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2017-05-19 09:01:47 | 日記
〝現場を忘れた研究は、きらめきと真実を見失う〟
医師原田正純の営み
~知り・学び・うけつぐ~
報告書


2013年10月


【主催】「医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ」実行委員会
(発起者)濱谷正晴・寺西俊一・町村敬志・林公則・石倉研・森明香/
(賛同協力者)足羽與志子・高柳友彦・根本雅也・荒沢千賀子・浦田三紗子
【協賛】一橋大学社会学研究科・平和と和解の研究センター

【日時】2013年6月18日(火) 午後4時30分~
【会場】一橋大学マーキュリー・タワー3405室


水俣の患者さんに寄り添い、〈水俣病〉の本態をみさだめ
ようと歩みつづけた“医師”原田正純。その姿は“社会調査
家”を彷彿とさせるものでした。
原田正純さんが亡くなってこの6月11日で一周忌を迎
えます。
あらためて原田正純の営みを知り・思いおこし、そこから
社会科学徒として何を学びとり、いかに受け継げるか。一橋
大学における“文理共鳴”のひとつのあり方を追求してみた
いと思います。
有意義なひとときを、共に。 ご来場をお待ちしています。

2013.5 実行委員一同
〝現場を忘れた研究は、きらめきと真実を見失う〟
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
【目次】
「追悼フォーラム」に、78名が集う 1
原田正純氏プロフィール 2
1.企画提案者あいさつ「出会ったことのない出会い」
………濱谷正晴(名誉教授) 3
2.「原田正純先生の水俣学研究の足跡に何を学ぶか」
………寺西俊一(経済学研究科教授) 6
3.「原田正純先生の生き方と水俣学から学んだこと」
………高城(永野)いつ香(熊本学園大学博士後期課程・精神保健福祉士) 19
4.明日へつなぐ~感じたこと・思うこと~(出席者によるフリー・トーク) 38
5.むすび「いまだからこそ、忘れてはならないことを」
………町村敬志(社会学研究科長) 44
付録1 感想集 46
付録2 プレ企画 61
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
★「追悼フォーラム」に、78名が集う。
2013年6月18日(火)の午後4時30分、定刻。開会前から、会場にどんどん、
人が入ってきました。顔ぶれは圧倒的に若者たち。会場の空気が若やいでいきます。
それからおよそ3時間。空腹をわすれて。
ディスカッションをふくめ、最初から最後まで、熱気にあふれていました。
当初、実行委員会では、参加者は30名ぐらいだろうという見通しでした。
1週間前ぐらいになって、「当日は50名+α」という情報が入りました。
会場(3405室)の椅子は普段は32脚。隣室に備えてある椅子を使っても足りませ
ん。実行委員の根本君が事務室にかけあい、「50名」を上回っても対応できるよう、周
辺の部屋から椅子を借り出せる手配を整えました。開会前、実行委員の院生たちが、会場
から机を出し、借用した椅子を搬入しました。有り難いことに、林大樹教授が4限に使用
する隣室から不要な椅子を、自ら運んできてくださいました。
こうして、参加者が増えるのに応じて、椅子を追加していくことができました。
後片付けも、若者たちの協力で、実にスムーズに行きました。
終わってから受付の名簿で整理したところ、参加者は実に78名にも及んでいました。
*内訳は、学部生が34名、大学院生が24名+報告者の家族2名、一橋大教員が8
名、その他10名(実行委員の知人など)。
学部生34名のうち、埼玉大生が17名、大妻女子大生1名で、一橋生は16名。
大学院生は、一橋院が22名で、東京学芸院1名、熊本学園院1名。
「原田正純先生の追悼フォーラム」:埼玉大学から参加してくれた学生は、今回の集い
をこう呼んでいました。若い人達が実行委員を担い、ゼミや友人・知人のMLを介して、
このイベントが伝わっていったようです。
想定を超える、驚きでした。
この感動を、ぜひ、多くの人に伝えなくては……。
協賛してくださったCsPRのHPを通じて、「追悼フォーラム」の模様を発信するこ
とにしました。ご協力くださった足羽さん、ルイスさん、有難うございました。
当日の発表を、報告用にリライトしてくださった寺西さん、高城さん、町村さんに、
感想を寄せてくださった参加者の皆さんに、
報告集のとりまとめに当たった林君、石倉君、根本君、森さん、浦田さんに
あつく御礼を申し上げます。
実行委員を代表して
濱谷 正晴
1
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
原田正純氏プロフィール
1934 年鹿児島生まれ。64 年熊本大学大学院医学研究科修了、医学博士(神経精神医学)。
熊大医学部付属病院神経科精神科講師、熊大体質医学研究所助教授を経て 99 年 4 月より熊本
学園大学教授(~2010)、2005 年より熊本学園大学水俣学研究センター長(~2009)、2010
年より熊本学園大学水俣学研究センター顧問、客員研究員。2012 年 6 月 11 日に永眠。
熊大大学院在学中の 1961 年に水俣病多発地区の湯堂を訪れ、水俣病を診た経験を契機に、
人類史上初めての胎児性水俣病を博士論文のテーマとして取り組む。生涯にわたり水俣病、三
井三池炭鉱粉塵爆発事故などの一酸化炭素中毒患者、カネミ油症、北米・アジア・南米・アフ
リカなど世界各地の水銀中毒など環境汚染による人びとの健康実態調査を実施。専門医学書に
とどまらない、「伝統文化や生活様式が外からの力で破壊される公害の構造」、「差別のあると
ころに公害が生じる」といった社会的な報告を重ねた。医師として患者に寄り添い、水俣病を
はじめ公害や労災の原告被害者側証人として何度も証言台に立った。水俣病事件を将来に生か
す目的で、現場から学問を捉えなおす試みの一つとして水俣学を提唱した。
理屈からいけば医学者は医学上の問題点を解明すればそれでいいのであって、それからさき、医学
的成果をどのように社会の中に活かすかは政治の問題かもしれない。しかし残念ながら、それが社会
に活かされない現状では、医学者は傍観者でいいのであろうか。(原田 1972:86)
水俣病を学ぶと、水俣を映して己の学問なり、政治なり、社会なり、生きざまなりがみえてくる。水俣
病はたんなる一地方の風土病的地方病にとどまらず、そこには普遍的な諸問題や諸法則が含まれて
いる。水俣病は、学べば学ぶほど、その底は深く、魅力的であった。
水俣病は鏡である。この鏡は、みる人によって深くも、浅くも、平板にも立体的にもみえる。そこに、社会
のしくみや政治のありよう、そして、みずからの生きざままで、あらゆるものが残酷なまでに映しだされてしま
う。そのことは、はじめての人たちにとっては強烈な衝撃となり、忘れ得ないものとなる。(原田 1989:3)
私は水俣病と出会うことで人生が輝いて見えた幸せものである。若い人にもぜひそれぞれの内なる
水俣病を見つけてもらいたいと思う。それが私の若い人へのメッセージである。(原田 1995:175)
*主な受賞
1965 年 「水俣地区に集団発生した先天性・外因性精神薄弱―母体内で起こった有機水銀中
毒による神経精神障害“先天性水俣病”」で日本精神神経学会賞
1989 年 『水俣・もう一つのカルテ』(新曜社)で第 31 回熊日文学賞
『水俣が映す世界』(日本評論社)で第 16 回大佛次郎賞
2005 年 『水俣学講義』(編著、日本評論社)で熊日出版文化賞 他多数
*作成にあたっては、原田正純氏の著書より『水俣病』(1972)、『水俣が映す世界』(1989)、『こ
の道は』(1995)から引用し、『水俣・もう一つのカルテ』(1989)、熊本学園大学水俣学研究セン
ター「原田正純追悼展 水俣学への軌跡」(2012)を参照した。
2
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
1.企画提案者あいさつ「出会ったことのない出会い」
濱谷 正晴
2010 年 3 月、一橋大学を定年退職。社会学部 3 年生のとき(1967 年)、恩師
石田忠先生のゼミに参加。以来 45 年余り、被爆者調査にとりくむ。膨大な調査資料
を「原爆と人間アーカイブ」に残す――これをライフワークに、〝生涯、学習〟の
日々を過ごす。
表題のごとく、私自身、原田正純さんとは、生前、いちどもお会いしたことがありませ
ん。ですが、岩波新書『水俣病』(1972)いらい、数多くの著作や、ドキュメンタリーを通
じて、原田正純さんと

ほど、〈出会い〉をつづけることになった人物は、ほかに思いあたら
ないのです。
原田さんと私は、ちょうど一回り年齢が違う(戌年)のですが、「水俣病」、「新潟水俣病」、
「イタイイタイ病」、「四日市喘息」――一般に「四大公害」と呼ばれる事件は、高度成長
期を生きた私たちには、同時代で進行(遭遇)した出来事でした。
「イタイイタイ病」は私が生まれ育った富山県で起こりました。「大気汚染」には、故郷
に近い高岡市吉久のみならず、大阪の西淀川、川崎など、全国各地の住民が苦しみました。
上京後しばらくして、都内でも「光化学スモッグ」警報・注意報が連日のように発令され
るように。炭鉱における落盤事故・「炭塵爆発」は、小さい頃から新聞・ラジオでたびたび
見聞きする出来事でした。「森永ヒ素ミルク中毒」事件が起こったのは 50 年代でしたが、
68 年には「カネミ油症」事件が起こります(米ぬか油に混入した PCB が加熱されてダイオ
キシンに変化)。ダイオキシンは、ヴェトナム戦争において「枯葉剤」として森林、農村、
田畑に大量に散布され、環境と人体に深刻な影響をもたらしました。
広島・長崎以後、核保有国による大気圏内の核実験が繰り返され、子供の頃、天気予報
で放射能(ストロンチウム)情報が流れるのは日常のことでした。日本人漁船員がビキニ
で死の灰を浴びました。そしてキューバ危機(1962)→あわや全面核戦争……あの恐怖は、今
でも鮮明に覚えています。
同時代のそうした社会問題に真っ向からいどむ医師。原田正純さんの真摯な姿に、私は
鮮烈な印象をいだき共感を覚えました。
現役時代、担当していた「社会調査」の授業で、『ミドルタウン』(R.S.リンド)や『スト
リート・コーナー・ソサエティ』(W.F.ホワイト)など社会学者による参与観察の古典や、
宮本常一(民俗学者)の「父から受けた十カ条」と並んで、原田正純さんの水俣での参与
観察・踏査(その一端)を紹介しました。
3
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
目の前にいる患者さんたちの苦しみをどう受け止め・理解すればよいのか?
原田さんは自らが置かれた立場を見つめ直し、水俣病の多様な実像を見定めていく視点
と方法を、ひとつひとつ、切り拓いていきました。下図(原田正純『水俣にまなぶ旅』日本
評論社、1985 年、186 頁より)には、原田さん(たち医師)が、そして患者さん達が、
水俣病と格闘していったプロセスが刻まれています。「社会調査家」の営みと相通じるもの
があります。社会調査の歴史をひもとくと、その源流の一つに、医師達によるそうした実
践がありました。
*余談になるが、一橋大出身で医師に転身した人は数十名にのぼるという(如水会報)。
退職と同時に、社会調査関係の文献は(今後の社会調査史研究に必要な一部の書物を除いて)
磯野研究館の社会調査室に寄贈しました。水俣病関係の文献も、知り合いの院生にバトン
タッチ。残りの人生で水俣病の問題に触れることはもうないだろうと思っていました。
ところが、昨年 6 月、原田正純さんの訃報が……。享年 77 才。喜寿。とはいえ、やはり
早死にです。恩師石田忠は 94 才まで生き続けてくれましたのに。
原田正純さんに因む催しを、この一橋大学でできないものか。思いさめやらず、林君や
森さん、石倉君をはじめ、私的な社会調査塾に集う青年たちと語らい、ご迷惑を顧みず、
寺西さん、町村さんに直訴におよびました。企画が具体化すると、高柳さん、足羽さんが
実行委員に加わってくださいました。今日の講師の一人、高城(永野)さんには、被爆者
調査の手書きのトランスクリプトをテキストにする作業を手伝ってもらったことがありま
した。
本日の会合のチラシの冒頭に〝現場を忘れた研究は、きらめきと真実を見失う〟という言葉
があります。これは、「現場を忘れた疫学は、きらめきと真実を見失う」という原田正純さ
んの言葉から取ったものです(『水俣の視図』「第一章 水俣の原風景」、立風書房、1992 年
より)。
「疫学」というのは、社会・人文系の大学の皆さんにはあまり馴染みのない言葉なので、
「研究」に言い換えてみました。「ある病気にかかった人々」がどのように「ばらついてい
4
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
るか」「群がっているか」比較して、その「病気の原因を明らかにする」。こういう手法を、
医学や公衆衛生の分野では、「疫学」といいます。
〝きらめき〟について、原田さんは、「なにか新しい問題を見いだそうとするなら、現場
に飛び込む。現場こそが、何かのきらめきを感じさせてくれる」と語っています。
〝真実〟について原田さんは、「現地を忘れた時、真実を見失う」という。なぜなら、
「水俣病の原因究明」も、「現地を訪れ、感じ、考えてはじめてなしえた」からでした。

けれども、「現地」といい「現場」というのは、けっして生易しいところではありませ
ん。「反発、無視、否定」と「共感」――さまざまな葛藤が交錯するプロセスを自ら歩ん
でこそ、「本音」や「真実の声」を聞くことが出来、「研究のヒント」を得ることができ
るのです。どうして? ときには「自己否定」に追い込まれることも。まさに、「格闘」と
いってもよいでしょう。
水俣の患者さんたちに寄り添い、かれらの苦痛・苦悩をうけとめ・自らに引き受け、や
らなくてはならないこと・なしうることに気づいたら、そのことに全力を注ぐ……。
ここに私は、石田忠と原田正純の共通性を感じます。石田忠は社会調査家であることを
貫き通すことによって、原田正純は医師であることを貫き通すことによって、石田は原爆
体験の、原田は水俣病の、全体像にせまった。そうであるからこそ、石田は被爆者から、
原田は水俣病の患者さんから、信頼をえることができた。そう思います。
現代を生きる。そこにはまた新たな状況・問題が、山積みになっています。それらと、
いかに向き合い、どう解き明かしていくか。今日の催しを通じて、原田正純さんの営みを
知り・思いおこす。そこから、社会科学徒として受け継ぐものを何かつかみとる。今日の
集いが、そんな機会・場となるよう期待しています。
5
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
========================================
於:マーキュリー・タワー3405室: 2013年6月18日(火)
原田正純先生の水俣学研究の足跡に何を学ぶか
一橋大学大学院経済学研究科・寺西 俊一

1.原田正純先生との接点、出会い・交流、共同調査研究等を通じて学んだこと
<本日の報告の主な内容>
2.私の「公害・環境問題の政治経済学」が原田先生から受けた多大な刺激と影響
>「公害被害」「環境被害」の「責任」と「費用負担」をめぐる現実・理論・政策研究

<本報告に関連する若干の拙稿&参考文献等一覧>
寺西俊一
同年4月、70-74頁,25-29頁。
「公害都市・水俣はいま(上)(下)」『住民と自治』(自治体研究社)第239号、第240号、1983年3月、
②「<座談会>第1回アジア・パシフィックNGO環境会議を終えて」(宮本憲一・原田正純・淡路剛久・秋山紀子・
寺西俊一

(司会))『公害研究』(岩波書店)第21巻第4号、1992年4月、35-40頁。
寺西俊一
4月、109-110頁。
「一連の水俣病訴訟が終結」「重視すべき産廃問題と軍事公害」『平凡社百科年鑑97』平凡社、1997年
④ 原田正純・寺西俊一
⑤「<座談会>軍事と環境」(宇井純・大島堅一・
「第Ⅰ部:テーマ編、第3章:広がる環境汚染と健康被害」日本環境会議「アジア環境白書」編
集委員会編(編集委員:淡路剛久・寺西俊一ほか、編集顧問:宮本憲一・原田正純ほか)『アジア環境白書1997/98』
東洋経済新報社、1997年11月、39-56頁。
原田正純・宮本憲一・除本理史・寺西俊一
(岩波書店)第32巻第4号、2003年4月、14-21頁。
(司会))『環境と公害』
⑥「<座談会>今、なぜ水俣病問題か-公式発見50年に向けた課題を考える」(小野田学・高岡滋・宮澤信雄・淡路剛
久・礒野弥生・原田正純・寺西俊一
⑦「<座談会>中国の公害被害解決をめぐる状況と日本の協力」(大塚健司・
(司会))『環境と公害』(岩波書店)第35巻第2号、2005年10月、51-59頁。
寺西俊一・原田正純

・山下英俊・礒野弥生
(司会))『環境と公害』(岩波書店)第36巻第1号、2006年7月、36-44頁。
寺西俊一

「環境被害論の新たな展開に向けて」『環境と公害』(岩波書店)第36巻第3号、2007年1月、16-21頁。
寺西俊一

「<リレー・エッセイ>被害者に寄り添った崇高な生涯」『環境と公害』(岩波書店)第42巻第1号、2012 年
7月、1頁。
寺西俊一
etc.
「改めて問われる水俣病被害の責任と費用負担」ノーモア・ミナマタ訴訟記録集編集委員会編『ノーモア・
ミナマタ訴訟のたたかいの軌跡-すべての水俣病被害者の救済を求めて』(日本評論社)、2012年12月、248-251頁。
6
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
○はじめに
経済学研究科の寺西と申します。私と原田先生とのお付き合いを改めて振り返ってみた
ところ、とても与えられた短い時間ではお話できそうにありません。そのため、私と原田
先生との幾つかの接点について、ごく簡単に紹介するということで、お許しください。ま
た、私が原田先生から何を学んだかについては、経済学の立場から、若干の問題提起をさ
せていただくことで、ご了解ください。
以下、私の話しの中身としては、2 点あります。1つは、原田先生との接点、出会い・交
流、共同調査研究等を通じて、どういうことを原田先生から学んだか、ということです。
もう 1 点ですが、私は、一橋大学で環境経済学の講座を担当してから今年で 33 年目になっ
ています。この間、私は、「公害・環境問題の政治経済学」という旗を掲げてきましたが、
これには原田先生の足跡がきわめて大きな影響を与えています。この点について、簡単に
触れたいと思います。
7
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
○「公害被害」「環境被害」にかかわる責任と費用負担
原田先生は、水俣病被害に 50 年取りくんでこられました。その後、問題は環境的な広が
りをもつようになっており、私は、これらを「公害被害」や「環境被害」をめぐる問題と
してとらえています。原田先生が一貫して追及されてきた問題を社会科学の立場から受け
止めるならば、「公害被害」や「環境被害」にかかわる責任と費用負担をめぐる問題という
ことになります。そこで、私自身は、「公害被害」「環境被害」の責任と費用負担をめぐる
現実と理論を踏まえた政策研究に取り組んできました。
○原田先生との接点を振り返って
私と原田先生の関係についてですが、今回、改めて略年表(別紙資料、参照)を整理し
てみて、自分でも驚きました。この略年表の 1 ページ目ではほとんど接点がありません。
私がまだ学生や大学院生だった頃です。2 ページ目以降、つまり、私が一橋大学の「環境経
済論」の講座担当になった 1980 年代以降になって、ようやく原田先生との接点が出てきま
す。その最初の重要な接点は、私が 1986 年 7 月から『公害研究』(岩波書店発行)という
同人メンバーによる専門雑誌の編集幹事(編集実務)になったことです。この雑誌は、一
橋大学の学長も務められた故都留重人教授が主宰した「公害研究委員会」が編集してきた
ものです。原田先生がこの「公害研究委員会」のメンバーになられたのが、私よりも 10 年
早い 1976 年です。その後、1991 年 9 月から、この雑誌は『環境と公害』に改題され、今
も、年 4 回、定期的に刊行されています。その編集実務を通じて、私が原田先生と謁見す
ることが可能になった時期が 1980 年代の後半でした。しかし、実際には、なかなか直接に
8
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
お話しする機会はありませんでした。原田先生と親しくお話しできるようになったのは、
1990 年代以降のことになります。
実は、1991 年 12 月に「第 1 回アジア・太平洋 NGO 環境会議」がタイのバンコックで
開催されました。この会議に原田先生が出席されていて、そのときに初めて、いろいろな
お話をすることができました。それ以降、約 20 年余、原田先生が 2012 年 6 月にお亡くな
りになられるまで、非常に多くの接点がありました。改めて思い起こしてみると、あれだ
け多忙をきわめておられた原田先生が、よくぞ、私ごときにたびたび付き合ってくださっ
たものだと改めて驚いている次第です。以下、その幾つかの接点をスライドで紹介しなが
ら、原田先生から私が学んだことについて簡単にお話ししたいと思います。
○「アジア環境白書」プロジェクト
1994 年 11 月に「第 3 回のアジア・太平洋 NGO 環境会議」が京都で行なわれました。そ
の宣言文のなかで、アジアで起きている公害・環境問題の実情を調査し、NGO 版『アジア
環境白書』を作成していくというプロジェクトを立ち上げる提案が盛り込まれました。で
は、誰が責任をもって
取り組むのかという話
になり、私がその事務
局を務めることになっ
て、「アジア環境白書」
プロジェクトをスター
トさせることになりま
した。それが、1995 年
1 月のことです。そし
て、その年の 9 月に、
大陸中国の北の方に位
置する吉林省で「中国
水俣病」が問題になっ
ているということで、「中国環境調査」を行いました。原田先生は、すでに十何年前に現地
に入っておられ、その後が気になっているということもあって、幸いにも同行していただ
けることになりました。写真 1 は、そのときの一コマで、瀋陽でのヒアリングの場面です。
それ以降、これらの現地調査も踏まえて、私が全体の責任者になって『アジア環境白書』
のシリーズ(東洋経済新報社)を編集・刊行してきました。これまでに 5 冊のシリーズを刊
行しています(写真 2)。いま、その最新版(2010 年/2011 年版)の英語版を編集している
写真 1
9
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
ところです。実は、この「アジア環境白書」プロジェクトは、原田先生のご協力なしには
ありえなかったものです。原田先生には、編集顧問のお一人として、様々なアドバイスを
いただきました。
写真 2
○「第 15 回日本環境会議熊本大会」と数度にわたる水俣現地調査
その後、原田先生との関係がいっそう深くなったのは、1996 年 3 月末、熊本学園大学で
開催した「第 15 回日本環境会議
熊本大会」のときです。この実
行委員長を原田先生が務めてく
ださり、そのときに水俣の現地
調査も行ないました。さらに
1999 年 2 月には、私の大学院ゼ
ミで、「環境経済学を志すものは
水俣の現実を知らないといけな
い」ということで、原田先生に
無理をお願いし、多くの大学院
生たちを連れて水俣の現地調査
を行ないました。原田先生が熊
本学園大学に異動される直前の頃です。そのとき原田先生は、ご多忙にもかかわらず、私
たちのために貴重なレクチャーをしてくださいました。また、胎児性水俣病患者の坂本し
のぶさんや荒木康子さん(故人)らにも初めてお会いすることができました(写真 3)。私
にとっては、忘れられない一コマです。
写真 3
10
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
○日本公害史の“原点”:足尾への現地調査、「谷中学」から「水俣学」へ
もう一つ、私の印象に強く残っているのは、足尾への現地調査です。たしか原田先生は、
2001年4月から熊本学園大学に移られましたが、その年の12月に、原田先生とご一緒に足尾
への現地調査を行う機会がありました。ご承知のように、足尾といえば、戦前からの日本
公害史における“原点”といわ
れている地域ですが、そこで
は、地域全体が深刻な公害
(鉱害)の被害と環境破壊の
歴史的な舞台になったとこ
ろです。その足尾の地域再生
をどう考えるかということ
で、現地シンポジウム(テー
マ:「足尾地域の再生と全町
エコミュージアム構想」)も
行われました。このとき、当
時の足尾町長なども参加し、
一番前の席で原田先生のお話を聞いていました。写真4は、そのシンポジウムの様子です。
原田先生は、このシンポジウムで、かつて足尾鉱毒事件で被害農民たちの救済に身をささ
げた田中正造の足跡に学ぶ「谷中学」が提唱された経緯に触れて、自分はこれから「水俣
学」を推し進めていきたいと語っておられたことを鮮明に記憶しています。
○フィリピンにおける米軍基地跡地の汚染被害調査
さらに忘れられないのは、フィリピンで、返還された米軍基地跡地による深刻な汚染被
害が顕在化したのですが、その現地調査にも同行していただいたことです。私と原田先生
に加えて、私の大学院ゼミ出身である大島堅一君(現立命館大学教授)、除本理史君(現大
阪市立大学教授)、そして、本日の司会をしている林公則君の 5 人で、2002 年 8 月にフィ
リピン調査に行きました。いろいろと現場を訪ね、被害者たちを支援している弁護士さん
にも話を伺いました。8 月初旬の暑い夏の日でした。米軍基地による汚染の影響を受けたと
しか考えられない脳性小児麻痺に似た子供たちがいる家を一軒一軒訪ねて歩き、原田先生
には診断もしていただきました。そのときの現地調査を踏まえて、『環境と公害』誌上で座
談会も行っています。関心のある方は、ぜひ、読んでいただきたいと思います(「<座談会
>軍事と環境」宇井純・大島堅一・原田正純・宮本憲一・除本理史・寺西俊一(司会)『環
境と公害』第 32 巻第 4 号、2003 年 4 月、14-21 頁、参照)。
写真 4
11
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
○「アジア・太平洋環境賞」の受賞
同じ 2002 年の 11 月には、台湾で「第 6 回アジア・太平洋 NGO 環境会議」が開催され
ましたが、そのときには、原田先生
と宇井純先生が、アジア・太平洋地
域における公害・環境問題にいち早
く取り組んでこられたということ
で、「アジア・太平洋環境賞」を受
与されました(写真 5)。
また、原田先生は大陸中国との関
係も非常に重視されていました。
2001 年から「環境被害救済日中国
際交流ワークショップ(WS)」を
始めたのですが、2003 年 3 月、2
回目の「日中国際交流WS」を、熊本学園大学の花田先生にも協力していただき、水俣で
実施しました。中国からたくさんの研究者が参加し、彼らに水俣の歴史と実情を学んでも
らうことができました。さらに、その第 3 回目の「日中国際交流WS」が、2005 年 11 月、
中国の上海で開催されました。第 4 回目は、韓国も加えての「日中韓国際交流WS」とし
て、東京の弁護士会館を会場に実施しました。これらの国際交流WSでも、原田先生には
絶えず貴重なご発言をいただき、中国や韓国の研究者のあいだでも原田先生から影響を受
けたという人が大勢います。
○1983 年から毎年続いてきた「天草環境会議」
その他、原田先生は、1983 年からスタートした「天草環境会議」にも、その代表として
長くかかわってこられました。私は、その第 10 回目(1993 年)と第 20 回目(2003 年)
の会議に呼ばれました。これは、苓北町での石炭火力発電所建設反対運動に端を発したも
のですが、毎年 7 月、その中心となってきた地元の漁師や農家の方々との貴重な交流の場
となっています。原田先生は、この企画と準備にもかかわり、毎回、出席されていました。
第 22 回目の会議(2005 年 7 月)のときには、「水俣病 50 年」ということで、苓北町の現
地で特別座談会を行いました。『環境と公害』誌上に収録されています(「<座談会>今、
なぜ水俣病かー公式発見 50 年に向けた課題を考える」小野田学・高岡滋・宮澤信雄・淡路
剛久・礒野弥生・原田正純・寺西俊一(司会)『環境と公害』第 35 巻第 2 号、2005 年 10
月、51-59 頁、参照)。
原田先生は、お酒(とくに焼酎)が大好きでした。先生が、お酒を飲みながら、現場調
写真 5
12
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
査のいろいろなエピソードなどに触れられたなかに、たくさんの学ぶべきことがありまし
た。幸いにも、私もお酒が大好きなので、原田先生とご一緒にお酒を飲みながらの談笑は、
実に楽しく、かつ非常に有意義でした。

○ 原田先生による最後のご発言と遺言
その他、ひとつ一つ、想い起こしていけば、キリがありません。以下は、割愛し、私が
原田先生とお会いできた最後の機会について、少し触れておきたいと思います。
それは、2012 年 3 月、松江で開催された日本環境会議島根大会のときです。この大会の
前日(3 月 16 日)から原田先生ご夫妻が松江にお越しになるとお聞きしたので、私が提案
者になって「原田先生ご夫妻を囲む夕食懇親会」を玉造温泉で行ないました。その翌日に、
島根大学で行なわれた日本環境
会議の全体シンポジウムでは、
病身をおしてご出席になられた
原田先生が、フクシマ原発事故
と放射能汚染被害について、水
俣病とかかわってこられた 50
年の経験を踏まえ、非常に貴重
なご発言をされました(写真 6)。
このときのご発言については、
その後、私が書いたリレー・エ
ッセイ(「被害者に寄り添った崇
高な生涯」『環境と公害』第 42
巻第 1 号、2012 年 7 月、1 頁、参照)で簡単に紹介してあります。原田先生がお亡くなり
になったのは、それから、わずか 3 ヶ月も経たないうちでした。
つい最近のことですが、『【対話集】原田正純の遺言』という本が出版されています(朝
日新聞西部本社編、2013 年 5 月、岩波書店、参照)。これは、ものすごく貴重な本です。
これを読みますと、最後に対話しておられるのが水俣病患者の杉本栄子さん(故人)のご
長男である杉本肇さんです。その日付が、なん
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