大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年12月19日 | 写詩・写歌・写俳

<1816> 余聞・余話 「賀状のこと」

     就活に婚活果ては終活と言はるる人生時代に呑まれ

 人生が「いろはにほへと-----」の道程にあることは以前に触れた。これは私の考えの一端であるが、おぎゃーと阿吽の阿形の形相に生まれて、阿吽の黙する「ん」に尽きるまでの道程。長いか短いかはさて置き、私にとって七十余年の歳月の旅はいま如何なるところに差しかかっているのか、尽きるところが定かでなければ、その道程を計ることは出来ない。だが、想像は難くない。そこでいろいろと思いを巡らせるところとなり、「終活」、即ち、人生の終い支度のことなども思いの端に取りついて来るということになる。

 七十余年を振り返って思うに、歩み来たった道程は一筋ながらそれなりに山があり谷があり、平坦な道ばかりではなかったように思われる。こうした道程をして言えば、人生には踏んばりどころというものがある気がする。「就活」とか、「婚活」とか。昨今は「保活」とか「終活」というような言葉まで登場し、時代を象徴しているが、これは、所謂、世上一般の人生における踏んばりどきに用いられ、作り出された造語であり、新語もしくは現代語と言える。

                          

 その「終活」、即ち、人生の終い支度でもないが、最近、身の周りを徐々に整理して、不要なものは振り払って身軽にしたいということで、これまで後生大事に保管して来たものを捨てにかかるということも我が家では始めている。特に妻がその気になっている。これは「終活」に限ったことではないが、「断捨離」などという言葉にも通じる。命が尽き果てる身に物の評価は当然のこと変わって来る。この評価で言えば、評価はそれぞれであり、死後、自分の評価を残ったものたちに押し付けるのははばかられるということもある。

 こういう風潮によって、引っ張り出されて来たのが押し入れの奥にずっと保管していたこれまでの賀状だった。当然のこと全てではないが、かなりの量に上る。で、「あなたの分はあなたで処分して」と妻から手渡されて久しく棚の上に積み上げていた。三十年ほど前のものから最近のものまで。中には懐かしく思い出されるものもある。こうなると、捨離の対象たる古い賀状も反芻してみたくなって、捨て難くなる。

 そして、如何ほどかの未練に誘惑され、人生のことについてまた思い返すということになったりする。その古い賀状の束を見ながら、良しにつけ悪しきにつけ、人生は果して過去の産物に彩られながら歩んで行くことだなどということが思われたりする次第で、振り払いたい気分もあれば、未練もまた滲むといった具合で、悩ましく、これが「終活」の年齢に差しかかっても生きているものの姿なのだろうと思ったりもする。

 今年も押し迫り、いよいよ賀状を仕上げる時期に来ているが、賀状の差し出しにもいろいろと思うところがあり、徐々に減らしているのが実情で、極力枚数を少なくするよう心がけている。そういう心持ちながら、きっぱりと止めることが出来ないのが賀状で、この時期の悩ましさではある。これは、しがらみもさることながら、終活の決意というか、覚悟が未だ定まらず、まだ、世の中のしがらみの一端にあって気持ちが浮遊しているからだろうと思われる。過去の賀状に懐かしさを覚え、未練があって捨て切れないうちは、多分、いま交わしている賀状も止められないのだろう。

 写真は昔の賀状(左)と自作の一貫した版画で送られて来る賀状(右)。この賀状にはメッセージや近況報告等が一切ないが、文面がなくとも、つつがなく過ごしている姿が版画の中に透けて見える。もう30年以上続いているのがいい。最近はカラ―でなく、干支のモノクロの絵に仕上げているのが、少々気になるが、来年はどうだろうと思われたりする。

 


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