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2017-04-21 18:59:49 | 日記
中川 秀直(なかがわ ひでなお、1944年(昭和19年)2月2日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(10期)。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員中川俊思の女婿。衆議院議員中川俊直は次男。名を「しゅうちょく」と有職読みされる事が少なくない。
科学技術庁長官(第54代)、内閣官房長官(第66代)、自由民主党幹事長(第39代)、自由民主党政調会長(第47代)などを歴任した。
目次 [非表示]
1 略歴
2 人物像
3 政策
3.1 「上げ潮派」
3.2 「安心基盤口座」創設
3.3 ワークシェアリング導入
3.4 公務員制度改革
3.5 再販制度の維持
3.6 人権擁護法案の推進
3.7 日本への移民受け入れを推進
3.8 女系天皇支持
3.9 センター試験への韓国語の導入
3.10 世襲立候補の制限
4 言動
4.1 道路関係団体との関係
4.2 統一協会・集団結婚に祝電
4.3 ホワイトカラーの生産性
4.4 ブログ・SNS
4.5 「忠誠心」発言
4.6 党役員として内閣官房長官を叱責
4.7 麻生クーデター説
5 麻生おろし
5.1 麻生政権以降
6 騒動
7 系譜
8 政治資金
9 主な所属していた団体・議員連盟
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
略歴[編集]
1944年2月2日 - 東京都出身。実父の佐藤胖(一級建築士、旧財閥系の建設会社の専務)は静岡県小山町出身である[1]。
1962年 - 東京都立井草高等学校卒業。
1966年 - 慶應義塾大学法学部卒業。
1966年 - 日本経済新聞社入社。政治部記者となる。
1976年 - 義父・中川俊思の地盤を継ぎ、旧広島2区から新自由クラブ公認で第34回衆議院議員総選挙に出馬し初当選
1979年 - 第35回衆議院議員総選挙で落選し、新自由クラブを離党。
1980年 - 第36回衆議院議員総選挙に無所属で出馬し、旧広島2区でトップ当選。当選後に自民党に入党。
1989年 - 自民党商工部会長として消費税導入の旗振り役を務める。
1990年 - 第39回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬するも落選。
1993年 - 第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬。旧広島2区でトップ当選し、国政復帰。
1994年 - 村山内閣で首相補佐に就任。
1996年 - 小選挙区制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙に広島4区から出馬し、当選。第1次橋本内閣で科学技術庁長官に就任し初入閣。
2000年7月 - 第2次森内閣で内閣官房長官兼沖縄開発庁長官に就任。
2000年10月 - 愛人問題や右翼団体員との会食などスキャンダルが報道され、3ヶ月で辞任に追い込まれた。この辞任劇が低迷する内閣支持率に悩まされていた森内閣に追い討ちをかけ、同年末の加藤の乱を引き起こす遠因になった。
2002年10月 - 小泉純一郎総裁の下、自民党国会対策委員長に就任。小泉首相の信任も厚く側近中の側近として知られる。その政治手腕を買われて異例の長期留任となり、2005年7月に国対委員長連続在職期間最長記録を更新。在任1127日(通算2位。通算1位は大島理森)。
2005年10月 - 自民党政調会長に就任(初の党三役入り)。
2006年9月 - 安倍晋三総裁の下で自民党幹事長に就任。党選挙対策本部長代理、党北朝鮮核実験問題対策本部長を兼務。
2007年7月 - 第21回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け、幹事長を引責辞任する意向を表明。同年8月27日の内閣改造・党役員人事において幹事長を退任。
2007年10月 - 幹事長就任以来、離脱していた町村派に復帰。福田康夫内閣での町村信孝の内閣官房長官就任を受け、町村派が集団指導体制に移行したのに伴い、町村、谷川秀善と共に町村派代表世話人に就任。
2009年8月 - 第45回衆議院議員総選挙に広島4区から出馬するも、小選挙区では民主党の空本誠喜に敗れ落選。重複立候補していた比例中国ブロックで復活した。比例中国ブロックで当選した4人の自民党候補のうち、日本看護連盟の組織内候補で比例中国ブロック1位に優遇されている阿部俊子(岡山3区で平沼赳夫に敗れ比例復活)、(小選挙区での出馬希望が通らず、コスタリカ方式でそれぞれ2・3位の)村田吉隆・河井克行を除けば、本来の意味での比例復活候補は中川のみ。
2009年10月 - 派閥政治からの脱却を宣言し、町村派を退会した[2]。なお、町村派内で共同歩調を取っていた小池百合子も、総選挙後に町村派を退会した。
2012年4月、郵政民営化法改正案に反対[3]。
2012年9月30日 - 次の衆議院選挙には立候補せず、議員を引退する意向を表明した。政治活動は継続する予定[4]。
2012年11月12日 - 自民党県連で、後継候補に次男の俊直の擁立を正式に決定[5]。12月16日の第46回衆議院議員総選挙で広島4区にて初当選して衆議院議員になる。
2016年11月 - 旭日大綬章を受章[6]。
人物像[編集]
中選挙区時代は全国でも有数の激戦区として知られるで旧広島2区[7]から立候補しており、落選経験もある。小選挙区(広島4区)になってからは、地元が近いが高齢であった谷川和穂を比例単独候補にして以来小選挙区で連勝していたが、2009年の総選挙で初めて民主党の空本誠喜に破れ、比例で復活当選した。
自身の選挙区で生まれ育ったプロボクサー坂田健史(世界ボクシング協会フライ級前選手権者)の後援会会長を務めた。
2006年4月、次男・俊直が東広島市長選に立候補する。国政選挙並みの選挙戦を繰り広げるも落選。
2000年の第42回衆議院議員総選挙において、森喜朗の指示を受けて塩川正十郎に引退を勧告した際、塩川に灰皿を投げつけられ「帰れ!」と怒鳴られた。
2006年の自民党総裁選挙では、津島派や伊吹派の候補擁立を阻止し、また積極的な多数派工作を進めて安倍晋三優位の流れを作った。
安倍晋三支持を強く主張した際、安倍政権を実現できれば中川自身は絶対に入閣しない、以後も大臣にならないと森喜朗との間で約束した。
2006年の安倍政権では総裁派閥に属する中川が自民党幹事長に選出され、総幹分離の原則を崩したことで注目された。
2006年11月、郵政造反組復党問題に絡み、党幹事長の立場として党内や世論の反発と首相の意向に考慮する形で、平沼赳夫ら造反議員に対し復党において厳しい条件を提示した。
日本銀行がゼロ金利政策解除の検討に入ったときには、「日銀法の改正」に言及した。日銀が主張する中央銀行の独立性に対して政策決定会合の議事録が10年間非公開という問題を指摘し透明性の確保がない独善と白川方明(当時日銀総裁)を批判した。
2007年2月18日、「首相が入室したときに起立せず、閣議が始まっても私語をやめないなど、忠誠心がない閣僚は官邸から去るべき」「閣僚や官僚には、首相に対する絶対的な忠誠心が必要だ」などと発言し、党内外にて大きな反響を呼ぶ。詳細は#「忠誠心」発言を参照。
2007年2月22日、中川の自宅や後援会事務所が、財団法人所有の土地に建てられていることが発覚した。財団法人は公益法人であり、政治家の後援会や個人の自宅として私的使用することが問題視されている(詳細は#財団法人自宅提供問題を参照)。
2007年の自民党総裁選挙では、麻生太郎幹事長が安倍晋三首相(いずれも当時)の辞意を聞きながら、翻意を促すことなく逆に政権獲得に動いたとされる、いわゆる「麻生クーデター説」を流布したとされる。
自身の選挙区である広島県安芸郡府中町出身・同年齢の作家大下英治からは「しゅうちょく」さんと呼ばれている
政策[編集]
「上げ潮派」[編集]
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