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2017-05-19 09:02:25 | 日記
つい最近のことですが、『【対話集】原田正純の遺言』という本が出版されています(朝
日新聞西部本社編、2013 年 5 月、岩波書店、参照)。これは、ものすごく貴重な本です。
これを読みますと、最後に対話しておられるのが水俣病患者の杉本栄子さん(故人)のご
長男である杉本肇さんです。その日付が、なんと 2012 年 6 月 3 日となっています。つまり、
原田先生が亡くなられる約 1 週間前なのです。この対話集は、文字どおり、原田先生の遺
言集になっていると思います。
写真 6
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医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
○原田先生から学ぶべきこと
最後になりますが、私のような社会科学を志してきた者が原田先生から学ぶべきことは
何かという点について、簡単に述べておきます。それは、大きく分けて 3 点あると思いま
す。
1 つ目は、何よりも「公害被害」「環境被害」の現場を重視しなくてはならない、という
ことです。原田先生は、まず現場に何度も足を運ばれ、そこから、既成の思想、それまで
の様々な知見や認識、それを支える理論などにみられる限界や過ちを指摘し、それらを地
道に打ち破ってこられました。これは、本来の学問的方法論でもあります。私自身、原田
先生との接点ができる以前には、経済学の理論のほうを先に学んでいましたから、どうし
ても「既成の理論に合わせて現実を切って捨てる」という間違った方法に陥りがちでした。
しかし、「既成の理論に合わせて切って捨てる」ということでは済まない現実のなかにこそ、
私たちが真に挑戦すべき新しい学問的イシューがあるのです。この点を、私は原田先生を
通じて学びました。
2 つ目は、社会的弱者としての被害者の声(Voice of Victim)に謙虚に耳を傾け、人間と
しての尊厳と権利(Human entitlement)(これは、アマルティア・センの言葉ですが)を
擁護・回復していくために全力を尽くす、そういう徹底したヒューマニストとしての原田
正純先生の一貫した姿勢に学ぶ必要がある、ということです。これは、なかなか真似ので
きることではないですが、私たちは、少なくとも原田先生に少しでも近づく努力をしなく
てはなりません。
そして、最後の 3 つ目は、狭隘な専門分野の壁、原田先生は「バリア」と言っていまし
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医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
たが、そういう狭い壁を越えた学際的・国際的な視野に立った行動と発信、そして、それ
らを通じて、人間的な信頼に基礎を置いた幅広い協力ネットワークを原田先生が地道に構
築されたてきた、ということです。これは、原田先生が残された大きな財産ですが、この
ネットワークを、今後、どのように引き継ぎ、発展させていくのか、私たちにとっての重
要な課題になっていると思います。残念ながら、私も来年が定年となっています。今日、
ここにお集りの若い皆さんには、ぜひ、このネットワークを引き継いでいってほしいと思
います。それが、原田先生が残された貴重な足跡をこれからの未来に活かしていく道では
ないか、ということを申し上げて、私の話しを終わりたいと思います。
どうも、ご静聴、ありがとうございました。
(以上)
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 2013年6月18日 寺西俊一作成
原田正純先生の略年譜 寺西の略年譜(原田先生との接点、出会い・交流等)
1934年 9月14日:出生(鹿児島生まれ)
1947年 4月:鹿児島県宮之城町立宮之城中学校入学
1950年 4月:鹿児島市私立ラサール高校入学
1951年 6月:ルース台風で被災 3月27日:出生(石川県生まれ)
1953年 4月:熊本大学理科乙類入学
1955年 4月:熊本大学医学部専門課程進学
1956年 5月1日:水俣病の公式確認
1959年 3月:熊本大学医学部卒業
4月:東京都教職員互助会三楽病院にてインターン
1960年 4月:熊本大学医学研究科入学(神経精神医学・宮川九平太教授に師
事)
9月:宮川教授逝去
1961年 4月:立津政順教授(着任)に師事
8月:初めて水俣病多発地区の湯堂に訪れる
1962年 4月:東京大学医学部精神神経学教室に国内留学
5月:水俣市立病院や自宅で胎児性水俣病の調査
7月:脳性マヒ児の本格調査を開始
11月:熊本医学会で胎児性水俣病を立証する発表
1963年 11月:三池炭鉱で炭塵爆発事故発生。一酸化炭素中毒患者の診察
開始 4月:石川県石川郡鶴来町立舘畑中学校入学
7月:<公害研究委員会(代表:都留重人)発足>(後の1976年に原
田先生が、1986年に寺西も、この委員会メンバーに加わる)
1964年 4月:熊本大学医学研究科満期退学 9月:修学旅行で四日市コンビナート見学(後の公害研究への原点)
5月:熊本大学医学部付属病神経科精神科助手
9月:胎児性水俣病の臨床的・疫学的研究で熊本大学医学博士
1965年 4月:胎児性水俣病の論文で日本精神神経学会賞
1966年 夏:沖縄の平安座島を調査 4月:石川県立金沢泉ヶ丘高校入学
1967年 6月:寿美子さんと結婚
8月:熊本大学付属病院神経科精神科講師
1968年 6月:長女理恵さん誕生
9月:政府が水俣病を公害認定
1969年 夏:川本輝夫氏と出会い、患者掘り起こしへ 4月:京都大学経済学部入学
9月:水俣病研究会発足
12月:公害健康被害救済特別措置法公布、公害被害者認定審査会
設置
1970年 7月:水俣病研究会『水俣病に対する企業の責任:チッソの不法行為』
9月:次女幸枝さん誕生
1971年 8月:熊本大学医学部第二次水俣病研究班による御所浦の住民検診 4月:京都大学経済学部専門課程(島恭彦ゼミ)に進学
11月:土呂久鉱害で相談を受ける
1972年 5月:熊本大学体質医学研究所気質学に移籍 7月24日:四日市公害一次判決(この判決に衝撃を受ける)
6月:ストックホルムでの国連人間環境会議に参加 9月初:京都大学経済学部での宮本憲一先生による特別集中講義
「公害問題と政治経済学」を受講
10月:助教授に昇任
11月:『水俣病』(岩波新書)
1973年 3月:水俣病一次訴訟で熊本地裁判決、チッソの企業責任を認め、総
額9億7300万円の損害賠償を命じる
10月:公害健康被害補償法公布
1974年 8月;長崎県五島のカネミ油症患者の第1回調査
1975年
3月:公害研究委員会(代表:都留重人による世界環境調査団(団長:
宮本憲一)に参加。カナダ先住民居留地などの水銀汚染事件12カ国
調査
3月:京都大学経済学卒業
3月:水俣病認定審査会委員を受諾 4月:一橋大学大学院経済学研究科修士課程進学
8月:カナダ先住民居留地、第2回目調査
1976年 8月:公害研究委員会のメンバーに加わる
11月:中国科学院の招聘で中国初訪問
1977年 9月:苓北石炭火力発電所建設の影響調査開始 4月:一橋大学大学院経済学研究科博士課程進学
原田正純先生との接点、出会い・交流、共同調査研究等に関する略年譜(未完版)
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1978年
1979年 6月:第1回日本環境会議(於・東京)開催
1980年 3月:メキシコ、コスタリカ、ベネズエラ、ペルーなど中南米環境調査 6月:一橋大学大学院経済学研究科博士課程満期退学
9月:中国総工会・科学院の招聘で講演、中国水俣病調査 7月:一橋大学経済学部専任講師(「環境経済論」担当)
1981年 2月:中国吉林省水俣病調査
夏:五島カネミ油症、第2回目調査
1982年 10月:チッソ関西訴訟提訴 10月:第5回全国水俣現地調査に参加
1983年 4月:第4回日本環境会議(於・水俣)開催 4月:第4回日本環境会議(於・水俣)に参加
8月:タイ環境調査
1984年 9月:広島県竹原市の毒ガス後遺症調査
1985年 1月:『水俣に学ぶ旅』(日本評論社)
2月:『水俣病は終わっていない』(岩波新書)
6月;インドのボパール事件調査
1986年 5月:『水俣の赤い海』(フレーベル館) 7月:『公害研究』誌の編集幹事(編集実務)メンバーに加わる
10月:韓国の温山工業団地の公害調査 8月~9月:欧州諸都市環境調査
12月:マレーシアのブキメラのARE事件調査
1987年 3月:水俣病3次訴訟、熊本地裁判決、国・県の行政責任を認める
7月:ベトナム枯葉剤被害調査
1988年 4月:ベトナム枯葉剤影響調査を本格開始 9月~翌3月:英国に在外研究(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
客員研究員)
1989年 6月:『水俣が映す世界』(日本評論社)(第16回大佛次郎賞)
8月:『胎児からのメッセージ』(槙書房) 9月:第9回日本環境会議(於・東京)、「国際化時代の環境政策に関
する宣言」の原案起草
10月:『水俣・もう一つのカルテ』(新曜社)(第31回熊日文学賞)
1990年 1月:ベトナム調査継続 3月:台湾・韓国の公害現地調査(宮本先生+寺西・植田ほか)
8月:胃がん手術
1991年 10月:韓国のレーヨン工場中毒事件調査 11月:第11回日本環境会議(於・法政大学)で、日本環境会議事務
局次長に
11月:日本環境会議理事に就任 12月:第1回アジア・太平洋NGO環境会議(於・バンコク)に参加
1992年 2月:ブラジルのアマゾン川流域水銀汚染事件調査
10月:『水俣の視図:弱者のための環境社会学』(立風書房) 11月:熊本YMCA主催市民公開講演会で講演(「水俣病と地球環境
問題の政治経済学」)
1993年 3月:韓国、温山工業団地再調査 3月:第2回アジア・太平洋NGO環境会議(ソウル)、その後、温山工
業団地調査
7月:第10回天草環境会議に参加
1994年 2月:アマゾン調査、第2回目 4月:熊本アースデー実行委員会主催市民公開講演会:「水俣から
地球環境保全へ」(原田先生との対話トーク)
6月:国連環境計画(UNEP)の「グローバル500賞」受賞
8月:『炭じん爆発:三池三川鉱の一酸化炭素中毒』(日本評論社) 9月:上海人民政府主催シンポジウム:「大都市と環境問題」報告参
加、その後、三峡ダム建設の現場視察
9月:『慢性水俣病:何が病像論なのか』(実教出版)(J=JEC環境叢
書)
11月:第3回アジア・太平洋NGO環境会議(於・京都)開催。「アジ
ア・太平洋地域における環境NGOの組織的協力と成果の共有をめ
ざす京都宣言」の原案起草
1995年 1月:阪神・淡路大震災発生 1月:「アジア環境白書」プロジェクトをスタート
5月:『この道は』(熊本日日新聞社) 4月:阪神・淡路大震災の被災現地調査
6月:『水俣病と世界の水銀汚染』(実教出版)(J=JEC環境ブックレッ
ト) 9月:中国環境現地調査(北京、吉林省、瀋陽、大連など)
10月:『裁かれるのは誰か』(世織書房)
1996年 2月:インド、西ベンガルのヒ素中毒地区調査 3月:第15回日本環境会議熊本大会、その後、水俣現地調査
8月:アフリカのヴィクトリア湖調査
9月:『胎児からのメッセージ:水俣・ヒロシマ・ベトナムから』(実教出
版)(J=JEC環境ブックレット)
1997年 5月:アースカウンシル賞(コスタリカ)を受賞 5月:一橋大学での『現代環境学A』のゲスト講師として原田先生を
招聘(講演:「水質汚染の歴史と教訓:水俣病問題を中心に」)
11月:『アジア環境白書1997-1998』創刊(東洋経済新報社)(同書
第Ⅰ部:テーマ編の第3章「広がる環境汚染と健康被害」(原田先
生+寺西共同執筆)
1998年 3月:フィリピン、ミンダナオの水銀問題調査
8月:アフリカのタンザニア、ケニアの水銀汚染調査
11月:アマゾンの調査、第3回目
1999年 4月:熊本学園大学社会福祉学部教授に就任 2月:大学院寺西ゼミで、水俣現地調査(原田先生レクチャー)
4月:日本環境会議代表理事に就任 4月:第19回日本環境会議川崎大会で、日本環境会議事務局長に
8月:「日韓環境専門家交流ワークショップ」(於・ソウル)企画・開催
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2000年 9月:第5回アジア・太平洋NGO環境会議(於・インド・ア-グラ)、この
後、ボパール事件の現地調査
2001年 4月:第35回吉川英治文化賞、受賞 9月:第1回環境被害救済日中国際交流ワーショップ(於・北京)
12月:足尾調査と現地シンポジウム(「足尾地域の再生と全町エコ
ミュージアム構想」)(原田先生+寺西・利根川ほか)
2002年 2月:『金と銀:私の水俣学ノート』(講談社)
8月:フィリピンの基地汚染調査 8月:フィリピン米軍基地跡汚染地域調査(原田先生+寺西・大島・
除本・林)
8月:カナダ先住民居留地、第3回目調査
9月:水俣学講義開始
11月:『いのちの旅「水俣学」への軌跡』(東京新聞出版局)
11月:第6回アジア・太平洋NGO環境会議(於・台湾・高雄)、この
後、台南市安順工場跡地汚染事件の現地調査、アジア太平洋環
境功労賞、受賞
11月:アジア・太平洋環境賞、受賞
2003年 1月:久保医療文化賞、受賞 3月:第2回環境被害救済日中国際交流ワーショップ(於・水俣)
7月:第20回天草環境会議に参加、宇土市での現地シンポジウム
(パネリスト)
2004年 3月:『水俣学講義』(編者、日本評論社)(熊日出版文化賞)
4月:五島カネミ油症、4回目調査
8月:カナダ先住民居留地、4回目調査
10月:水俣病関西訴訟、最高裁判決
2005年 4月:熊本学園大学水俣学研究センター発足 4月:「アジア環境白書」シリーズで、朝日新聞社の「第6回明日への
環境賞」、受賞
7月:第22回天草環境会議に参加、<座談会>「今、なぜ水俣病問
題か」(原田先生・淡路先生ほか+寺西)
11月:第3回環境被害日中韓国際交流ワークショップ(於・上海)、こ
の後、ワイ河流域汚染の農村地域調査(原田先生・富樫先生+寺
西・大塚・相川・山下ほか)
10月:『水俣学講義 第2集』(編者、日本評論社) 12月&翌1月:熊本学園大学社会福祉学部大学院科目「環境経済
学特殊研究」2005年度集中講義
2006年 8月:脳梗塞にて入院
9月:「環境被害に関する国際フォーラム」(於・熊本学園大学)開催 9月:左記の「国際フォーラム」に参加、その後、水俣現地調査
11月:西日本文化賞、受賞 12月&翌1月:熊本学園大学社会福祉学部大学院科目「環境経済学
特殊研究」2006年度集中講義
2007年 1月:『水俣学講義 第3集』(編者、日本評論社)
4月:『豊かさと棄民たち:水俣学事始』(岩波書店)
9月:食道がん手術 9月:台南市安順工場跡地汚染、2回目現地調査
11月:『水俣への回帰』(日本評論社)
12月:『水俣50年:ひろがる「水俣」への思い』(作品社)
2008年 10月:『マイネカルテ』(西日本新聞社) 1月:熊本学園大学社会福祉学部大学院科目「環境経済学特殊研
究」2007年度集中講義(>原田先生ご夫妻がご挨拶に)
11月:『水俣学講義 第4集』(編者、日本評論社) 4月:一橋大学アジア環境プロジェクト(代表:寺西)スタート(~2009
年度)
2009年 8月:五島カネミ油症、5回目調査 4月:農林中金寄附講義(自然資源経済論プロジェクト)(代表:寺
西)スタート
9月:不知火海沿岸住民健康調査
10月:『宝子たち:胎児性水俣病に学んだ50年』(弦書房)
2010年 3月:カナダ先住民居留地調査、5回目調査
3月:熊本学園大学退職
4月:熊本学園大学水俣学研究センター顧問
6月:『油症は病気のデパート:カネミ油症患者の救済を求めて』(アット
ワークス)
5月:出張公害研究委員会による佐渡ヶ島の現地調査および現地
シンポジウム(原田先生+寺西・永井・長谷川・石田ほか)
7月:五島カネミ油症、6回目調査
2011年 1月:朝日賞、受賞
2月:「KYOTO地球環境の殿堂」入り
3月11日:東日本大震災&福島第一原発事故発生
5月初旬:東日本大震災の被災地域(仙台・石巻・南三陸町ほか)現
地視察。その後、5月20日:「JEC東日本多重災害復興再生政策検
討委員会」(委員長:寺西)を発足させ、復興再生政策研究への取り
組みをスタート
6月:芦北町女島の被害調査
2012年 3月:第29回日本環境会議松江大会出席、全体シンポジウムで福島
原発事故被害について貴重な最後のご発言
3月:第29回日本環境会議松江大会の前日(3月16日)、「原田先
生ご夫妻を囲む夕食懇親会」(於・玉造温泉)を企画・開催
6月11日:永眠(享年77歳) 12月:奥様を招待し、「故原田先生を偲ぶ夕食懇親会」を企画・開催
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医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
「原田正純先生の生き方と水俣学から学んだこと」
2012(平成 25)年 6 月 18 日
熊本学園大学院社会福祉学研究科 高城(永野)いつ香
1. 原田正純先生の生き方
1934(昭和 9)年 9 月 14 日:鹿児島県生まれ。父・開業医「医療は技術ではなく心」
1945(昭和 20)年 7 月 1 日:小学 5 年生の時、疎開先(熊本市)の空襲で母を亡くす。
敗戦…お上から下まで戦争の責任を曖昧にした。「曖昧な日本」の始まり。
1959(昭和 34)年 4 月:東京都三楽病院研修中、NHK「日本の素顔」で水俣病を知る。
1960(昭和 35)年 4 月:熊大大学院医学研究科入学(神経精神医学・宮川九平太教授)
この年の 9 月、宮川教授が「水俣病は最後までやれよ」との言葉を残し逝去される。
1961(昭和 36)年 4 月:東京都松沢病院から立津政順教授が赴任。
特徴は長時間診断法。1 人につき 2~3 時間。長期間の調査方法を重要視。
診察室で診たら、次は病棟で生活を診る。さらに、生活の場で診る。患者のそばに密着す
るようにして診察することを教わる。水俣病でも自宅まで行って廊下の歩行や階段の上が
り下がり、食事の仕方など詳しく診て、運動失調や筋力低下など診断されていた。
1961(昭和 36)年 8 月:初めて水俣病多発地区の湯堂を訪れる。「見てしまった責任」
「戸は破れ、家の中には家具の一つもなく、布団は綿の塊でそれにくるまっている患者を
見て、私は息をのんだ。」「治らない病気を前にして医者は何ができるか、何をすべきか。」
これが、原田先生の医学の原点の一つ。ここから水俣病事件と一生向き合うこととなる。
1964(昭和 39)年 5 月:熊大医学部付属病院神経科精神科助手 → 講師 → 助教授
三池・山野鉱炭塵 CO 中毒、平安座島、新潟水俣病、土呂久鉱害、カネミ油症、屋久島振
動病、苓北火力発電所、新潟県中条町ヒ素中毒、広島県竹原市毒ガス後遺症調査、カナダ・
中国・中南米・タイ・インド・韓国・マレーシア・ベトナム・アフリカ・デンマーク・フ
ィリピン・タンザニア・ケニア等で水銀・農薬・放射線・枯葉剤・二硫化炭素・ヒ素調査
「環境問題の調査研究は専門と非専門の枠を超えること」「現場に立つことの重要性を実感」
「公害が起こって差別が生じるのではなく、差別のあるところに公害が起こる」
1999(平成 11)年 4 月:熊本学園大学教授(社会福祉学部)に就任
「水俣病事件でもっとも学ばされたものは『何のために研究をするかという研究のあり方、
専門家とは何か』ということだった。水俣病を取り巻くさまざまな経験から、何か教訓を
若い人に残したいという想いがある」
2012(平成 24)年 6 月 11 月:永眠
19
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
2. 原田正純先生が提唱した水俣学
1999(平成 11)年、原田先生が熊本学園大学社会福祉学部に赴任された年に、私も入学
した。「医学一般」の講義で先生は、「私も、ここにきて 1 年生です。何を教えようかな。
医学についても教えるけど、熊本県というのは実に様々な社会問題があってね。地域の問
題を知ることは大事ですよ。足元の、ローカルな問題を無視することはできないんですよ。
食物連鎖によって起こった水俣病を知ってるね」と、水俣病事件について語ってくれた。「川
本輝夫という人物がいてね、彼は患者掘り起しに尽力した」とか、「坂本しのぶさんはスト
ックホルムまで水俣病を伝えに行った」という話は、水俣出身の私もあまり知らない話で、
知り合いについて熱く語る先生の話を聞くことが楽しみだった。
2002(平成 14)年、大学 4 年の 9 月から、専門分野や大学、研究機関を超え、専門家と
市民、被害者の枠も超えた水俣学講義が始まった。「公害の原点」と言われる足尾鉱毒事件
の谷中学をヒントにしたという。多くの講師から話を聞き、水俣病事件が単なる公害では
なく社会的・政治的に作られた病で、今も終わっていないことに気づいていく。
大学院に入り、原田先生の調査に連れて行ってもらう機会が増える。「教科書は 100%じ
ゃなかよ。あくまでも、その時点で分かっていることが書かれている。新しい問題は教科
書には書いていない。現場に行って当事者の声に耳を傾けること。当事者の言葉から何か
を拾い上げることが専門家の責任じゃないかと思う」、「患者と行政が対立している場合、
圧倒的な力の差がある。そこで中立の立場を取ると、行政よりになってしまう。だから私
は患者の立場に立ってものをいう」といった、専門家としてのものの見方や姿勢を学んだ。
カナダ調査で現地に赴き「私の心が痛んだのは差別の存在であった。伝統文化や生活様
式が外からの力で破壊されるのも公害である。そして、公害が起こって差別が生じるので
はなく、差別のあるところに公害が生じるという現実を知った」という言葉の重みを実感
することとなる。
3. 水俣病事件は終わっていない
・行政は、認定制度の誤りを正そうとしていない。不知火海一帯の健康調査が未実施。
・係争中の裁判(胎児性世代訴訟)がある。
・水俣病第一号の患者である、田中実子さんは、今も海辺の家でひっそりと生きている。
・水俣病事件を見つめることで、行政がかかえる問題や、政治や社会のありようが見えて
くる。水俣病と似た構造の事件は日本だけではなく世界中で起こっている。
・新たな「ミナマタ」が、「フクシマ」で起こる可能性が高い。曖昧なまま、問題を先送り
にする行政の体質があり、声を上げなければ、「なかったこと」にされてしまう。海に放出
された放射性物質は希釈・拡散されたのち生物濃縮されることは水俣病で実証済みである。
「若い人にもぜひそれぞれの内なる水俣病を見つけてもらいたいと思う。それが私の若い
人へのメッセージである。」
20
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
【 報告内容 】
みなさん、はじめまして。熊本学園大学社会福祉学研究科を休学中で、水俣市にある社
会福祉法人照徳の里を育児休業中の高城いつ香と申します。今は神奈川県内に住んでおり
まして、色んな方のご協力のもと、この場で話をさせていただくことになりました。隣に
いるのは、弟の永野新太です。話をしている間、弟に娘を見ていてもらおうかと思ったら、
娘の人見知りが始まっていて泣いてしまうので、弟には隣に座ってもらって、もし娘が泣
いたときはサポートしてもらおうと思っております。(娘を膝に抱えているので)座ったま
まで話を進めさせていただきます。
21
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
「原田正純先生の生き方と水俣学から学んだこと」ということで話をします。1999 年に、
熊本大学から熊本学園大学に原田先生が赴任してこられるのですが、その年に、私も熊本
学園大学の社会福祉学部に入学したことで、原田先生と出会いました。
今日来られているのは、お若い方が多いかと思うのですが(そうでない方もいらっしゃ
いますが)、水俣病については教科書で学んだ方が多いのではないかと思います。私も、そ
うなのですが。水俣市立袋小学校という、水俣病多発地域の小学校でしたので、小学校 1
年生から中学校 3 年生まで、教科書だけではなく実際に患者さんを教室に招いて講和をし
ていただくなど充実した水俣病学習がありました。それでも、知らないことがたくさんあ
りました。
地図1
まずは場所から説明します。水俣市は、
東京から約 1,300 ㎞です。新幹線で東京駅
から約 7 時間。飛行機を使用すると、トー
タルで約 6 時間の距離にあります。
[地図 1]
地図2
水俣市は熊本県の南部に位置します[地
図 2]。不知火海に面して、対岸には天草の
島々が見渡せる場所です。熊本市から約 70
㎞。現在の人口は、どんどん減っていて約
26,000 人。チッソが栄えたピーク時は、5
~6 万人いました。
地図3
ここ[地図 3]が、私の生まれ育っ
た袋という地域です。茂道、湯堂、月
浦ともに、水俣病多発地域です。この
場所に、大学院生だった原田先生は通
ったそうです。茂道に行く時は、袋駅
から降りて山の中を、道なき道を歩い
て、患者さん宅に行き診ていたという
話をよく聞きました。水俣市内から少
し離れているので、陸の孤島のような
状態ですから、本当に悲惨な患者発生
22
医師原田正純の営み~知り・学び・うけつぐ~
初期の貧困にあえいだ
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