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2017-07-12 12:42:07 | 日記
吉田拓郎

この項目には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。
百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理をノートで検討しています。(2008年12月)
吉田 拓郎
出生名 吉田 拓郎
別名 よしだ たくろう
入江 剣
生誕 1946年4月5日(71歳)
日本の旗 日本 鹿児島県伊佐郡大口町
(現:伊佐市)
出身地 日本の旗 日本 広島県広島市(現南区)
学歴 広島商科大学(現:広島修道大学)卒業
ジャンル フォークソング
職業 シンガーソングライター
作詞家
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカル
ギター
ハーモニカ
ベース
コーラス
活動期間 1970年 -
レーベル ELEC
(1970年 - 1971年)
ODYSSEY/CBS SONY
(1972年 - 1975年)
FORLIFE
(1975年 - 1999年)
IMPERIAL
(2000年 - 2009年)
avex trax
(2009年 - )
事務所 竹田企画
共同作業者 新六文銭
瀬尾一三
愛奴
かまやつひろし
松任谷正隆
ブッカー・T・ジョーンズ
加藤和彦
LOVE LOVE ALL STARS
吉田建
武部聡志
鳥山雄司
公式サイト 吉田拓郎 avex official website
著名使用楽器
ギブソンJ-45
マーチンD-35
ヤマハL-53
フェンダー・テレキャスター(ビグスビー・アーム付きモデルなど多数)
フェンダー・テレキャスター・シンライン
ギブソン・レスポール
ヤマハCPX-15NA
吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、フォーライフレコードの第2代社長である。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。楽曲提供者としては入江剣[1]の名も用いている。
目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
2.1 生い立ち
2.2 アマチュア期
2.3 よしだたくろう期(1970年 - 1974年)
2.3.1 エレック所属期
2.3.2 CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期
2.4 吉田拓郎以降
3 ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍
4 シンガーソングライターとして
4.1 音楽性
4.2 影響を受けたミュージシャン
4.3 作詞法
4.4 作曲法
4.5 歌唱法
4.6 多様な音楽ジャンルへのアプローチ
4.7 アルバム製作
4.8 コンサート・ツアー
4.9 音楽ビジネスへの影響
4.9.1 テレビ出演拒否
4.9.2 フォークの地位の向上
4.9.3 コマーシャルソング
4.9.4 新旧の音楽界の交流の活性化
5 ラジオ・パーソナリティとして
6 出演
6.1 現在の出演
6.2 過去の出演
6.2.1 テレビ
6.2.2 ラジオ
6.2.3 映画
6.2.4 CM
6.2.5 NHK紅白歌合戦出場歴
7 関連人物
7.1 主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)
7.2 3度の結婚
7.3 交友関係
7.3.1 ミュージシャン
7.3.2 ミュージシャン以外
8 脚注
8.1 注釈
8.2 出典
9 参考文献
9.1 著書
9.2 解説書等
10 外部リンク
人物[編集]
夫人は四角佳子→浅田美代子→森下愛子。血液型A型。身長176.5cm。
竹田企画所属。レコードレーベルはエレックレコード→CBSソニー→フォーライフ・レコード→インペリアルレコード→avex trax。
日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[2][3][4][5][6][7]、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である[8][9][10][11][12][13]。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした[12][14][15][16][17]。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している[18]。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される[19]。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
1946年4月5日に、鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)で生まれる[20]。その後、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現:鹿児島市)に転居し[21]、小学二年生まで在住[20]。以降、広島県広島市南区西霞町育ち。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている[21]。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者[20]。父は吉田家に養子に入った人で[20]、鹿児島県の郷土史家である吉田正廣[22]。両親の出身地は知らない[20]、母方の祖母が広島の出身と話している[20]。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄と別居となり、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した[20]。鹿児島時代、音楽への関心はまったくなかったが[22]、立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、休暇中に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった[22]。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた[22]。1962年に皆実高校に入学し、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した[23]。曲を作り始めたのは高校に入ってからで[22]、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した[22]。
1965年に広島商科大学(現・広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった[24]。
アマチュア期[編集]
1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場[22]。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱し[22]、中国大会2位、全国3位となる[25]。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが[22]、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く[26]、単身上京した[26]。 1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏した[27][28]。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のない演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した[29]。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる[30]。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成[31][32]。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした[33]。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い[34]、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジを浴びせられた[35]。 1969年には、カワイ楽器広島店[36]に就職内定したが[37]、上智大学全共闘のメンバー[38]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した[39]。 1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した[40]。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した[7]。
よしだたくろう期(1970年 - 1974年)[編集]
エレック所属期[編集]
1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職する[41][42]。エレックはまともな仕事は取ってこれず[43]、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[44]。6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが[45]、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される[46][47][48]。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる[49]。1971年10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション[50]『ユイ音楽工房[注釈 1]』を設立[50][51]。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供[52]。
CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期[編集]
1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ[53]。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売りあげた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された[54]。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になった[54]。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった[55]。2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱[56]。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた[57]。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた[58]。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げた[59][60]。
1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放された[61][62]。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ[63]。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた[62]。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した[64]。
拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」が第16回日本レコード大賞を受賞した際、上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取った[65]。
吉田拓郎以降[編集]
1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)[66][67][68][69]。 6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社[50]『フォーライフ・レコードを発起した[5][46]。これを機に「吉田拓郎」と改名する。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する[70]。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる[71]。
1976年4月に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている[72]。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月に浅田美代子と再婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した[73][74]。
70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんて恐くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である[75][76]。
『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど[77]、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La(シャングリ・ラ)』を発表した[16]。 1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、フォーライフ・レコード社長を退任。 1983年に浅田美代子と協議離婚する。 1985年6月15日には、国立競技場で国際青年年(IYY)記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正とともに企画運営し、司会をつとめて、5万人の観客を動員した。同年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演する(映画公開は翌1986年正月)。 1986年12月に森下愛子と再々婚する。 1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する[78]。
新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売する(2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。 1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。 1999年9月30日にフォーライフレコードとの専属アーティスト契約を解消する。
2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。 2003年4月に、肺ガン手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。 2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日まで そして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。 2009年2月にavexに移籍する[15][注釈 2]。6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。 7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる[79]。
2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する[80]。
ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍[編集]
詳細は「吉田拓郎の作品一覧」を参照
シンガーソングライターとして[編集]
音楽性[編集]
政治性を排除
自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は[9][54][81][82]、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[注釈 3]を浴び、石を投げられることもあった[5][9][54]。「アングラこそがフォーク」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した[83]。
1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[84]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった[85][86]。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件)[87][88][89]。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった[90]。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった[9]。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで[7][55][91]、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた[92]。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った[93]。
反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない[94][95]。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである[94]。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる[90]。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やした[90]。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく[96]、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた[9][83][95][97][98]。北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じている[99]。寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている[100]。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず[101]、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」などと述べている[102]。菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている[103]。スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けたがしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」などと評している[96]。60年代のカレッジフォークや社会派フォークとはまったく異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった[56]。馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何よりプロテストソング全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている[12]。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている[104]。富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている[105]。
自作自演スタイルの一般化
ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ[106]、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[107]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた[108][109]。
泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている[110]。拓郎ほどその生きざまと歌がぴったり一致しているアーティストはいない[111]。
それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した[82][94][112]。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった[7][112]。
拓郎の効果でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた[113][注釈 4]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた[114][115][116]。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ[117]。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた[118]。
ニュー・フォーク
『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌いあげている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された[119]。
『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した[120]。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった[121][122][123]。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが[93]、これらは拓郎登場以降の呼び方である[93]。
拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった[124]。なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている[61]。
1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく[95][125][126]。
影響を受けたミュージシャン[編集]
洋楽の原点
洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス「夏の日の恋」など映画音楽だった[127]。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[128][129]。
ボブ・ディラン
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[9][16][130]。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している[131]。
"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー"、"ビートルズにドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている[132]。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという[133]。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある[134]。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している[135]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している[136]。
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[9][88][137]。
山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ(Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという[138]。
パクリとアンチテーゼ
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[139]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[140]、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[141]。
拓郎は関西フォークが嫌いで[142]、関西フォークと自分の音楽の違いを"私たちの歌"と"私の歌"と述べている[142]。『イメージの詩』は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している[143][144]。
作詞法[編集]
字余りの作詞法
曲作りに多用した"字余り、"字足らずという作詞法は[4][7][145][146][147]、日本に於けるその元祖といわれ[148][149][150]、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた[112][146][150][151][注釈 5][152]。
それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜ひとつにひとつの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない[145][153]、言葉を自由にメロディに載せる、或いは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである[4][12][154][145][155]。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである[111]。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない[4]。
ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べている[156]。
他に"コードとリズムの上に、歌詞をのせていくような""メロディを歌うというよりも、詩を語っているような""アドリブで歌っているような"という表現もされた[157]。
この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった[158][159]。
小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている[160]。
小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕はザ・フォーク・クルセダーズもジャックスも岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」などと述べている[161]。
拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」[162]、成毛滋は「だいたい"字余りソング"なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」などと批判している[163]。
です・ます調の普及者
作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその"普及者"といわれる[145][164][165][注釈 6]。
拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた[166]。
拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている[167]。
こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。
穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た[165][168][169]。
作曲法[編集]
拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる[4][170]。
フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は[171][172]、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている[50][102][146][173][174]。
拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談[175]や、小室哲哉との対談でその一端を言及している[176][注釈 7]。
近田春夫[177]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[178]。
喜多条忠は、拓郎を
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