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鏡よ鏡、鏡さん「本物は?」弐

2016-11-02 00:00:05 | 
「鏡よ鏡、鏡さん「本物は?」壱」より

「豆の上で眠る」(湊かなえ)「励み場」(青山文平)のどこに共通点を感じたのかと云えば、それは「ほんもの」とは何かという点にあると思う。

「豆の上で眠る」は、二年間の行方不明をへて帰宅した姉に対する違和感をぬぐえないまま10年以上を過ごした妹の、「本ものってー何ですか」と問いで物語を終えている。
一方の「励み場」は、本の帯によると、『仕事とは何か」・「人生とは何か」・「家族とは何か」を深く問う書き下ろし時代長篇』ということになるのだが、仕事や人生や家族を考える根本に、「本物(の自分)」があるように感じている。

「励み場」は信郎と智慧の二人の視点で話が進む物語である。
子供時代に両親を亡くした後、名主(領主)の世話になり下働きのようなことをしていた男が、陣屋の元締め手代にまでなれば、「上がり」といっても良さそうなものだが、信朗自身はそれで納得していなかった。
そんな信郎が妻として迎えたのが、村一番の地主に貰われ子として育てられた智慧(ともえ)だったが、もう一人の視点となる彼女もまた実家に自らの居場所を見つけてはいなかった。

「名子」を脱し「本もの」の自分になりたい男と、「名子」でもいいが「本もの」の幸せを得たい女。
二人が抱える屈託は、「名子」という身分に囚われているということだった。

ものを知らぬせいか、本書を読むまで「名子」という身分を知らなかったくらいなので、本書がいう「ただの名子」と「ちゃんとした名子」の区別もつくはずもない。
広辞苑で「名子」をひくと、「封建社会における農奴。または隷農の一つ」とあるが、これは本書で云う「ただの名子」である。では「ちゃんとした名子」とは何なのか本書より引用する。(『 』「励み場」より)
『今から150年よりも、もっと前の話です。公方様の開祖であられる東照神君様が江戸に幕府を開かれる前は、全国いたる処に武家の領主がいて、互いに争っていました。大きい領主、小さい領主、いろいろです。そういう争いが終わった時に、大名として勝ち残った者以外の領主たちは、この先どうするかの選択を迫られました。大名の家臣となって城下町に移り住み、自分の領地をあきらめるか、それとも武家の身分よりも領地をとって、百姓となるか、です。』

この時、領地をとって百姓となった元武家の領主を名主と云い、領主に従った家臣が「ちゃんとした名子」だと本書は云う。

領地に土着した当初は、名主も名子も元武家としての威厳を保ち、百姓の上に立っていたが、それが50年たち100年経てば、元武家もすっかり無刀が體に馴染み鍬を手にするのが当たり前となるし、本物の百姓からしても、名主を元武家というよりは百姓の長としてみるようになる。
まして開祖から150年もたった延享の世なれば、名主や名子は百姓としての才覚が問われるようになる一方で、百姓からは、御上との交渉を優位に進めるために読み書き算盤に長けた者が出てくるようになってくる。
ここで、元武家であったことをキッパリ忘れ去ることができれば違う道もあるだろうが、一般には農民より低い地位にまで貶められながらも元武家の意地を捨てられぬ者が、「本物の自分」(武家)に帰ろうと願い、もがき苦しむことになる、本書の信朗もその一人だ。

「ちゃんとした名子」の信朗は、陣屋の元締め手代を「励み場」と認めず、江戸に出て、勘定所の普請役として働くようになるのだが、能力のある信郎は、自身の能力だけを頼みに二年で武士である支配勘定になるつもりだったし、それが可能な場が、勘定所のはずだった。
『勘定所は、幕府の御役所の中で、数少ない励み場である。つまり、励まば報われる仕事場である。生まれついた家筋がすべてという職制のなかで、力さえあれば上が開けている仕事場が勘定所だ。実際、お目見以下の御家人が、以上の旗本に身上がる目があるのは、勘定所をおいてない。
しかも、信郎の普請役のように、武家以外の身分が、武家となる階段も用意されている。ひいては、百姓・町人も武家になる路が開かれているということだ。』

しかし、開祖から150年、勘定所も地縁血縁に絡められ膠着化し、『力さえあれば上が開けている』という単純で希望ある仕事場でも「励み場」でもなくなっていた。
それに気が付き焦りはじめていた頃、信朗は、お役目で赴いた名主(元武家が領主)の地で、仕事内容を越えて主従の関係を築ける事例を知るのだが、それは、「本物」の自分を考える契機となっただけでなく、自分が考える「本物の自分」と他人が評する自分に乖離があった場合の生きにくさという厳しい現実も突きつける。

信朗が苦しみながらも漸く自分らしく生きていく「励み場」を見つけた頃、妻・智慧が自らの出自に関して思い込んでいた事がことごとく事実と異なっていたことを知る。

信郎にとっては「本物の自分」を実現する場が仕事であったが、智慧にとってのそれは家庭であったため、「自分は人から蔑まれる名子ではない」と知った智慧は、それにより「名子である夫・信郎への思いも変わるのではないか」と思い悩むのだ。
果たして、智慧の下す決断とは?

「豆の上で眠る」の主人公は、家族を家族足らしめるのは、血なのか共有する時間なのか記憶なのか? 『本ものって、-何ですか』と問いかけながら物語を終えるが、「励み場」の主人公は、自分が描く「本もの」像と外から下される像の乖離に苦しみながらも、二人ともが「本もの」になるために新しい道を歩き始めるところで物語を終える。

二人が歩む道から思うに「本もの」とは、人を規定する血筋や過去の職業や身分を否定するのでもなく縋るのでもなく、それらを核にしながらも拘るのでなく、自分らしい方法で正しいことをし続ける先にあるもの、ではないか。

「本もの」は、ある日突然手に入れられるものではなく、「本もの」になっていくものではないか、というのが「豆の上で眠る」「励み場」をチャンポンで読んだ私の現時点での結論だが・・・・・いやぁ、これにはかなり無理があるかもしれない。

それぞれの本は良かったにもかかわらず、チャンポンで読み、思考がごちゃごちゃになり、感想がチャランポランになってしまったことを反省している。

先週から読書週間に入っているだけに、本の読み方や感想について思うところを、次には書いてみようと思っている、かな?
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