みたいです。気温。今。10月なんだけど、結構暑いですね。
最近ずっと書くという行為をろくにしていなくて
前に友達が日記に「書く」時期と「全く書かない」時期が交互に来るっていっていたけど
すごくわかる気がする。
考えることが断片的だったりなんだりで全然書ける感じがしなかったので。
別に日常が書いてる時と書かないでいるときで変わるかっていうと
そういうわけではないんだけど。
アウトプットばっかりだとインプットしたくなるし、逆もまたしかり。
書きたいときは
深いプールの底からぐっと体を弓なりにのけぞらせて一気に水面を目指して突き進む人みたいに
急に書くことができたみたいな気がしてくる。
でも多分気のせいなんだけど。
今、アナログフィッシュが
遠回りじゃないよ
真っ直ぐな道を蛇行しているだけ
って歌った。いい歌詞だ。
線路沿いのマンションに越してきて半年経った。
一番の違い、とまではいかなくても、自分にとって大きな変化だったのが雨だ。
実家で、窓を閉めていて「雨?」と思うと、それはもうほぼ100%雨だった。
しとしとと、ぽつぽつと、激しく、叩きつけるように
色んなバリエーションの雨音の中にくるまれて、壁に窓の雨粒の反射した光がかすかに揺れる。
今住んでいるところでは「雨?」と思って窓を開けても、
すっきりと乾いたコンクリートに何度も肩透かしにあった。
雨のような、さざ波のような音が開けた窓から静かに、緩やかに部屋に流れ込んでくる。
街の音とでもいうのか、遠い音の群れの反響のような正体のつかめない曖昧な音だ。
もう慣れてもいい頃なのに、相変わらず、何度でも雨ではないかと確かめてしまう。
そういう身体感覚の誤差みたいなのは、思った以上に体に根付いているものなのかもしれない。
ミランダ・ジュライの「いちばんここに似合う人」という短編集を読んだ。
登場人物はみんな、鈍感だったり自意識過剰だったり、そのどちらでもあったりする、いわゆる「ずれた」人たちだ。
みんな滑稽で哀しくて可笑しくて、可哀相。
誇り高くて、高尚で、俗っぽくって愛すべき人たちだ。
あとがきを読んでびっくりした。
ミランダ・ジュライ。
どこかで聞いた名前だと思ったら以前見た映画の監督が彼女だったのだ。
その映画はたまたま深夜だかなんだか、変な時間につけたNHKでやっていた。
観るつもりはなかったのに、ちょうど映画のオープニングシーンで、その最初の映像にくぎ付けになって、
「これはなんだか自分には必要な映画なんじゃないか」と思い、あわてて観た。
正直色んなところが荒削りで、未回収の伏線というか、消化不良な部分はたくさんあったけれど、
そんなことは気にならないくらい、印象的ないくつかのシーンとセリフがあって、私は満足だった。
「君とボクの虹色の世界」というのがその映画だ。
それも孤独についての映画だった。
でも、考えてみれば、世の中の文学作品のほとんどが孤独をテーマにしているし、
それ以外の作品だって孤独じゃないことがテーマという意味で孤独がテーマだったりするから何とも言えないけど。
でも彼女の孤独はみっともなくて鮮やかで、無様なんだけど美しくて、何よりもとても明るい。
もしもそれらの哀しみに音があるのだとしたら、それはうんと高いソプラノなんじゃないかと私は思う。
もう少しで超音波になって、聞こえなくなるくらいの高音域。
多分作者は人より多くそれが聞こえるたちなのだろう。
声が裏返って笑われている人や他の人には聞こえないくらい高音で哀しみを表現する人の声を聴きとる人。
恐らくは作者自身もそんな風に声をあげていた人なのだと思う。
彼女の聴きとる孤独ははスタインべックの「ぼくたちはしなかった」の孤独であり、ユアグローの孤独であり、ヴォネガットの孤独であり、まぎれもなく読者一人一人の孤独なのだ。
最近ずっと書くという行為をろくにしていなくて
前に友達が日記に「書く」時期と「全く書かない」時期が交互に来るっていっていたけど
すごくわかる気がする。
考えることが断片的だったりなんだりで全然書ける感じがしなかったので。
別に日常が書いてる時と書かないでいるときで変わるかっていうと
そういうわけではないんだけど。
アウトプットばっかりだとインプットしたくなるし、逆もまたしかり。
書きたいときは
深いプールの底からぐっと体を弓なりにのけぞらせて一気に水面を目指して突き進む人みたいに
急に書くことができたみたいな気がしてくる。
でも多分気のせいなんだけど。
今、アナログフィッシュが
遠回りじゃないよ
真っ直ぐな道を蛇行しているだけ
って歌った。いい歌詞だ。
線路沿いのマンションに越してきて半年経った。
一番の違い、とまではいかなくても、自分にとって大きな変化だったのが雨だ。
実家で、窓を閉めていて「雨?」と思うと、それはもうほぼ100%雨だった。
しとしとと、ぽつぽつと、激しく、叩きつけるように
色んなバリエーションの雨音の中にくるまれて、壁に窓の雨粒の反射した光がかすかに揺れる。
今住んでいるところでは「雨?」と思って窓を開けても、
すっきりと乾いたコンクリートに何度も肩透かしにあった。
雨のような、さざ波のような音が開けた窓から静かに、緩やかに部屋に流れ込んでくる。
街の音とでもいうのか、遠い音の群れの反響のような正体のつかめない曖昧な音だ。
もう慣れてもいい頃なのに、相変わらず、何度でも雨ではないかと確かめてしまう。
そういう身体感覚の誤差みたいなのは、思った以上に体に根付いているものなのかもしれない。
ミランダ・ジュライの「いちばんここに似合う人」という短編集を読んだ。
登場人物はみんな、鈍感だったり自意識過剰だったり、そのどちらでもあったりする、いわゆる「ずれた」人たちだ。
みんな滑稽で哀しくて可笑しくて、可哀相。
誇り高くて、高尚で、俗っぽくって愛すべき人たちだ。
あとがきを読んでびっくりした。
ミランダ・ジュライ。
どこかで聞いた名前だと思ったら以前見た映画の監督が彼女だったのだ。
その映画はたまたま深夜だかなんだか、変な時間につけたNHKでやっていた。
観るつもりはなかったのに、ちょうど映画のオープニングシーンで、その最初の映像にくぎ付けになって、
「これはなんだか自分には必要な映画なんじゃないか」と思い、あわてて観た。
正直色んなところが荒削りで、未回収の伏線というか、消化不良な部分はたくさんあったけれど、
そんなことは気にならないくらい、印象的ないくつかのシーンとセリフがあって、私は満足だった。
「君とボクの虹色の世界」というのがその映画だ。
それも孤独についての映画だった。
でも、考えてみれば、世の中の文学作品のほとんどが孤独をテーマにしているし、
それ以外の作品だって孤独じゃないことがテーマという意味で孤独がテーマだったりするから何とも言えないけど。
でも彼女の孤独はみっともなくて鮮やかで、無様なんだけど美しくて、何よりもとても明るい。
もしもそれらの哀しみに音があるのだとしたら、それはうんと高いソプラノなんじゃないかと私は思う。
もう少しで超音波になって、聞こえなくなるくらいの高音域。
多分作者は人より多くそれが聞こえるたちなのだろう。
声が裏返って笑われている人や他の人には聞こえないくらい高音で哀しみを表現する人の声を聴きとる人。
恐らくは作者自身もそんな風に声をあげていた人なのだと思う。
彼女の聴きとる孤独ははスタインべックの「ぼくたちはしなかった」の孤独であり、ユアグローの孤独であり、ヴォネガットの孤独であり、まぎれもなく読者一人一人の孤独なのだ。
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