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2017-05-19 09:18:32 | 日記
水俣病
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水俣病
水俣病-位置-地図.jpg
熊本水俣病
赤:水俣市、青:葦北郡、薄黄色:その他の熊本県
分類および外部参照情報
ICD-10 T56.1
ICD-9-CM 985.0
MedlinePlus 001651
水俣病(みなまたびょう)は、メチル水銀化合物(有機水銀)よる中毒性中枢神経系疾患のうち、産業活動が発生源となり、同物質が環境に排出され、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生した場合に言う。
1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見され、1957年(昭和32年)に発生地の名称から命名された。その後、類似の公害病にも命名されている。
なお、1997年(平成9年)に水俣湾の安全宣言がなされ、漁が再開されている[1]。
目次 [非表示]
1 概要
2 原因物質の特定
3 臨床所見
4 水俣病の発見と裁判
4.1 原因究明への動き
4.2 発見に関わる経過
4.3 公害裁判
4.4 補償と救済
5 水俣病と行政
5.1 行政訴訟
6 慰霊
7 差別と中傷
8 第三水俣病
9 環境汚染
10 水俣病を描いた作品
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
概要[編集]
熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場は、工業排水を水俣湾に排出していたが、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に見られた「メチル水銀中毒症」である。環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。
日本の高度経済成長期に発生し、「公害の原点」ともいわれる[2]。また工業災害における犠牲者の多さでも知られる[注 1]。当初は原因が分からず「奇病」と呼ばれていたが、地名を採って「水俣病」と呼ばれるようになった。原因が解明された後は、同様の公害病の呼称にも用いられた。水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの4つは、四大公害病と呼ばれる。
主なメチル水銀中毒症の集団発生[3][4]
発生源 ヒトへの経路 集団発生地 確認年 呼称
農薬工場 作業中の直接曝露
(職業病) イギリスの旗ロンドン郊外 1940年 ハンター・
ラッセル症候群
チッソ水俣工場
(地図) 工業排水→食物連鎖
(公害病) 日本の旗不知火海沿岸 1956年 熊本水俣病
(水俣病)
昭和電工鹿瀬工場
(地図) 日本の旗阿賀野川流域 1965年 新潟水俣病
(第二水俣病)
ドライデン製紙工場 カナダの旗イングリッシュ川(英語版)
・ワビグーン川(英語版)流域 1970年 オンタリオ水俣病
(カナダ水俣病)
2年続いた旱魃のため
輸入された種子麦 非食用の種子麦をパンに
加工し摂取(食中毒) イラクの旗イラク北部ほか 1971年 (邦訳不定)
[表示]全ての座標を示した地図 - OSM
全ての座標を示した地図 - Google
有機水銀であるメチル水銀への曝露によって中毒となった場合、主に中枢神経系が障害され、「メチル水銀中毒症」が病名となる。ただし、同物質による公害によって引き起こされた、すなわち公害病と認定された場合は特に「水俣病」(英語: Minamata disease)と呼ばれる[3]。公害病では環境に排出されたメチル水銀が食物連鎖によって生物濃縮され、それを経口摂取することで発症するが、妊婦が摂取した場合、胎盤を経由して胎児にも影響し、(先天的に)同様な障害を持つ児が生まれることがある。この場合は「胎児性水俣病」と言う。
なお、職業病の場合は「水俣病」とは呼ばない[3]。また、主に腎臓が障害される無機水銀中毒症、あるいは、企図振戦、歯肉炎・口内炎、精神症状が3大主徴の金属水銀中毒症も、病態が異なるため「水俣病」とは呼ばない。ただし、環境中に排出された無機水銀が環境中でメチル化され、生物濃縮をしている例が世界各地で確認されているため、水銀汚染の公害病の議論の中でこれらが水俣病と共に語られることがある[3]。
原因物質の特定[編集]
原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。しかも有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった。しかし、翌年(1959年)7月、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った(1959年10月、水俣病発見者細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(この時点ではメチル水銀の抽出までには至っていない)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた[注 2])。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そして、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。なお、当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は単に有機水銀と表記されていることがある。
臨床所見[編集]
Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年11月)
水俣病はメチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末梢神経の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等がある[5]。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらには死亡したりする場合もある[注 3]。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りなども見られる。
メチル水銀で汚染されていた時期にその海域・流域で捕獲された魚介類をある程度の頻度で摂食していた場合は、上記症状があればメチル水銀の影響の可能性が考えられる。典型的な水俣病の重症例では、まず口のまわりや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至ることが多い。これらは、メチル水銀により脳・神経細胞が破壊された結果であるが、血管、臓器、その他組織等にも作用してその機能に影響を及ぼす可能性も指摘されている[5]。また、胎盤を通じて胎児の段階でメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する[5][6]。
上記のうち、いくつかの症状が同時に現れるものもあるが、軽度の場合には、臨床症状だけでほかの病気と識別診断するのは一般に困難である。このような様々な症状の程度は、一般にメチル水銀の曝露量に依存すると考えられるが、メチル水銀は既に体内に残留していないため、過去にさかのぼって曝露量を推定することは困難である。発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。この臨床症状は典型的なメチル水銀中毒であるハンター・ラッセル症候群(有機水銀を使用する労働者に見られた有機水銀中毒症)とよく一致し、これが水俣病原因物質究明の決め手となった。劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には、軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。
一方、長らくの間、ハンター・ラッセル症候群という水俣病患者中最も重篤な患者、いわば「頂点」に水俣病像を限定してしまい、その「中腹」「すそ野」である慢性型や軽症例を見逃す結果を招いてしまったとの批判がある[7]。人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた障害によるものである。いったん生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めないが、リハビリによりある程度症状が回復した例は多数存在する。一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。
重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊本大学研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなり、ますます水俣病像=ハンター・ラッセル症候群という固定観念が強くなってしまった。
水俣病の発見と裁判[編集]
原因究明への動き[編集]

水俣湾とチッソ水俣工場の位置関係。1932年から1958年まで、水俣工場から排水路を経由して百間港に廃水が流された。その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。
日本で水俣病とされる病気が集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)から発生したとするメチル水銀である。アセトアルデヒドは、アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。工場は触媒の反応過程で副生されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を排水とし、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生した。
1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。
メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年のイギリスである。このときはアルキル水銀の農薬工場における、従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。
1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界を巻き込んで有機水銀説に異を唱えた。これは当時、無機水銀から有機水銀の発生機序が理論的に説明されていなかったことによる。病気の発見から約11年が経過した1967年になり、ようやくチッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に(いまだ“理論的”にではないことに注意)証明された。しかし、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、被害の拡散を防ぐための有効な手段をほとんど打てずに経年していく、という重大な問題を抱えることになり、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより補償の増大などで企業側にとっても重篤な損害を生むもとになった。
原因の特定が困難となった要因の1つとして、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場が当時国内に7か所、海外に20か所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在したにも関わらず、これほどの被害を引き起こしたのは水俣のみであり、かつ終戦後になってから、という事実がある。この事実が化学工業界の有機水銀起源説の反証として利用されて研究が進まず、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。
チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない[注 4]。だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生になんらかの形で関係したと考えられている。生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガンを硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたことが考えられている。また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている[注 5]。このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、最終的には大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。やはり化学工業界が反証として利用していた事実、すなわち、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する天然の細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(ただし実際には誰も研究しておらず、現在までに水俣湾の有機水銀濃度がこの細菌によって増えたというデータは存在しないだけであるが)。
このように、「水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかった」、「自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となった」などの主張に明確な根拠はない。そもそもの遠因として挙げられるのは、当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法である。これはあくまで「経験的」に効率よい水銀の安定回収ができる工法であり、理論的な生成機序の研究はされておらず、したがって有機水銀の中間体が出来ることは誰も気づかなかったのである。
発見に関わる経過[編集]
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。
1946年:日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。
1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。
1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11か月だった女児が発症した例である[注 6]が、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
1954年:熊本県水俣でのちに水俣病と認定された患者が12人発生。ほかに5人死亡。
当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。
1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年、50人が発病し11人が死亡。
1956年頃から、水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇していたが、1961年、胎児性水俣病患者が初めて確認された。水俣ではその後、合わせて少なくとも16例の胎児性患者が確認されている。水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けや
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