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2015-11-11 08:03:55 | 日記
ういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)は、日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。称号は箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。人物戦後、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、マスメディアからは「右翼のドン」と呼ばれた。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。経歴としては、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから、有罪認定はされていないが、A級戦犯容疑指定を受けたことが、その後左翼的な報道機関により意図的に報じられることが多かったこともあり誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことを「A級戦犯で極東国際軍事裁判において有罪となった」と信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の没後に公表された。
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笹川良一
」(
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2015-11-11 08:03:08 | 日記

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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)は、日本の政治運動家、社会... This Page is automatically generated based on what Facebook users are interested in, and not affiliated with or endorsed by ...
[PDF]((SASAGAWA)) Ryoichi - CIA FOIA
www.foia.cia.gov/.../SASAKWA,%20RYOICHI_0014....
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CONF IDENTIAL. INFORMATION ON ((SASAGAWA)) Ryoichi. (Gist of the info passed to the FBI in Feb 84 and info from Nov 87. State cable). In November 1987, billed by the Japanese press as the. "Godfather of Japan", conservative business ...
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INSEAD Ryoichi Sasakawa Young Leaders Fellowship ...
mba.insead.edu/schlmgmt/dsp_schl_info.cfm?schlcode...
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This scholarship is an endowed gift to INSEAD from the Ryoichi Sasakawa Young Leaders Fellowship Fund (Sylff). The Fund was established in 1987 by the Nippon Foundation in cooperation with the Sasakawa Peace Foundation. In its initial ...
Sasakawa ryoichi ga gendai ni hanatsu keiku 80. - WorldCat
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Sasakawa slips between the lines | Times Higher Education
https://www.timeshighereducation.com/.../sasakawa.../9...
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For all his immense wealth and power, Ryoichi Sasakawa's death last week from heart failure, at the age of 96, was recorded in Japan with a brevity that betrayed the most intense discomfort. At once sinister and outrageous, complex and ...
Sasakawa, Ryoichi - Britannica.com
www.britannica.com/biography/Ryoichi-Sasakawa
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Ryoichi Sasakawa, Japanese businessman, philanthropist, and suspected World War II criminal who used his vast wealth, amassed from a gambling empire, to aid international charitable organizations (b. May 4, 1899--d. July 18, 1995).
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2015-11-11 08:02:48 | 日記
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Ryoichi Sasakawa - Wikipedia, the free encyclopedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Ryoichi_Sasakawa
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Ryoichi Sasakawa (笹川 良一, Sasakawa Ryōichi, May 4, 1899 – July 18, 1995) was a Japanese businessman, politician, and philanthropist. He was born in Minoh, Osaka. In the 1930s and during the Second World War he was active both in ...
Prewar activity - Sugamo prison - Postwar activity - Nippon Foundation
Obituary: Ryoichi Sasakawa - The Independent
www.independent.co.uk › News › People
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2011/09/17 - The last of Japan's A-class war criminals has died, a nonagenarian multimillionaire. In the land where most people do their utmost to pass unnoticed, Ryoichi Sasakawa stood out as a monster of egotism, greed, ruthless ...
The Ryoichi Sasakawa Young Leaders Fellowship Fund (Sylff)
www.tokyofoundation.org › ... › Programs
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Sylff, the Ryoichi Sasakawa Young Leaders Fellowship Fund, was established in 1987 to support graduate students in fields falling within the parameters of the social sciences, humanities, and the performing arts. Endowments of $1 million ...
Sasakawa, a Respected War Criminal, by Denis Boneau
www.voltairenet.org/article30028.html
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2004/05/17 - Leader of a Japanese fascist party, Ryoichi Sasakawa developed a private army to exploit Manchuria and Mongolia. Convicted of the worst crimes during World War II, he was not tried by the Allies but he was retrained by the ...
Ryoichi Sasakawa - SourceWatch
www.sourcewatch.org/index.php/Ryoichi_Sasakawa
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2013/02/28 - Ryoichi Sasakawa. In 1984, at the age of seventy-one, Norman Borlaug "was drawn out of retirement by Ryoichi Sasakawa, who with Jimmy Carter was working to get African agriculture moving. Carter was campaigning in ...
www.debito.org: Old archive, DFS on the Sasakawa Peace ...
www.debito.org/sasakawa.html
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The Sasakawa Peace Foundation was created by Sasakawa Ryoichi who died a year or so ago. The funds came from a gambling concession that he received from the early postwar government for services rendered. Ultimately these can be ...
Ryoichi Sasakawaの意味 - 英和辞典 Weblio辞書
ejje.weblio.jp › 英和辞典・和英辞典 › 百科事典
Ryoichi Sasakawaの意味や和訳。 出典:『Wikipedia』 (2011/05/22 23:14 UTC 版)Ryoichi Sasakawa (笹川 良一, Sasakawa Ryōichi?, May 4, 1899 – Jul... - 約986万語ある英和辞典・和英辞典。発音・イディオムも分かる英語辞書。
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笹川良一
ささかわ りょういち
政治家
笹川 良一は、日本の政治運動家、社会奉仕活動家。 国粋大衆党総裁、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。称号は箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。 ウィキペディア
生年月日: 1899年5月4日
生まれ: 大阪府 大阪市
死没: 1995年7月18日, 東京都
子: 笹川陽平、 笹川堯
設立団体: 日本財団
著書: 人類みな兄弟、 巣鴨日記
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2015-11-11 08:01:41 | 日記
いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた岸信介らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題
笹川堯(次男 - 自由民主党衆議院議員)
笹川陽平(三男 - 日本船舶振興会(通称「日本財団」)会長・社団法人全国モーターボート競走会連合会名誉会長)
笹川貴生(陽平の長男 - かつてNTTドコモに勤務し、松永真理が率いていたi-modeの開発チームに在籍していた[28]現在、岩井証券取締役)
糸山英太郎(義理の甥 - 元国会議員で湘南工科大学名誉総長、日本航空エグゼクティブ・アドバイザーなどを務める)
なお、笹川一族と親密とされている企業としては、内外タイムス・日本トーター・岩井証券・研音グループなどがある。

孝養の像

笹川良一・孝子像(笹川記念会館)

笹川良一・孝子像(笹川記念会館)
笹川は大変に母親思いであった。笹川記念会館、箕面市箕面及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。これは、笹川良一が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って香川県仲多度郡琴平町・金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。
「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
「世界は一家、人類は皆兄弟」との碑文が刻まれている。
なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。
映画出演

『フライング 飛翔』 監督・脚本・曽根中生、企画・横山やすし、 東映=東映クラシックフィルム 1988年 (連合会会長の役として)
参考文献

著書
『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年
桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年
『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月
『人類みな兄弟』 講談社、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4
伊藤隆・渡辺明・校訂、笹川良一著『巣鴨日記』 中央公論社 1997年2月 ISBN 4120026507
参考図書・関連文献
『笹川良一研究 異次元からの使者』 佐藤誠三郎 中央公論社 1998年 ISBN 4120028178
『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』 佐藤誠三郎 中央公論新社 1999年 ISBN 4120028992
塩田道夫『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』 日本文芸社 1988年 ISBN 4537021144 (巣鴨プリズンにおける戦犯らの姿を笹川良一中心に描く)
山岡荘八『破天荒 人間笹川良一』 有朋社 1978年
黒瀬昇次郎『笹川良一伝 世のため人のために』 到知出版社 2001年 ISBN-10 4884746112
神山榮一『颯爽たる人生 笹川良一』産経新聞ニュースサービス 2001年 ISBN-10 4594031404 (元側近による笹川の素顔)
『笹川良一の真相』 鎌田慧 (『ルポ 権力者』講談社文庫 1993年 ISBN 978-4061855045 に所収)
別冊宝島編集部『「カルト」の正体』宝島社文庫 1999年12月 ISBN 4796616853 (元統一教会の幹部、西川勝のインタビューに笹川とのエピソードがある。)
『二人の首領』 落合信彦 集英社文庫 1988年 ISBN 978-4087493726
脚注

^ 佐藤『正翼の男』p.16
^ 義理の娘婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して何とか事態を乗り切ることに成功している
^ 大阪鉄道の買占めでは恐喝容疑で大阪刑務所に約3年間収監された(ただし、法廷闘争を経て無罪となり釈放されている)
^ 山本五十六の後援があったと言われている
^ この背景には、米ソの冷戦進行が予想以上に早く進展していたためと推測されている。笹川は、東京裁判組以外のA級戦犯としては岸信介、安倍源基、児玉誉士夫らとともに遅くまで収監されていた組であり、方針転換がなければ第2次、第3次あるいはBC級の各裁判で裁かれる予定だった。秦郁彦著の『昭和史の謎を追う 下』(文春文庫)等も参照のこと。
^ 山岡荘八によれば「彼は志願してでも、戦犯にならなければならないと決心」(『破天荒』)したと言われ、入獄にあたっては派手に軍艦マーチを流すなど敢えて戦犯として入獄することを自ら演出していた
^ 御厨貴『巣鴨日記』解説 p.8
^ 笹川家には戦犯や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを公表することはなかった
^ 『巣鴨日記』笹川良一
^ 『正翼の男』 佐藤誠三郎
^ 『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』塩田道夫
^ それ以前に面木公昭や福島世根らによって競艇の構想があり、彼らは大野伴睦の支援を乞うたが不調に終わっていた
^ 矢次も福島と交友関係があり、その縁で福島を笹川に引き合わせている
^ 衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため。このため藤・矢次らは広川弘禅宅に押しかけて法案の通過を迫っている
^ もっとも草創期には足立正(のち全国モーターボート競走会連合会初代会長)や中島久萬吉などの財界人を表立って擁立し、笹川らは実務を取り仕切っていた
^ 収益を機械工業(特に造船業)振興に振り向ける動きが運輸省内であり、それに対抗する意味合いもあった。事実、競艇の収益の少なからざる部分が笹川のファミリー企業に流れているなど公私混同も問題になっていた[要出典]
^ 1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した
^ 山本栄一『よみがえれ アフリカの大地ーー笹川グローバル2000の軌跡』ダイヤモンド社1997年
^ 加えて前述したように、競艇の収益の少なからざる部分が笹川系の企業に入っていた[要出典]
^ 加えて運輸省や通商産業省からの天下りによる所轄官庁との癒着も批判の理由の一つにもなっている
^ 落合信彦は『二人の首領』でアメリカ中央情報局との繋がりがあると指摘している。
^ 佐藤誠三郎『正翼の男』p.34
^ 笹川の死後は深見東州(学習塾みすず学苑や宗教団体ワールドメイトの経営者)が代わって支援している。深見の父・半田利晴は笹川の知遇を得て皇族の身辺整理などで活躍したことがあり、深見自身も生前から笹川の世話になっていた
^ 『笹川良一研究』はしがき 佐藤誠三郎
^ 笹川の死後は未亡人の澄江が会長職を継いだ
^ 笹川『平民心書』
^ 佐藤『正翼の男』p.36-39
^ 松永真理『iモード事件』角川書店 2000年
外部リンク

笹川記念会館
日本財団四十年の歩み 会長の交代
系図でみる近現代 第21回 笹川良一 糸山英太郎 佐々木真太郎
水野心ブログ(フリージャーナリスト)
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 中立的観点に議論ある項目 | 日本の政治運動家 | 日本の社会運動家 | 日本の右翼活動家 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 競艇 | 東京裁判 | 大阪府の政治家 | 箕面市 | 1899年生 | 1995年没
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ウィキペディアについて
免責事項する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。
競艇
モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にした『ライフ』誌にボート写真が載っているのを見たことであったという[12]。出所から2ヶ月も経たない1949年2月頃から藤や矢次一夫[13]と計らってモーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。競争法は参議院での否決後での衆議院の再可決[14]など紆余曲折を経て成立したが、競艇の主宰をめぐって笹川・矢次[15]らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。
1952年に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年には同連合会の会長に就任した。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として1962年に日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務めた[16]。その際、日本船舶振興会のCMに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。
尚、高見山、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは1975年から会長を務めた財団法人日本防火協会のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年から1994年まで[17]。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「戸締まり用心、火の用心」のおじいさんとして認識されている。ギャンブルによって一家崩壊や自殺者を招いている現状から、あまりにストレートな善行の呼びかけは、かえってマスコミや「リベラル」な知識人から「偽善的」と受け止められることが多かった。
笹川の競艇創設の栄誉をたたえ、SG競走の「笹川賞競走」が毎年5月に行われている。
社会奉仕活動
日本船舶振興会の活動によって海外では社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として知られ、1978年~1979年に開催された宇宙科学博覧会協会の総裁も務めた。1982年には国連平和賞を受賞している。
振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動などさまざまな社会奉仕活動を推し進めていった。中でも特筆されるのは、WHOの天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、またハンセン病患者の救済である。ハンセン病のワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。アフリカにおける「緑の革命」プロジェクトでは日本からのODAを補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献した[18]。
日本各地に『B&G(Blue sea & Green land)海洋センター』名の体育館等のスポーツ施設を整備(設置者はB&G財団(ブルーシー・アンド・グリーンランド財団))。各種スポーツ団体とも親交を深めた。
振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であったし、笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった。だが、その一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた[19]ことは「公私混同」との批判を招くことになった[20]。また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって財団の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。
反共産主義の活動
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた[21]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。統一協会とはある時期まで協力関係にあり、1963年には、統一協会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一協会が1968年に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、文鮮明との関係が悪くなったためか、1972年には「反共運動から手を引く」と勝共連合名誉会長を辞任した。 更に仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代にもなっている。
笹川は、反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り政界の黒幕として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで却って言動に足枷がついてしまうという考えていた[22]。
中華民国と中華人民共和国との関係
笹川自身、反共の立場を取り且つA級戦犯容疑者の一人であったにも関わらず、日中国交回復以後は競艇で得た収益金の一部を中華人民共和国への支援に回すなど中華人民共和国への支援を熱心に行っている。このため中華人民共和国での笹川はVIP待遇だった。1987年から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ千人にものぼる。また、中華民国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した[23]。
タブーと親交
生前、新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで大物右翼である笹川良一と関係が深い統一協会、その別働隊だった右翼団体国際勝共連合に関する批判的言説を発表することは、ある種のタブーとなっていたと指摘されている。政財界・右翼団体・暴力団をも動かせる力とTV新聞雑誌の大広告主である笹川の癪に障ることを怖れたためである。しかし統一協会に関しては1992年に合同結婚式に有名タレントが出席した頃より大きく報道されるようになり、笹川自身に関しては1994年に『文藝春秋』でジャーナリスト加賀孝英が「笹川一族の崩壊」という記事を掲載した頃から徐々にタブーが解かれてきている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。海外では、黒幕としての評価がある一方、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはカーター元アメリカ大統領、ジョン・ロックフェラーなどもいる[24]。
社会奉仕活動の一環で各種武道団体スポーツ団体への協力も行っていた。剣道、空手では代表も務めた。また一人一派で流派が乱立していた詩吟関係の団体を纏め上げ、日本吟剣詩舞振興会会長を務めている[25]。
遺産
生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。[26]」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年7月18日、急性心不全のため死去。享年96。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、団体からの退職金、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円、相続税約7億5千万円で、相続人中、長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男は返済に苦労することになった[27]。 ただし、笹川一族が事実上競艇の利権を世襲しているのが現状であるとの見方もある[要出典]。
栄典

芸術文化勲章(フランス1993年)、大勲位ボルタ章(ガーナ1989年)、大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ1989年)、白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ1989年)、勲一等旭日大綬章(1987年)、マハトマ・ガンジー世界平和賞(1987年)、マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年)、ライナス・ポーリング人道主義章(1983年)、ヘレン・ケラー国際賞(1983年)、国連平和賞(1982年)、勲一等瑞宝章(1978年)、大綬景星勲章(中国1977年)、勲一等修交勲章光化章(韓国1976年)など、その他多数受章
親類

笹川勝正(長男)
笹川堯(次男 - 自由民主党衆議院議員)
笹川陽平(三男 - 日本船舶振興会(通称「日本財団」)会長・社団法人全国モーターボート競走会連合会名誉会長)
笹川貴生(陽平の長男 - かつてNTTドコモに勤務し、松永真理が率いていたi-modeの開発チームに在籍していた[28]現在、岩井証券取締役)
糸山英太郎(義理の甥 - 元国会議員で湘南工科大学名誉総長、日本航空エグゼクティブ・アドバイザーなどを務める)
なお、笹川一族と親密とされている企業としては、内外タイムス・日本トーター・岩井証券・研音グループなどがある。

孝養の像

笹川良一・孝子像(笹川記念会館)

笹川良一・孝子像(笹川記念会館)
笹川は大変に母親思いであった。笹川記念会館、箕面市箕面及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。これは、笹川良一が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って香川県仲多度郡琴平町・金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。
「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
「世界は一家、人類は皆兄弟」との碑文が刻まれている。
なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。
映画出演

『フライング 飛翔』 監督・脚本・曽根中生、企画・横山やすし、 東映=東映クラシックフィルム 1988年 (連合会会長の役として)
参考文献

著書
『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年
桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年
『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月
『人類みな兄弟』 講談社、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4
伊藤隆・渡辺明・校訂、笹川良一著『巣鴨日記』 中央公論社 1997年2月 ISBN 4120026507
参考図書・関連文献
『笹川良一研究 異次元からの使者』 佐藤誠三郎 中央公論社 1998年 ISBN 4120028178
『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』 佐藤誠三郎 中央公論新社 1999年 ISBN 4120028992
塩田道夫『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』 日本文芸社 1988年 ISBN 4537021144 (巣鴨プリズンにおける戦犯らの姿を笹川良一中心に描く)
山岡荘八『破天荒 人間笹川良一』 有朋社 1978年
黒瀬昇次郎『笹川良一伝 世のため人のために』 到知出版社 2001年 ISBN-10 4884746112
神山榮一『颯爽たる人生 笹川良一』産経新聞ニュースサービス 2001年 ISBN-10 4594031404 (元側近による笹川の素顔)
『笹川良一の真相』 鎌田慧 (『ルポ 権力者』講談社文庫 1993年 ISBN 978-4061855045 に所収)
別冊宝島編集部『「カルト」の正体』宝島社文庫 1999年12月 ISBN 4796616853 (元統一教会の幹部、西川勝のインタビューに笹川とのエピソードがある。)
『二人の首領』 落合信彦 集英社文庫 1988年 ISBN 978-4087493726
脚注

^ 佐藤『正翼の男』p.16
^ 義理の娘婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して何とか事態を乗り切ることに成功している
^ 大阪鉄道の買占めでは恐喝容疑で大阪刑務所に約3年間収監された(ただし、法廷闘争を経て無罪となり釈放されている)
^ 山本五十六の後援があったと言われている
^ この背景には、米ソの冷戦進行が予想以上に早く進展していたためと推測されている。笹川は、東京裁判組以外のA級戦犯としては岸信介、安倍源基、児玉誉士夫らとともに遅くまで収監されていた組であり、方針転換がなければ第2次、第3次あるいはBC級の各裁判で裁かれる予定だった。秦郁彦著の『昭和史の謎を追う 下』(文春文庫)等も参照のこと。
^ 山岡荘八によれば「彼は志願してでも、戦犯にならなければならないと決心」(『破天荒』)したと言われ、入獄にあたっては派手に軍艦マーチを流すなど敢えて戦犯として入獄することを自ら演出していた
^ 御厨貴『巣鴨日記』解説 p.8
^ 笹川家には戦犯や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを公表することはなかった
^ 『巣鴨日記』笹川良一
^ 『正翼の男』 佐藤誠三郎
^ 『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』塩田道夫
^ それ以前に面木公昭や福島世根らによって競艇の構想があり、彼らは大野伴睦の支援を乞うたが不調に終わっていた
^ 矢次も福島と交友関係があり、その縁で福島を笹川に引き合わせている
^ 衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため。このため藤・矢次らは広川弘禅宅に押しかけて法案の通過を迫っている
^ もっとも草創期には足立正(のち全国モーターボート競走会連合会初代会長)や中島久萬吉などの財界人を表立って擁立し、笹川らは実務を取り仕切っていた
^ 収益を機械工業(特に造船業)振興に振り向ける動きが運輸省内であり、それに対抗する意味合いもあった。事実、競艇の収益の少なからざる部分が笹川のファミリー企業に流れているなど公私混同も問題になっていた[要出典]
^ 1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した
^ 山本栄一『よみがえれ アフリカの大地ーー笹川グローバル2000の軌跡』ダイヤモンド社1997年
^ 加えて前述したように、競艇の収益の少なからざる部分が笹川系の企業に入っていた[要出典]
^ 加えて運輸省や通商産業省からの天下りによる所轄官庁との癒着も批判の理由の一つにもなっている
^ 落合信彦は『二人の首領』でアメリカ中央情報局との繋がりがあると指摘している。
^ 佐藤誠三郎『正翼の男』p.34
^ 笹川の死後は深見東州(学習塾みすず学苑や宗教団体ワールドメイトの経営者)が代わって支援している。深見の父・半田利晴は笹川の知遇を得て皇族の身辺整理などで活躍したことがあり、深見自身も生前から笹川の世話になっていた
^ 『笹川良一研究』はしがき 佐藤誠三郎
^ 笹川の死後は未亡人の澄江が会長職を継いだ
^ 笹川『平民心書』
^ 佐藤『正翼の男』p.36-39
^ 松永真理『iモード事件』角川書店 2000年
外部リンク

笹川記念会館
日本財団四十年の歩み 会長の交代
系図でみる近現代 第21回 笹川良一 糸山英太郎 佐々木真太郎
水野心ブログ(フリージャーナリスト)
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 中立的観点に議論ある項目 | 日本の政治運動家 | 日本の社会運動家 | 日本の右翼活動家 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 競艇 | 東京裁判 | 大阪府の政治家 | 箕面市 | 1899年生 | 1995年没
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2015-11-11 08:01:41 | 日記
いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた岸信介らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。
競艇
モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にした『ライフ』誌にボート写真が載っているのを見たことであったという[12]。出所から2ヶ月も経たない1949年2月頃から藤や矢次一夫[13]と計らってモーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。競争法は参議院での否決後での衆議院の再可決[14]など紆余曲折を経て成立したが、競艇の主宰をめぐって笹川・矢次[15]らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。
1952年に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年には同連合会の会長に就任した。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として1962年に日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務めた[16]。その際、日本船舶振興会のCMに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。
尚、高見山、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは1975年から会長を務めた財団法人日本防火協会のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年から1994年まで[17]。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「戸締まり用心、火の用心」のおじいさんとして認識されている。ギャンブルによって一家崩壊や自殺者を招いている現状から、あまりにストレートな善行の呼びかけは、かえってマスコミや「リベラル」な知識人から「偽善的」と受け止められることが多かった。
笹川の競艇創設の栄誉をたたえ、SG競走の「笹川賞競走」が毎年5月に行われている。
社会奉仕活動
日本船舶振興会の活動によって海外では社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として知られ、1978年~1979年に開催された宇宙科学博覧会協会の総裁も務めた。1982年には国連平和賞を受賞している。
振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動などさまざまな社会奉仕活動を推し進めていった。中でも特筆されるのは、WHOの天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、またハンセン病患者の救済である。ハンセン病のワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。アフリカにおける「緑の革命」プロジェクトでは日本からのODAを補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献した[18]。
日本各地に『B&G(Blue sea & Green land)海洋センター』名の体育館等のスポーツ施設を整備(設置者はB&G財団(ブルーシー・アンド・グリーンランド財団))。各種スポーツ団体とも親交を深めた。
振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であったし、笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった。だが、その一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた[19]ことは「公私混同」との批判を招くことになった[20]。また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって財団の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。
反共産主義の活動
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた[21]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。統一協会とはある時期まで協力関係にあり、1963年には、統一協会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一協会が1968年に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、文鮮明との関係が悪くなったためか、1972年には「反共運動から手を引く」と勝共連合名誉会長を辞任した。 更に仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代にもなっている。
笹川は、反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り政界の黒幕として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで却って言動に足枷がついてしまうという考えていた[22]。
中華民国と中華人民共和国との関係
笹川自身、反共の立場を取り且つA級戦犯容疑者の一人であったにも関わらず、日中国交回復以後は競艇で得た収益金の一部を中華人民共和国への支援に回すなど中華人民共和国への支援を熱心に行っている。このため中華人民共和国での笹川はVIP待遇だった。1987年から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ千人にものぼる。また、中華民国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した[23]。
タブーと親交
生前、新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで大物右翼である笹川良一と関係が深い統一協会、その別働隊だった右翼団体国際勝共連合に関する批判的言説を発表することは、ある種のタブーとなっていたと指摘されている。政財界・右翼団体・暴力団をも動かせる力とTV新聞雑誌の大広告主である笹川の癪に障ることを怖れたためである。しかし統一協会に関しては1992年に合同結婚式に有名タレントが出席した頃より大きく報道されるようになり、笹川自身に関しては1994年に『文藝春秋』でジャーナリスト加賀孝英が「笹川一族の崩壊」という記事を掲載した頃から徐々にタブーが解かれてきている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。海外では、黒幕としての評価がある一方、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはカーター元アメリカ大統領、ジョン・ロックフェラーなどもいる[24]。
社会奉仕活動の一環で各種武道団体スポーツ団体への協力も行っていた。剣道、空手では代表も務めた。また一人一派で流派が乱立していた詩吟関係の団体を纏め上げ、日本吟剣詩舞振興会会長を務めている[25]。
遺産
生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。[26]」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年7月18日、急性心不全のため死去。享年96。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、団体からの退職金、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円、相続税約7億5千万円で、相続人中、長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男は返済に苦労することになった[27]。 ただし、笹川一族が事実上競艇の利権を世襲しているのが現状であるとの見方もある[要出典]。
栄典

芸術文化勲章(フランス1993年)、大勲位ボルタ章(ガーナ1989年)、大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ1989年)、白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ1989年)、勲一等旭日大綬章(1987年)、マハトマ・ガンジー世界平和賞(1987年)、マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年)、ライナス・ポーリング人道主義章(1983年)、ヘレン・ケラー国際賞(1983年)、国連平和賞(1982年)、勲一等瑞宝章(1978年)、大綬景星勲章(中国1977年)、勲一等修交勲章光化章(韓国1976年)など、その他多数受章
親類

笹川勝正(長男)
笹川堯(次男 - 自由民主党衆議院議員)
笹川陽平(三男 - 日本船舶振興会(通称「日本財団」)会長・社団法人全国モーターボート競走会連合会名誉会長)
笹川貴生(陽平の長男 - かつてNTTドコモに勤務し、松永真理が率いていたi-modeの開発チームに在籍していた[28]現在、岩井証券取締役)
糸山英太郎(義理の甥 - 元国会議員で湘南工科大学名誉総長、日本航空エグゼクティブ・アドバイザーなどを務める)
なお、笹川一族と親密とされている企業としては、内外タイムス・日本トーター・岩井証券・研音グループなどがある。

孝養の像

笹川良一・孝子像(笹川記念会館)

笹川良一・孝子像(笹川記念会館)
笹川は大変に母親思いであった。笹川記念会館、箕面市箕面及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。これは、笹川良一が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って香川県仲多度郡琴平町・金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。
「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
「世界は一家、人類は皆兄弟」との碑文が刻まれている。
なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。
映画出演

『フライング 飛翔』 監督・脚本・曽根中生、企画・横山やすし、 東映=東映クラシックフィルム 1988年 (連合会会長の役として)
参考文献

著書
『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年
桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年
『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月
『人類みな兄弟』 講談社、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4
伊藤隆・渡辺明・校訂、笹川良一著『巣鴨日記』 中央公論社 1997年2月 ISBN 4120026507
参考図書・関連文献
『笹川良一研究 異次元からの使者』 佐藤誠三郎 中央公論社 1998年 ISBN 4120028178
『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』 佐藤誠三郎 中央公論新社 1999年 ISBN 4120028992
塩田道夫『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』 日本文芸社 1988年 ISBN 4537021144 (巣鴨プリズンにおける戦犯らの姿を笹川良一中心に描く)
山岡荘八『破天荒 人間笹川良一』 有朋社 1978年
黒瀬昇次郎『笹川良一伝 世のため人のために』 到知出版社 2001年 ISBN-10 4884746112
神山榮一『颯爽たる人生 笹川良一』産経新聞ニュースサービス 2001年 ISBN-10 4594031404 (元側近による笹川の素顔)
『笹川良一の真相』 鎌田慧 (『ルポ 権力者』講談社文庫 1993年 ISBN 978-4061855045 に所収)
別冊宝島編集部『「カルト」の正体』宝島社文庫 1999年12月 ISBN 4796616853 (元統一教会の幹部、西川勝のインタビューに笹川とのエピソードがある。)
『二人の首領』 落合信彦 集英社文庫 1988年 ISBN 978-4087493726
脚注

^ 佐藤『正翼の男』p.16
^ 義理の娘婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して何とか事態を乗り切ることに成功している
^ 大阪鉄道の買占めでは恐喝容疑で大阪刑務所に約3年間収監された(ただし、法廷闘争を経て無罪となり釈放されている)
^ 山本五十六の後援があったと言われている
^ この背景には、米ソの冷戦進行が予想以上に早く進展していたためと推測されている。笹川は、東京裁判組以外のA級戦犯としては岸信介、安倍源基、児玉誉士夫らとともに遅くまで収監されていた組であり、方針転換がなければ第2次、第3次あるいはBC級の各裁判で裁かれる予定だった。秦郁彦著の『昭和史の謎を追う 下』(文春文庫)等も参照のこと。
^ 山岡荘八によれば「彼は志願してでも、戦犯にならなければならないと決心」(『破天荒』)したと言われ、入獄にあたっては派手に軍艦マーチを流すなど敢えて戦犯として入獄することを自ら演出していた
^ 御厨貴『巣鴨日記』解説 p.8
^ 笹川家には戦犯や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを公表することはなかった
^ 『巣鴨日記』笹川良一
^ 『正翼の男』 佐藤誠三郎
^ 『天皇と東条英機の苦悩 -- A級戦犯の遺書と終戦秘録』塩田道夫
^ それ以前に面木公昭や福島世根らによって競艇の構想があり、彼らは大野伴睦の支援を乞うたが不調に終わっていた
^ 矢次も福島と交友関係があり、その縁で福島を笹川に引き合わせている
^ 衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため。このため藤・矢次らは広川弘禅宅に押しかけて法案の通過を迫っている
^ もっとも草創期には足立正(のち全国モーターボート競走会連合会初代会長)や中島久萬吉などの財界人を表立って擁立し、笹川らは実務を取り仕切っていた
^ 収益を機械工業(特に造船業)振興に振り向ける動きが運輸省内であり、それに対抗する意味合いもあった。事実、競艇の収益の少なからざる部分が笹川のファミリー企業に流れているなど公私混同も問題になっていた[要出典]
^ 1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した
^ 山本栄一『よみがえれ アフリカの大地ーー笹川グローバル2000の軌跡』ダイヤモンド社1997年
^ 加えて前述したように、競艇の収益の少なからざる部分が笹川系の企業に入っていた[要出典]
^ 加えて運輸省や通商産業省からの天下りによる所轄官庁との癒着も批判の理由の一つにもなっている
^ 落合信彦は『二人の首領』でアメリカ中央情報局との繋がりがあると指摘している。
^ 佐藤誠三郎『正翼の男』p.34
^ 笹川の死後は深見東州(学習塾みすず学苑や宗教団体ワールドメイトの経営者)が代わって支援している。深見の父・半田利晴は笹川の知遇を得て皇族の身辺整理などで活躍したことがあり、深見自身も生前から笹川の世話になっていた
^ 『笹川良一研究』はしがき 佐藤誠三郎
^ 笹川の死後は未亡人の澄江が会長職を継いだ
^ 笹川『平民心書』
^ 佐藤『正翼の男』p.36-39
^ 松永真理『iモード事件』角川書店 2000年
外部リンク

笹川記念会館
日本財団四十年の歩み 会長の交代
系図でみる近現代 第21回 笹川良一 糸山英太郎 佐々木真太郎
水野心ブログ(フリージャーナリスト)
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 中立的観点に議論ある項目 | 日本の政治運動家 | 日本の社会運動家 | 日本の右翼活動家 | 日本の国会議員 (1890-1947) | 競艇 | 東京裁判 | 大阪府の政治家 | 箕面市 | 1899年生 | 1995年没
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