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2017-05-19 11:43:27 | 日記

 水銀汚染の恐ろしさを世界に知らしめ水俣病やカネミ油症患者の医療にも携わり、国内外の公害問題で活発な発言を続けた原田正純さん(77)。胎児性水俣病を確認して50年の節目の死に、関係者から惜しむ声が相次いだ。

【死去の一報】訃報:原田正純さん死去77歳…水俣病研究の第一人者

 4月23日に原田さんの自宅を訪ねたNPO法人「水俣フォーラム」(東京)の実川(じつかわ)悠太事務局長は「病床でも『患者さんを1人にしちゃいかん』と繰り返した」と振り返り「患者から学ぶ姿勢を貫き、それが差別され医療に対する信頼を失いつつあった患者の救いとなった」とその死を惜しんだ。

 約50年前、原田さんの診察を受けた水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかない」と語った。

 また、研究を共にした中地重晴・熊本学園大学教授(環境化学)は「本当にまじめな先生で公害被害者の立場に立ち、体制側に取り込まれないという信念を貫かれた。生き方を尊敬している。皆で先生の思いを継ぎ、被害者の救済につなげていきたい」と話した。

 公害研究を通じて約25年前から原田さんを知る津田敏秀・岡山大大学院教授(疫学)は「いろいろな患者団体や考えの人が参加した運動を『よかたい、よかたい』と言ってまとめる姿が印象的だった」と振り返った。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(47NEWS [外部リンク]http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061101002469.html)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 原田正純さん死去:胎児性水俣病を確認…患者から学ぶ貫き(毎日jp [外部リンク]http://mainichi.jp/select/news/20120612k0000m040099000c.html)

 水銀汚染の恐ろしさを世界に知らしめ水俣病やカネミ油症患者の医療にも携わり、国内外の公害問題で活発な発言を続けた原田正純さん(77)。胎児性水俣病を確認して50年の節目の死に、関係者から惜しむ声が相次いだ。

 4月23日に原田さんの自宅を訪ねたNPO法人「水俣フォーラム」(東京)の実川(じつかわ)悠太事務局長は「病床でも『患者さんを1人にしちゃいかん』と繰り返した」と振り返り「患者から学ぶ姿勢を貫き、それが差別され医療に対する信頼を失いつつあった患者の救いとなった」とその死を惜しんだ。

 約50年前、原田さんの診察を受けた水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかない」と語った。

 また、研究を共にした中地重晴・熊本学園大学教授(環境化学)は「本当にまじめな先生で公害被害者の立場に立ち、体制側に取り込まれないという信念を貫かれた。生き方を尊敬している。皆で先生の思いを継ぎ、被害者の救済につなげていきたい」と話した。

 公害研究を通じて約25年前から原田さんを知る津田敏秀・岡山大大学院教授(疫学)は「いろいろな患者団体や考えの人が参加した運動を『よかたい、よかたい』と言ってまとめる姿が印象的だった」と振り返った。

◆20120612 水俣病患者ら故原田さんを惜しむ(南日本新聞社 [外部リンク]http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=41102)

 「公害の原点」とされる水俣病研究の第一人者である熊本市の医師、原田正純さん=さつま町出身=が11日深夜、77歳で亡くなった。胎児性水俣病の存在を突き止め、水銀汚染の恐ろしさを海外にも発信するなど、活動は医学の分野だけにとどまらず、「ノーモア・ミナマタ」の情熱は最後まで衰えなかった。訃報から一夜明けた12日、水俣病患者や研究者らは故人の死を惜しんだ。

◆20120612 水俣病研究の第一人者 原田正純氏死去 77歳(東京新聞 [外部リンク]http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012061202000091.html)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師で熊本学園大水俣学研究センター顧問の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が十一日午後十時十二分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南七の自宅で死去した。七十七歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。 

 熊本大大学院に在籍していた一九六一年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 六四年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。六五年に同論文で日本精神神経学会賞を受賞した。

 一連の水俣病訴訟では患者側証人として出廷し、複数の症状の組み合わせを求める国の認定基準を批判し、より広く認定するよう訴えた。

 二〇〇二年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。〇五年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げセンター長に就任し、医学以外の視点からも水俣病研究を先導し続けた。

 著書も多く、「水俣病」(岩波書店)は英語、韓国語などに翻訳され、問題を世界に広く伝えた。「水俣が映す世界」(日本評論社)で大仏次郎賞を受賞した。

◆20120612 水俣病研究の原田正純氏が死去(nikkansports.com [外部リンク]http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120612-965967.html)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 胎盤は毒物を通さないということが通説だった1964年、母親の胎盤を経由し胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。65年に日本精神神経学会賞を受賞。

 2002年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。05年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げてセンター長に就任し、医学以外の視点からも水俣病研究を先導し続けた。

 ブラジルや中国など海外にも出掛け、水俣病の疑いのある患者を発見した。「水俣病」など水俣病関連の著書も多い。(共同)

◆20120612 [つぶやき] 訃報:原田正純先生(Limnology 水から環境を考える [外部リンク]http://d.hatena.ne.jp/Limnology/20120612/p1)

◆20120612 原田正純さん死去:「水俣の教訓、次世代へ」 最後まで意欲--熊本学園大会見(毎日jp [外部リンク]http://mainichi.jp/area/news/20120612ddg041040006000c.html)

 11日に77歳で死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純さんが10年までセンター長を務めた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市中央区)は12日、原田さんのお別れ会を14日正午から、熊本市東区月出8の1の5の玉泉院月出会館で行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。現センター長の花田昌宣教授らが記者会見し、原田さんの功績をたたえ、死を悼んだ。

 同センターによると、お別れ会は原田さんの遺志で無宗教の自由葬で営まれるという。

 記者会見した花田教授は「原田先生は最後まで『水俣病の教訓を次世代、特に子供たちに伝えたい』と意欲を燃やしていた」と話し、原田さんが子供向けの内容の本など執筆活動も精力的に続けていたことを明かした。10年に血液のがんと診断されたが、最近は自身の意思で抗がん治療を受けず、輸血を受けながら自宅で静養していたという。

 花田教授によると、11日は夕方まで意識がはっきりしており、椅子に座って庭を眺めながら寿美子さん(68)に「庭がきれいね、ありがとう」と言葉をかけた。最期は寿美子さんや2人の娘、弟に看取られてベッドで息を引き取った。

◆20120612 原田正純氏・死去・・・77歳・・・・・我々は、もう絶対に忘れてはならない・・・・!!!!!(方木さんの日記 [外部リンク]http://d.hatena.ne.jp/houkisan/20120612/1339463032)

◆20120612 水俣病と生きる 医師・原田正純の50年 ドキュメンタリー番組(siniaimacoco Hatena::Diary [外部リンク]http://d.hatena.ne.jp/siniaimacoco/20120612/1339480029)

◆20120612 原田正純先生逝く(リタイアして想う [外部リンク]http://sorami108.blog.fc2.com/blog-entry-250.html)

◆20120612 14日に故原田正純氏のお別れ会(@niftyニュース [外部リンク]http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2012061201001463/1.htm)

 11日死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純氏が顧問を務めていた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)は12日、原田氏のお別れ会を14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院月出会館で執り行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。同センターによると、原田氏は2010年に白血病を発症、今年春から体調が悪化して自宅療養を続けていたという。

◆20120612 原田正純さん死去=水俣病研究の第一人者 (時事通信社 [外部リンク]http://woman.infoseek.co.jp/news/society/story.html?q=120612jijiX456)

 水俣病研究の第一人者で、元熊本学園大教授の医師原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市の自宅で死去した。77歳だった。鹿児島県出身。葬儀の日程や喪主などは未定。

 1962年、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆し、有機水銀が胎児に重大な障害を与えることを突き止め、「胎児性患者」の存在を明らかにした。以降、「公害の原点」と言われる水俣病の研究を半世紀にわたり続けた。

 34年鹿児島県生まれ。64年3月に熊本大大学院医学研究科を卒業し、同大助教授などを経て99年熊本学園大教授。「水俣病」「水俣が映す世界」など著書も多く、大仏次郎賞や吉川英治文化賞などを受賞した。 

◆20120612 原田正純氏が死去 / 水俣病研究の第一人者(佐賀新聞 [外部リンク]http://www.saga-s.co.jp/news/global/corenews.0.2222624.article.html)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 14日に故原田正純氏のお別れ会 水俣病研究の第一人者(岩手日報 [外部リンク]http://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack_c.cgi?c_national_l+CO2012061201001462_1)

 11日死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純氏が顧問を務めていた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)は12日、原田氏のお別れ会を14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院月出会館で執り行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。

 同センターによると、原田氏は2010年に白血病を発症、今年春から体調が悪化して自宅療養を続けていたという。

 花田昌宣センター長は記者会見で「(原田氏は)弱者に寄り添って生きてきた人だった」と話した。

◆20120612 原田正純さんが逝去されました(一般財団法人水俣病センター相思社 原田正純さんと相思社職員弘津の思い出 [外部リンク]http://www.soshisha.org/jp/archives/853)

◆20120612 原田正純さんインタビュー「水俣病患者とは誰か」(一般財団法人水俣病センター相思社 2011年2月にインタビューし、ごんずい120号に掲載したものを再掲 [外部リンク]http://www.soshisha.org/jp/archives/866)

◆20120612 14日に故原田正純氏のお別れ会 水俣病研究の第一人者(中國新聞 [外部リンク]http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CO2012061201001462.html)

 11日死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純氏が顧問を務めていた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)は12日、原田氏のお別れ会を14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院月出会館で執り行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。

 同センターによると、原田氏は2010年に白血病を発症、今年春から体調が悪化して自宅療養を続けていたという。

 花田昌宣センター長は記者会見で「(原田氏は)弱者に寄り添って生きてきた人だった」と話した。

◆20120612 原田正純さんお疲れ様でした(隙だらけ 好きだらけ日記――映像 写真 文学 そして風景 [外部リンク]http://nagata-kozo.com/?p=8723)

◆20120612 原田正純さん死去=水俣病研究の第一人者(時事ドットコム [外部リンク]http://www.jiji.com/jc/zc?k=201206/2012061200014)

 水俣病研究の第一人者で、元熊本学園大教授の医師原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳だった。鹿児島県出身。葬儀の日程や喪主などは未定。
 1962年、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆し、有機水銀が胎児に重大な障害を与えることを突き止め、「胎児性患者」の存在を明らかにした。以降、「公害の原点」と言われる水俣病の研究を半世紀にわたり続けた。
 34年鹿児島県生まれ。64年3月に熊本大大学院医学研究科を卒業し、同大助教授などを経て99年熊本学園大教授。「水俣病」「水俣が映す世界」など著書も多く、大仏次郎賞や吉川英治文化賞などを受賞した。

◆20120612 原田正純医師の訃報を知って。(花さんの「婆ぁのくせに・・・・」 [外部リンク]http://hanaco.tblog.jp/?eid=291509)

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(山梨日日新聞web版 [外部リンク]https://www.sannichi.co.jp/kyodo/news2.php?genre=Main&newsitemid=2012061101002469)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 水俣病研究の第一人者、原田正純さん死去(YOMIURI ONLINE 九州発 [外部リンク]http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20120612-OYS1T00191.htm)

 「公害の原点」とされる水俣病研究の第一人者で、胎児性患者の存在を明らかにした元熊本学園大教授の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳だった。自宅は熊本市東区長嶺南7の1の30。

 鹿児島県出身。水俣病の公式確認から5年後の1961年に熊本県水俣市を訪れて以来、水俣病患者の診察や症状の研究に従事。熊本大講師、助教授を務め、研究グループの一員として患者の診断や聞き取りを行った。その過程で、母親の胎内でメチル水銀を摂取して生まれた胎児性患者の存在に気付き、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆して62年の胎児性患者の水俣病認定へとつなげた。

 一方、多くの水俣病訴訟で患者側の証人に立ち、国や原因企業チッソの責任を追及してきた。2002年度には熊本学園大で「水俣学」を開講し、同大の水俣学研究センター長も務めた。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(my j:com [外部リンク]http://news.myjcom.jp/society/story/2012061101002470.html)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。1964年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(山陽新聞 [外部リンク]http://www.sanyo.oni.co.jp/news_k/news/d/2012061101002469/)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120613 原田正純さん 水俣病問い続けた半世紀(西日本新聞 [外部リンク]http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307417)

 原田正純さんが亡くなった。77歳だった。水俣病と出合って半世紀、つねに患者に寄り添って、水俣病の診断と研究を続けた医師だった。

 その原田さんは、1972年に書いた初めての著書「水俣病」(岩波新書)をこんな言葉で結んでいる。

 「水俣病は決して終わってはいない。ここには、社会的にも医学的にも今から新しく手をつけなければならない問題がまだまだ山積みされている」

 40年後のいま、この言葉はそのまま水俣病を取り巻く状況でもある。現場主義を貫き、目の前で起きている被害を直視し続けた医師ならではの、本質を見抜く確かな目が、そこにある。

 「水俣に行かなくなり、患者を診察しなくなったら、私は私でなくなる」が、若いころからの口癖でもあった。

 水俣病の患者・家族たちが69年にチッソを相手に踏み切った第1次訴訟を支援するためにつくられた「水俣病研究会」を通じて知り合った石牟礼道子さんや宇井純氏らの姿に影響された、と本人から聞いたことを思い出す。

 石牟礼さんのような感動的な美しい文章は書けない。宇井氏のように膨大な資料を分析し、自らの理論を展開する知識や能力も持ち合わせていない。

 私にできることは患者の実態を通して「医学としての水俣病を語る」ことしかない。それを最期まで実践した医師であり、医学者だった。

 医学として「水俣病とは何か」を追い求めてきたことが、原田さんに企業と行政の無責任さ、加害者としての自覚のなさが、事件を引き起こし、被害を深刻にした根源であることを確信させた。

 それが、熊本学園大学での「水俣学」開講のきっかけにもなった。「水俣病は終わっていない」という思いが「歴史の負の遺産としての水俣病研究を次の時代に生かす」学問として実を結んだ。

 その意味では志半ばだったかもしれないが、原田さんがこの半世紀、語り続けてきた医学としての水俣病は、医学の領域を超えて水俣病事件の本質に迫るものとして、重く受け止めたい。

 水俣病公式確認から56年。現在も不知火海沿岸に居住歴のある人々が、水俣病救済特別措置法に基づく救済を申請している。その数は5万人を超え、7月末までの期限を前にしても申請者が続く。大部分は間違いなく水俣病被害者であり、救済されて当然の人たちである。

 しかし、原田さんには「生きているうちに救済を」という患者の痛切な思いを逆手に取って、行政と加害企業が再び一時金で、水俣病を終わらせようとしているようにしか見えなかったのだろう。

 亡くなる直前まで「水俣病とは何かという本質」を問い続けることをやめれば行政も企業も医学も水俣病の過ちを繰り返すことになる、と言い続けた。

 福島原発事故の対応にも当てはまる。原田さんの指摘をいまかみしめたい。

=2012/06/13付 西日本新聞朝刊=


◆20120613 原田正純さん死去で 作家・石牟礼道子さん証言 「穏やかな陽光のよう」(西日本新聞 [外部リンク]http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307359)

 「原田正純先生は誰に対しても優しく、楽しい人でした。先生の存在は穏やかな陽光のように、私の作品に投影しています」-。代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」をはじめ、水俣を深いまなざしで表現し続けている作家石牟礼(いしむれ)道子さん(85)=熊本市=は、12日、長い交友のあった原田さんの死を悼んだ。2人は「水俣」を世に問うことで“戦友”だったように、記者には思われる。以下は、出会いからの記憶をたどった石牟礼さんの証言録である。

 初めて会ったのは、水俣病がまだ「奇病」と呼ばれていたころでした。最初、食中毒事件と言われていたので、熊本大の医師の先生方が原因を調べにおみえになった。その中に原田先生もおられた。まだ青年でしたが、胎児性の子どもたちがなついて、「先生、先生」と甘えていました。

 私は当時、役場にあった(奇病に関する)マル秘文書を読ませてもらっていた。患者が「おめき声を出して死んでいく」というような、すさまじい症状が書いてあった。私は、あまりのことに、(「奇病」について)書きとめておかずにおれなくなった。

 当時、亡くなった患者さんは(大学で)解剖されておられた。私はある程度書き進むうち、解剖を見たくなり、原田先生にそれをお願いした。幾つかの医学用語についてお尋ねもした。「そういうことを聞きに来た人は初めて」と言われた。

 私はそれを渡辺京二さんが出されていた「熊本風土記」に連載させてもらったら、原田先生が読んでおられて「医者の診断書より詳しく書いてある」と言われた。それで私はやや安心した。私はずっと、先生に読んでいただくのが喜びでした。

 先生は非常に開放的な方で、広い牧場に牛が放たれたように、人の心を伸びやかにし、遊ばせてくださいました。先生にかかれば気持ちが大変自由になる。そんなお人でした。寂しいですよね。

=2012/06/13付 西日本新聞朝刊=

◆20120613 原田正純氏死去 水俣病の教えは今も(東京新聞社説 [外部リンク]http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012061302000128.html)

 原田正純さんは、いつも水俣病患者のそばにいた。患者に寄り添い、その暮らしから真実を読み取ろうと試みた。弱いから見えるものがある。原田さんが提唱した水俣学は、弱者に学べと訴える。

 水俣病とは、何だろう。水俣病研究の第一人者、原田正純さんの生涯をかけた問いだった。

 水俣病多発地帯、ミカン畑に囲まれた熊本県水俣市湯堂の集落を、原田さんは「わたしの原風景」と書いている。

 半世紀以上前、熊本大学の若き医師として、朽ちかけた貧しい患者の家を訪ね歩いた。診察を拒否する患者たち。水俣病と診断されて、風評被害に遭うのが怖い。大学病院の医師が診察を拒否されるなど、想像すらしなかった。

 しかし、原田さんは、その現実を直視した。

 「治らない病気を前にしたとき、先生たちに何ができるのですか」。患者からのこの厳しい問いかけに、真っすぐ向き合うことにした。

 水俣病の原因は、チッソという化学会社が、水俣湾に垂れ流した有機水銀だ。高度経済成長を牽引(けんいん)した、元は「国策企業」である。これらは疑う余地がない。しかし、水俣病の正体は、いまだ判明していない。政府と最高裁で病気の認定基準が違う。補償が膨らまないように、国が配慮しているようにも見える。

 水俣病はなぜ起きて、なぜ終わらないのか。

 原田さんは、自らを問い詰めた。本当は極めて社会的、政治的、経済的な“水俣事件”を医学に独占させたこと、医学に丸投げしたことが間違っていたと気が付いた。そして「専門家とは何か」という新たな問いにたどり着く。

 「専門家と素人」の壁を取り払い、水俣病にかかわり合ったさまざまな分野の人の話をみんなで聞きながら、私たちの生き方や社会のあり方を見直そう。そう考えて提唱されたのが「水俣学」だった。人々の健康を奪い、地域のきずなを引き裂いた水俣の悲劇を繰り返さないために。

 原田さんの願いは、かなえられたのか。私たちは今、原子力ムラに封印された科学に対する不信に揺れている。政府は原発再稼働へと急いでいる。

 福島で何が起こったか。水俣学の手法で検証してみたらどうだろう。情報を全面的に開示させ、私たち自身の暮らしに当てはめて、それぞれに考えよう。水俣学は、今に生きているのである。

◆20120613 「水俣学の遺志継ぐ」 原田正純さん、悼む声相次ぐ(朝日新聞デジタル [外部リンク]http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY201206120358.html)

 11日に急性骨髄性白血病で亡くなった水俣病研究の第一人者、原田正純さん=元熊本学園大教授。77歳だった。「戦後最大の公害事件」と向き合ってきた医師の死を惜しむ声が各界から相次いだ。

 原田さんが医学的な助言をしたという石牟礼道子さんの著書「苦海浄土」。その作品を「世界文学全集」に編集した作家の池澤夏樹さん(66)は「『水俣』は終わっていない。もっと働いてもらいたかった」と残念がる。「病気を研究する中で、自然に被害者の立場に立ち、思想に裏付けられた科学者だった。結論をねじまげる科学者が多い中で、重大な仕事をした人」

 ノンフィクション作家の澤地久枝さん(81)は講演会や会合で原田さんと顔を合わせてきた。「大きな痛手です。勇気を持って告発され、あれほど丁寧に患者さんとお付き合いをされた方は他にいません」

 公害・環境問題に関わる人でつくる日本環境会議の代表理事だった原田さん。3月に松江市内で開かれた大会で、水俣病と福島第一原発事故を比較し、「放射能は海に出て薄まる」との専門家らの意見に怒った。「海で薄くなったものが食物連鎖で濃縮されたのが水俣の教訓ではないか」
 (無料記事はここまで)

◆20120613 [外部リンク]原田正純さんご逝去(togetter)

◆20120613 原田正純さん死去:県内からも悼む声 水俣病研究の第一人者 /新潟(毎日jp [外部リンク]http://mainichi.jp/area/niigata/news/20120613ddlk15040017000c.html)

 水俣病研究の第一人者の医師、原田正純さんが11日、急性骨髄性白血病のため77歳で亡くなった。県内でも患者や関係者から悼む声が上がった。

 12日朝のラジオのニュースで逝去を知ったという新潟市東区の沼垂診療所の関川智子医師(70)は「患者の味方になってじっくりと話を聞く方。大きな存在がいなくなってしまった」と悲しみを語った。新潟水俣病2次訴訟の場で交流を深めた中村洋二郎弁護士は「現地に入って公害の原点を切り開いてくれた。2次訴訟でも原田先生の存在は大きかった」と話した。

 晩年も水俣病被害者救済特別措置法(特措法)の申請期限締め切りに反対していたという原田さんについて、新潟水俣病の未認定患者でつくる「阿賀野患者会」の山崎昭正会長(70)は「水俣病の第一人者だった。遺志を継いで特措法を締め切らないよう今後も活動していきたい」と力を込めた。【塚本恒】

◆20120613 原田正純さんが提起した問題(隙だらけ 好きだらけ日記――映像 写真 文学 そして風景 [外部リンク]http://nagata-kozo.com/?p=8729)

◆20120613 原田正純医師追悼(京都新聞 凡語 [外部リンク]http://www.kyoto-np.co.jp/info/bongo/20120613_2.html)

 母体を通じ有機水銀中毒になる胎児性水俣病患者の存在を明らかにした医師原田正純さんが亡くなった。若き日は京都府南丹市日吉町で鉱山マンガン中毒の診療もした▼水俣病の公式確認の6年後から、原田医師は汚染地域に指定されていない不知火(しらぬい)海沿岸の漁村を歩いた。だが漁民の拒絶にあった。手足が曲がり、しびれがあっても申請にも病院に行かない人たち▼水俣病患者が出たと言われると、魚が売れない、結婚ができなくなる。被害をできるだけ矮小化(わいしょうか)する国や企業との闘いと同時に、差別との闘いだった。天草諸島での水銀汚染の可能性をメディアで訴えると、地元の怒りを買った▼胎児性水俣病患者宅に通いつめ、信頼関係を築いた。「胎児に影響はない」という医学の常識が被害を拡大させ、累々と死者が出てから後に因果関係が証明されたことを背負っての歩みだった。静かな語り口を思い出す▼「重症患者の写真を掲げ、声高に公害反対を叫んできました。でもそれはいつか障害者は不幸だと、障害者の存在を否定することになっていないでしょうか」。7年前には、尊厳死法制化を阻止する会の代表になった▼言葉を発せず、食事も排泄にも介助がいる胎児性水俣病患者の生の輝きを、水俣で学んだ一番大切なことだと語った。そして「生きるべき命と生きられない命の区別はない」と。

◆20120613 「水俣学の遺志継ぐ」 原田正純さん、悼む声相次ぐ(わたしのブログ [外部リンク]http://plaza.rakuten.co.jp/zhu123/diary/201206130004)

◆20120613 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(@SHIZUOKA [外部リンク]http://www.at-s.com/news/detail/100131887.html)

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。
 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120614 原田正純さんの人柄や功績しのぶ 「お別れ会」営まれる(asahi.com [外部リンク]http://www.asahi.com/national/update/0614/SEB201206140006.html)

 水俣病研究や患者の支援に尽くし、11日に急性骨髄性白血病で亡くなった熊本市の医師原田正純さん(享年77)の「お別れ会」が14日、同市東区で営まれた。原田さんがその存在を立証し、半世紀にわたって交流を続けた胎児性水俣病患者の人たちや、患者の支援者らが集い、原田さんの人柄や功績に思いをはせた。

 会が始まる前、会場の入り口近くに原田さんのひつぎが開いた状態で置かれ、弔問に訪れた患者らが原田さんの顔を見つめたり、手を合わせたりして最後の別れをしていた。

 親交のあったジャーナリストの柳田邦男さんは「原田さんの存在が大きかったのは、人間性を重視することを全身で表現してきたから。患者が社会に置かれた立ち位置をしっかり見据え、差別が生じた日本のゆがみを構造的に捉えていた」と振り返った。

 患者家族が初めて補償を求めて訴えた水俣病第1次訴訟(1969~73年)を理論面で支えるため、研究者や市民がつくった水俣病研究会に原田さんと参加した元チッソ労働者の山下善寛さん(71)は「亡くなる寸前まで患者のために尽くされた方。水俣病の問題は終わっておらず、まだ先生の力を借りたかった」。

 原田さんと共に潜在被害を明らかにする掘り起こしに取り組んだ患者運動のリーダー、故川本輝夫さんの長男愛一郎さん(54)は「先生の言った『患者に学ぶ』『現場から社会の病理に切り込む』が忘れられない。私たちの世代がそれを継いでいきたい」と話した。

◆20120614 「愛された人だった」故原田正純さん お別れ会に水俣病患者ら(西日本新聞 [外部リンク]http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307641)

 水俣病研究の第一人者で11日に77歳で亡くなった医師、原田正純さんのお別れ会が14日正午から、熊本市東区月出の斎場で営まれた。原田さんが診察に当たった水俣病患者や研究者仲間など全国各地から集まった大勢の人が別れを惜しんだ。

 原田さんは1961年、熊本大大学院時代に初めて水俣を訪れて以来、現場主義を貫き、水俣病患者の診察と研究を続けた。「毒物は胎盤を通過しない」という定説を覆し、胎児性水俣病患者の存在を世界で初めて明らかにした。

 会場には、原田さんが水俣で患者を診察する様子などを撮影した42枚の写真と、聴診器や帽子などの遺品が展示された。

 子どものころから原田さんの診察を受けていた水俣病被害者互助会の佐藤英樹会長(57)は「誰に対してもにこやかな笑顔で接し、みんなから愛される方だった。もっと長生きしてほしかった」と話した。

◆1300人参列し原田正純さん「お別れ会」 2012年06月14日 (くまにちコム [外部リンク]http://kumanichi.com/news/local/main/20120614005.shtml)

 水俣病研究の第一人者で、11日亡くなった医師、原田正純さんのお別れ会が14日、熊本市の斎場であった。県内外の各界から約1300人が参列し、胎児性水俣病に光を当てた功績をたたえ、常に弱者に寄り添った優しさをしのんだ。

 喪主の妻寿美子さんは「もう一度水俣に行きたい。患者さんに会いたいと言っていた」と療養中の原田さんの言葉を紹介。作家の石牟礼道子さんは「会うたびに伸びやかな気持ちになった」と話し、手向けの詩を朗読。大阪市立大の宮本憲一名誉教授は「原田さんがいなければ、水俣病は権力の手で隠されたかもしれない」と弔辞を述べた。

 「患者に学ぶ」が持論だった原田さん。胎児性患者の坂本しのぶさん(水俣市)は「これから誰に相談したらいいのか分からない」と声を詰まらせた。胎児性患者の長女を亡くした1次訴訟原告の上村好男さん(同)は「今日は1次訴訟を提訴した日。天国で先生に声をかけてもらい、娘も笑っているでしょう」と話した。

 カネミ油症五島市の会事務局長の宿輪敏子さんは「水俣病もカネミ油症も救済が進むよう、天国で後押ししてください」と呼び掛けた。会場には、原田さんが生前繰り返し聴いていたポルトガルの民族音楽が流れ、参列客全員で献花。調査で訪れたカナダなど海外からの弔電も相次いだ。

 参列した水俣病患者の緒方正実さん(水俣市)は「『頑張れば正義が勝つんだから』という先生の言葉に救われ、行政と闘う覚悟を決めた」と振り返った。三池炭鉱の炭じん爆発でCO(一酸化炭素)中毒患者となった夫の看病を続ける清水栄子さん(荒尾市)は「何でも相談でき本当に頼りにしていた」。ノンフィクション作家の柳田邦男さんは「暮らしや社会に入り込んで、何をすべきか探った医師。本当のヒューマニストだった」と悼んだ。(石貫謹也、楠本佳奈子)

◆20120614 原田正純さんの偉業しのぶ…熊本でお別れ会(YOMIURI ONLINE [外部リンク]http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120614-OYT1T01085.htm)

 水俣病研究の第一人者で11日に77歳で亡くなった元熊本学園大教授・原田正純さんのお別れ会が14日、熊本市内の葬儀場で開かれた。
 親交のあった胎児性患者や研究者ら多くの関係者が参列した。
 冒頭、喪主の妻、寿美子さん(68)が「一貫した信念を持ち、現場主義を貫き通した人だった」とあいさつした。医師として原田さんが昨年8月に行った「最後の水俣病検診」などの様子も上映された。
 作家の石牟礼道子さん(85)は遺影の前で、「原田先生のいない世界は考えられない」と語った。また、胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は「本当にお世話になりました」と述べた。
 会場の一角には、原田さん愛用の聴診器やかばん、帽子のほか、診察や講演会の写真が展示され、参列者は被害者の支援にも尽力した故人の偉業をしのんだ。

◆20120615 原田正純さん(愛媛新聞社ONLINE [外部リンク]http://www.ehime-np.co.jp/rensai/chijiku/ren018201206150662.html)

 ユージン・スミスの撮った「入浴する母子像」を覚えている人は多いだろう。胎児性水俣病患者の娘を抱いたお母さんが慈しむように湯船につかる写真。11日に亡くなった原田正純さんは、この娘上村智子さんの主治医だった
 水俣病の診察、研究、裁判。原田さんは「患者の声を聞きすぎる」と言われるほど一貫して被害者の側に立った。「水俣病は患者の中にしかない」と言いながら。胎児性水俣病の発見も母親たちの疑問の声が始まりだった
 当時、毒物は胎盤を通過しないのが医学常識。「しかし、先生。この子は魚を食べていないのです。私の食べた魚の水銀がこの子に移ったに違いなか」。母親の目に圧倒された原田さんは100のへその緒を調べ、有機水銀が胎盤から子供に伝わる事実を突き止める
 成長一辺倒の国家と企業が垂れ流した公害。それは世代を超えて人類の存続を脅かすという黙示でもあったのだが
 「あのとき、人が傷つき、狂い、死んでいるとき世論(国民)もまた、豊かさと便利さ(経済発展)を選択したのではなかったか」(「苦海浄土」石牟礼道子、講談社)―後に原田さんは苦しげに振り返った
 水俣病を鏡に、さまざまな社会現象から何が見えるか。原田さんは晩年「水俣学」を唱えた。3・11後の今、広がる格差や原発再稼働のでたらめ…。その鏡に映して考えるべきことは多い。

◆20120615 水俣病研究の第一人者 原田正純氏死去(MSN Japan産経ニュース [外部リンク]http://sankei.jp.msn.com/life/news/120612/art12061207280002-n1.htm)

 水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳。自宅は熊本市東区長嶺南7の1の30。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 昭和39年、母親の胎盤を経由し胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。40年に日本精神神経学会賞を受賞。

 平成14年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。17年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げてセンター長に就任した。

 ブラジルや中国など海外にも出掛け、水俣病の疑いのある患者を発見した。

 著書も多く、「水俣病」(岩波書店)は英語、韓国語などに翻訳され、問題を世界に伝えた。「水俣が映す世界」(日本評論社)で大仏次郎賞を受賞した。

◆20120615 水俣病患者ら「先生ありがとう」 原田正純さんお別れ会(南日本新聞社 [外部リンク]http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=41146)

 11日、77歳で亡くなった水俣病研究の第一人者で熊本市の医師原田正純さん=さつま町出身=のお別れ会が14日、同市の斎場で開かれた。水俣病被害者や研究者ら約1300人が参列、優しい面差しでほほ笑む遺影を前に、「先生ありがとう」と別れを惜しんだ。
 闘病生活を支えた喪主の妻寿美子さん(68)は。「現場主義を貫き、もう一度、水俣に行き、患者さんと会いたいと話していた。多くの人に支えられ幸せだった」とあいさつした。
 作家石牟礼道子さん(85)=熊本市=は50年来の親交を振り返り、「人はいかに生きるべきか、存在で教えてくれた」。原田さんにささげる詩「花を奉る」を朗読した。
 胎児性患者の坂本しのぶさん=水俣市=は「先生、本当にありがとう」と涙ながらに語り、胎児性患者の娘を亡くした上村好男さん=同=は「患者や家族の大きな支えだった。長い間ご苦労さまでした」とねぎらった。
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◆20120615 最近の各紙の原田正純先生の関連記事(バリアフリーデザイン研究会http://www.barrier-free.jp/の連絡版 [外部リンク]http://blog.goo.ne.jp/bariken0301/e/a967576ff9885f36cb903c799d2dd7e6)


UP:20050724 REV:20070301,1028,1124 20080404,31, 20090703, 1104, 20110121, 20120615, 20140730, 20150616
◇水俣病  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO 
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