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2017-07-12 12:47:09 | 日記
拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる[4][170]。
フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は[171][172]、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている[50][102][146][173][174]。
拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談[175]や、小室哲哉との対談でその一端を言及している[176][注釈 7]。
近田春夫[177]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[178]。
喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している[179]。
小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ[161][180]、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している[161]。
小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している[181]。
福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル、山田耕筰のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」などと話している[182]。
佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている[183]。
歌唱法[編集]
山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している[172]。
小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[184]。
織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている[185]。
YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという提示を受けた気がする」と述べている[186]。
小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している[9]。
こうした作詞法[注釈 8]や作曲法、テーマ設定[注釈 9]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[注釈 10][187]。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[188]。
多様な音楽ジャンルへのアプローチ[編集]
アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり[16][189]、ザ・ベンチャーズやボブ・ディラン、サム&デイヴ、ビートルズらを渉猟した拓郎は[190]、フォークのみに依拠したわけではない[16][99][191][192]。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため[94]、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある[193]。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」などと話している[22]。篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」と論じている[194]。相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」と論じている[195]。北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている[99]。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している[196]。牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている[197]。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく[13]。
桑田佳祐は著書で、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている[198]。
1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している[199]。
アルバム製作[編集]
ロックバンドと共同でのアルバム制作
1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス[注釈 11]を起用した。
スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった[200][注釈 12]。
浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
アルバム・セールス時代の先鞭
1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌か女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に[注釈 13]、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[9][201]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[202]。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳、井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである[203]。
ライブ・アルバム
拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる[204]。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った[205][206]。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[207]。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった[208]。
コンサート・ツアー[編集]
1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する[5][61][209][210]。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった[211]。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[212]。
1973年10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった[213]。
1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだった[4][214][215]。
1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった[注釈 14][216]。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[217]。ゲストに小室等、長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである[218][219]。
2006年9月23日、31年ぶりにつま恋でかぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。
音楽ビジネスへの影響[編集]
テレビ出演拒否[編集]
1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行う[2][4][9][220][221]。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている[222]。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある[223]。
歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした[224]。
紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した。そのため、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着した[225]。
女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到した[222]が、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った[2][226]。
「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[227][226][228]。
彼のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した[222][229]。これは各所属事務所、或いはレコード会社の戦略によるものであった[220][注釈 15]。
拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが[230]、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ[231]。
相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている[232]。
1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった[233]。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている[233]。
フォークの地位の向上[編集]
フォークをロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となる[6][88][234][235]。
1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した[50][59][236][237]。エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った[238]。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった[239]。拓郎が1972年1月、CBSソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて本気で考えたといわれる[239]。アーティストの権利意識とビジネスとしての確立はここに端を発す[239]。
マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[240]。
「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている[241]。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した[242][243]。
小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。
『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している[244][245]。
拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者[246]、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物がきくち伸である[247]。
コマーシャルソング[編集]
ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりである[248][249]。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[190][250]。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。吉田拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[251]。
僕の旅は小さな叫び
CMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」[252]。
松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N)の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった[252]。
この年は他にSEIKOとタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他[252]、中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC(全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[253]。
HAVE A NICE DAY
1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[249][254][255]。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった[256]。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった[257][258][259]。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる[256]。CMの作詞作曲料は85万円[252]。
1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続きACC全日本CMフェスティバル入賞[260]。同年、りりぃに山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された[252][261]。
これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった[252][254]。
これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになった[262]。広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[257][263][注釈 16]。
小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[264]。
桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分をこわしたこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[265]。
新旧の音楽界の交流の活性化[編集]
森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[266]。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[267][268]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[269][270][271]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[272][273]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた[274]。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[275]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[270][276]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[173]。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった[270]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[277][278][279][280][281]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[282][283][284]。
ミュージシャン系プロデューサーの先駆
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された[285]。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される[61]。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし[286]、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られないR&B+ 浪花節をベースとするコンポーザーである[279]。
かまやつひろし
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[279][287][288]。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲[289]。『ミュージックフェア』で共演もしている。
キャンディーズ
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで[290]、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[291]。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われており[292]真偽は不明。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている[293][294]。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[295]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)[296]。キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し[297]、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している[298]。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない[173][299]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った[300][301]。
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![302]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
梓みちよ
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという[303]。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している[304]。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの[305]。1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した[306]。
原田真二
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ [307][308]原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[282][283]。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆や瀬尾一三を交えて合宿させたり[309]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した[310][311][312]。
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[注釈 17]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[313]フォーライフの危機をも救った[314][315][316]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[311][317]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[284][318][319][320]。アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの[321][322][323]。
石野真子
石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[324]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[325]。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった[326][327]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[328]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
なかにし礼
1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした[329][330]。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している[330]。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した[331]。
ラジオ・パーソナリティとして[編集]
しゃべり(MC)の魅力
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている[332][333]。田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している[55]。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた[110]。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった[110]。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである[110]。
拓郎のファンになった切っ掛けとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[334][335]。 ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[336]。
初期の拓郎の"しゃべり(MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[337]。
こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた[338]。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた[339]。
拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており[221]、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[88][340][341]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。
ミュージシャン・パーソナリティ
1971年10月にパックインミュージックのパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した[4][342][343][344]。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[345]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[346][347][348]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[346][349]。亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[350]。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと述べている[351]。
楽曲のプロモーション
ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[352]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[352][353]。
出演[編集]
現在の出演[編集]
「吉田拓郎の千夜一夜」→「吉田拓郎 YOKOSO」(NHK BSプレミアム、2013年 - )
過去の出演[編集]
テレビ[編集]
音楽番組
愉快にオンステージ(NHK総合、1989年10月23日・1990年1月29日)ホストとして出演。
LOVE LOVE あいしてる(フジテレビ、1996年 - 2001年3月31日)KinKi Kidsと共に司会を担当。
ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること(フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、篠原ともえと共にメインパーソナリティを担当。
吉田拓郎〜これからも元気です(TBS、2001年2月10日)
吉田拓郎デラックス(NHK-BShi、2002年12月9日)
拓郎・マチャミのみんな歌えるスーパーヒット(フジテレビ、2003年10月12日)
吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編(NHK-BS2、2006年10月29日)
大いなる明日へ 〜復活!吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)
テレビドラマ
おはよう(TBS、1972年7月5日 - 1972年10月25日) - マリの兄・吉野役
あこがれ共同隊(TBS、1975年) - ゲスト出演
なつかしき海の歌(TBS、1975年9月21日) - テレビ局AD・下沢役
男なら!(TBS、1979年9月4日) - 本人役で第22話にゲスト出演。
しあわせ戦争(TBS、1980年10月8日) - ミュージシャン・岸本衆役として第6話にゲスト出演
幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(日本テレビ、1982年11月16日) - 高杉晋作役
マッハブイロク・Big大作戦(フジテレビ、2000年6月29日) - 本人役
バラエティ
地球ZIG ZAG(TBS、1993年4月 - 1994年3月)隊長(司会)を担当。
吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
T×2 SHOW(テレビ朝日、2000年10月 - 2002年9月)高見沢俊彦と共に司会を担当。
旅番組
吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - 牧瀬里穂・ラサール石井と共演。
吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - 中村雅俊と共演。
吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - 中村雅俊・眞鍋かをりらと共演。
ドキュメンタリー番組
吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
スーパーテレビ情報最前線 『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
プレミアム10 『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)
ラジオ[編集]
パックインミュージック(TBSラジオ、1972年4月 - 9月)
たくろうの気ままな世界(TBSラジオ、1972年10月 - 1973年5月)
バイタリス・フォークビレッジ(ニッポン放送、1972年)
吉田拓郎のオールナイトニッポン(ニッポン放送、1974年4月 - 1975年12月、1980年10月 - 1982年3月)
セイ!ヤング(文化放送、1978年4月 - 1980年3月)
ヤングタウンTOKYO・サタデーナイトカーニバル(TBSラジオ、1980年4月 - 1981年10月)
フォーエバー・ヤング(TOKYO FM、1985年1月 - 1988年2月)
吉田拓郎 CLUB25→吉田拓郎 CLUB26→吉田拓郎 CLUB26プラスワン(TOKYO FM、1995年1月 - 1996年12月)
吉田拓郎のオールナイトニッポンDX(ニッポン放送、1997年10月 - 1998年3月)
吉田拓郎 それイケ!(ニッポン放送、1998年4月 - 1999年3月)
吉田拓郎のSuper Music Stadium(ニッポン放送、2000年10月 - 2001年3月)
吉田拓郎とアスリートな彼女たち(ニッポン放送、2001年10月 - 2002年3月)
セイ!ヤング21(文化放送、2002年10月 - 2003年3月)
吉田拓郎 わがままベスト10(ニッポン放送、2003年10月 - 2004年3月)
俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル(ニッポン放送、2008年2月24日)
吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます(ニッポン放送、2008年8月)
坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD(ニッポン放送、2009年12月 - 2013年9月)
元気です!吉田拓郎(ニッポン放送、2010年10月 - 2012年3月)
映画[編集]
女子学園ヤバイ卒業(1970年) - 本人役
百万人の大合唱(1972年) - 本人役
刑事物語 くろしおの詩(1985年) - 屋台のラーメン屋の客役
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年) - 高杉晋作役
微熱少年(1987年) - カメラマン役
CM[編集]
サッポロビール「サッポロ☆ドライ」(1988年) 広岡達朗と共演
TaKaRa「純」レジェンド(1994年)
サンヨー食品「カップスター」(1999年)
ユニクロ(2001年)
NHK紅白歌合戦出場歴[編集]
NHK紅白歌合戦には1994年に初出場。バックバンドは宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)、さらにバックコーラスとして五木ひろし、森進一、前川清という豪華の顔ぶれのステージとなった。
年度/放送回 回 曲目 出演順 対戦相手
1994年(平成6年)/第45回 初 外は白い雪の夜 11/25 松田聖子(10)
関連人物[編集]
主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)[編集]
あ行
青山徹
浅川マキ
朝倉真司
新井英治
荒井由実
石井宏太郎
石川鷹彦
石川鉄男
石山恵三
伊藤明夫
稲葉政裕
井上慎二郎
井口喜典
今井マサキ
今泉正義
岩崎元是
内山修
エルトン永田
遠藤賢司
大嶋吾郎
大滝裕子
大西順子
大村雅朗
岡沢章
奥野恵
小倉博和
小田原豊
小原礼
か行
加藤和彦
金沢英明
鎌田清
鎌田裕美子
かまやつひろし
神本宗幸
川上恭生(KYON)
菊谷淳子
岸義和
木田高介
木戸やすひろ
国吉良一
栗林稔
小出道也
後藤次利
駒沢裕城
小室等
さ行
斎藤ノヴ
坂井リエコ
坂崎幸之助
佐藤竹善
佐藤準
澤田駿吾
重田真人
島村英二
清水信之
清水仁
陣内大蔵
陣山俊一
鈴木茂
砂原俊三
隅山時一
瀬尾一三
た行
高中正義
高橋研
高見沢俊彦
田口清
武部聡志
武部秀明
田代耕一郎
館野江里子
田中章弘
田中清司
田辺和博
チト河内
常富喜雄
坪倉唯子
トータス松本
徳武弘文
富倉安生
富田京子
鳥山雄司
な行
中川雅也
中沢厚子
中島みゆき
中西康晴
中村哲
成沢彰三
西川進
納見義徳
野村義男
は行
浜口茂外也
林立夫
土方隆行
日野皓正
日野元彦
平野融
Bro.TOM
古川望
古川昌義
ま行
松尾一彦
松田弘
松任谷正隆
松原正樹
美久月千晴
南こうせつ
宮川泰
宮田繁男
宮下文一
村石雅行
村上秀一
森高千里
や・ら・わ行
矢島健
柳田ヒロ
山川恵子
山田秀俊
山中雅文
山本拓夫
湯川トーベン
よしだけいこ
吉田建
吉田美奈子
米倉利紀
若子内悦郎
渡嘉敷祐一
渡辺格
渡辺香津美
グループ
愛奴
THE ALFEE
オフコース
かぐや姫
トマト ストリングス
トランザム

ハイ・ファイ・セット
バズ
ピピ&コット
マックス
六文銭
外国人
エリック・ワイズバーグ
ガース・ハドソン
ジェイク・コンセプション
デヴィッド・リンドレー
ブッカー・T・ジョーンズ
マーク・ゴールデンバーグ
ラス・カンケル
リーランド・スカラー
3度の結婚[編集]
四角佳子
最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ[221]。
二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。
スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[221]。
四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる[354]。
浅田美代子
二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。
後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使ったわけである。
一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。
なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった[355]。
最初にこの二人の熱愛報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也・樹木希林夫妻の奔走があったという[356]。
以上、2度の結婚式の披露宴の司会は、いずれも山本コウタローと南こうせつのコンビが務めた[357]。
森下愛子
その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した[76]。
「吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅」[358]や『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』[359]での、拓郎と中村雅俊の話では、拓郎と森下をくっつけたのは中村。中村から拓郎に夜に電話があり「いま、森下さんと飲んでるんだけど来ませんか」と誘われ、朝8時まで3人で飲んだ。中村はTBSのドラマの撮影が朝8時から大船であったので、「拓郎さん、ホテルに行っちゃいなさい」とアドバイスしてその場を去り、2時間半遅れで大船に到着した。拓郎と森下はその後ホテルに行ったと話している。
「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[360]。
他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[361][362]。
ただ、「(ドラマ『純と愛』の)主人公のような夫がほしいなぁ」とも吐露。拓郎さんは違うのか?と問われ「まだまだ調教が必要。」と答えている[363]。
その他
自分の持ち番組に、自身がファンのアイドル・女優をゲストで呼び、その後結婚というパターンを長渕剛が石野真子との結婚の時にした[173][364][365]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[325]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[325][361]。
交友関係[編集]
ミュージシャン[編集]
浅川マキ
浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、渋谷ジァン・ジァンで唄う浅川を見に来ていたという[366]。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている[367][368]。
写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影を依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由[369]。
浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[366]。
THE ALFEE
1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・BE∀T BOYS)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶり見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った[370][112]。
高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの[371]。高見沢は“王子”キャラの元祖である[372]。アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[373]。
飯田久彦
拓郎と同じく歌手出身のレコード会社社長経験者という共通点もあり、懇意にしている。
拓郎がフォーライフレコードからインペリアルレコードに移籍したのは、飯田がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。また、飯田がエイベックスの取締役に就任した後、拓郎も飯田を慕いエイベックスに移籍した[374]。
泉谷しげる
泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた[375]。
1999年のかまやつひろしの還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン、井上陽水、堺正章、桃井かおり、アルフィー、今井美樹、石井竜也、NOKKOらが集まって[376]東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった[377]。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた[378][379][380]。
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