井口村刃傷事件(永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした[23]。 これにより、同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた[24]。
武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した[25]。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。
脱藩[編集]
挙藩勤王を目指す武市は積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」[11]を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている[26]。 萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には土居通夫、児島惟謙がいた[27]。
龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。
龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した[28]龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある[注 8]。
脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない[29]。
一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月頃に大坂に潜伏している[29]。この時期に龍馬は望月清平と連絡を取り[30]、自らが吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。
勝海舟と神戸海軍操練所[編集]

勝海舟
龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した[注 9][注 10]。 この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している[31][32]。 12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した[33][注 11]。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった[34][35]。
龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており[36]、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である[37]。 だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い[37][38][39]。 いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている[注 12]。
勝海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである[40]。
幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした[注 13]。 5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」 [注 14]と近況を知らせている。
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