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2017-07-15 13:16:25 | 日記

国名 領地名 石高 家臣名 備考
上野国 箕輪(後に高崎) 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重 ただし、1.3万石は父広孝分とされる。
宮崎(小幡) 3万石 奥平信昌
藤岡 3万石 松平康貞
大胡 2万石 牧野康成
吉井 2万石 菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水 頼忠説もある。
那波 1万石 松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国 皆川 1万石 皆川広照
下総国 結城兼常陸国内土浦 10.1万石 結城秀康
矢作 4万石 鳥居元忠
臼井 3万石 酒井家次
古河 3万石 小笠原秀政
関宿 2万石 松平康元
山崎 1.2万石 岡部長盛 康綱説もある。
蘆戸(阿知戸) 1万石 木曾義昌
守谷 1万石 菅沼定政
多古 1万石 保科正光
佐倉 1万石 三浦義次 久能宗能説もある。
岩富 1万石 北条氏勝
武蔵国 岩付(岩槻) 2万石 高力清長
騎西(寄西) 2万石 松平康重
河越 1万石 酒井重忠
小室 1万石 伊奈忠次
松山 1万石 松平家広
忍 1万石 松平家忠
羽生 1万石 大久保忠隣 2万石とも。
深谷 1万石 松平康忠
東方 1万石 戸田康長
本庄 1万石 小笠原信嶺
阿保 1万石 菅沼定盈
八幡山 1万石 松平清宗
上総国 大多喜 10万石 本多忠勝 当初は万喜とも。
久留里 3万石 大須賀忠政
佐貫 2万石 内藤家長
鳴戸(成東) 2万石 石川康通
相模国 小田原 4.5万石 大久保忠世
甘縄 1万石 本多正信
伊豆国 韮山 1万石 内藤信成
天正19年(1591年)6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。
文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった[注釈 17]。
文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[31]。
慶長元年(1596年)5月8日、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。
慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。
慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた[31]。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。
秀吉死後[編集]
豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。
伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。
このころより家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。
3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され[32]、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。
9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。
9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出し[33]、出兵は取りやめとなる[注釈 18]。これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。
またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。
対馬国の宗義智に1万石を加増。その家臣の柳川智永を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)[24][25]。
遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に越前国・府中5万石を加増。
美濃国・金山7万石の森忠政を信濃国・川中島13万7,000石に加増移封。
丹後国・宮津の細川忠興に豊後国・杵築6万石を加増。
薩摩国・大隅の島津義久に5万石を加増。
慶長5年(1600年)3月、豊後国に南蛮船(オランダ船)のリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された[35]。
関ヶ原の戦い[編集]

関ヶ原古戦場
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照
慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。
これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状#真贋論争参照。)と呼ばれる書簡を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。
6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。
この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。
さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定)。
東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政、大久保忠隣、本多正信らを付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間160通近い書状を諸大名に回送している。
正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。
9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い)[注釈 19]。
家康は自らの軍師で臨済宗の禅僧である閑室元佶(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による占筮(せんぜい)を行わせ、大吉を得た。
9月15日午前8時頃、美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。
9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。
征夷大将軍[編集]
慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る[注釈 20]。
『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
二条城の唐門
二条城の唐門
関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行った[注釈 21]。
詳細は「征夷大将軍#歴代の征夷大将軍」を参照
慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まってなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。
慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した[注釈 22]。
同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。
大御所政治[編集]
慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代の家臣である井伊直孝と板倉重昌も叙任された[36]。
慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治)。
同年、朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復した。
慶長14年(1609年)、オランダ使節と会見。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可した。
慶長16年(1611年)3月20日に九男・徳川義利(義直)、十男・頼将(頼宣)、十一男・鶴松(頼房)を叙任させた。「御三家」体制への布石といえよう[37]。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した[38]。
同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽斎を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり[39]、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる[40]。
同年、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セバスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない[41]。
慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。
大坂の陣[編集]
詳細は「大坂の陣」を参照
最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた[注釈 23]。 一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時の官位は内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られており、秀忠を上回っていた。
さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府にとっては大きな脅威となる危険性があった。
家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた[42][43]。
そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。
また、慶長17年(1612年)には佐々成政の外孫である鷹司信尚を関白に推挙している。
そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動き始める。
方広寺鐘銘事件[編集]

現在も残る方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字
豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった[41][42][43]。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である)、これは後世の俗説である[42][43]。
さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。
これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。
この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康が以心崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、当時の諱の常識からすれば不敬と考えられるものであり、豊臣側の軽率、あるいは挑発や呪詛と受け取られても無理からぬことで、また近年研究では問題化に崇伝の関与はなかったとされている[42][43][注釈 24]。
その後も鐘は太平洋戦争中の金属供出を免れ、鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。
大坂冬の陣[編集]
慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。強固な城郭を武力で落とすことに固執せず、淀殿や女官を心理的に疲弊させる策略を用いることで「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める」という徳川に有利な条件での和睦にもち込んだ。
和睦の締結後、徳川方は和睦の条件に反して内堀までも埋め立てたため、結果、慶長20年(1615年)1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。
従来の説では、豊臣方は二の丸、三の丸の破壊を形式的なもので済ませ、時間稼ぎを狙っていたが、徳川方が惣構を全ての廓と曲解することで強引に工事に参加して、豊臣側が行うとされた二の丸の破却作業も勝手に始め、さらに和議の条件に反して内堀までも埋め立てたため、豊臣側は抗議したが、最初から和議を守るつもりの無い家康はこれを黙殺したとされていた。
ただし当時の記録には和議の条件は大坂城の「惣構と内堀を含む二の丸、三の丸の破壊」であることが記されており、二の丸・内堀の破壊を行わないという記述は後世の書でのみ確認できる。また惣構を徳川方が、二の丸・三の丸を豊臣方が破壊する予定だったが、後者の作業も徳川方が行ったことは当時の記録にも記されている。しかし、これに対して豊臣方が抗議を行ったこと、時間稼ぎが目的だったこと、家康が騙すことを目的としたこと等も、後世の書でしか確認はできない。
大坂夏の陣[編集]
このころ、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。
これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相らが戦死する。しかし、天王寺・岡山の戦いにおいて徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから、豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され、毛利勝永隊4,000には、これに当たった6万もの幕府軍が、あっという間に敗退・四散した。一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自害を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんとか大坂城に退却したが、攻め寄せる15万の幕府軍を支えきれず、ついに大坂城は落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害した。ここに豊臣宗家は滅亡した。
その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。
最晩年[編集]
慶長20年(1615年)6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王を猶子とする。元和元年(1615年)7月17日、禁中並公家諸法度17条[44]を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度[45]・一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。
同年、自らの本格的な隠居の城として駿河沼津の柿田川の湧水にある古城泉頭城の縄張り・再整備を命じたが、翌年の病に倒れる直前に中止し、竹腰正信屋敷の改築に方針転換したが、何れも死去により立ち消えになっている。
元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられたが、これは、武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において死亡した。享年75[46]。即夜、久能山に遺体は移された[46]。
『東照宮御実記』が伝えるところでは、以下の2首を辞世として詠んでいる。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
死因については、鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で[注釈 25]、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは胃癌説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている[47][48]。
後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた禁忌であるという説明がなされることもあるが、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである[注釈 26]。
墓所・霊廟・神社[編集]

日光東照宮 奥社 墓所
『本光国師日記』によると、家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、葬儀は増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられた。
遺体は始め駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬される。遺言では「小き堂(=小さなお堂)をたて」とされていたが、江戸幕府は威信をかけ藤堂高虎を作事奉行とし元和3年(1617年)4月に社殿を完成させ、さらに徳川家光治世下の寛永13年(1636年)からは家康21年神忌に合わせ高虎や秋元泰朝を中心として寛永の大造替が行なわれ、今日見られる荘厳な社殿へと改築された。
神号は側近の天海と崇伝、神龍院梵舜の間で、権現と明神のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされた。この後、小槻孝亮が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し[50]、また一説によると菊亭晴季も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した[50]。日本大権現が有力候補であったが、遺言にある「八州の鎮守」という趣旨からか元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。
また、東照社は今川直房と酒井忠勝の尽力により正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり[注釈 27]、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。
現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺や高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。また、臨済宗の寺院としては、東福寺の塔頭である南明院が徳川家牌所である。なお、徳川将軍15人中寛永寺か増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光と徳川慶喜がいる[注釈 28]。
年表[編集]
和暦 西暦[注釈 29] 月日[注釈 29] 数え年 内容
天文11年 1542年 12月26日 1歳 誕生
永禄3年 1560年 5月19日 19歳 桶狭間の戦い
永禄5年 1562年 1月15日 21歳 清洲城を訪問し織田信長と同盟を結ぶ。
永禄9年 1566年 12月29日 25歳 藤原姓徳川氏に改姓。従五位下三河守叙爵
永禄11年 1568年 1月11日 27歳 左京大夫
元亀元年 1570年 6月28日 29歳 姉川の戦い
元亀2年 1571年 1月5日 30歳 従五位上
1月11日 侍従
元亀3年 1572年 10月16日 31歳 二俣城の戦い
12月22日 三方ヶ原の戦い
天正2年 1574年 1月5日 33歳 正五位下
天正3年 1575年 5月 34歳 長篠の戦い
天正5年 1577年 12月10日 36歳 従四位下
12月29日 右近衛権少将
天正8年 1580年 1月5日 39歳 従四位上
天正10年 1582年 6月2日 41歳 本能寺の変、神君伊賀越え
天正11年 1583年 10月5日 42歳 正四位下(遡及)[注釈 30]
10月7日 左近衛権中将(遡及)
天正12年 1584年 2月27日 43歳 従三位参議(遡及)
3〜4月 小牧・長久手の戦い
天正14年 1586年 10月4日 45歳 権中納言
10月27日 大坂城にて豊臣秀吉に臣従
11月5日 正三位
天正15年 1587年 8月8日 46歳 従二位権大納言。羽柴氏を下賜される(豊臣姓もか?)
12月28日 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任
天正16年 1588年 1月13日までに 47歳 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
天正18年 1590年 8月 49歳 関東移封。八月朔日、江戸城に入る。
天正20年 1592年 9月16日 51歳 豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
慶長元年 1596年 5月8日 55歳 正二位内大臣
慶長5年 1600年 9月15日 59歳 関ヶ原の戦い
慶長7年 1602年 1月6日 61歳 従一位
慶長8年 1603年 2月12日 62歳 右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下
10月16日 右大臣辞任
慶長10年 1605年 4月16日 64歳 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任
慶長19年 1614年 3月8日 73歳 朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退す。
11月〜12月 大坂冬の陣
慶長20年/元和元年 1615年 5月 74歳 大坂夏の陣
7月7日 武家諸法度制定
7月17日 禁中並公家諸法度制定
元和2年 1616年 3月17日 75歳 太政大臣
4月17日 死去
元和3年 1617年 3月9日 贈正一位
※天正15年(1587年)8月8日付の「従二位権大納言昇叙転任」の宣旨では豊臣家康の名義でなされた可能性がある。同日付で息子・徳川秀忠も侍従に任官しているが、これは豊臣秀忠名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部蔵本))。同様に、同年12月28日付の「左近衛大将左馬寮御監両官職兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付の正二位内大臣の昇叙転任の宣旨についても豊臣家康の名義であったと考えられる。現存の日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)に将軍・徳川家光の要請により朝廷が再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で豊臣から源に変更した可能性がある。
※天正15年(1587年)12月某日、従一位行左大臣近衛信輔、左近衛大将兼帯を辞す(公卿補任)。同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将及び左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。なお、文禄5年(1596年)5月8日付、家康に対する内大臣宣旨(日光東照宮文書)においては、家康の官位は、正二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿補任では、家康の左近衛大将の兼任記事は無く、権大納言鷹司信房が左近衛大将を兼任している記事となっている。
※文禄3年(1594年)9月21日付、「文禄三年徳川家康宛豊臣秀吉知行方目録」(三重県関町の関地蔵院文書:四日市市史第8巻史料編近世Ⅰ 四日市市編・発行所収)によれば、宛名(家康)は、「羽柴江戸大納言殿」となっており、この時点では、羽柴の苗字を賜わっていたと考えられる[53]。
さらに、その前年、文禄2年(1593年)5月20日に羽柴姓を使用している。東京国立博物館所蔵文書[53]。
人物・逸話[編集]

久能山東照宮にある、徳川家康の手形

徳川家康像(芝東照宮蔵)
人物[編集]
身長
家康着用の辻ヶ花染の小袖は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmであるから、身長はほぼ155cmから160cmと推定される[54]。
家康公遺訓
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた[55]。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。
武術の達人
剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。
剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流[注釈 31] 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩[注釈 32] を召抱える。塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。小田原征伐の際に橋を渡るとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。
弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記載している[56]。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。
南蛮から贈られた薄石が瑪瑙と知らされたおり、『本草綱目』で確認させたように実証的であった[56]。
多趣味
鷹狩りと薬づくりが家康の趣味として特に有名であるが、非常に多くの趣味があった。
鷹狩は、府中御殿に滞在しながら[注釈 33] お鷹の道で行われたとの記録が残っている。家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)[58]。
薬づくりは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた[58]。「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。
猿楽(現在の名称は能)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。
囲碁の本因坊算砂を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる[54]。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。
将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に扶持を与える。この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される[59]。
香道を好み薫物(たきもの)の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている[60]。なお有名な蘭奢待については使者を遣わし現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。
新しいもの好き
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。
日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱や榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している[注釈 34]。
晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており[61]、時計が好きだったようだ。
遺品として、けひきばし(コンパス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存し、家康が理系的資質を持っていたことが窺える[62]。
芸事は好まない
今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。
家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない[63]。家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押し[64]だが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花』を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
家康は、中国の人物として劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、文王、武王、周公を尊敬している。着目すべきはすべて周・漢・唐時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
容貌
家康は背が低く、肥満体で醜男であったとされている(『翁草』)[65]。下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女に結ばせていた(『岩淵夜話』)[66]。家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。
書画
『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。天正年間になると、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。家康は筆豆で、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認でき、家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、更に駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している[67]。ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。決して過食することのないようにも留意していたといわれる。酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目や和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした[60]。調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。松前慶広から精力剤になる海狗腎(オットセイ)を慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)[58][60]。欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏が薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていたが、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる[58]。家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店は今も現存する。
寡黙な苦労人
幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。結束も縁故関係による所が大きい。こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
吝嗇
家康の吝嗇(けち・りんしょく)にまつわる逸話は多い。
ふんどしは薄黄色のものを使用した。しかしこれは薄黄色だと汚れが目立たないため洗濯の回数が減るという理由からである。家来にもこれを強いたが、武骨な三河武士は下帯は白を好み、この下知にだけは従わなかったとされる。
手洗いから出て懐紙で手を拭こうとしたところ、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した。それを見て思わず笑ってしまった小姓に対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している(『葉隠覚書』)。
新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。
侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。
駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、3年で運上金千両分の銅を回収した(『渡辺幸庵対話』)。
商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。
代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。
三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。
厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。
家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。
蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。
その他[編集]
居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期及び桶狭間の戦い後10年と極めて短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。
肖像画
平成24年(2012年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された[68]。家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
『フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり[69]、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
神君伊賀越え
本能寺の変直後の神君伊賀越えでは伊賀・甲賀忍者の力添えを受けて三河国まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかったが、城主・多羅尾光俊が赤飯を与えたところ、信用して城で一泊した。その後は伊賀の豪族・百地氏、服部氏、稲守氏、柘植氏の柘植清広等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。
妖刀村正伝説
祖父の清康と父の広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、嫡男の信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将・織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ているときに家臣が取り落とし家康は指を傷付けた。聞くと、この槍も村正であったため家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになり、民間に残った村正は隠されときには銘をすりつぶして隠滅したという伝説がある。
影武者説
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