扇子と手拭い

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真打ってなんだろう?(落語2―94)

2012-05-23 00:15:10 | 日記

▼真打ってなんだろう?
 落語の学校の講師だった噺家が出るというので寄席に聴きに行った。世話になった講師の噺をナマで聴くのは2年ぶりだが、二席とも堪能させてくれた。ところが他の4人の落語家にはがっかり。「聴かせよう」という心意気が全く感じられないのである。われわれ文七迷人会の仲間の方がよほどましだ。二つ目、真打ってなんだろう?

 恰幅のいい二つ目が登壇。その日朝の金環日食観測をマクラに持ち出すのはいいが、その後、ダラダラと変哲のない話を続けた。何が言いたかったのか全く意味不明のマクラに終始。その流れが本題にまで伝染し、とうとう最後まで凹凸のない噺で終わった。その前に登場した巧みな講談で温まっていた会場のムードは一転、笑いもなく冷え切った。残りの真打3人の噺も「ついでに聴く」といった程度。「噺に引き込まれた」などと世辞にも言えない中身だった。

▼28人抜きで昇進
 このところ関東の落語界は、真打昇進を相次いで決定。古今亭菊六はなんと28人抜きで昇進。春風亭一之輔は21人、古今亭朝太は8人抜き。いずれも落語協会所属の落語家だ。これに対し落語芸術協会は、この春5人が真打となったが、こちらは抜擢なしの年功序列。入門から見習い、前座、二つ目と修業を重ね、14、5年をめどに順番に昇進させるという。

 落語協会も長年、年功序列でことを納めていたが会長交代に伴い今回、抜粋方式を採用した。昭和の名人、三遊亭圓生は1978年、落語協会会長だった柳家小さんの真打大量昇進のやり方に反発し、協会を脱退、新会派を結成した経緯ある。実力を伴わない者まで年季明けのように昇進させては、真打の意味がなくなるというのである。

▼3日前に抜いたビール
 圓生の考えに賛成だ。例え100円でもオアシをいただく、木戸銭を頂戴する噺家なら「プロにふさわしい」落語を聴かせる力を蓄えてもらいたい。実力の伴わない者まで「15年の年月が経ったから」と、一人前のレッテルを貼り付けて、高座に送り出すのはいかがなものか。

 万年8勝7敗の大関の取り組みをみたくないのと同様に、技量不足の落語家の噺ほど、聴くに耐えないものはない。相撲界は1勝でも勝ち越せば、番付が下がることはない。相撲界よりさらに優遇されている落語界はいったん、真打になれば降格なしの世界。だから真打の座に安住し、3日前に栓を抜いたビールのような落語家が少なくないのである。いつ行っても寄席で毎度、同じマクラで、同じ噺をしている真打がいる。この男、やる気があるのか、と問いただしてみたくなる。

▼実力本位の抜粋に
 生半可な落語家が、のべつに登場する寄席から客は遠ざかる。不入りの原因のひとつはここにある。木戸銭を取るからには、プロの芸を披露することだ。そのためには年功序列を改め、力量本位の選抜に改めることが必要ではないか。努力を置き去りにしたところに花は咲かない。
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次代を担うのは(落語番外編)

2012-03-01 22:12:27 | 日記
▼義捐金の振込終える
 チャリティー落語会で集めた義捐金8万2550円を1日午前、あしなが育英会に振り込んだ。募金をいただいた「九条の会」などの代表に連絡したところ、いずれも快諾してくれた。取り急ぎ報告まで。

 あしなが育英会の本部は東京・平河町にある。義捐金を持参する前に、とりあえず電話したところ、「郵便振り込みで大丈夫」だという。ウチから往復すると半日仕事になるので大助かりだ。

 電話口の向こうから、あて先は、「あしなが東日本大震災津波遺児募金」と言って、12ケタの振込番号を教えてくれた。約3週間後に、当方あてに領収証を送付してくれるそうだ。

▼レインボーハウスの建設
 あしなが育英会では3・11原発震災で両親、および、どちらかの親を亡くした子供たちに一時金を支給するほかに、遺児の心のケアにも取り組んでいる。母親の手作り料理を食べ、父親とキャッチボールをした日常が突然、目の前から消えた。

 小さな胸が深く傷ついた。そんな遺児たちに寄り添い、心を癒そうと持ち上がったのが「東北レインボーハウス」(仮称)の建設である。次代を担うのは、間違いなく彼ら若い世代である。応援したい。

 育英会およびレインボーハウスの詳細は、下記のアドレスへ

http://www.ashinaga.org/

http://www.ashinaga.org/higashi_nihon/
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記事も読める視覚障害者(落語番外編)

2012-02-29 22:11:33 | 日記
▼反響呼んだ一文
 視覚障害者の方が疎開支援の会あてに綴った一文は、その後、大きな反響を呼んだ。「大丈夫 みんな生きてる」を見た方から、「読んでいて涙が止まらなかった」「心にしみた」などの声が寄せられた。同時に、全盲の方があの長文を書いたことに驚いていた。

 疎開支援の会の世話役にわけを聞いた。視覚障害者には専用の点字パソコンがあるという。「おにぎり」とキーボードをたたくと、「お、に、ぎ、り」と音声が伝わる。その声を確かめて、次の言葉を入力する。

▼全盲で記事を読む
 さらに箸と橋、端などの違いは、「ご飯を食べるハシ」「人が渡るハシ」「真ん中と端っこのハシ」などの音声を選択するという。ひらがな、カタカナ、漢字、数字なども使い分けることができるそうだ。この作業を繰り返すのだから、文章作成には健常者の何倍もの時間がかかる。

 メールに「記事を見つけましたので、貼り付けます」と書いてあったが、どういうことか意味が分からなかった。「全盲の方が記事を読む」ことなど可能なのだろうかと思った。新聞記事については、声を出して読んでくれる専用ソフトがある、と聞き納得した。

▼思いを巡らせもう一度
 毎日のようにパソコンと向き合っていながら、何も知らなかった。視覚障害者の立場から考えたことなど一度もなかったからである。落語会への感想も、その後の長文も、きっと大変な思いをして書いてくださったのだろう。そんなことに思いを巡らせながらもう一度、読み返した。
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集めた額はわずかだが(落語2―93)

2012-02-29 14:05:24 | 日記
▼親を失った子どもたち
 東日本大震災で親を失った子どもは2005人を数えている。震災遺児を支援している「あしなが育英会」によると、このうち中学生から高校生までが850人だという。

 これは育英会に一時金の申請があった数で、実際は、もっと多いようだ。兄弟や祖父母、親戚が養育を担っているが、就職先が見つからない保護者も多く、厳しい生活を強いられている。

▼中断した支援活動
 私たち文七迷人会は昨年、復興支援チャリティー落語会を開き、義捐金を募った。当初、義捐金は被災地に届ける予定だったが、支援活動に熱心だった落語仲間が突然、がんに侵され、彼岸に旅立ったため計画は中断したままになっていた。

 その後、既報の通り、昨秋にいわきのNPO「ザ・ピープル」と連携を取り、今月20日にやっと落語会を開催する運びとなった。ところが、直前になって私がドクターストップをかけられ、いわきに行くことが出来なくなった。しかし、みなさんの温かいお気持ちが詰まった義捐金を、いつまでも預かりっ放しでは気が落ち着かない。

▼8万2550円の義捐金
 思い浮かんだのが震災遺児のことだった。集めた額はわずかだが、何かの足しにしてもらおうと考えた。そんな矢先に「あしなが育英会」の活動が耳に入った。義捐金の届け先は「あしなが育英会」に決めた。

 お預かりしている義捐金は次の通り。市川市の「九条の会」が1万9650円。新松戸の「幸谷花の会」が2万750円。浅草での第4回文七迷人会が2万1650円。そして柏市の旧吉田家での「あじさい寄席」が2万500円。4回で合計8万2550円である。

▼高座のわきに募金箱
 落語会を終え、「九条の会」のお客様に募金を呼びかける時は、勇気がいった。何しろ募金活動は生まれて初めてだからである。100円ショップで買ったポリ容器に「東日本大震災復興支援 義捐金」と書いた紙を貼りつけた。

 「私たちと同じように、こうして生活をしていた人たちが突然、地震に襲われ、家族も、家も一瞬にして津波にさらわれてしまいました。一つ違ったら、私たちが被災者になっていたかも知れません。協力を」と呼びかけた。高座のわきに募金箱を置き、着替えのため退室した。

▼うれしかった誤算
 箱の中を見て驚いた。予想していた100円コインではなく、ほとんどが1000円札だった。有難かった。うれしい誤算。思いやりが無性にうれしかった。ほかの3会場も同様に、大半が1000円札だった。中には私のご贔屓さまのように、「木戸銭代わりに」と5000円札を入れてくださった方もいた。ただ、感謝である。

 大変遅くなりましたが、お預かりしていた義捐金は「あしなが育英会」の遺児募金に届けさせていただきます。本当に有難うございました。  
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大丈夫 みんな生きてる(落語番外編)

2012-02-27 09:48:39 | 日記
 昨夜(26日)遅く、疎開支援の会から1通のメールが届きました。一読いただきたいと思ったのは、私どもへの評価ではなく、後段の「おむすび」にまつわる話と、3・11のナマの声です。長くなりますが、注釈なしに原文のまま、全文を転載させていただきます。

 昨日の落語会に出席した全盲の男性から感想が届いていますのでご覧ください。 

 昨日の落語会に参加して、少しばかり感想を述べさせていただきます。多少ですが、落語を聞くことも好きな私です。何と言っても「円生」や「志ん生」「文楽」の名人芸でないと落語を堪能できないと思っておりました。

 所詮、素人さんの落語なので、内容的にはあまり期待いせずに参加したのが本音でした。しかし、お二人の語りを聞いてみると、とても素人落語でのレベルではなく、ご本人達が説明していたような、定年退職後に勉強会に3年ほどしか参加してないようなレベルではありませんでした。

 心から楽しみ、そして少々、反省するとともに、改めて、お二人の才能に喝采するばかりでした。そして、お二人の笑いで元気を出してもらいたいとの暖かい思いが伝わりました。また、疎開者の皆さんの、屈託のない笑い声に、本当に参加してよかったと思うばかりです。

 そして、終了後に、朝から作っておられた、「おむすび」をいただく時に、
私に、手渡しで「よかったら、食べて」とわたしてくれます。この「おにぎり」のずっしりした重さ、そして手のヌクモリごと、渡してくれたこと。私には、現在はコンビニで、柔らかく握った物より、心をこめて、一粒一粒をギュット堅く握った「、疎開者の皆さんが握ってくれた、東北の心が詰まっている、この「おにぎり」が、田舎育ちの私には本当に久しぶりに味わう、東北魂の詰まった最高のごちそうでした。

 今まで、どんな災害があっても、どんな苦しい時があっても、日本人は、すぐに行うことの一つに、まず、炊き出しのおにぎりで助けあうことでした。そんな時は、海苔なんかでは包みません。こころの詰まった「塩むすび」でした。食べて欲しいから、元気を出して欲しいから、心を込めて、女性達は、ギュット堅く握るのではないでしょうか。

 正に、心と心を結ぶから「おむすび」ではないでしょうか。もっと、元気を出して欲しいと逆に励まされたような気持ちです。先日も豪雪に巻き込まれた車の列に、近所のオバチャン達が、「ただの、塩むすびを握って励ましているのがニュースで放映されておりました。まだまだ、私達日本人は負けずに、頑張っていけます。

 恥かし話しですが、このメールを書いている今でも、昨日の「おにぎり」を思い出すと、涙がコボレテきます。NTT社宅の方々の心に感謝、感謝です。そして、間もなく3月11日がやってきます。この一年、視力を失った私には、TVでの映像を見ることもできずに、新聞等の報道で、東北のことを思い浮かべることしかできませんでした。

 仙台で生まれ育った私にとって、ほとんどの土地は幼ないときの記憶のままです。周りの方の中には、見れなくて本当はよかったかも知れませんと言われる方もおられました。

 最後になりますが、以下のような記事を見つけましたので、貼り付けます。被災者のお一人お一人が様々な体験をお持ちで、この一年過ごしてきたわけです。我々、柏の疎開支援の会は、ちっぽけな集まりかも知れませんが、少しでもお力になれることを行っていきたいと思いを改めて決意する本当によい一日でした。

 それでは、以下、よろしければお読み下さい。

 昨年3月11日午後2時46分。ビィー! ビィー! 携帯から不快な音が鳴る。

 《緊急地震速報 強い揺れにそなえてください》

 グラッ…グラグラ。慌てて道路脇に車を止める。電信柱がしなりまくる。揺れが収まると胸騒ぎがした。

 …津波。

 この地にうまれたときからの教えなのか。気仙沼港の魚市場前で水産物の包装資材会社を経営する実家が気にならないわけでもなかったが、山の麓にある6歳だった長男の幼稚園に向かった。妻に送ったメール。

 《午後3時2分 パパ大丈夫。ママ次男大丈夫かな? パパ幼稚園行く》

 長男は園児、先生とバスで不安そうに待っていた。

 《午後3時22分 ママ大丈夫か。長男確保》

 返信がない。長男と待機する。…ママが来ない。

 雪が降ってきた。車内の光に反射して白いのがわかる。時折、爆音が聞こえる。町の中心が大火事で赤く染まっている。誰一人言葉を発する者はなかった。眠れず夜を過ごす。時折、園児の泣き声も聞こえる。

 メールが残っている。

 《12日午前1時28分 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫みんな生きてる。大丈夫》

 《12日午後2時26分 助かれ助かれ助かれ。お願いしますお願いしますお願いします》

 妻は震災当時、実家で長男を迎えに行く直前で、揺れが収まるまで抱き合っていた。幼稚園に車で向かうが、愛犬チワワのことを思いだしUターン。チワワを確保し再度幼稚園に向かうが道路は大渋滞。午後3時半ごろ後方の海から波が襲う。前からは川からあふれ出た波が襲いかかる。波にさらわれ慌てて次男のチャイルドシートのベルトをはずしたとき、波は車を全てのみ込んでいた。

 もがきながらなんとか後ろの窓から脱出する。両手で次男を抱えながら。

 泳げない妻が浮いたのは寒い日でダウンジャケットを着ていたため。2人とも海面から顔を出すと「プッハー」と息をした。目の前にはがれきと、叫ぶ人の声。「こっちこっち! 大丈夫か!」。近所のおじさんの家の2階に避難。びしょぬれの妻と次男におじさんは毛布を貸してくれた。

 翌12日午後、自衛隊により救助。後日、この場所で5体の遺体が見つかった。

 結局、妻と次男に再会できたのは13日の夜だった。暗い避難所を隅々探す。懐中電灯で照らすのも気がとがめた。妻と次男を発見する。何も言わず抱き合う。不思議と涙は出なかった。我慢強い妻は目の前で涙を流した。貴重な涙だった。生きているではなく…生かされている。強く感じた。

 家族がそろった。生き残った。食べるものがない。

 道端でリンゴを売っていた。1個100円。たまたま持っていた300円で息子に食べさせようと立ち寄った。「リンゴを3個」と言って300円渡すと、おばさんは「1個、2個、3個、3個、3個、3個…」とリンゴを10個、袋に詰めて渡してくれた。涙が出た。これで息子たちに食べさせられるという思いと、人の温かみに涙が止まらなかった。

 3月20日。妻の父と妻の姉の夫が千葉県香取市から500キロの道のりを10時間かけて迎えに来た。100リットルのガソリンをかき集め夜通し走ってきてくれた。

 妻の父に気仙沼に嫁がせたことを申し訳なく心が痛んだ。しかし、妻の父はそんなことにはみじんもふれず、私と妻と孫2人を快く迎えてくれた。後ろ髪を引かれる思いだったが、妻の実家に引っ越しをする。

 慣れない土地、3・11のフラッシュバックに耐えられなくなる。あの日、僕はなぜ生き残ったのか。うまれたことに助かったことに後悔さえしていた。

 あらゆる方から支援していただいた。今の福祉事業・相談員の仕事も、妻の姉の友達による紹介です。今も大変な気仙沼に残った両親からは電話が入る。「お金はあるか」「自転車送ろうか」「体に気をつけてよ」。自分が言わなければいけない言葉を言われる。思っている以上に両親の愛情を感じる。ありがとう。

 物静かな妻と長男、反抗期の次男。4人揃わなかった3日間は辛かった。本当に辛かった。いつも側にいてくれてありがとう。

 人は、ひとりでは生きていけない。生きてて…よかった。
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