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2017-04-25 13:08:17 | 日記
笹川良一
日本の旗 日本の政治家
笹川 良一
RyoichiSasakawa face.jpg
生年月日 1899年5月4日
出生地 大阪府箕面市
没年月日 1995年7月18日(満96歳没)
死没地 東京都中央区
出身校 大阪府茨木市立豊川小学校
所属政党 (無所属→)
(国粋大衆党→)
無所属
称号 勲一等旭日大綬章
大阪府箕面市名誉市民
親族 次男・笹川尭(前衆議院議員)
三男・笹川陽平(日本財団会長)
孫・笹川博義(衆議院議員)
日本の旗 衆議院議員
選挙区 大阪府第5区
当選回数 1回
在任期間 1942年5月1日 - 1945年12月18日
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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)は、日本の政治運動家、社会奉仕活動家。
国粋大衆党総裁、国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。称号は箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。
目次 [非表示]
1 人物
2 生涯
2.1 生い立ち
2.2 政治活動
2.3 A級戦犯容疑と「巣鴨日記」
2.4 戦犯者救済活動
2.5 モーターボート競走
2.6 社会奉仕活動
2.7 反共産主義の活動
2.8 中華人民共和国との関係
2.9 タブーと親交
2.10 遺産
3 栄典
4 親類
5 孝養の像
6 映画出演
7 参考図書・関連文献
7.1 著書
7.2 投稿記事
7.3 笹川良一研究
7.4 その他
8 出典
9 注釈
10 関連項目
11 外部リンク
人物[編集]
第二次世界大戦前の笹川は、自分を「大衆右翼」と位置づけ[1]ベニート・ムッソリーニを崇拝、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ日本社会へのファシズムの浸透に注力したが、大東亜戦争(太平洋戦争)遂行には否定的であった。
第二次世界大戦後は、連合国によりA級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから、有罪認定はされていないが、A級戦犯容疑指定を受けたことが、その後左翼的な報道機関により意図的に報じられることが多かった[要出典]こともあり誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことを「A級戦犯で極東国際軍事裁判において有罪となった」と信じている人が多いのも事実である。
なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の没後に公表された。
巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)を創設した。
株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切ることに成功している。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。
またマスコミからは、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、「右翼のドン」と呼ばれた。CIAエージェントであったとも報じられている[2][3][4][5]。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大阪府三島郡豊川村(現:箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許されており、父・鶴吉は笹川家10代目当主[6]。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられる浄土宗理照寺[7][8][9]。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業。作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。飛行機乗りを志し、陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。
政治活動[編集]
1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  

川島芳子
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。のちに、多田駿の指示があってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で、党総裁の笹川も、そんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている[10]。
1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後、1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった[11]。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも親交があったとされる[12]。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」[編集]

巣鴨プリズン
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12月1日に逮捕命令が出て、12月11日に巣鴨プリズンに入獄した[注釈 1]が、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった(翌年には公職追放を受ける[13])。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後連合国の主要国であるアメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース)[注釈 2]、1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
上記のように、笹川は戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)と
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