<693> 自 画 像
自画像は思索の姿その背には鳥獣虫魚の眠れる森を
画家はよく自画像を描く。ユトリロのようにほかの画家に自分の肖像画を描かせている場合もあるが、これは稀で、自分の肖像を自分で描いている画家がほとんどである。写真家にはない現象であろう。不思議だが、これは画家たる自分の存在を後世に残しておきたいという願望からだろうか。とにかく画家というのは自画像をよく描いている。
私が持ち合わせている印象派など近代の画家たちの画集を開いても、ほとんどの画集に自画像が見られる。例えば、ドガの「鉛筆ばさみを持った自画像」、ルノワールの「35歳の自画像」、ピカソの「パレットを持つ自画像」など、ほかにも見られる。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ムンクなどは多数の自画像を残しているので、自分の肖像画をよく描いていたことになる。
で、これらの自画像を見ていると、私が画家だったらどのような自画像を描くだろうかと思うことがある。これは以前からであるが、私が自画像を描くとしたら、私という人物は行動的でないから、動的な絵には出来ない。それに、私にはそんな自画像はふさわしくないから、思索の姿がいいと思っている。
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思索については、思索しない人間が横行する世の中は決してよくなく、思索する人間が多くなることは、世の中にとっていいことで、思索する人間が多くなれば世の中はきっとよくなると私はみている。例えば、蛮行がある。この蛮行は思索しない人間がやることで、思索する人間はやらない。思索する人間が蛮行に及ぶとしたら、それは思索していないときに行なうと言ってよい。
思索とは単に考えを巡らせるということではない。『広辞苑』によれば、「物事のすじみちを立てて深く考え進むこと。思惟。思弁」とある。その通りで、思索は私たちの行為、行動に有効な働きをなすもので、イメージが少々重い雰囲気になっても、私の自画像には断然思索の姿を選ぶ。
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ところで、自画像には背景が大切だが、背景には森がいいと思っている。森にはいろんな生きものが暮らしている。それらの生きもの、例えば、鳥獣虫魚が安堵の表情をもって暮らしている理想郷で、やさしく温もりがあり、明るく、四季を感じさせる奥行きのある森が理想的である。
また、今を生きてある私という存在が死んでいったものたちの霊を抜きにしては考えられないということで、森にはその霊を感じさせる雰囲気が必要となる。死が不吉とされるため、霊は大方暗く、陰湿なイメージで語られ、恐れられる。だが、自画像における背景の森に住む霊は違う。人の霊だけでなく、いろんな生きものの霊が見られるが、それはこの世では見られないほどやさしい気分の持ち主ばかりである。背景にはそういう霊もみな一同に住んでいる森を表現したい。加えて、森の上に遥かなる憧れの星が瞬いていれば言うことはない。思索する自画像の表情もきっと穏やかなものに仕上がるだろう。
睡眠の今宵しきりにきらめくは白羊宮の光降るらし 塚本邦雄
例えば、この歌が感じさせるきらめく世界。「光降るらし」というこういう光景が背景に添えられれば言うことはない。思索する自画像はきっと引き立つに違いない。
猛暑続きの幻想ついでに、蛇足ながらここで諸氏へ自画像のクイズを出してみよう。ここに紹介した十枚の自画像はみな有名な画家のものであるが、以下にあげた画家と一致するものを選んでください。答えはこのブログの次回に記したいと思う。
(A)ドガ、 (B)ルノワール、 (C)セザンヌ、 (D)ゴッホ、 (E)ゴーギャン、 (F)ムンク、 (G)ロートレック、 (H)ピカソ、 (I)レオナルド・ダ・ヴィンチ、 (J)モディリア―二