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2017-07-15 13:18:25 | 日記
銘をすりつぶして隠滅したという伝説がある。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。徳川家康の影武者説も参照。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、実際の得川氏の末裔がおり、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた[70]。
源氏への復姓時期について[編集]
先述の通り、家康は永禄9年(1566年)に藤原氏に改姓しているが、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。 天正14年(1586年)、安房国の里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており[71]、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている[72]。
近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと称したのは天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである[73]。 他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり[74]、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている[75]。
阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測してる[29]。
江戸幕府の支配に関して[編集]

徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日(1609年8月24日)付
家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており[注釈 35]、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた[24]。全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。
このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。
後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。
家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇に譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。さらに家康はこの自らの主導による天皇即位をきっかけに、秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。
一族・譜代の取り扱いに関して[編集]
息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。
長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。
関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。
忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。
しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の役で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟・忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。
徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣を改易・失脚させている。しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。
家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大賀弥四郎を鋸引きという極刑で処刑している。大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。
また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。
家康と同時代の人々[編集]
家康は、武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ[注釈 36]。その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった[注釈 37]。 家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。
そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。
その戦振りに関しては、秀吉から「海道一の弓取り」と賞賛されたと伝わる[76][77][78]。 家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の戦いでは開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番が方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓に侵入者が何者か尋ねるが、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。幼少期に今川家の人質だったころ自分に辛く当たった今川方の孕石元泰を後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。
情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。例えば三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後に真田信之、本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命している。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一向一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。
家康と宗教[編集]
戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第11世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられたことのある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。
現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している[79]。
東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命のころから始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。
ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。
また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受けることを容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。そのため、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥を対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬことを理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。
これら新興の宗派以外の古い天台宗・真言宗・法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗の知恩院を門跡に加え、更に天台宗の関東における最高権威として輪王寺に門跡を設けた。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。
一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件や岡本大八事件を経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。
家康の死後、幕府は寺請制度等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。
徳川家康のスペイン外交と浦賀[編集]
鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その眼目はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、そのスペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し[80]、西洋事情に詳しいウイリアム・アダムスを外交顧問としたという。家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を絶滅させるため、慶長6年(1601年)正月フィリピン総督に宛て公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することを伝えた。日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げをもってその土地の寺社の修復に充てる習わしであったが、家康はこの仕来りを破り、慶長7年(1602年)8月に漂着船の積荷を保証することを伝え、安心して浦賀湊に商船を派遣するようフィリピン総督に通告した[81]。つまり家康の朱印船制度創設は浦賀ースペイン外交にあったのである。浦賀にはウイリアム・アダムスの尽力により慶長9年にスペイン商船が初めて入港し、以後、毎年入港している。
メキシコ側の思慮によりアマルガム法の導入の実現には至らなかったが、慶長6年秋に上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや[82]、慶長14年(1610年)9月に上総国岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造した船で帰国させたが、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港している。このときのビスカイノは日本の東西の港の測量および金銀島探検の使命を帯びて来航したのであるが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られた[83]。そこでビスカイノは奥州の港の測量の際、伊達政宗がメキシコとの貿易を希望していたことを想い起こし、宣教師ルイス・ソテロを介して伊達政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼し、これが実現してサン・ファン・バウティスタ号の遣欧に至るのである。このとき将軍・秀忠は向井忠勝に政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。この船は江戸内海の口で座礁してしまったが[84]、このように秀忠が遣欧船を造船していた事実や、向井忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことを考えれば、政宗遣欧船は幕府の知るところであったことは疑う余地もない。
元和元年(1615年)6月、サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ浦賀湊に帰帆した。この船には政宗の家臣・横沢将監吉久や日本商人らが同船していた。しかし、家康が死去するとカタリーナに国外退去令が出され、彼らは元和2年(1616年)8月に浦賀を発航した。これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして国際貿易港としての生命は絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することなく訣別を迎えたのである[85]。
近現代における評価[編集]
江戸期を通じて神格化され[86][87]、否定的評価は禁じられており、明治維新後に家康の自由な評価が解禁された。山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼いころから我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説をきっかけに家康への再評価が始まっている。
司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。初陣を15歳で経験し、大坂夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験したが、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかったことを、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。
天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。
一方コラムニストで有るマイケル・アームストロングは、家康とその時代を世界的視野で眺めても家康に比肩する人物は居ないと評している[88]。
一族縁者[編集]
家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱、徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。
父母
父:松平広忠、母:於大の方
兄弟姉妹
異母弟妹:松平家元、内藤信成、松平忠政、樵臆恵最、市場姫
異父弟:松平康元、松平康俊、松平定勝
正室
正室・築山殿(清池院) - 関口親永(今川氏親族の関口氏(今川貞世の末裔))娘
継室・朝日姫(南明院) - 竹阿弥娘、(豊臣秀吉妹)
側室
西郡局(蓮葉院) - 鵜殿長持娘(駿河今川氏旧臣。鵜殿長照妹。松平伊忠妻姉妹)
下山殿(妙真院) - 秋山虎康娘(甲斐武田氏旧臣。のち穴山信君養女)
蔭山殿(お万)(養珠院) - 正木頼忠娘(安房里見氏旧臣、のち北条氏家臣蔭山氏広の養女。紀州藩家老正木為春妹)
小督局 於万の方(長勝院) - 永見吉英娘(知立神社神職)
西郷局(お愛)(竜泉院) - 戸塚忠春娘(三河西郷氏)
お竹(良雲院) - 市川昌永娘(甲斐武田氏旧臣)
茶阿局(朝覚院) - 遠江国金谷出身。百姓の娘とされる(前夫との娘は花井吉成妻)
お夏(清雲院) - 長谷川藤直娘(伊勢北畠氏旧臣。長崎奉行長谷川藤広妹)
お梶(英勝院) - 太田康資娘(実父は遠山直景・江戸重通など諸説あり。太田重正妹)
お梅(蓮華院) - 青木一矩娘(豊臣氏家臣)
阿茶局(須和)(雲光院) - 飯田直政娘(今川氏旧臣)
お牟須(正栄院) - 三井吉正娘(甲斐武田氏旧臣。姉妹に北条氏治母)
お亀(相応院) - 志水宗清娘(「清水」とも。石清水八幡宮社人)
お仙(泰栄院) - 宮崎泰景娘(武田家臣。お仙兄弟に宮崎泰重)
お六(養儼院) - 黒田直陳娘(武蔵七党の一つ丹党の中山氏の一族か。譜代黒田氏。)
お久(普照院) - 間宮康俊娘(後北条氏旧臣)
富子(信寿院) - 山田氏娘
法光院
三条氏
松平重吉娘
子女
男子
長男・松平信康(母:築山殿)
二男・結城秀康(母:小督局)
三男・徳川秀忠(母:西郷局)
四男・松平忠吉(母:西郷局)
五男・武田信吉(母:下山殿)
六男・松平忠輝(母:茶阿局)
七男・松平松千代(母:茶阿局)
八男・平岩仙千代(母:お亀)
九男・徳川義直(母:お亀)
十男・徳川頼宣(母:お万)
十一男・徳川頼房(母:お万)
女子
長女・亀姫(母:築山殿) - 奥平信昌室
二女・督姫(母:西郡局) - 北条氏直室のちに池田輝政室
三女・振姫(母:お竹) - 蒲生秀行・浅野長晟室
四女・松姫(母:お久)
五女・市姫(母:お梶)
猶子
八宮良純親王 - 後陽成天皇第八皇子
養子
松平家治 - 奥平信昌二男
松平忠政 - 奥平信昌三男
松平忠明 - 奥平信昌四男
養女
満天姫(葉縦院) - 松平康元娘、福島正之妻・津軽信枚正室
栄姫(大凉院) - 保科正直娘、黒田長政継室
阿姫(光照院) - 松平定勝娘、山内忠義正室
蓮姫(長寿院) - 松平康直娘、有馬豊氏室
国姫(栄寿院) - 本多忠政娘、堀忠俊妻・有馬直純継室
亀姫(円照院) - 本多忠政娘、小笠原忠脩・小笠原忠真室
万姫(敬台院) - 小笠原秀政娘、蜂須賀至鎮室
久松院 - 松平康元娘、田中忠政妻・松平成重継室
浄明院 - 松平康元娘、中村一忠妻・毛利秀元継室
唐梅院 - 松平康親娘、井伊直政正室
菊姫 - 岡部長盛娘、鍋島勝茂継室
清浄院 - 水野忠重娘、加藤清正継室
貞松院 - 保科正直娘、小出吉英室
昌泉院 - 牧野康成娘、福島正則継室
名前不詳 - 松平家清の娘、浅野長重室
名前不詳 - 松平康元娘、松平忠政(大須賀忠政)妻・菅沼定芳正室
名前不詳 - 松平康元娘、岡部長盛継室
小松姫(大蓮院) - 本多忠勝娘、真田信之正室=松代藩主真田幸道が江戸幕府に提出した諸系図には台徳院殿(徳川秀忠)娘となっている。

落胤であったとされる人物、落胤との風説が流れた人物
永見貞愛(母:小督局)[注釈 38]
松平民部(母:法光院)[90]
小笠原権之丞(母:三条氏)[90]
井伊直孝(母:)[91]
土井利勝(母:) [90][注釈 39]
2代後藤庄三郎(母:大橋局)[注釈 40]
徳川家光(母:春日局)[注釈 41]
偏諱を与えた人物[編集]
功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字(太字)を与えた。
二条康道(公家)
松平信康(長男)
結城秀康(二男)
松平家元(異母弟?)
松平康元(異父弟)
松平康俊(異父弟、康元の弟)
松平家清
松平家忠(深溝松平家)
松平家忠(家次)(東条松平家)
松平家次(桜井松平家)
松平家乗
松平家広
松平康忠(従弟・義弟)
松平康忠(矢田松平家、松平張忠の嫡男)
松平康親(松井忠次より改名)
松平康次(康重)(康親の子)
松平康長(戸田康長)
松平康安(大草松平家)
天野康景
有馬康純(家康の玄孫にあたる)
石川家成
石川康通(家成の子)
伊丹康直
伊丹康勝(康直の子)
太田康資(側近、のちの資宗)
奥平家昌
松平家治(養子・奥平家昌の実弟)
西郷家員
酒井家次
榊原康政
島津家久(初名:忠恒)
田中康政
最上家親(初名:義親)
最上家信(家親の子・義俊の初名)
本多家忠(本多忠政の別名)
本多康重
牧野康成
来島康親
山内康豊(別名:家豊)?
依田康国(依田信蕃の長男)
依田康勝(依田信蕃の二男、のち加藤康寛と名乗る)
関連史料[編集]
同時代の人物による記録
家忠日記(松平家忠)
信長公記(太田牛一) - 織田信長についての記事が主だが、同盟者の家康についての情報も多い。
慶長記(板坂ト斎)
本光国師日記(以心崇伝)
駿府政事録(駿府記とも、後藤庄三郎光次?林羅山?)
当代記(松平忠明?)
三河物語(大久保忠教) - 元和8年成立、覚書。
編纂物(資料的価値が高いとされるもの)
朝野旧聞裒藁
徳川実紀
武徳編年集成
脚注[編集]
注釈[編集]
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^ 前年の天文18年(1549年)、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされていた。
^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成』では宮カ崎とされている。
^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[8]
^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、住居が隣同士だったとも伝えている。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した判物(『愛知県史』資料編11・566号)の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
^ 家康の名は源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。
^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄-細川政元期の赤松政則、足利義稙-細川高国期の大内義興、足利義晴-細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
^ 。後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[16]の宛名が徳川改姓・三河守叙任以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[17][注釈 9]。
^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[18]。
^ 小説家の伊東潤は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城に後詰を送らなかったことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している[要出典]。
^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである。
^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノは1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている[27]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一・川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[28]。
^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[30]。
^ 『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
^ ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある[34]。
^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと。
^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述)。 清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍や皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
^
徳川家康征夷大将軍補任の宣旨
内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、 奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

(訓読文)
内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る

— 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記
※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。

^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[42]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[43]。
^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[42]。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である[1]。
^ 京で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日ごろの節制を忘れて大喰らいに到り、大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話。
^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[49]。
^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では明清交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇のときの風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[51]。
^ 徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。
^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
^ 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。以下同じ。[52]
^ 『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。
^ 柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。
^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在[57]。
^ 前者は個人蔵(画像)。後者は東京国立博物館蔵(e国宝に画像と解説あり)
^ 中には福島家のような取り潰され方をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
^ 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
^ とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹から秀吉は自身の側室に長女の茶々を、家康は後継者である秀忠の正室に三女の江を迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。
^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている[89]。
^ 『徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)ころの史料なので信憑性には疑問がある。
^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋の考察の一説。
出典[編集]
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論文
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関連作品[編集]
小説
山岡荘八『徳川家康』
『徳川家康』(1964年、NET、主演:北大路欣也・市川右太衛門) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
『徳川家康』(1965年、東映、主演:北大路欣也、監督:伊藤大輔) - 上記小説を原作とした日本映画。
『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、主演:滝田栄) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
『徳川家康 戦国最後の勝利者』(1992年、テレビ朝日、主演:北大路欣也) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
司馬遼太郎『覇王の家』
司馬遼太郎『関ヶ原』
『関ヶ原』(1981年、TBS、主演:森繁久彌) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
『関ヶ原』(2017年公開予定、東宝、主演:役所広司) - 上記小説を原作とした映画。
司馬遼太郎『城塞』
映画
『家康公 徳川栄達物語』(1911年、横田商会、監督:牧野省三)
『徳川家康』(1919年、日活、主演:尾上松之助)
テレビドラマ
『徳川家康』(1988年、TBS大型時代劇スペシャル、主演:松方弘樹)
『葵 徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ、主演:津川雅彦)
『徳川家康と三人の女』(2008年、テレビ朝日、主演:松平健)
ゲーム
『戦国BASARA』シリーズ (CAPCOM、声:大川透)
関ヶ原の戦いをモチーフとした「3」と、そのアニメ映像化作品『劇場版 戦国BASARA -The Last Party-』で主人公の一人として描かれている。
関連項目[編集]
松平状
徳川家康の影武者説
東照宮 - 日光東照宮 久能山東照宮 仙台東照宮
徳川家康の馬印
源義家 - 家康の名は義家に由来するという[要出典]。
三英傑
徳川四天王 - 徳川家康の功臣。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
徳川十六神将
久能山御蔵金銀
平塚八幡宮 - 家康が御朱印地50石を寄進し,慶長年間(1596年 - 1615年)には徳川家康が自ら参拝し、同年間の末頃に伊奈備前守忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させる。
外部リンク[編集]
ウィキクォートに徳川家康に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズには、徳川家康に関連するカテゴリがあります。
徳川家康の墓|駿府ネット 徳川家康の遺体の眠る墓は日光ではなく久能山であるという事実を詳細に検証している
徳川家康・静岡武将列伝 Shizuoka城と戦国浪漫
徳川一族について
徳川家康 司馬遼太郎が考えたこと 2 ─エッセイ1961.10〜1964.10 ─
[表示]
表 話 編 歴
三つ葉葵紋松平宗家第9代当主(1549年 - 1566年)
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表 話 編 歴
三つ葉葵紋徳川宗家初代当主(1566年 - 1605年)
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表 話 編 歴
江戸幕府将軍(初代:1603年 - 1605年)
[表示]
表 話 編 歴
太政大臣
徳川家康の戦い
桶狭間 善明堤 藤波畷 三河一向一揆 姉川 一言坂 二俣城 三方ヶ原 野田城 長篠 高天神城 甲州征伐 天正壬午の乱 小牧・長久手 上田 小田原 関ヶ原 大坂
[表示]
表 話 編 歴
豊臣政権
典拠管理
WorldCat VIAF: 45630467 LCCN: n81118846 ISNI: 0000 0001 1761 1906 GND: 11897453X SUDOC: 082954968 BnF: cb16127194q (data) NDL: 00272267
カテゴリ: 徳川家康安祥松平氏徳川氏三英傑戦国大名織豊政権の大名江戸幕府の征夷大将軍日本の神 (人物神 戦国大名)三河国の人物駿河国の人物都市の建設者印刷史に関する人物1543年生1616年没
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