株式日記と経済展望

株式をはじめ政治経済外交文化歴史などの論評です。

目先の勝負に何度敗けようが、つねに「生き残ること」に全神経を注いだ者が最終的勝者となります

2017年06月22日 | 歴史

島津氏の例を見てもわかりますように、目先の勝負に何度敗けようが、
つねに「生き残ること」に全神経を注いだ者が最終的勝者となります。


2017年6月22日 木曜日

降伏や逃走もOK、最後まで生き残った者が勝ち “目先の勝敗”など「おまけ」のようなもの 6月15日 神野正史

勝てぬなら、時に白旗も振る!

 しかし、こうした「耐忍戦術」すら通用しないほど、圧倒的力の差がある敵の場合にはどうすればよいのでしょうか。

 どう足掻(あが)いても勝てそうもない時は、「白旗」を振ることも視野に入れる──。

 亡びてしまえばそれまでですが、どんな屈辱を受けようとも最終的に亡びなければいつかは逆転のチャンスも訪れます。永久に強い者など人類史上ひとりとして存在せず、どんなに強い力を持つ者でも時を経ればかならず弱るときがくるのですから、“そのとき”が訪れるのを辛抱強く待つ。

 たとえば。

 中国の後漢末から三国時代にかけての人物に賈?(かく、147年~223年)という軍師がいました。彼は初め、漢末の群雄のひとり張繍(ちょうしゅう、?年~207年)に仕えていましたが、そこに曹操(155年~220年)が大軍を以て攻め込んできたことがあります。

 「曹操の大軍が攻めてくるぞ! 賈?よ、余はどうすればよい?」

 狼狽する張繍に、賈?は冷静に答えます。

あの曹操が親征軍(君主や皇帝が自ら率いた軍)を繰り出してくるとなると、これはどう足掻いても勝ち目はありませんなぁ。

 「何を他人事みたいに! そこをなんとか勝つ策を考えるのが軍師たるそちの役目であろうが!」

「勝てぬ戦はせぬ」のが最良の策にございます。しかし逃げることも守ることも困難となると、ここはひとつ頭を下げ、媚びを売り、降伏でもなんでもなさいませ。

 「なんだと? 一戦も交えぬ前に降伏しろと申すか!?」

左様。ここで意地になって戦えば亡びますが、生き延びさえすれば、敵もかならず隙を見せましょう。その勝機を虎視眈々と待つのです。

 こうして賈?はいったん張繍に降伏させ、曹操の油断を誘い、曹操が女に溺れ、軍規が弛みきったところで、夜襲をかけてこれを撃退することに成功しています。

敗けたならば敵が弱るまで待つ

 賈?の場合は、戦う前に敗けることを察知し、早い段階で降伏することで好機を待ちましたが、では、最後の決戦に臨んで敗れてしまった場合はどうすればよいでしょうか。

 この場合、降伏したときよりさらに状況は苦しくなりますが、やはり「亡びぬ策を講ずる」「敵が弱るまで待つ」という方策は基本的に同じです。

 たとえば、日本では、島津氏は「天下分け目の関ヶ原」(1600年)を戦い、そして敗れました。ここで敗れた西軍は、ことごとく処刑・改易(身分を剥奪して所領や城を没収される)・減封となっていきましたが、島津だけは帰国後ただちに白旗を振りつつ、生き残りをかけて徳川との駆引外交に東奔西走し、なんと西軍で唯一、減封すらなく本領安堵を勝ち取りました。

とはいえ。

 以降、島津は徳川の幕藩体制の下でこれに睨まれつづける「針のむしろ」状態で、ジッと耐えつづけることになります。“その日”がやってくるまで。

 以来250年。

 「たった四杯の上喜撰(じょうきせん)」(4隻の黒船)に狼狽する幕府に、全国から志士たちが立ちあがるや、「待ってました!」とばかり倒幕運動の先頭となって立ちあがったのが島津でした。こうして島津は関ヶ原の怨みを果たし、徳川幕府を倒し、明治政府の中枢を担ったのでした。

最後に生き残った者が勝ち

 「勝負」というものは、“最終的に生き残った者の勝ち”です。諸行無常の世の中ですから、途中の“一時的な勝利”など、たとえ手に入れたところですぐに掻き消されていきます。そんな“一瞬の勝利”を手に入れるために“永久に亡び”たのでは本末?倒(ほんまつてんとう)です。

 にもかかわらず、人はついつい“目先の勝敗”に執着し、ときに命すら賭け、それが手に入らないとわかったとき、自暴自棄になって身を亡ぼしてしまうことも珍しくありません。

 しかし。

 “目先の勝敗”など本当にどうでもよい、人生を彩る「おまけ」のようなもので、島津氏の例を見てもわかりますように、目先の勝負に何度敗けようが、つねに「生き残ること」に全神経を注いだ者が最終的勝者となります。

 勝てるならばよし、勝てそうもなければ生き残るために全力で戦いを避ける。どうしても戦いを避けられなくなったときには逃げる! 逃げきれなければ降伏することすら厭わない。恥をかこうが、顔に泥を塗られようが、生き残って再起・形勢逆転のチャンスを虎視眈々と待つ。

 これができる者が“最終的勝者”となることを歴史が教えてくれています。



(私のコメント)

「株式日記」では、」エリートは歴史と古典を学ぶべきだと書いてきましたが、現代のエリートは歴史も古典も学びません。しかし迷ったときにどうすればいいかを教えてくれるのは歴史と古典だ。どんなに頭のいい人間でも歴史と古典を知らなければ判断を誤るだろう。

明治維新の頃のエリート達は歴史と古典を学んでいたが、昭和の頃になるとエリート達は西洋のことは詳しい人はいても、歴史や古典に通じた教養を感じさせる人物が少なくなった。おそらく明治以降の教育にも問題があったのだろうし、特に戦後は歴史教育も古典教育も歪められっぱなしだ。

例外的に、パソコンゲームなどでは歴史ものなどのゲームで歴史を学んだりはしても断片的な知識で、正式な歴史や古典ではない。歴史や古典を知るには自分で本を探して読んでいくしかありませんが、実際に自分が問題にぶち当たった時に答えを教えてくれるのが歴史と古典だ。

歴史を特に学ばなくても歴史小説などで歴史を知ることも多いのでしょうが、歴史小説は所詮は小説であって、作家がおもしろおかしく書いたりしているものであり、学者たちの検証に耐えられるものではない。特に近現代史は解明されてないことも多く、評価も確定するまでは年月のフィルターにかけないと定まっては来ない。

大東亜戦争も、果たして戦争に勝ったのか負けたのかも評価の仕方しだいで変わってくる。私の見方としては大東亜戦争はまだ続いていて、思想戦や言論戦がまだ残っており、アメリカも日本もまだ冷静に議論ができるような状況ではなかった。その証拠に日本の総理が靖国神社に参拝するだけでもアメリカはナーバスになる。

大東亜戦争は、太平洋をめぐる覇権争いの第1ラウンドに過ぎず、一度や二度の戦争で決着がつく問題ではない。ユーラシア大陸をめぐる覇権争いでもモンゴル帝国が覇者となったが、その後は群雄割拠の状態でソ連が一時は大陸の覇者となったが、直ぐに崩壊した。アメリカも大戦後は海洋の覇者となったが、50年後はアメリカは存在しているだろうか。

神野氏の記事にもあるように、国家は存続することが第一であり、たとえ戦争に負けても存続している限りはまだ挽回のチャンスはあるのであり、アメリカは朝鮮戦争でもベトナム戦争でもイラク戦争でも勝てなかった。つまりユーラシア大陸ではアメリカは勝てないのだ。そこがアメリカの限界であり、日本の協力がない限りユーラシア周辺部では勝てない。

朝鮮半島にしてもインドシナ半島でも日本なら戦わずして占領できたようなところが、アメリカは55万人もの兵力を送ってもベトナムを占領できなかった。朝鮮半島でも南半分しか守りきれなかった。軍事力そのものよりもアメリカの占領政策そのものに欠陥があるからであり、イラクもそれで失敗している。

日本は終戦時は、まだ中国大陸や東南アジアの大部分を占領したままだったが、つまり朝鮮人や中国人や東南アジア人は日本軍がボロ負けをしたところを見ていない。しかしアメリカはベトナムでボロ負けをして尻尾を巻いて逃げ去っていった。ベトナム人はそれを見ている。

確かにアメリカは水爆を使えば勝てるかもしれないが地球ごと滅びてしまう。日本は昭和20年8月の段階で勝てないと認識したから白旗を掲げて降伏しましたが、日本が滅んだわけではない。最終的に滅びなければ逆転のチャンスは50年後か100年後にはやってくるだろう。アメリカのいずれ内乱の時代が来てボロボロになる時が来る。その時こそ日本が復讐するチャンスである。

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113 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-06-22 15:24:37
>どんなに頭のいい人間でも歴史と古典を知らなければ判断を誤るだろう。

人工知能やインターネット社会での判断、歴史・古典では対処不可能。
50年後は (noname)
2017-06-22 16:01:23
今のままの状態が続いて、日本の富をアメリカどころか中韓に貢ぎまくっている清和会に支配された自民党が権力を持ったままだと日本人はアメリカンインディアンの様に絶滅危惧種にされているかもしれませんね。

代わりに日本列島を我がもの顔で闊歩しているのは元中国人になる可能性が高いです。自民党政権下で在日外国人の数は増え続けて現在65万人。安倍政権は永住権を取得するまでの期間の短縮を図っています。少子化対策は無策というよりむしろ少子化推進ですね。
Unknown (Unknown)
2017-06-22 16:08:10
>永久に強い者など人類史上ひとりとして存在せず、どんなに強い力を持つ者でも時を経ればかならず弱るときがくるのですから、“そのとき”が訪れるのを辛抱強く待つ。
>その勝機を虎視眈々と待つのです。
>「待ってました!」

それは日本よりも、今現在、中国がアジアで暴れまわっている覇権主義こそが「待ってました!今がそのとき!」と米国に挑戦している状況でしょう。中国はオバマ政権時代に米国政府がどのような出方をするか南シナ海で試し、米国が何もしないと認識すると、行動をエスカレートさせた。米国の力が以前より弱まっていると中国が認識すれば、日本より中国が先に行動して復讐するだろう。
「行政予算執行要監査」 (豊岳正彦)
2017-06-22 16:32:29
ホワイトハウス、首相官邸、e-GOV、財務省、人事院、国税庁、総務省、内閣官房、、の問い合わせ・意見フォームで「行政予算執行要監査」の題名で、以下の警視庁へ送信した意見メール全文を送信した。

「警視庁への意見メール送信」

警視庁の業務に対する苦情・ご要望・ご意見のホームページにて、以下の意見を送信した。
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/anket/opinion.html

全文を示す。

意見
確認事項 東京都内の警察に関する意見等
お名前
豊岳正彦
ご住所
岩国市山手町1-16-35
電話番号
0827211510

内容
全角1000文字以内
-------------------
「NHKが隠す幕張メッセ国際武器見本市の憲法違反」

長周新聞2017年6月19日刊の紙面から転載する。

「時評」幕張で大規模国際兵器見本市 (要約)

 2014年に武器輸出を解禁した安倍政府が、海外への国産兵器売り込みに力を入れている。

昨年は防衛省主導で世界最大の兵器見本市ユーロサトリに日本ブースをもうけて展示したが、今年は六月に幕張メッセ(千葉県)で大規模な国際兵器見本市(実行委員長・森本敏元防衛大臣)を開催した。

防衛省、経産省、外務省が後援し、米、英、豪、イスラエルなど33カ国の軍需企業や政府関係者など約四千人が参加した。

 今回の見本市は世界最大規模の軍需企業ロッキード・マーティンやオスプレイを開発したベルなどがスポンサー。

会場内には日本企業の軍需部品が多数並び、なかでも三菱重工の最新水陸両用車両が注目を浴びた。

水陸両用車は米海兵隊が上陸作戦に使用する兵器で、他国侵略に不可欠な装備だ。

三菱重工が大型客船事業から撤退する一方で、もっとももうかる使い捨ての殺人兵器製造に傾斜する姿が露わになっている。
______

このニュースを一切報道せず、加計学園問題ばかり取り上げるNHKの本当の狙いがここにある。

まず最初の国際武器見本市の実行委員長は森本敏氏であり、防衛相辞任後はいかなる肩書きで防衛行政に携わっているのか。

国会議員の資格でも国の防衛行政に関与することはできない。

立法、行政、司法の癒着を禁じた憲法の三権分立規定に違反するからである。

森本氏が民間人の立場で実行委員長を務めたならば、幕張という市街地で多数の人を殺戮できる実働の武器兵器を一箇所に集めて展示すれば警察によって国内刑法の凶器準備集合罪に問われるはずだが、主権者国民一般市民の日本国内安全を守る公務を憲法責務とする特別司法公務員警視庁や警察庁は何をしていたのか?

知っていて見逃したならば公務員職務専念義務違反という憲法違反の疑いがある。

そして現在、NHKが加計問題だけ煽って全メディアで報道過熱させているのも、幕張メッセ開催国際武器見本市が内包するこれらの日本国憲法違反を主権者国民の耳目から隠蔽するためである。

総務省特別放送法人憲法99条公務員組織NHKに、警視庁や警察庁が三権分立に違反して自らの憲法責務を放棄し従属していないか、

勤労納税子育て主権者国民という立憲法治日本国の君主が特別司法公務員組織に猛省を求める。
-------------------
使用992文字

情報発信元警視庁 広報課 広聴係
電話:03-3581-4321(警視庁代表) 
日本は「和」式 (Unknown)
2017-06-22 17:17:41
和洋折衷という言葉があり、柔よく剛を制すとも言う。

日本は最終的に滅びなければ、世界のリーダーになるしかない。

将棋の藤井4段の快進撃、卓球の平野みう達の若手の快進撃もその予兆のようにさえ思う。

要は日本に生まれたその道の魂の生まれ変わりの活躍で世界を「和」すること。

まさに神仕組みとさえ思へるほどだ。

自分勝手な傲慢な政治家、独裁政治の共産主義、社会主義国、カルト宗教のテロ国家、私利私欲で政治を自分の恣意のままにやってる日本のダ(あべ)メ政権の自滅は当然じゃよ。。
自由党の森裕子は (Unknown)
2017-06-22 17:24:24
もしかしたら小沢軍団の旗頭として都議選で惨敗した民進党とくっついてお得意の新しい党名つくって森裕子が党首で小沢一郎が幹事長の流れの可能性も高いな

都民ファースト(党)も大勝利でまずは都政は自民党の議席は大幅減になるだろうね?

それでいいんだけどね・・・政界の自浄作用なんじゃないかね?
テレビなどで「有馬」姓の人を見掛けると、「落人の末裔?」と思ったり… (ponpon)
2017-06-22 17:43:18
http://www.h7.dion.ne.jp/~fm1401/tabi140907/tabi140907.htm
『今から約900年前の平安時代中期に美濃の有馬一族が落ち延びて丹原の地に住みついた』
『しかし交通が不便なため離れていく人が続き、昭和50年に無人となった』

https://blogs.yahoo.co.jp/wakatteruneyamachan/25594277.html
『丹原の跡 有馬一族建之』
『郷土丹原は約900年前、有馬中将千賀守が故あって隠れ住んだ所と伝えられ、約30戸の有馬一族が住んでいた』
『交通が非常に不便なので此の地を去り、遂に無人の地になり感慨まことに無量』
『ここに祖先の偉業を偲び、郷土の歴史の一部を記して、これを後世に伝える』

日本各地にこういった逸話が沢山残っているんでしょうねぇ…。有馬家はリベンジを果たしたのだろうか…。

■カルタゴと日本
http://jcoffee.g2s.biz/tamatebako.html#karutago

紀元前に存在した経済大国「カルタゴ」は滅びましたが、今もカルタゴ人の末裔が地中海周辺などで暮らしているそうですし…。

> 強い力を持つ者でも時を経ればかならず弱る

「強い力を持つ者=人類」でなければ良いんですが…。

> 天下分け目の関ヶ原

「源平合戦」「南北朝の戦い」などもありますよねぇ…。

> 島津 明治政府の中枢

テレビなどに鹿児島出身のタレントがよく出て来るのと何か関係があるのだろうか…。(綾小路きみまろ、はしのえみ、恵俊彰など)

> 「生き残ること」に全神経を注いだ者が最終的勝者

先進国の人類のメスは子供を産まなくなっていますよねぇ…。

> 現代のエリートは歴史も古典も学びません

現代の「エリート=守銭奴」の頭の中身は、「カネ」「利権」「女」で一杯なんでしょうねぇ…。

> 明治以降の教育にも問題

明治以降の学校教育は、人間教育というよりも、労働ロボット(機械、コンピュータの代わり)を育成するものでしたからねぇ…。だから、古い世代ほど筋肉ムキムキだったり、暗算などが得意だったり…。

> その時こそ日本が復讐するチャンス

アラフォー男子の私が「チャンス」と聞くと、↓コレが思い浮かぶ…。(笑)
https://youtu.be/ersS8yiCS5g
小出恵介の相手は韓国人のハンホノリ(江原穂紀)で高校生ではなくシングルマザー・黒幕は松村健司 (Unknown)
2017-06-22 17:48:22
★日本人必読
◆テレビしか見ない日本人に伝えよう!騙され続ける日本人。
朝鮮人(韓国人)には近づくな!
朝鮮人(韓国人)とは関わるな!
朝鮮人(韓国人)とは絶対に結婚するな!
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6693.html
アメリカのいずれ内乱の時代が来てボロボロになる時が来る。その時こそ日本が復讐するチャンスである←本当? (三毛猫)
2017-06-22 18:27:22
単なる「願望」や「空想」じゃなくって。

別に、米国に復讐する気はないのだけども?

そんなことよりも、ロスケどもが不法占拠している
千島列島全島を奪還したいな。

千島列島全島をソ連崩壊時に奪還出来ない日本には、米国がどうなろうと米国に復讐する気力など
皆無だろう。


「朝鮮進駐軍」に復讐しよう妄想しているネット右翼?と同じ発想と思う。

ネット右翼(ネトウヨ)=パヨク。

空想・妄想の世界に生きるコインの裏と表。
盗京穢土枯、チョン枯ロ、穢土枯ロ、チャンの枯ロ。彼は裏切りの者共として、歴史に裁かれ、万年草木に隠れる事とならん。 (名無しの見届けニャン)
2017-06-22 18:34:01
島津は幕末、倒幕の旗手として長州と並び、倒幕の雄のとして戦ったが、
実質は長州による倒幕であり、

維新の後、薩摩の大久保利通が暗殺されると政治はほぼ長州閥で占められ、軍事と警察権力おいてかろうじて薩摩でなす事となった。
そして戦後の薩摩は、安倍のような長州閥とは違い、東亜戦の軍事敗北の責任を負う形で威を失う事となった。

例え生き延びたとは言え、今のところ、その威を回復したとは決して言い難い。
平家の如くであっては誇ることが出来まい。


薩摩島津家は徳川側の都合によって、戦意を失わず生き残る事が出来たが、

長州の毛利家は、徳川によりグウの音も出ぬほど領土を大幅に削られる事となった。

その秘めたる物は、雲泥の違いであろう。

また島津家と安倍家では、
そこに流れる血脈を比べて見るに、
東北千年の怨念を負って生まれた安倍家と、
代々領主として家名を保った島津家では、比べる事など出来ようはずが無いではないか。

秦を滅ぼすは三戸にして楚か、と言う言葉もある。

安倍家千年の怨念の血統は今、
日本に対しフクシマの禍いを以て復讐を成さんと息巻くが、
自らに流れる血脈の故地である東北を犠牲にした復讐は必ず、失敗する事に成ろう。

また、復讐のためには走狗となった安倍家には
相応の報いが来る事は、火を見るに寄り明らかである。
Unknown (古森 義久)
2017-06-22 18:57:37
文罪寅(韓国人)「日本は謝罪すべき!!」
    ↑
・菅「おわびは慰安婦日韓合意で表明終了だバカヤロー」

・百田尚樹のベストセラー、ブラック本『今こそ韓国に謝ろう』


アメリカ人でさえ、複数の学者などが「日本は謝罪外交を止めろ」と言っている!
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170617-00050287-jbpressz-int
韓国は反日激化、日本は謝罪外交をやめるときが来た 6/17(土) JBpress

(前略)

■ 謝罪外交は失敗だったと米国人学者

さらに文政権下では、「反日」志向が一段と激化することが予測される。その動きに日本はどのように対応すべきなのか。

日本側は年来、韓国の官民からの糾弾に対してとにかく謝罪するという対応をとってきた。そして、韓国側の当面の要求に屈服するという態度だった。慰安婦問題などでの宮沢喜一氏の連続謝罪、河野洋平氏の「河野談話」などが分かりやすい実例である。

こういう態度は、韓国側に同調や譲歩を示し謝罪をすれば、韓国側が態度を軟化させ当面の摩擦状態は改善されるはずだ、という前提に立っていた。だが、この前提は間違っていた。日本が謝罪した後の韓国側の態度や日韓関係の実際の展開をみれば、その結果は明白である。

米国オークランド大学の日本研究学者、ジェーン・ヤマザキ教授は、日本の韓国に対する謝罪外交は外交としては完全な失敗であり無意味だったと総括している(なお、同教授は日系米人男性と結婚した女性で、非日系である)。

ヤマザキ教授は自著で、1965年の日韓国交正常化以降の日本の国家レベルでの謝罪の数々を列記し、「主権国家がこれほどまでに過去の自国の行動を悪事だとして他国に謝ることは国際的にも珍しい。だが、その謝罪によって韓国側の対日姿勢が改善することはなかった」と指摘していた。ヤマザキ教授は「謝罪が効果をあげるには、受け手側にそれを受け入れる構えがなければならない。しかし韓国側には、日本の謝罪により自国の言動を変えるという態度はまったくうかがわれない」とも述べる。

他の米国人政治学者、ロバート・ケリー教授やジョージタウン大学のビクター・チャ教授も、日本側の謝罪は日韓摩擦を解消しないという趣旨の見解を明らかにしている。最近は日本側でも国民レベルで「韓国側への謝罪は不毛だ」とする認識が広まってきたようである。

■ 虚偽プロパガンダを受け入れる日本メディア

ただし、日本の主要メディアの慰安婦問題報道を見ていると、韓国側の要求に応じれば事態は改善されるという認識も今なお感じさせられる。

例えば、朝日新聞やNHKをはじめほとんどの大手メディアが、ソウルの日本大使館前などに不当に設置された慰安婦の像を「慰安婦像」とは呼ばずに、韓国側の喧伝する「少女像」という呼称に従っている。この像は、製作者側も明確にしているように、まだ幼さを感じさせる年齢の慰安婦そのものを模したブロンズ像である。韓国側は政治宣伝のレトリックとして「平和の少女像」などと呼ぶ。だが、実態はあくまで慰安婦像なのだ。それを少女像と呼ぶのは、上野の山に建つ西郷隆盛像を「男性像」と呼ぶような錯誤である。

そもそも慰安婦問題に関して、日本は韓国側から不当な虚偽の非難を受けてきた。韓国側が言う「日本軍による朝鮮女性の集団強制連行」「女子挺身隊も慰安婦」「20万人の性的奴隷」などは、事実とは異なる糾弾である。そうした韓国側の虚偽のプロパガンダを、日本側のメディアはそのまま受け入れる。その態度には、不毛な謝罪外交の心理がにじむ。韓国側への理解を示せば、事態は改善するという思いこみのようにも映る。

韓国の反日がいつまでも続くのは、韓国側がその代償をまったく払わなくて済むからだという指摘が、米国の専門家たちから頻繁になされている。つまり、どんなに日本を叩いても日本からの反撃はなく被害を受けることはない。だからいつまでも反日の言動を繰り返す、というわけだ。そんな悪循環を断つためにも、理不尽な日本糾弾には、そろそろ日本側も対抗措置をとるべきだろう。国益を守るために戦略的な強固さで韓国の「反日」に立ち向かうべき時代がついに来たということだ。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]. 古森 義久
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6703.html
Unknown (古森はベトナム報道で日本中のマスコミを敵に回した)
2017-06-22 18:59:08
わが国のマスコミは終始北ベトナムの味方だった。2015-12-24

>古森義久/元産経ワシントン支局長/もと毎日サイゴン特派員

ベトナム戦争(1958~1975)・・大新聞の特派員は本社デスクが反米親共の記事を喜ぶから常にそれに迎合した。共産軍を最後まで解放軍と欺いた。どうせ半年、一年で交代するのだからベトナム語なんかおぼえる気は無い。彼らは現地人から取材しないで、英語を話す者の話だけを書いた。ひどいのは英字新聞の記事を使って送った。皆々がパリ、ニューヨークの特派員になりたがっている。だから一日も早く本社に呼び戻してもらおうと、デスクの気に入る原稿を送る。

戦前ドイツが日の出の勢いだったころ、日独防共協定なんか結ぶなと再三書いた特派員がいた。没になるに決まった原稿を送るのはよせと友は忠告したが、邦家の為だとその男はききません。なお送り続けたから仲間は去り、しまいには「村八分」にした。今も昔も変わらない。新聞は次の大戦にも国をあやまるだろう。古森はベトナム報道で日本中のマスコミを敵に回した。のちに産経に引き抜かれ、平成5年そのごの報道ぶりが認められ「日本新聞記者クラブ賞」を受賞。http://blog.goo.ne.jp/tsuguji19/e/554389b9dce79173fea0c0aa950c6ed9
http://ykdckomori.blog.jp/
http://kenjya.org/kokunai1.html
よくぞ書いてくださった (小太郎)
2017-06-22 19:38:57
 日本は米国の属国状態にあるのは周知の事実。しかし,負け続けているわけではない。したたかに勝機を待つ生き方を忘れずにいたいものである。toraさん,いいことを書いてくださった。今夜はよく眠れそうだ。ありがとうございます。
>売国奴安倍。山口県産韓国犬安倍 (転載)
2017-06-22 20:01:01
今日の記事、「もう謝ったからこれ以上謝る必要は無い」というニュアンスが強いのだが、

慰安婦=売春婦であり、強制連行・人狩りは一切無く、21世紀にも存在している売春婦と、一切代わりは無く、謝罪も賠償も本来「一切必要ない」が正しい主張だ。

安倍韓国犬の写真なども出してきて、全力で安倍チョン三を、disってほしいです。ちょっと自民党や安倍をdisる感じが、弱いと思います。

安倍は地元で「パチンコ御殿」と呼ばれる建物に住み、親の代から在日マネーが政治パワーの源で、何度も統一教会機関紙表紙に登場している韓国スパイです。

今回の東芝半導体事業の売却に韓国が入ってきたのも、官邸の意向。

「正しい歴史認識」のブログで慰安婦問題を取り上げてくださる時、最近、もう謝ったからこれ以上は謝らなくていい、というスタンスが強く、本来一切謝罪も賠償も必要無いというニュアンスが足りないのかなと、ちょっと思っています。

売国奴安倍。山口県産韓国犬安倍です。
2017/06/22(木) ・・・http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6703.html
まずは北からソウル、釜山にミサイル着弾すればいい。 (Unknown)
2017-06-22 20:07:22
一番確実なのは、日韓戦争

コメントを紹介して頂き、大変恐縮です
百田さんとは意見の異なることもあるとは思いますが、愛国者だとは思います

今、韓国やら朝鮮人に対してはっきり物を言える人、それでいて一般の知名度もあるとなると百田さん以外あまり見当たりません。 こちら側に有利になるのであれば、当然応援していきます。
新刊の主要参考文献の一覧に、黒木頼景氏の「支那人の卑史 朝鮮人の痴史」もあったので、あとがきの内容というのはそういうのを読んだのもあったのだと思います。ぜひとも、百田さんにも近いうちに朝鮮人が日本人に行った非道の歴史というのを書いて貰いたいです。

大東亜戦争で負けて良かったことは、現在の南北朝鮮と縁が切れたことです。今でも、日韓併合という状態が続いているならばぞっとします。ただ、戦後分かれたはずなのに、密航してきて在日朝鮮人として今でも居座っている。アメリカで言う、不法移民、在日朝鮮人は元祖不法移民になります。それで通名を使い日本人に成りすまし、日本を破壊、反日活動を行い、日本の完全乗っ取りを画策する。これを侵略と言わずに何というのか。日本はゼイリブの世界です。日本の戦後はまだ終わっていない。こういう状態を打破するには、一番確実なのは日韓戦争なのだと思います。日本の固有の領土である竹島で定期的に軍事演習をやっているなど、敵国なのは明らかですから。日韓戦争になって、在日朝鮮人がのうのうと暮らせるはずがありません。有無を言わずに強制送還、日韓断交です。日本人を平和ボケから覚醒させる為に、まずは北からでも日本の領土にミサイルが着弾すればいい。

もちろん、日本に被害が出て欲しいと思っているわけではありません。あとは地道に真実を伝えて日本人の嫌韓度を上げることでしょう。メディアは最後まで抵抗するでしょうが、メディアでも抑えきれないほど嫌韓度が上がれば日韓断交も十分ありえます。一人でも多くの日本人が覚醒することです。自分の願いは、朝鮮人のいない美しい日本を取り戻すことです。日本人の為の情報を発信するこのブログをこれからも応援します。
2017/06/22(木) 16:20:57 はりまお
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6703.html
歴史とは現在進行形である (八坂)
2017-06-22 20:12:10
>つまり朝鮮人や中国人や東南アジア人は日本軍がボロ負けをしたところを見ていない。しかしアメリカはベトナムでボロ負けをして尻尾を巻いて逃げ去っていった。ベトナム人はそれを見ている。

ん?
歴史も大事だが今この状況も大事では?
未来から見れば現在は過去の歴史であり、現在の人間の行動から未来の歴史が生まれる。

つまり朝鮮人や中国人や東南アジア人は日本軍がボロ負けをしたところを見ていない。しかしabeと奴隷ポチはアメリカ様に媚び諂い尻尾を振って忖度している。
世界の人々はそれをみている。

アメリカ様がお手と言えば手を出し、オスワリと言えば座り、フセと言えば伏せる。チンチンと言えばチンチンを出す。集団的自衛権といえば集団的自衛権を認める。外国人を雇えと言えば不法就労を容認する。
なぜ入管と警察は不法就労を取り締まらなのか?むしろ放置、容認して不法就労を更に増やしている。その理由は年次改革要望書にある。
復讐できるか? (Unknown)
2017-06-22 21:16:06
>アメリカのいずれ内乱の時代が来てボロボロになる時が来る。その時こそ日本が復讐するチャンスである。

原爆を落とされ週十万人の日本人が虐殺されて、東京は一日で10万人が焼き殺されたが、こういう米国の残虐さがマスコミや歴史教科書では封印され、従軍慰安婦という蚊に刺されたようなちっぽけなことを過大に書き込む朝日新聞等、日本のマスコミは米国のプロパガンダ機関である以上、復讐するような根性のある日本人は今後も発生しないと思う。それほど米国にとって都合の良い情報しか流れていない日本は消滅するだけだと思う。
Unknown (それでも消費税は上がるらしい)
2017-06-22 21:34:12
>その時こそ日本が復讐するチャンスである。

そうさせない為にアメリカは売国自民党を使って
構造改革という名の日本発展途上国化政策と
日本人の血を薄める為の移民受け入れ政策を行わせているんだろ
狡猾さにおいてアメリカ支配者層は日本人より遥かに上だ
復讐される事を想定して、事前にその芽を摘む事に抜かりはない
ネトウヨがまたぞろ安倍ちゃんの代わりは誰がいる、などとほざいているが
アメリカ支配者層の命令のままに日本を破壊する雑夫に何を期待しているのかね
肉屋を慕う豚がネトウヨだ
薩摩弁を喋らないよそ者は排除した薩摩に見習え (Unknown)
2017-06-22 22:51:25
いつまでも過去にこだわるのはイスラム教と同じ、宗教中毒でろくなことがない。イスラム国を見ろ。過去に生きる人間を受け入れるのは禁物。欧州の失敗に学べ。
安倍ってのの汚さ確定だから、こんな奴らがはびこるのさ=安倍は消滅するんじゃね? (Unknown)
2017-06-22 23:14:12
安倍チルドレンの豊田真由子っての秘書への恫喝をみよ‼

「この~、ハゲ~!」って自民党議員の2期生安倍チルドレンは罵倒の鬼畜生、外道だろ?
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E8%B1%8A%E7%94%B0%E7%9C%9F%E7%94%B1%E5%AD%90&tid=bdda0cc72c9fab75d01ffa5fc271bdaa&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

秘書の娘が事故で顔がぐちゃぐちゃ~って・・・ミュージカル調で歌う安倍チルドレン=豊田真由子
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E8%B1%8A%E7%94%B0%E7%9C%9F%E7%94%B1%E5%AD%90&tid=bdda0cc72c9fab75d01ffa5fc271bdaa&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

秘書の娘が交通事故で頭ぐちゃぐちゃ~って歌う映像
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E8%B1%8A%E7%94%B0%E7%9C%9F%E7%94%B1%E5%AD%90&tid=c58991c65cd0c027f1798dc503caf3b7&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1
情熱と夢 (Unknown)
2017-06-22 23:16:55
夏子の酒 オープニング映像(1994年)
http://www.youtube.com/watch?v=r7HvzLcN1JQ

米政府が対北先制攻撃を検討した核危機、1994年あれから・・・。
日本のドラマが大好きだった金正日が、息子の正恩に託した夢。

北朝鮮弾道ミサイル「北極星ー2」2度目の発射映像(2017年) 
http://www.youtube.com/watch?v=ws8CFpn65ZY
大東亜の戦略とは (村夫子)
2017-06-22 23:18:05
目先の勝敗にとらわれぬ、というのであれば、大東亜戦争についていえば、間違いなく中共の勝利である。
大陸で連戦連敗しながら、西安事件で国共合作を実現。日本ではゾルゲや尾崎秀実らが近衛文麿に南進論「東亜の大義」を説き、まんまと仏印駐留から日米開戦にこぎつける。
結果、みずからの軍は負けまくりのくせに勝戦国。戦後は、蒋介石を台湾に叩き出し、米国の干渉を排除し、大陸の覇権を確立。いまや、雌伏100年を経て香港を取り返し、米国と覇権を争う。これを「目先の戦闘の勝敗よりも戦略による勝利」と言わずして、なんというか。

これに気づかない限り、日本の未来は暗い。日本が米国と争って得なことは一つもない。しかし、馬鹿な日本人は、未だに尾崎秀実の「東亜の大義」を信じており、米国に復仇を考えている。
米国は大陸の権益を手に入れるのに失敗しており、勝ったといえない。
勝ったのは中共である。
単に4年間の戦争しか考えないから、この単純な事実に気が付かぬだけである。戦争は、70年以上続いているのだ。
政治家は人の道から外れたら (Unknown)
2017-06-22 23:29:19
どんなに権勢を誇っていても終了は確定するものさ
自民党内部もこんな奴らの跳梁跋扈にうんざりして自ら離党していく者も多くでてくるんじゃないかね?

小池百合子みたいに私利私欲というより、如何に正しい政治、政策選択が各委員会立ち上げて合議決定でやるほうが本当の政治家の姿だと思うよ

ただ小池百合子党の政治家、議員の資質はそんなに期待できないかもしれないけど・・・素人であっても公明正大で志高く人柄も真に高潔ならば・・・人はおのずと集まり指示されていくだろうな

政治の世界はいつの時代も戦のようなもので、生成流転、虚虚実実の騙しあいなのもある

はたして、子の顛末や如何に?だけど
自民党の勢力は確実に減っていく可能性は高いよね
自分に自信がない? (Unknown)
2017-06-22 23:51:34
ここのコメント欄、やたら”安倍が”と出てくる。
何を恐れているのか、怯えているのか、気が小さいのか臆病者なのか。
歴史や古典以前に、今の日本は本読まないから (田布施朝鮮人部落にコアを乗っ取られた日本を解放する同盟)
2017-06-23 00:32:13
て、いうか、今の支配階級は、正社員にふんぞり返ってる奴らは、本なんて読まないから。

本田宗一郎も「本に書いてあることは真実は無いので、一切私は本を読みません」状態が、今の日本の世を動かしている奴らの感覚だから。

どうやら、連中は別の法則で、情報源で世を見ているから、本を読むという領域から違うし、掛け離れてるし。
面接で、「入室して5秒で採用は決まる」と昔言われたが、その5秒の判断される性質・属性・生まれながらに親から受け継いだ物の有無で勝手に判断されちまうのが、今の日本の「人間の価値基準」なんだし。

仕事するのが良いのではないの、有る力の属性の有無で勝ち組と負け組は決まり、どうしようもないの。
それさえあれば、出勤して会社で遊んでいても、高給取れ、出世可能で、生殖する条件が満たし、気ままに暮らせるので。

だから真面目な人が全く報われず、一生派遣で安給で、結婚もできず種族を残せず孤独死して死ね、という「社畜・派遣囲い込み社会」が今の経団連や財務省の望む、日本の社会の惨憺たる現状なので。

管理人さん、「明治維新の頃のエリート達は歴史と古典を学んでいたが」とあるが…。
明治の日本のコアを乗っ取りノサバッタ部落の奴らが、相当繁殖しまくり、増え過ぎて更に搾取を拡大し、ゴロツキが報われ、真面目な労働者が一切報われないのが現状だと思いますよ。

徳川家康や戦国を生き抜いた支配者階級の武士は、連中のどうしようもなさを見抜き、連中を部落に隔離して封印した。
明治維新でそれがひっくり返され、連中が日本の中心を乗っ取り、江戸時代の差別の怨念を恨みを晴らすため、自分達以外を死なせる為太平洋戦争を起こし、戦後も懲りず「組織乗っ取り型」で企業(例:スクエア・エニックスの慣れ果てが特に酷い)内部乗っ取り型・食い荒らし型で、増殖しまくり、威張ってるのが現状だと、俺は思いますよ。
仏説父母恩重経https://sptnkne.ws/eGHN (豊岳正彦)
2017-06-23 01:52:07
仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三節仏のたとえ_第一項_雑宝蔵経

 遠い昔、棄老国と名づける、老人を棄(す)てる国があった。

その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。

 その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。

 ところがここに一大事が起きた。

それは神が現れて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。

 「ここに二匹の蛇がいる。

この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。

 王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。

王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。

 かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。

 「それは易しいことだ。

柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。

そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」

 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。

 それから神は、次々にむずかしい問題を出した。

王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。

その問いと答えとは次のようなものであった。

 「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるものは誰か」

「それは、いま道を修行している人のことである。

道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。

すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」

 「大きな象の重さはどうして量るか。」

「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。

次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」

 「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」

「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永久(とこしえ)に消えない。

大海の水は多いといっても、ついに尽きることがある。

これをいうのである。」

 次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。

「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」

「ある。

世にもし、心がかたくなで貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間餓えに苦しまなければならない。」

 「ここに真四角な栴檀の板がある。

この板はどちらが根の方であったか。」

「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。

それによって根の方を知ることができる。」

 「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。

どうしてその母子を見分けるか。」

「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」

 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。

そして王は、この智慧*が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。

_________


*智慧(般若はんにゃprajna)
 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが”仏陀”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を、”般若波羅密はんにゃはらみつ”という。



南無父母無二佛  合掌
Unknown (八坂)
2017-06-23 06:35:57
賢者は歴史に学び

愚者は親米事大する
Unknown (八坂)
2017-06-23 06:41:21
賢者は歴史に学び

TORAはAV中毒
Unknown (八坂)
2017-06-23 06:43:37
賢者は歴史に学び

模倣ブログは天才ごっこ
Unknown (Unknown)
2017-06-23 06:58:22
賢者は歴史に学び

ポチは忖度する
✖不始末の落とし前つけよ! 岸田文雄、佐藤地! (Unknown)
2017-06-23 08:14:10
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/5a4fcdf2ce0a4a1f69e162f7a38f14f3

✖韓国捏造映画「軍艦島」、またも史実にない「反日」要素 観客に誤解を与える恐れ!!
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170616-00010002-nishinpc-int
Unknown (Unknown)
2017-06-23 08:24:24


ナイト、トランプ「トルーマン大統領は、日本に原爆を落とすガッツがあった!」 (Unknown)
2017-04-08 19:32:27
昨年4月28日、インディアナ州で開かれたトランプの支援集会において、元バスケットボール名監督ボブ・ナイトは、次のような演説を行った。

「トルーマン大統領は、日本に原爆を落とすガッツがあった! おかげで多くのアメリカ人が救われた」
「トランプも同じこと(日本への原爆投下)をしてくれる偉大な大統領になるだろう」

 つまり、このナイトは、一瞬にして数十万人もの尊い命が失われた過去の原爆投下を讃えたのだ。この発言を広島・長崎の犠牲者が耳にしたら、一体どう思うだろうか? そして、このトンデモない発言に対し、トランプは反論するどころか「ナイト氏は偉大だ!」と賛同したのだ。

>倉山満(44、憲政史研究者)ベストセラー 日本は無憲法状態!

米国は日本のために中国と争う気は毛頭無い・・・「利益がない」=米識者 ~共産党サーチナ 5/2(金)
                          ↑          
                      ~毎度の嘘!
                          ↓
       本音は → 「核武装国同士」は「争いたく無い」だろ、無い国(日本)をこれからも米中で恫喝し続け衰亡させることだ!

マッカーサーの「ごり押し憲法」と「大日本帝国憲法」の根本的な違い!

集団的自衛権に対しても中途半端な形で解釈改憲をするよりも、マッカーサー憲法を無効として、大日本帝国憲法を時代に合わない部分を改正する形で新憲法を定めるべきだろう。倉山、「そもそも日本国憲法は、日本を敗戦国のままに留めておきたい者たちが作ったということだ。軍事力を持たせないようにし民族ごと奴隷にして来た。また靖国神社を標的にして、日本人が家族のために反撃する行為を蛮行だと断じ、日本人の誇りを奪って来た。マッカーサーとその下僚たちは、そのために日本国憲法をつくり日本に押し付けたのだ」。
            ↑
     米軍占領下ごり押し憲法は無効70年だ!
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/fb804571d9267eb83a3fe35a5c2a79cc#comment-list 

>現軍事評論家=佐藤守曰く!

米ペンタゴン大佐、「マッカーサーは国際条約違反して、占領国日本に憲法を強制した! しかし、それよりも日本は独立したのだから何故それを破棄しなかったのか!」と言われた。
法句経『仏陀の言葉』 (豊岳正彦)
2017-06-23 08:39:36

まこと、怨みごころは

いかなるすべをもつとも

怨みをいだくその日まで

この地上にはやみがたし

ただうらみなさによりてこそ

このうらみは息(や)む

これ易(かは)りなき眞理(まこと)ぞ。



出典 角川文庫--966--
「法句經講義」友松圓諦(ともまつゑんたい)昭和30年角川書店発行
終戦間近にこの男が死んだことを神に感謝したい、コイツは日本に20個の原爆を投下し我が国を完全に消滅する計画であった。その思想は現代も全米国人のDNAに継続中だ (Unknown)
2017-06-23 08:44:33
     京都が原爆投下の最有力候補地

>なぜ京都は爆撃少なかったか → 原爆予定地だった、 投下されていたら南京大虐殺はさらに50万人と捏造されて来ただろう!

京都への空襲が控えられたのは、アメリカ人東洋美術研究者、ウォーナーの進言のおかげであるという説が戦後信じられて来たが、それは事実でなく、むしろアメリカの日本占領政策のプロパガンダのために仕立て上げらものであると歴史研究者の吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたのか』の著書で明らかにした。

アメリカがあの大戦争にもかかわらず日本の古都の文化財を尊重していたと思わせるウォーナー伝説が占領政策を有利にするとアメリカは考えた。京都空襲を控えたのは、米軍によって京都が原爆投下の最有力候補地されていたからであると吉田は断定する。原爆の威力を日本人に誇示するために通常の爆撃が控えられていたのである。京都は最後まで投下目標として残っていたが、もし京都に原爆が投下されていたら、当時の市民90万人のうち50万人が死んだのではと放射線防護学者安斎育郎が推定。

1945年7月に京都は原爆投下目標から外されたが、それは古都が壊滅すればアメリカの占領政策がうまくいかず、日本が共産化するのではないかというスチムソン陸軍長官の指摘によった。

もし、京都に原爆が投下されていたら、南京大虐殺の人数は、50万人となっていただろう。何故なら広島、長崎に原爆を落とし民間人を虐殺したアメリカは、日本軍も当然大虐殺をしているはずだとして調査したが、何処にも日本軍の大虐殺が発見でき無かった。このためGHQのアメリカと支那は南京大虐殺を捏造し、広島、長崎の原爆投下による大虐殺の見返りとしたのだ。なお、終戦間近にルーズベルトが死んだことを神に感謝したい。京都、及び日本にとって不幸中の幸いであった。ルーズベルトは日本に20個ほどの原爆を投下し日本を完全に壊滅するつもりであったからである。8/23京都新聞/哲学者(90)寄稿。  2015/08/23(日)
Unknown (Unknown)
2017-06-23 09:10:09
✖46年逃走のテロリストにその破壊工作資金は年3千万円か!! 
 中核派が大坂正明容疑者(67)大坂容疑者に支給?

コイツ逮捕されるまで、46年間の逃亡生活。総額13億8千万円!
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4963.html
一生懸命仕事をしている中国人に気を付けましょう。 (唖然)
2017-06-23 09:29:09
産業スパイになる中国人をメンタリティーからみると ~被害社長の告白

http://ameblo.jp/xiang-xia/entry-11989461097.html
{産業スパイの一人であった「Bの印象をこう話」します。
 「真面目に仕事に取り組み人柄もいい男でしたね。細かいところまで自分がきちんと理解するまで質問に来るし、夜遅くまで残って実験をすることもしょっちゅうでした。そのため非常に可愛がって自分が知っていることはすべて教えました。いま思えばバカでしたね……。でも当時は、不信感を抱くことは一切ありませんでした。月に1度はBの自宅に招かれて食事をごちそうになったり、家族ぐるみの付き合いをするほどの仲だったんです」と。
 細かいところまで質問に来て、残業していた理由はこれです。
 「Bは在籍中に情報を盗み、実用新案を申請していたわけです。うちの中国工場のパソコンを調べると、新工場を立ち上げるための企画書などが大量に出てきました。残業していると思っていたら、こうした資料を社内で夜ごと作っていたようです」。

 中国人が自分の利益にならない仕事をするわけがありません。一生懸命仕事をしている中国人を見たら、気を付けましょう。一方でスパイにならない中国人はもちろん使い物になりません。
要は雇わないことが一番だということです。} 2017/06/23(金) ヘルムズ
Unknown (笑氏)
2017-06-23 12:15:08
織田・武田・今川らの大国に挟まれた徳川もしくは井伊でもいいが、最後の勝者になるのだ。
仏教聖典 (豊岳正彦)
2017-06-23 12:46:26
仏教聖典p229第三節もろ人のために から転載する。


一、(長阿含經第二、遊行經)

 ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。

 一つには、国民はしばしば会合して政治を語り、国防を厳にして自ら守り、

 二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、

 三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、

 四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、

 五つには、父母に孝し、師長に仕え、

 六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、

 七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。

 どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、その国の栄えることは疑いがなく、外国の侮りを受けることはないであろう。


二、(華厳経第三四、入法界品)

 昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。

 「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。

自ら慈の心を養って、この心をもって国民に臨み、

人びとを教え導いて心の垢を除き去り、身と心を和らげて、

世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。

 また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。

そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。

 人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。

この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。

これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。

 教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光を見るのであるが、

欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。

 国民の生活は、万事みなこのとおり、心がもとになっているから、

わたしは国を治める大もとを、民にその心を修めさせることに置いている。」

三、(金光明經第一二、四天王護国品)

 大光王のことばどおり、政道の大もとは、民にその心を修めさせることにある。

 この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、

政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。

 もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、

慈悲深く徳のある人を敬い、これに供養するならば、

敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。

 そして、国が富み栄えるならば、他の国を貪り攻めることもなく、

また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。

 したがって国民も満足して楽しみを受け、上下和らいでむつみあい、善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜び合うから、

いよいよ人は栄え、寒さ暑さもととのい、日も月も星も常の程度を失わず、風雨が時に従うようになり、

こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。

四、(大薩遮尼揵子所説經)

 王たるものの勤めは、民を守ることにある。

王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。

民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、

父母が赤子のことばを待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、

いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。

まことに王は、民をもって国の宝とする。

これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。

 だから、王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。

民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、

そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、

民の憂いと喜びを知り、罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、

賞罰の道を明らかにする。

 このように民の心を知って、与えなければならないものは時をはかって与え、

取るべきものはよく量って取り、民の利を奪わないよう、

よく税を軽くして民を安らかにする。

 王は力と権威によって民を守り、このようにして

民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。
仏教聖典 (豊岳正彦)
2017-06-23 12:47:31
五、この世の中の王を転輪王というが、転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、また教えを守るところの王である。

 この王のゆくところには、戦いもなく恨みもなく、よく教えによって徳をしき、民を安らかにして邪と悪を下す。

 また転輪王は、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、貪らず、瞋らず、愚かでない。この十善を行って民の十悪を去らせる。

 また、教えによって政治を正すから、天下において思いのままになすことができ、そのゆくところには戦いがなく、恨みもなく、互いに相犯すこともない。したがって、民は和らぎ、国は安らいで、民にいよいよその生を楽しませることができる。だから教えを守る王といわれるのである。

 また転輪王は、王の中の王であるから、もろもろの王はみなその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。

 このように転輪王は、もろもろの王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えのもとに王の任を果たさせる。


六、また王は罪を裁決するにも、慈悲の心をもととしなければならない。

明らかな智慧をもってよく観察し,五つの原則をもってよく処置しなければならない。

 五つの原則というのは、

 一つには、実によって不実によらない。

これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。

 二つには、時(じ)によって非時(ひじ)によらない。

これは、王に力のあるときが時(じ)であり、力のないときが非時(ひじ)である。

力のあるときは罰しても効果があるが、力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、時を待たなければならない。

 三つには、動機によって結果によらない。

これは、罪を犯すものの心に立ち入って、それが故意であるか故意でないかを見きわめ、故意のことでなければ許すのをいう。

 四つには、親切なことばによってあらいことばによらない。

これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。

 五つには、慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。

罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心をもととして、罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである。


 七、もし王の重臣であって国家の大計を思わず、ただ自分の利ばかりを求め、賄賂を取って政道を曲げ、人民の気風を頽廃させるならば、

人民は互いに相欺くようになり、強い者は弱い者をしいたげ、貴い者は卑しい者を軽んじ、富んだ者は貧しい者を欺き、曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、

災いがいよいよ増長するようになる。
 
 すると忠実な重臣は隠れ退き、心あるものも危害を怖れて沈黙し、

ただへつらう者だけが政権をとって、みだりに公権を用いて私腹を肥やし、

民の貧しさは少しも救われないようになる。

 このようになると、政令は行われなくなり、政道はまったくゆるんでしまう。

 このような悪人こそ、民の幸福を奪う盗賊であるから、国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。

なぜなら、上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。

王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国において、

父母の生育の恩を思わず、妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、

あるいはまた、父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、

これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。

 なぜなら、父母の恩はまことに重くて、一生心を尽くして孝養しても、し尽くせないものだからである。

主君に対して忠でなく、親に対して孝でない者は、もっとも重い罪人として処罰しなければならない。


 また教えによって政治をしく王の国の中においては、

仏と教えと教団(仏法僧)の三宝に対して信ずる心がなく、

寺を壊し経を焼き、僧侶を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、

もっとも重い罪の者である。

 なぜなら、これらはすべての善行のもとである民の信念を覆すものだからである。

これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして、自ら自分の穴を掘るものである。


 この三種の罪がもっとも重く、したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。

その他の罪は、これらに比べると、なお軽いといわなければならない。」

八、正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、

正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。

 それは、第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。

自分は武力をもって民の苦しみを救おう。

 第二には、もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。

 第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。

王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。

 このようにするとき、兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、

また戦いの性質をさとって王を助け、そして

王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、王の恩に報いるために戦いに従うから、

その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。
Unknown (Unknown)
2017-06-23 16:08:32
今の日本国内の中国人率が異常です。
日本企業も中国人を正社員に登用し日本人は派遣です。
最近の反宗教風潮にしても80年代の中国共産国家並です。

まさか日本の支配層の中枢は既に中国化していて、オリンピック後には習党主席が日本のリーダーとして国会で満場の拍手喝采の中登場するなんて、無いですよね?
Unknown (Unknown)
2017-06-23 19:40:36
どうだかね、今の若い人なら、「それまで勝者いられるなら、最期の最期に負けるくらいどうってことない。」ぐらい考えてそうだけど。
Unknown (Z-ton)
2017-06-23 20:44:20
その島津氏は、明治維新の廃藩置県で、薩摩藩を没収されたんだが。
仏教聖典(仏教伝道協会出版) (豊岳正彦)
2017-06-23 21:06:44
仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項 (華厳経)

 この世の中には、三つの誤った見方がある。

もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。

 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。

二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。

三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。

 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。

 したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。

 次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

 だから、この三つの見方はみな誤っている。

どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。

(A6文庫本p45)
____________________
 法句経の現代語訳から

「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」

「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。」

「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」

「怨みは怨みをもって止まず。怨みを捨ててこそ止む」

「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

__________________
__________________
www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/416.html#c30
(Unknown) 2017-06-23 16:08:32へ (豊岳正彦)
2017-06-23 21:19:05
超訳維摩経仏國本『ザ・ワールド・オブ・パラダイス』から0-4話を順次転載。http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima063.html

第0-1話 ある日の仏たち
2009.2.14

こんな話を聞いたことがあります。

かつて、世尊こと仏さま(ブッダ)がヴァイシャリー市の郊外にあるアムラさん所有のマンゴー樹園を借り切って、500人の弟子と8000人の修行者たちと一緒になごんでいたことがありました。

そこに集まっていたのは、ひととおりやるべきことをやり終わったものばかりで、これといった悩みも心配ごともなく、悠々自適の毎日でした。

また、3万2千人にもおよぶパワフルな超人(=菩薩)たちも勢ぞろいしており、それはもう、なかなかにぎやかな様子。

そしてブッダが説教をはじめると皆は真剣に聞き入るのですが、それはまるで大海原の真ん中にシュメール山がそびえ立っているかのようでした。

ヴァイシャリー市から団体で話を聞きに来ていた大勢の金持ち息子たちは、それぞれが手土産として持ってきた宝石ジャラジャラの日よけ傘をブッダにささげました。

すると何ということでしょう!
ささげた傘がみな合体してひとつになり、全世界を覆いつくしたではありませんか!

シュメール山やヒマラヤ山などの高い山から海、川、泉なども全部入っています。
太陽や月、星までもが傘の中に入っているのです。

ブッダが超能力を発揮してやっていることは間違いないので、みな度肝を抜かれながらもブッダから目が離せませんでした。

その時、ヴァイシャリー市の金持ち息子のひとりである宝積(ほうしゃく)くんが進み出て、こう言いました。

「世尊さま!

あなたの眼はまるでハスの花びらのようにきれいです。
心はきよらかで落ち着きがあり、大勢の人々にやすらぎを与えてくださいます。
私はそんなあなたを猛烈に尊敬しています!

今見せられたようなミラクルを軽々と発揮し、無敵の能力でありとあらゆるものを理解し、みなに利益を与えます。
私はそんなあなたを猛烈に尊敬しています!

あなたは「あらゆるものごとは「有る」のではなく「無い」のでもなく、ただお互いの依存関係があるだけだ」と見切られました。
菩提樹の下で悪魔を降参させ、悟りを完成されました。
「もはや何も得ることもなく、これといってすることもない」と言いながら、大勢の外道たちをことごとく打ちまかしました。

あなたはかつて、以下の3種の完璧なる「法の輪」を回転させました。
「ありとあらゆる苦しみの正体を見抜く法」の輪
「ありとあらゆる苦しみを克服する法」の輪
「ありとあらゆる苦しみを克服したことを確認する法」の輪
ああ、あなたは生きとし生けるもの全てが逃れられずに苦しんでいる「老いと病と死」すらも癒すことのできるお方、まさに「医王」と呼ぶにふさわしいお方です。
私はそんなあなたを猛烈に心から尊敬しています!

あなたはまるでシュメール山のようにそびえ立ち、他人からどんなに褒められようが貶されようが、ビクともしません。

善人と悪人のどちらに対しても分け隔てなく慈しみをもって応対され、その心のハタラキの平等であることといったら、まるで「虚空」のようです。

先ほど私がささやかな傘をお贈りした時、私はその傘の中に全世界が入ってしまうのを目撃しました。
そのようなド派手なパフォーマンスを見せられると、我々のあなたへの尊敬は増すばかりです!

あなたはいつも一種類の言語で話されるだけですが、世界中の人々はみな、あなたが「自分たちの国の言語で話してくれた」と感じます。

あなたはいつも同じことしか言いませんが、世界中の人々はみな、それを聞いてそれぞれにふさわしい多彩な効果をゲットします。

あなたが言っていることはひとつしかありませんが、それを聞いた人たちは、ビビったり喜んだり、嫌がったり疑ったりと、実に様々な反応をするのです。

こんなことは、まさに仏ならではのことです。

あなたは全知全能であり、しかも誰よりも努力家です。

ありとあらゆる束縛を断ち切り、既にアチラ側に渡ってしまわれていますが、それでも我々全てを救おうとしてくださいます。

あたなは既に、「死」も「生」も乗り越えられました。

この世の中の事柄について知り尽くしながらも、あたかもハスの葉に水滴が落ちた時のように、まったくこだわらずにスルーされます。

ああ、あなたこそまさにオールマイティ。

そんなあなたを私は猛烈に尊敬しております!」
超訳維摩経仏國本0-2 (豊岳正彦)
2017-06-23 21:20:38
第0-2話 パラダイスって、どんなところ?
2009.2.14

宝積くんはブッダを褒めちぎるだけ褒めちぎると、こうたずねました。

「世尊さま!

我々はみな、パラダイスに行きたいと願っています。
菩薩や仏が治めているという美しく清らかな地、パラダイス。
それは、いったいどのようなところなのでしょうか?」

ブッダは言いました。

「うむ、それはいい質問だ。
オマエたちはひょっとして、「パラダイスはどこか遠いところにある」などと思っているんじゃないか?
パラダイスは他のどこでもない、オマエたちの中にあるというのに。

この際だからハッキリ言うぞ。
「パラダイス」とはつまり、オマエたち自身のことなのだよ。

この世界には、様々な性格を持つ多種多様な菩薩たちがいる。 
そして彼らはみな仏になるために、どこかふさわしい修行の場はないかといつも探しまわっているのだ。

宝積よ、よく聞きなさい。

もしもオマエが「まっすぐな心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「へつらいのない人」が住むパラダイスが出現する。

もしもオマエが「深く道を求める心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「徳を備えた人」が住むパラダイスが出現する。

もしもオマエが「さとりを求める心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「生きとし生けるもの全てを救おうと願う人」が住むパラダイスが出現する。

もしもオマエが「情け深い心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「「自分のもの」を全て捨て去った人」が住むパラダイスが出現する。

もしもオマエが「おちつきを求める心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「心が乱れることのない人」が住むパラダイスが出現する。

もしもオマエが「方便を使いたいという心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「自在に方便を駆使する人」が住むパラダイスが出現する。

もしもオマエが「自分の得た利益を全部他人にあげてしまう心」を持ったなら、すぐさま菩薩がやってきて、オマエの中で修行をはじめることだろう。
そしてその菩薩が仏になった時、そこに「一切の功徳をそなえた人」が住むパラダイスが出現する。

宝積よ、クドくなってきたのでこの辺でやめておくが、つまり、そういうことなのだ。

人の中に清らかな「正しい心」が発生した時、そこで菩薩が動き出す。

菩薩はその人に「行動」を起こさせ、「行動」は「願い」を引き起こす。

「願い」は「決意」となってその人の「正しい行動」を強力にサポートし、「正しい行動」の結果として様々な「功徳」が獲得される。

獲得された「功徳」は「方便」のチカラによって一切の生きとし生けるものを救済する活動に振り向けられる。

そして一切の生きとし生けるものが救済された時、そこに「美しく清らかな地、パラダイス」がある。

各人の心の清らかさこそが、パラダイスなのだよ。」
超訳維摩経仏國本0-3 (豊岳正彦)
2017-06-23 21:21:46
第0-3話 シャーリプトラ、ブッダを疑う
2009.2.14

その話を聞いていたシャーリプトラは思いました。

「ん? 菩薩の心が清らかになると世界が美しくなるだって?

ちょっとまてよ・・・

今、我々が住んでいるこの世界は、お世辞にも美しいとはいえない。
というか、むしろキタナイしアブナイし、もうウンザリなところだ。

でも、ここは世尊が仏として治めている世界。
・・・おかしい。 なんで美しくないんだ?

まさか世尊は、菩薩時代に「清らかな心」を持てなかったのでは?
・・・いやいや、そんなバカな!」

ブッダはシャーリプトラの疑惑をテレパシーで察知すると言いました。

「こらこら、シャーリプトラよ、ナニを考えているんだ?(苦笑)
眼の見えない人は太陽や月を見ることができないが、それは太陽や月のせいだとでも言うのかい?」

シャーリプトラは答えました。

「いやいや、なんですかそれは! 
太陽や月が見えないのは、あくまでもその人の眼が見えないからであって、太陽や月には何の責任もありませんよ。」

ブッダは言いました。

「そうだろう、そうだろう。
この世界が美しく見えないのも同じことだよ。
オマエらが見ない、というかデキが悪くて見ることができないだけなのだ。
いいか? この世界は充分に美しい。
それがオマエらの眼には映らないだけだ。
私のせいにするんじゃない!(笑)」

その話を聞いていた螺髻梵王(らけいぼんのう)が口をはさみました。

「こら、シャーリプトラ!
この世界がキタナイなどと、よくも言えたもんだ!
世尊のいらっしゃるこの世界は、もの凄く美しいところだぞ?
オレ様の眼には、この世界はまるで飾り立てられた大王宮のように映っているというのに!」

シャーリプトラ:「いや、そう思いたいのはヤマヤマなのですが、私の眼に映るこの世界は、デコボコしていてトゲトゲしていてあちこちに穴が開いています。
とてもではありませんが、美しいといえるような状態ではないのですが・・・」

螺髻梵王:「バカヤロウ!
もしも「この世界がデコボコして見える」などというのであれば、それはオマエの心がデコボコしているからだ。
いいか? 
菩薩たるもの、ありとあらゆるものに対して「分け隔てなく平等」に接するという気持ちを忘れてはいけない。
世尊になったつもりでこの世界を見てみろ!
どうだ、きわめて清らかで美しいだろう?」
超訳維摩経仏國本0-4 (豊岳正彦)
2017-06-23 21:23:01
第0-4話 大解決! そして物語は続く
2009.2.14

そのやりとりを聞いていたブッダは、足の指で地面をちょこちょこっと撫でさすりました。

するとなんということでしょう!
全世界、見渡す限りのあたり一面が、突然ありとあらゆる種類の宝石で飾り立てられたではありませんか!

度肝を抜かれた聴衆たちがふと見ると、彼らは全員、ハスの上に座っていることに気がつきました。

ブッダはシャーリプトラに言いました。

「どうだ、もう一度たずねるぞ。 この世界はキタナイか?」

シャーリプトラ:「と、とんでもない! この世界は美しいです!
なんというか、もうサイコーです!
しかしこれは、これは、なんということでしょう・・・
こんな美しい光景は、今まで見たことがありません。
まさか、これが我らが今まで散々嫌がって逃れたいと願っていた、この世界の本当の姿なのですか?」

ブッダ:「わっはっは! そうだとも。
この私が出現先として選んだ世界だ。 美しくないわけがないだろう。
私の作戦のひとつとして、「レベルの低い連中には美しく見えない」ようにしているだけなのだよ。
もしもそいつらのレベルが上がったならば、この世界はそのままで充分に美しいことが、ちゃんとわかるハズだ。
たとえば、同じ料理を食べても、その時の体調次第で、おいしく感じたり、まずく感じたりするようなもんだな。」

その有様を見て、宝積くん以下500人の金持ち息子たちは、全員「何も足さない、何も引かない」という悟りを得ました。

そしてその場に居合わせた8万4千人の聴衆は、「よっしゃ、オレたちも頑張るぞ!」という誓いを新たにしました。

ブッダがサイキックパワーをおさめると、あたりの景色は今までどおりに戻ったのですが、それを見た3万2千人の弟子たちや天人たちはみな、「ああ、作られたものは、やはり常にうつろいゆくのだ」ということを悟りました。

そして8000人の修行僧たちは、「ああ、アレコレとこだわったところで、なんの役にも立ちはしないのだ」ということを知り、心が軽やかになりました。

ちょうどその頃、ヴァイシャリー市の大富豪、維摩のオッサンは、とても素敵なアイデアを思いついていました。
第1話へ続く
超訳文庫華厳経より善財童子 (豊岳正彦)
2017-06-23 21:27:18
http://bunchin.com/choyaku/kegon/

超訳【華厳経】

2500年以上昔、インドのとある街に善財童子と呼ばれる少年(16歳ぐらい?)がおりました。
彼はインド財界を支配する組合の理事長の息子であり、お金に一切不自由しないのはもちろんのこと、日々、最先端の情報に接し、当時の最高の教育を受け、青春を謳歌していました。
彼がちょこっとアゴを動かしただけで自由に操れる子分は、500人以上いたということですから、それはもう大変な羽振りのよさです。
ところがある時のこと、彼は巡回説法にやってきた文殊菩薩の口車に乗せられ、たった一人で南インドに向かって修行の旅に出るハメになってしまいました。

文殊菩薩はこう言って善財くんを送り出したといいます。

「なぁ、オボッチャン。
「最高の悟りを得てみせる」というその心意気は立派だけど、言うだけだったら誰にだってできるぜ。
もし本気でそう思っているのだったら、旅に出なよ。
世の中は広い。いろんな人たちがいる。
たくさんの人たちと出会い、別れ、その中から「最高の悟り」をつかみ取って来い!
で、命があったら、また会おうじゃないか。」

引っ込みがつかずに家を出るハメになった善財くんは、あちらこちらを彷徨いながら、当時評判の「立派な人」に関する口コミ情報を集めては、実際に突撃訪問する日々を送ります。
修行僧や行者、仙人のたぐいはもちろん、国王、商人、大金持ち、熟練工、少年、少女、南方のドラヴィダ人、スラムの住人など、片っ端から会いまくる毎日・・・

2008-10-04

用語解説:華厳(けごん)、善財(ぜんざい)

LinkIcon第17話 善財くん、残虐な刑罰にビビる
LinkIcon第25話 風俗嬢と善財くん
華厳経第17話 善財くん、残虐な刑罰にビビる (豊岳正彦)
2017-06-23 21:29:02
16人目のインタビューが終わった時、善財くんはこのような情報を得ました。

「ここから南へいくと、「満幢」というお城があります。
そこに「満足」という名の王様がいますので、是非、お会いになるといいですよ。」

善財くんは言われたとおりに南へ向かい、いくつもの村や町を超えていくと、果たして立派なお城に到着しました。

早速、歩いていたオッサンを呼び止めてたずねました。

「ちょっとおたずねします。このお城には満足という名の王様がいると聞いてきたのですが、どこに行ったら会えるでしょうか?」

オッサンは答えました。

「王様なら今、仕事中だよ。ウチの王様はとてもオッカナイ裁判官だ。悪いヤツにガンガン厳罰を与えるので有名だぞ!」

善財くんが執務スペースまで行ってみると、満足王はもの凄く立派なイスに腰掛けて裁判の真っ最中でした。

王様の横には執務官が1万人も並んでバリバリと事務手続きを進めており、さらに1万人の屈強な兵士たちが武装して警備にあたっています。

そして罪人たちが次々と引き立てられてきては、ビシビシと処罰されているのですが、その有様のあまりの凄まじさに善財くんは絶句しました。

全身を縛り上げられた罪人たちは、みな容赦なく手足を切り落とされたり、鼻や耳を削ぎ落とされたり、眼をえぐり取られたり、胴体や首を切断されたり、火であぶられたりしています。

あたりにはひっきりなしに罪人たちの絶叫が響き渡り、まさにこの世の地獄のような光景・・・

善財くんは縮み上がりながら思いました。

「こ、こいつはヤバイ!

オレは立派な人の話をたくさん聞くことで知恵と経験を蓄積し、自分も立派な人になろうとしているというのに、この王様の悪逆非道なことといったらなんだ・・・

こんなとんでもない悪人は初めてだ! 早く逃げないと・・・」

王様は善財くんに目をとめると、こういって引き留めました。

「こらこら、まぁそうビビるなよ。(苦笑)

こっちへ来なさい。 城の中を案内してやるから。」

善財くんが恐る恐るついていくと、城の中は見たこともないぐらい豪華な造りで、財宝は充ち溢れ、天女のような美女たちが10億人も控えているではありませんか!

目を丸くしている善財くんに、満足王は言いました。

「どうだ、たいしたもんだろう。 これらが悪逆な方法で得られると思うか?」

善財くんは答えました。

「い、いや、実に信じがたいことですが、これらは厖大な善行の結果として得られるものに間違いありません・・・

いったいこれは、どういうわけなのでしょうか?」

満足王は言いました。

「なあ少年よ、私がマスターしているのはな、自在に「ヴァーチャルリアリティ」を駆使する能力なのだよ。

人間を裁くというのは、とても難しいことだ。

裁かれる側はもちろん辛いし、裁く側だって決して楽しくはない。

できれば、そんなことはしたくないもんだ。

そもそも裁きにかけられるようなことをさせないようにするのが一番なのだが、ちょこっと法律をいじったところで、もうどうにもならなくてな。

どういう罪を犯したらどういう刑罰を受けるのか、公開処刑などのわかりやすい形で示すしかなかったのだ。

少年よ、オマエはそれが残酷で非道な行いだと考えているだろう。

オマエにだけは教えてやろう。

あの罪人たちや処刑風景の数々は、全部私が作り出した「ヴァーチャルリアリティ」なのだ。

よく出来ているだろう?(笑)

少年よ、私はムシ一匹殺せない性格なのだ。
本物の人間に危害など、加えるわけがない。

ああやって、人々に本物ソックリの残虐な処刑シーンを繰り返し見せつけることで、「ああ、悪いことは絶対にやめておこう・・・」と思わせること。

それが、私の犯罪の予防・抑止施策だ。

いいか、人間は誰でも皆、素晴らしい可能性を持っているのだ。
たとえ刑罰であっても、死なせてしまっては元も子もない。

かといって、犯した罪を償わせないわけにもいかない。

この悩みを解消するためには、最初から罪を犯させなければよい。

全ての人々に、「罰せられるようなことは考えるのもイヤだ!」と思わせることができれば、それも決して実現不可能なことではないのだよ。」

善財くんが呆気にとられているのを見て、満足王は言いました。

「私はこの「ヴァーチャルリアリティ」駆使能力によって着実に成果を挙げている。

しかし少年よ、知っているか?
この世界そのものが、実は壮大な「ヴァーチャルリアリティ」なのだということを。

私がやっていることなど、いわばマボロシにマボロシを重ねているだけに過ぎない。

本当の「リアル」はどこにあるのか?

そもそも「リアル」など実在するのか?

それは私にもわからないのだよ。

少年よ、答えが知りたければさらに南を目指せ!

そこには「善光」という城がある。

そしてそこの主は「大光」という名の王だ。

是非、彼の話を聞くといいよ。」
華厳経第25話 風俗嬢と善財くん (豊岳正彦)
2017-06-23 21:30:35
24人目のインタビューが終わった時、善財くんはこのような情報を得ました。

「ここから南へいくと、ドルーガ(険難)という国があり、そこにはダクシナーパタ(宝荘厳)と呼ばれる大繁華街があります。
そこに「ヴァスミトラ」という名の女性がいますので、是非、お会いになるといいですよ。」

善財くんが言われたとおりに南へいくと、果たしてギンギラの大繁華街に到着しました。

早速、街を歩いていたオッサンを呼び止めてたずねました。

「ちょっとおたずねします。ヴァスミトラという名の女性に会いたいのですが、どこに行ったら会えるでしょうか?」

オッサンは怪訝そうに善財くんを見つめました。

「オマエさん、まだこどもじゃないか。
しかも、なかなか賢そうだし、かなり良家の出と見た。
そんなオマエが、あのヴァスミトラに会いたいだと?
ふむ、どうしたものか・・・」

そのやりとりを見ていた別のオッサンが話しかけてきました。

「まぁまぁ、いいじゃないか。
会いたいっていうんだから、何か事情があるんだろうよ。
教えてやろうぜ。このボウヤなら大丈夫だよ。
かなり賢そうだから、彼女に会ったぐらいで道を踏み外したりはしないさ。
なぁ、ボウヤ?(笑)
ヴァスミトラなら、北の街外れに住んでいるよ。」

善財くんはオッサンに感謝すると、教えられた場所へ行ってみました。

するとそこにあったのは、目もくらむような豪勢な屋敷でした。

十の垣根と掘割に取り囲まれ、水面にはよい香りのする花が咲き乱れ、建物も蔵も無数にあり、どれもこれもとても立派な素材が惜しげもなく使用された、まさに大豪邸です。

元々金持ちの家に生まれ育った善財くんですが、これにはちょっとビビリました。

「こ、ここは、ひょっとして、シャレにならない高級風俗店では?・・・」

恐る恐る入っていくと、奥の部屋の立派なベッドの上であぐらを組んで座っている女性と出会いました。

その女性のルックスは、美しくまた愛らしく、瞳はやや黒味がかった紺色で、大きすぎもせず小さすぎもせず、髪も長すぎもせず短すぎもせず、そのピチピチした肌の色は黒すぎず白過ぎず、まさに輝くばかりの完璧なプロポーション・・・

こんな美しい女性がいてよいのだろうか?・・・

そんな彼女こそがヴァスミトラだったのです。

善財くんはすっかりドギマギしながらも話しかけました。

「あの・・・すみません。
実は貴女がとても立派な人だから会うといい、と勧められまして・・・」

ヴァスミトラは言いました。

「あら?私が立派ですって?(笑)
確かにそうかもね。
私は相手をエクスタシーに導いて悩みから救う能力をマスターしているわけだし。」

彼女の声がまた、実にあでやかで耳に心地よく響きます。

善財くんはクラクラしながら言いました。

「は、はぁ・・・エクスタシーですか?・・・」

彼女は言いました。

「そうよ。
相手が神様なら私は天女になるし、相手が人間なら人間の女になるわ。
相手がサラリーマンならOLに、学生なら学生に、無職なら無職の女になるの。
つまり、相手が「なって欲しい」と願うような女を完璧に演じることができるというわけ。(笑)
でもね、私がそうするのは、決して彼らの欲望をふくらましたいからではなくって、逆に彼らの欲望を取り去ってあげたいからなのよ。
例えば、私の声を聞いたものは皆、耳で聞いたことを素直に理解できるようになるわ。
もし、しばらく私の手を握ったならば、「もう何もいらない」という心境になれるハズよ。
また、私の隣に並んで座ったならば、世の中の全てのことが光り輝いて見えるようになるの。
私をじっと見つめたものは、「永遠の休息」とはどういうことなのかを理解できるわ。
もしも私が辛そうな顔をしたり笑顔を見せたりすれば、それを見たものは皆、「外道を滅ぼしてやる!」という意気が盛んになるわ。
私を抱きしめたなら、生きとし生けるものの全てに感謝の心が湧いてきて、優しい気持ちになれるハズ。
そして私とキスした時、言葉にできない宇宙の真理を知ることができるというわけ。
・・・ちょっとムズカシかったかしら?(笑)」

善財くんは言いました。

「いやはや・・・何というか、ものすごいですね。
恐れ入りました・・・
それにしても、貴女はまたどういった経緯で、またどういった修行を積んで、その境地に達することができたのでしょうか?」

ヴァスミトラは答えました。

「ウフフ・・・それはね。
大昔、常住という名の仏様が世に現れたことがあったの。
この仏様は人々が悩み苦しんでいるのを見て哀れみの心を起こし、足踏みをなさったわ。
すると、たちまち大地が激しく振動して、全てのお城が砕け散り、蓄えてあった無数の財宝が皆の頭上に等しく降り注いだではありませんか!
私はその時ある資産家の妻だったのだけれども、この出来事を見て覚悟するところがあって、夫とともに家を捨て、最後に残った財産である宝冠を仏様に奉げたの。
するとそこへ文殊菩薩がやってきて、今の境地を授けてくださったというわけ。」
超訳文庫拝火教徒とブッダ(出典:雑阿含経) (豊岳正彦)
2017-06-23 21:34:47
ホテル暴風雨>ぶんのすけ>超訳文庫>仏教説話
http://hotel-bfu.com/bunnosuke/choyaku/setsuwa/2016/07/30/post-175/

拝火教徒とブッダ(出典:雑阿含経)

2016/7/30 2016/12/29 仏教説話

ある日のことです。

拝火教のバラモンが自宅で聖火をともして勤行に励んでいると、向こうの方から物乞いをしながらやってくるブッダが目に入りました。

バラモンは怒鳴りつけました。

「出たな、このスキンヘッドのインチキ野郎!
ここはオマエみたいな汚らしい乞食の来る場所ではないというのがわからんのか!?
あっちへ行け!シッシッ!!」

ブッダは構わずにづかづかとやってくると、バラモンにこう言いました。

「おやおや、こりゃまた、えらく嫌われたもんですなぁ。
あなたは今、「インチキ」とか「汚い」とかおっしゃったと思いますが、それではお尋ねしましょう。
あなたの「インチキで汚らしい」人の定義とはどんなものですか?
また、「インチキで汚らしい」人を「インチキで汚らし」くしているものは、いったい何だとお考えなのでしょう?」

バラモンは言いました。

「うーん・・・
そう言われてみると、うまく説明できないなぁ。
オマエさん、説明できるのかい?」

ブッダは言いました。

「うむ、それではご説明しましょう。
いいですか?
それはつまり、こういうことです。

気が短くて恨みがましく、ヒマさえあればわるだくみをしているような人、それが「インチキで汚らしい」人です。

生き物(人間、動物、昆虫など種別を問わず)を殺して、なんとも思わない人、それが「インチキで汚らしい」人です。

ほかの町や国を武力で制圧しようとする人、それが「インチキで汚らしい」人です。

自分のものではないモノを見ると、ムラムラとかっぱらいたくなって実行に移す人、それが「インチキで汚らしい」人です。

人からモノや金を借りておいて、「返せ」と言われると「いや、オレは借りていない」などと言い張る人、それが「インチキで汚らしい」人です。

わずかの金品目当てに通り魔強盗を働く人、それが「インチキで汚らしい」人です。

自分のため、他人のためのいずれかを問わず、法廷で偽証する人、それが「インチキで汚らしい」人です。

合意のあるなしを問わず、他人の奥さんを寝取る人、それが「インチキで汚らしい」人です。

生活に余裕があるのに、要介護状態の親の面倒をみない人、それが「インチキで汚らしい」人です。

家庭内暴力(肉体的か精神的かを問わず)をふるう人、それが「インチキで汚らしい」人です。

他人に有利なことは一切言わず、不利になることならあることないことしゃべる人、それが「インチキで汚らしい」人です。

悪いことをしておいて、「バレないように」と願う人、それが「インチキで汚らしい」人です。

ご馳走してもらっておきながら、決してお返ししようと思わない人、それが「インチキで汚らしい」人です。

バラモンや乞食をだます人、それが「インチキで汚らしい」人です。

食事時なのに、汚いことばで怒鳴りつけて食事を与えない人、それが「インチキで汚らしい」人です。

自分だけが偉くて、他人はみなアホだと思っている人、それが「インチキで汚らしい」人です。

他人に迷惑をかけ、欲張りで、ケチでウソツキなくせに、人から尊敬されたいと願い、自ら恥じるところのない人、それが「インチキで汚らしい」人です。

覚醒者(ブッダのこと)の悪口をいう人、それが「インチキで汚らしい」人です。

実にしょうもない野郎のくせに、自分は聖人だと言い張って他人からむしりとろうとする人、これはもう最低の「インチキで汚らしい」人です。「ドロボウ」と呼ぶべきです。

人はその生まれた家柄などによってさげすまれるのではありません。
人はその生まれた家柄などによって尊ばれるのでもありません。
人はその行為によって、さげすまれたり尊ばれたりするのです。

あなたはあのマータンガという人の話を聞いたことがないのですか?
マータンガは最下級のカースト出身で、犬を撲殺する仕事に従事していましたが、そのずば抜けた徳行によって、最上級のバラモンや王侯貴族の尊敬を一身に集めました。

逆に、立派なバラモンの家に生まれておきながら、実にくだらない素行が露見して皆にバカにされている人も、しばしばいるようですね。

もう一度言いましょう。

人はその生まれた家柄などによってさげすまれるのではありません。
人はその生まれた家柄などによって尊ばれるのでもありません。
人はその行為によって、さげすまれたり尊ばれたりするのです。」

拝火教徒のバラモンは、それを聞くと言いました。

「・・・いや、恐れ入りました。
よろしければ私を弟子にしてくださいませんか?」

<拝火教徒とブッダ 完>

「仏教伝道協会」とは・・・ (豊岳正彦)
2017-06-23 22:31:23
仏心慈悲布施菩薩常民大和民族の先祖代々人主主義仏国土庶民社会
______________

「仏教伝道協会について」

 仏教伝道協会のことを語るには、先ず一人の実業家沼田恵範氏(株式会社三豊製作所創立者)のことを語らなければならない。

 彼は、今から四十余年前に現在の事業を始めたとき以来、事業の繁栄は天・地・人により、人間の完成は智慧と慈悲と勇気の三つが整ってのみできるものであるとして、技術の開発と心の開発をめざして会社を設立した。

世界の平和は、人間の完成によってのみ得られる。

人間の完成をめざす宗教に、仏教がある。


 彼は四十余年にわたる会社経営のかたわら、仏教伝道のために仏教音楽の普及と近代化を志し、仏教聖画や仏教聖典の普及に努めてきたが、一九六五年一二月にこれら一切の仏教伝道事業を組織化し、これを世界平和の一助とするために私財を寄進した。

 かくて仏教伝道協会は、仏教伝道の公の機関として発足した。

仏陀の教えを遍(あまね)く一切に及ぼして、すべての同胞*と共にこの大智と大悲の光に浴するにはどうしたらよいか。

 仏教伝道協会は創設者の意志を引き継ぎ、この問題を永遠に問い続けてゆこうとするものである。

 約言すれば、仏教普及のためのあらゆる努力が仏教伝道協会の事業のすべてである。



 この聖典は日本の長い歴史をふり返ったとき、我々が仏教文化をその誇りとしながら、真に日本人の経典といえるものを持たなかったことを反省して生まれたものである。

 したがってこの聖典は、だれでも読める、読んで心の糧となる、どんな人でも、その机上に置いて、また外出時に携え、生きた釈尊の大人格に触れることができるように作られている。


 仏教伝道協会は、この聖典が一つでも多くの家庭に入り、一人でも多くの同胞の手に渡り、すべての人がひとしく教えの光に浴することのできる日のくることを願ってやまない。


合掌

_____________

以上、仏教聖典*より、いち仏教徒豊岳正彦が転記しました。


用語註___*同胞

同胞とは父母の細胞を同じくする生物種のことであり、ここではこの世のすべての人間を意味します。

同国人のことをしめす同朋ではありません。


用語註___*仏教聖典

www.bdk.or.jp/buy/bukkyoseiten.html


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて三宝帰依仏心仏法日本国憲法を奉ずる我が大和民族の国は、仏教伝道協会創始者沼田恵範師の「日本の長い歴史をふり返ったとき、我々が仏教文化をその誇りとしながら、」との言の如く、
大昔から天皇や将軍などの統治者ではなくて我々庶民がみな三宝に帰依する仏教徒であり、庶民が銘々その心を修める菩薩行に先祖代々努めて、地球上に唯一無二の良心の仏国土を、人類誕生以来の太古から営々と万古不易に親子相伝で伝えつづけて来た。

釈尊の教えは一切衆生悉有仏性であり、すべての人間が均しく成仏する機会が均等にあるというものである。

この教えすなわち達磨すなわち仏法は釈尊以前にも宇宙の存在とともに久遠に存在している。

すなわち日本という地球上の場所に釈尊以前から庶民和合社会を営んできた大和民族は、釈尊以前の悠久の太古から仏国土を築いてきた地球上唯一無二の至上なる庶民慈悲布施菩薩民族である。

釈尊自ら語り給うた経典の過去仏である大光王が治めた仏国土がムー大陸であり、後の大和の島国扶桑の蓬莱島大日本秋津島すなわち日本国である。

此の地は釈尊が語り給うた無量光仏すなわち阿弥陀如来の西方浄土がインドの西ペルシャの地であったのと反対方向の、インドの東方すなわち日本に医王浄土を開き給うた瑠璃光仏薬師如来のおわす仏国土蓮華国である。

我々大和民族庶民和合社会が地球上で唯一無二の繁栄を太古から続けている理由は釈尊の教えの言葉すなわち経典に記されている七不衰法を、我々庶民常民菩薩が親子相伝で代々守りつづけてきたからである。
ブッダ、面白い!  (普通の日本人 嫌在●)
2017-06-23 23:24:08
続き待ってます。
仏教聖典から (豊岳正彦)
2017-06-24 08:42:59
偽りの謝罪について、釈尊はこう教え給うた。↓
________________

仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第一節 心のけがれ

 七、パーリ、本事經二四

外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、

内からくる毒矢は防ぐすべがない。

貪りと

瞋(いか)りと

愚かさと

高ぶりとは、

四つの毒矢にもたとえられる

さまざまな病を起こすものである。


 心に貪(むさぼ)りと

瞋(いか)りと

愚かさがあるときは、

口には偽りと

無駄口

悪口と

二枚舌を使い、

身には殺生と

盗みと

よこしまな愛欲を犯すようになる。


 意の三つ、

口の四つ、

身の三つ、

これらを十悪という。


 知りながらも偽りを言うようになれば、

どんな悪事をも犯すようになる。

悪いことをするから、

偽りを言わなければならないようになり、

偽りを言うようになるから、

平気で悪いことをするようになる。

 
 人の貪(むさぼ)りも、

愛欲も

恐れも

瞋(いか)りも、

愚かさからくるし、

人の不幸も

難儀も、

また愚かさからくる。

愚かさは実に

人の世の病毒にほかならない。

________________

↑↑

このような人にもまた、仏性がある。

そして『良心は人間だけが持つ仏性である』

ゆえに、悪人を裁くときには慈悲の仏心で裁く

先述の転輪王の裁きを適用せよと

釈尊は教え給うたのである。



→仏教聖典「罪を憎んで人を憎まず」


→日本国憲法 第6章司法

第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。

2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。

3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

↑↑↑

このように、日本国憲法は人間だけが持つ仏性である『良心』に従ってすべての法律を司ることを裁判官の責務であると定めた、大光王転輪王統治慈悲仏心仏法そのものなのである。
仏教聖典 おしえ (第237版本) (豊岳正彦)
2017-06-24 12:02:53
第二章 人の心とありのままの姿

 第一節 変わりゆくものには実体がない

 一、パーリ、律蔵大品一-六

 身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。

 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

 それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。


 二、パーリ、相応部五六-一一

 この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。

 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

 心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

 だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。

 智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

 身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

 流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

 智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。


 三、パーリ、増支部五-四九・四-一八五・三-一三四

 この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。

 世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。

 また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。

 すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。

仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。


****用語解説*****

*因縁(hetu-pratyaya)___
 因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。

*縁起(pratityasamutpada)___
 因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。

*無常(anitya)___
 あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

*智慧(般若prajna)___
 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、
正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。
単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、
これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

*無我(anatman)___
 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

*無明(avidya)____
 正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。
学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。
したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。
生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

*仏(佛陀 Buddha)____
 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。
 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
 なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。
 
仏教聖典から (豊岳正彦)
2017-06-24 12:26:35
 第二節 心の構造

 一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
 
 人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。

 絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。

 心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。

 すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。


 二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。

 この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。

 生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。

 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。

 このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。


 三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。

 しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)

 この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。 

 身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。

 第四章 煩悩

 第一節 心のけがれ

 一、仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

 一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である。二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明(むみょう)、二つには愛欲となる(この二つの煩悩は、無明と愛欲となる)。

 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。

 この無明と愛欲とをもとにして、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、邪見(じゃけん)、恨み、嫉(ねた)み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


 二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。

 この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。

 まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。


 三、貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。

 したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。
第四章 煩悩  第一節 心のけがれ (豊岳正彦)
2017-06-24 12:27:49
 四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

 この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。

 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。


 五、人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。

 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

 人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。

 人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。

 また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。

 また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。


六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

 愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。


 七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。

 心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。

 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
 
 人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
 

 八、人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

 この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

 だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。
第四節  迷いのすがた (豊岳正彦)
2017-06-24 12:29:15
第四節  迷いのすがた

 一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

 身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

 貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

 すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。


 二、また、この世には五つの悪がある。

 一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。

 二つには、親子、強大、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。

 三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。

 五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。


 三、人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

 この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

 人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらねばならない。

 善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


 四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

 このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

 まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


 五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

 ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

 栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
 

 六、だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

 ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

 ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

 どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


 七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

 だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、努め行なわなければならない。

 いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。
仏教聖典_はげみ (豊岳正彦)
2017-06-24 12:31:26
はげみ

第1章 さとりへの道 

 第一節 心を清める

 一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。

 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。

 見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。

 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。

 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。

 第四には何ごとも耐え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを耐え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても耐え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。

 第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならない所、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


 二、世には五つの欲がある。

 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。

 多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕えられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免れる道を知らなければならない。


 三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕えて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。

 このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空に、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このために互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられてゆく。

 ちょうどこのたとえのように、人びとは目に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。

 またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生きものたちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。

 これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛練しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


 四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。

 名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。

 愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。

 貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


 五、さとりを得ようと思うものは、欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。 
                                     
 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。

 道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。

 道を求めてゆくことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥を離れてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


  六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。

 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。

 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。

 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福とを得る人である。


 七、人の心は、ともすればその思い求める方へと傾く。貪(むさぼ)りを思えば貪りの心が起こる。瞋(いか)りを思えば瞋りの心が強くなる。損なうことを思えば損なう心が多くなる。

 牛飼いは、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じこめる。これは牛が穀物を荒して抗議を受けたり、また殺されたりすることを防ぐのである。

 人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じこめ、悪い思いを破り捨てなければならない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋(いか)らず、損なわない心を育てなければならない。

 牛飼いは、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。

 人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。


 八、釈尊がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。

 そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか」「世尊よ、また他の町へ移ります」

 「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ。仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう」
善い行い (豊岳正彦)
2017-06-24 12:33:01
 第二節 善い行ない


 一、道を求めるものは、常に身と口と意の三つの行ないを清めることを心がけなければならない。

身の行ないを清めるとは、生きものを殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲を犯さないことである。

口の行ないを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。

意の行ないを清めるとは、貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、よこしまな見方をしないことである。

 心が濁れば行ないが汚れ、行ないが汚れると、苦しみを避けることができない。

だから、心を清め、行ないを慎しむことが道のかなめである。

 二、昔、ある金持ちの未亡人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの女中がいて、これも利口でよく働く女であった。

 あるとき、その女中がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう」

 そこで、女中は、次の日、なかなか起きず、昼ごろにようやく顔を見せた。主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。

 「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません」とことばを返すと、主人は怒った。

 女中はさらに次の日も遅く起きた。主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、未亡人はそれまでのよい評判を失った。


 三、だれでもこの女主人と同じである。

環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。

しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。

 自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行ないとを持ち続けることができるであろうか。

 だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ちよい行ないをしても、それはまことによい人とはいえない。

仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


 四、すべてことばには、

時にかなったことばとかなわないことば、

事実にかなったことばとかなわないことば、

柔らかなことばと粗いことば、

有益なことばと有害なことば、

慈しみあることばと憎しみのあることば、この五対がある。

 この五対のいずれによって話しかけられても、

 「わたしの心は変わらない。

粗いことばはわたしの口から漏れない。

同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように」

と努めなければならない。

 たとえばここに人がおり、鋤と鍬を持って、この大地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。

このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。

 だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。

 また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、

また、枯草のたいまつによって、大きな河の水を乾かそうとしてもできないように、

また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、

どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。

 人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかに養わなければならない。

 たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を暗くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。

どんな場合に当たっても、
 
 「私の心は動かない。

憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。

同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。
善い行い (豊岳正彦)
2017-06-24 12:34:05
五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚。」を見つけた。
ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。

 はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺叉(さすまた)、それから箱、亀、牛殺しの刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。

 賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。

 これはたとえである。

ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。

「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。

「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。

 「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。

「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。

 「かんぬき」とは無明のこと、
「水泡」とは怒りと悩み、
「刺叉」とはためらいと不安、
「箱」とは貪り・瞋り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、
「亀」とは身と心のこと、
「牛殺しの刀」とは五欲のこと、
「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。

これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。

 最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。

わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。

 掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。
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善い行い (豊岳正彦)
2017-06-24 12:34:41
 六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。

コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波は、涼しい風を絶え間なく送っていた。

 夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅していた。

ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。

 妃たちは、王の眠っている間、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。

彼女らはその姿に心うたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。

そして、彼の教えに耳を傾けた。

 目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりまかれているひとりの出家を見た。

淫楽に荒んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口を浴びせた。

ピンドーラは眼を閉じ、黙然として、一語も発しない。

 怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭につきつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。

 いよいよ怒った王は、蟻塚をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。

 ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。

これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。


 七、その後、幾日か過ぎて、ウダヤナ王はピンドーラをその住む森に訪ね、その不審をただした。

 「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」

 「大王よ、仏はわたしたちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。

年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。

この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」

 「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。

仏の弟子たちはどのようにして欲を抑えることができるのであろうか。」

 「大王よ、世尊は、人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観(み)よと教えられた。

このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」

 「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。

しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。

汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。

仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」

 「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。

目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、

そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。

この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。」

 「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。

わたしの経験によってもそのとおりである。

五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。

五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なことである。」
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豊岳正彦
善い行い (豊岳正彦)
2017-06-24 12:35:21
 八、人が心に思うところを動作に表すとき、常にそこには反作用が起こる。

人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。

人はこの反作用に用心しなくてはならない。

それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。

それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。

それは風に向かってちりを掃くようなものである。

それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。

仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


 九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことによいことである。

それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。

 人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。

他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。

 一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということはない。

 道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。

志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。

道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。


 十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。

   一、貧しくて、施すことは難く、

   二、慢心にして道を学ぶことは難く、

   三、命を捨てて道を求めることは難く、

   四、仏の在世に生を受けることは難く、

   五、仏の教えを聞くことは難く、

   六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、

   七、よいものを見て求めないことは難く、

   八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、

   九、辱められて怒らないことは難く、

   十、事が起きても無心であることは難く、

  十一、広く学び深く究めることは難く、

  十二、初心の人を軽んじないことは難く、

  十三、慢心を除くことは難く、

  十四、よい友を得ることは難く、

  十五、道を学んでさとりに入ることは難く、

  十六、外界の環境に動かされないことは難く、

  十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、

  十八、心をいつも平らかに保つことは難く、

  十九、是非をあげつらわないことは難く、

  二十、よい手段を学び知ることは難い。


 十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。

悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。

善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。

 このように、善人と悪人とは違っている。

 愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。

 一方賢い人とは

常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、

すべての人に対して思いやりの心を持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。

____________
日本帝国と戦後レジームの構造的連続性、親米翼賛体制の本質 (八坂)
2017-06-24 12:54:30
仏教の話の前に僧侶の戒律復活が必要だろ、肉食妻帯では単なる信徒であり僧侶とは認められない。単なる一般人の僧侶のコスプレイヤーが寺院を占領して僧侶の真似事をしている。違法な乗っ取り行為だと言える。
例えるなら警察官の資格を持たない人間が警官の制服を着て警察署を占拠するのと同じであり、あるいは敵国の占領軍が不法占拠を続けるために同盟国と呼ぶに等しい。一言で言うとそれは偽物だ。

日本人の精神的な退化は、明治の文明開化と廃仏棄釈に遠因がある。国家神道は独裁官僚による宗教統制であり、国民は精神的な奴隷となる。だからこそ一億玉砕や翼賛体制といった一億総奴隷制が実現する。
戦後の奴隷ポチが戦前の日本帝国を礼賛するのは、事大主義や奴隷制との親和性が高い事による。つまり戦前と戦後の違いは、日本国民が日帝奴隷制から米帝奴隷制に移行したにすぎず、日本国民=精神的な奴隷という本質的な社会構造は継続している。
太陰暦「仏教聖典」 ほとけ (豊岳正彦)
2017-06-24 15:48:07
第一章 史上の仏

 第一節 偉大な生涯

 一、ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒニー河のほとりに、釈迦族の都カピラヴァスツがあった。

その王シュッドーダナ(浄飯じょうぽん)は、世々純正な血統を伝え、城を築き、善政をしき、民衆は喜び従っていた。

王の姓はゴータマであった。

 妃、マーヤ-(摩耶)夫人ぷにんは同じ釈迦族の一族でコーリヤ族とよばれるデーヴァダハ城の姫で、王の従妹にあたっていた。

 結婚の後、ながく子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、白象が右わきから胎内に入る夢を見て懐妊した。

王の一族をはじめ国民ひとしく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニー園に休息した。

 折から春の陽はうららかに、アショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。

妃は右手をあげてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。

天地は喜びの声をあげて母と子を祝福した。

ときに四月八日であった。

 シュッドーダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉達多しっだった)という名を王子に与えた。


 二、しかし、喜びの裏には悲しみもあった。

マーヤ-夫人は間もなくこの世を去り、太子は以後、夫人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。

 そのころ、アシタという仙人が山で修行していたが、城のあたりに漂う吉相を見て、城に来たり、太子を見て

「このお子が長じて家にいられたら世界を統一する偉大な王(転輪王)となり、もしまた、出家して道を修めれば世を救う仏(仏陀)になられるであろう。」

と予言した。

 はじめ王はこの予言を聞いて喜んだが、次第に、もしや出家されてはという憂いを持つようになった。

 太子は七歳の時から文武の道を学んだ。

春祭に、父王に従って田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、すきの先に掘り出された小虫を小鳥がついばみ去るのを見て、

「あわれ、生きものは互いに殺し合う。」

とつぶやき、ひとり木陰に坐って静思した。

 生まれて間もなく母に別れ、今また生きもののかみ合う有様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。

それはちょうど、若木につけられた傷のように、日とともに成長し、太子をますます暗い思いに沈ませた。

 父王はこの有様を見て大いに憂い、かねての仙人の予言を思いあわせ、太子の心を引き立てようといろいろ企てた。

ついに太子十九歳のとき、太子の母の兄デーヴァダハ城王スプラブッダの娘ヤショーダラーを迎えて妃と定めた。


 三、この後十年の間、太子は、春季はる・秋季あき・雨季うきそれぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと苦心した。

「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局このわたしにとって何であるのか。

人は病む。

いつかは老いる。

死を免れることはできない。

若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。


 人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。

しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。

誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。

 正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。

今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。」


 四、このように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子二十九歳の年、一子ラーフラ(羅「目+侯」羅らごら)が生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。

太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンダカにまたがって、住みなれた宮殿を出て行った。

そして、この俗世界とのつながりを断ちきって出家の身となった。

 このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。

「宮殿に帰るがいい。

時を待つがいい。

この世界はすべておまえのものになるのだ。」

太子は叱咤した。

「悪魔よ、去れ。

すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」

太子は悪魔を追い払い、髪をそり、食を乞いつつ南方(みなみ)に下った。


 太子ははじめバガバ仙人を訪れてその苦行の実際を見、次にアーラーダ・カーラーマと、ウドラカ・ラーマプトラを訪ねてその修行を見、また自らそれを実行した。

しかし、それらは結局さとりの道でないと知った太子は、マガダ国に行き、ガヤ-の町のかたわらを流れるナイランジャナー河(尼連禅河にれんぜんが)のほとり、ウルビルバーの林の中において、激しい苦行をしたのである。
太陰暦「仏教聖典」 ほとけ 第一章 史上の仏  第一節 偉大な生涯 (豊岳正彦)
2017-06-24 15:49:17
 五、それはまことに激しい苦行であった。

釈尊自ら

「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。」

と後に言われたほど、世にもまれな苦行であった。

 しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。

そこで太子は、六年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨てた。

ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータ-という娘の手から乳糜(ちちがゆ)を受けて健康を回復した。


 このとき、それまで太子といっしょに同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。


 いまや天地の間に太子はただひとりとなった。

太子は静かに木の下に坐って、命をかけて最後の瞑想に入った。

「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ。

さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。」

これがそのときの太子の決心であった。


 その日の太子の心はまことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。

乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。

太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に裂き破った。

まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。


 しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏と成った。

それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。


 六、これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。

  釈尊はまず、六年にわたる苦行の間ともに修行してくれた恩義ある五人の出家者に道を説こうとして、彼らの住むバーラーナシーのムリガダーバ(鹿野苑ろくやおん)に赴き、彼らを教化した。

彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから釈尊を信じ最初の弟子となった。

また、ラージャグリハ(王舎城)に入ってビンビサーラ王を教化し、ここを教えを説く根拠地として、さかんに教えを広めた。

 人びとは、ちょうど渇いた者が水を求めるように、飢えた者が食を求めるように、釈尊のもとに寄り集まった。

シャーリプトラ(舎利弗しゃりほつ)、マウドガルヤーヤナ(目連)の二大弟子をはじめとする、二千余人の弟子たちは、釈尊を仰ぎ、その弟子となった。

 釈尊の出家を憂えてこれを止めようとし、また釈尊の出家によって深い苦しみを味わった父のシュッドーダナ王、養母のマハープラジャーパティ、妃のヤショーダラーをはじめとする釈迦族の人たちも、みな釈尊に帰依して弟子となった。

その他非常に多くの人びとが彼の信奉者になった。


 七、このようにして伝道の旅を続けること四十五年、釈尊は八十歳を迎えた。

ラージャグリハ(王舎城)からシュラーヴァスティー(舎衛城)に赴く途中、ヴァイシャリーにおいて病を得、

「三月の後に涅槃に入るであろう。」

と予言された。

さらに進んでパーバーに至り、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、痛みを押してクシナガラに入った。


 釈尊は城外のシャーラ(沙羅)樹の林に行き、シャーラの大木が二本並び立っている間に横たわった。

釈尊は懇(ねんご)ろに弟子たちを教え、最期のせつなまで教えを説いて世間の大導師たる仏としての仕事をなし終わり、静かに涅槃に入った。



 八、クシナガラの人びとは、釈尊が涅槃に入られたのを悲しみ嘆き、アーナンダ(阿難)の指示に従って、定められたとおりに釈尊の遺骸を火葬した。

 このとき、マガダ国の王アジャータシャトルをはじめとするインドの八つの国々の王は、みな釈尊の遺骨の分配を乞うたが、クシナガラの人びとはこれを拒否し、争いが起こった。

しかし、賢者ドローナの計らいにより、遺骨は八大国に分配された。

その他、遺骸の瓶(かめ)と火葬の灰を受けた者があり、それぞれの国に奉安されて、この世に仏の十の大塔が建立されるに至った。


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豊岳正彦
太陰暦「仏教聖典」_ほとけ_第一章、史上の仏_  第二節、最後の教え (豊岳正彦)
2017-06-24 15:50:58
 第二節、最後の教え

 (長阿含經第二遊行經、般泥「さんずい+亘」經、遺教經)



 一、釈尊はクシナガラの郊外、 沙羅樹の下で最後の教えを説かれた。

 弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。

この法*を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。


 わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも楽しみもともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観(み)ては、その中に「我」はないと思い、それらに迷ってはならない。

そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。

わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。



 二、弟子たちよ、これまでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。

もし教えのとおりに行うなら常に幸いに満たされるであろう。


 教えのかなめは心を修めることにある。

だから、欲をおさえておのれに克(か)つことに努めなければならない。

身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。

貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常*を忘れてはならない。


 もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。

心に従わず、心の主(あるじ)となれ。


 心は人を仏にし、また、畜生にする。

迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。

だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。



 三、弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和(あいわ)し、相敬(あいうやま)い、争いを起こしてはならない。

水と乳とのように和合せよ。

水と油のようにはじきあってはならない。


 ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。

つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実(このみ)を取るがよい。


 弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。

おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。


 だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。

また、この教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていてもわたしと一緒にいる。



 四、弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。

別離も遠いことではない。

しかし、いたずらに悲しんではならない。

世は無常であり、生まれて死なない者はない。

今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。


 いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。

変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。


 煩悩*の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。

もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ちついてその部屋で眠ることはできないであろう。


 煩悩の賊は追わなければならない。

煩悩の蛇は出さなければならない。

おまえたちは慎んでその心を守るがよい。



 五、弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。

しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。

肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。


 仏の本質は肉体ではない。

さとりである。

肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。

だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。


 わたしの亡き後は、わたしの説き遺(のこ)した法がおまえたちの師である。

この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。


 弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。

わたしにはもはや秘密はない。

内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。


 弟子たちよ、今やわたしの最期である。

わたしは今より涅槃*(ねはん)に入るであろう。

これがわたしの最後の教誡(かい)である。



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仏教聖典用語解説

*法(達磨・dharma)*****
 さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律に対する解釈や註釈)の三種の聖典である。
これは、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽”と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。

*無常(むじょう)anitya *****
 あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。
仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。
あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。
これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。
生成発展も無常の一面だからである。

*仏(仏陀・Buddha) *****
 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。
普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。
仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
 なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。

*煩悩(klesa)*****
 悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。
人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。
その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。
貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。
これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。
しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。

*涅槃(nirvana)*****
 梵語の”吹き消す”という意味の、ニルバーナという単語の音写で、”滅”・”滅度”・”寂滅”などと訳される。
丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを”入涅槃”といい、達したものを”仏陀”とよぶ。
釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を入涅槃ということもあるが、肉体が滅びたtきに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、三五歳で仏になったときに”涅槃”の状態に達したと考えられている。
「仏教聖典_なかま_第一章、人のつとめ_第一節、出家の生活」・ (豊岳正彦)
2017-06-24 16:28:44
・・p196~(パーリ-本事經一〇〇・中部一-三、法嗣經、パーリ、本事經九二、律蔵大品一-三〇、中部四ー三九・四〇馬邑大小經、法華経第一九法師品、法華経第一四安楽行品)



 一、わたしの弟子になろうとするものは家を捨て世間を捨て財を捨てなければならない。教えのためにこれらすべてを捨てたものはわたしの相続者であり、出家とよばれる。

 たとえ、わたしの衣の裾をとって後ろに従い、わたしの足跡を踏んでいても、欲に心が乱れているならば、その人はわたしから遠い。たとえ、姿は出家であっても、彼は教えを見ていない。教えを見ない者はわたしを見ないからである。

 たとえ、わたしから離れること何千里であっても、心が正しく静かであり、欲を離れているなら、彼はわたしのすぐそばにいる。なぜかというと、彼は教えを見ており、教えを見る者はわたしを見るからである。

 二、出家の弟子は次の四つの条件を生活の基礎としなければならない。

 一つには古布をつづり合わせた衣を用いなければならない。二つには托鉢によって食を得なければならない。三つには木の下、石の上を住みかととしなければならない。四つには腐尿薬のみを薬として用いなければならない。

 食物を入れる容器を手にして戸ごとに食を乞うのは乞食(こつじき)の行であるが、それは他人に脅かされたためでもなく、他人に誘われ欺かれたためでもない。ただこの世のあらゆる苦しみを免れ、迷いを離れる道がここで教えられることを信じてなったのである。

 このように出家していながら、しかも欲を離れず、瞋(いか)りに心を乱され、五官を守ることができないとしたら、まことにふがいないことである。

 三、自ら出家であると信じ、人に問われてもわたしは出家であると答える者は、次のように言うことができるに違いない。

 「わたしは出家としてしなければならないことは必ず守る。この出家のまことをもって、わたしに施しをする人に、大きな幸いを得させ、同時に、わたし自身の出家した目的を果たすようにしよう。」

 さて、出家のしなければならないこととは何であるか。慚(ざん)と愧(ぎ)をそなえ、身と口と意(こころ)による三つの行為と生活を清め、よく五官の戸口を守って、享楽に心を奪われない。また、自分をたたえて他人をそしるということをせず、怠けて眠りにふけることがない。

 夕方には静座や歩行をし、夜半には右わきを下に、足と足とを重ね、起きるときのことをよく考えて静かに眠り、明け方にはまた静座したり歩行したりする。

 また日常生活においてもつねに正しい心でなければならない。静かなところを選んで座を占め、身と心とをまっすぐにし、貪り、瞋(いか)り、愚かさ、眠け、心の浮わつき、悔い、疑いを離れて心を清めなければならない。

 このように心を統一して、すぐれた智慧を起こし、煩悩を断ち切って、ひたすらさとりに向かうのである。

 四、もし出家の身でありながら、貪りを捨てず、瞋りを離れず、怨み、そねみ、うぬぼれ、たぶらかし、といった過ちを覆い隠すことをやめないなら、ちょうど両刃(もろば)の剣を衣に包んでいるようなものである。

 衣を着ているから出家なのではなく、托鉢しているから出家なのではなく、経を誦(よ)んでいるから出家なのではなく、外形がただ出家であるのみ、ただそれだけのことである。

 形がととのっても、煩悩をなくすことはできない。赤子に衣を着けさせても出家とよぶことはできない。

 心を正しく統一し、智慧を明らかにし、煩悩をなくして、ひたすらさとりに向かう出家本来の道を歩く者でなければ、まことの出家とはよばれない。

 たとえ血は涸れ、骨は砕けても、努力を加え、至るべきところへ至らなければならないと決心し、努め励んだならば、ついには出家の目的を果たして、清らかな行いを成しとげることができる。

 五、出家の道は、また、教えを伝えることである。すべての人びとに教えを説き、眠っている人の目を覚まさせ、邪見(じゃけん)な人の心を正しくし、身命(しんみょう)を惜しまず、広く教えを布(し)かなければならない。

 しかし、この教えを説くということは容易でないから、教えを説くことを志す者は、みな仏の衣を着、仏の座に坐り、仏の室に入って説かなければならない。

 仏の衣を着るとは、柔和であって忍ぶ心を持つことである。仏の座に坐るということは、すべてのものを空(くう)と見て、執着を持たないことである。仏の室に入るとは、すべての人に対して大慈悲の心を抱くことである。

 六、またこの教えを説こうと思う者は、次の四つのことに心をとどめなければならない。第一にはその身の行いについて、第二にはそのことばについて、第三にはその願いについて、第四にはその大悲についてである。

 第一に、教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空(くう)であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。

 第二には、さまざまな境遇の相手に心をくばって、権勢あるものや邪悪な生活をする者に近づかないようにし、また異性に親しまない。静かなところにあって心を修め、すべては因縁によって起こる道理を考えてこれを心のすわりとし、他人を侮らず、軽んぜず、他人の過ちを説かないようにしなければならない。

 第三には、自分の心を安らかに保ち、仏に向かっては慈父の思いをなし、道を修める人に対しては師の思いをなし、すべての人びとに対しては大悲の思いを起こし、平等に教えを説かなければならない。
 
 第四には、仏と同様に慈悲の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、必ず教えを聞くことができるようになってほしいと心に願い、その願いに従って努力しなければならない。
 
第二節 信者の道 (豊岳正彦)
2017-06-24 17:28:17
 一、パーリ、相応部五五-三七・増支部三-七五

 仏教を信ずる者とは、三宝、すなわち、仏*と教え*と教団*を信ずる者のことであるということは、すでに説いた。

 だから、仏教を信ずるものは、仏と教えと教団に対して、破れることのない信を抱き、教えが命じている信者としての戒律を守らなければならない。

 在家者としての戒とは、ものの命を取らず、盗まず、よこしまな愛欲にふけらず、偽りを言わず、酒を飲まないことである。

 在家者はこの三宝に対する信と、在家者としての戒を保つとともに、他人にもこの信と戒とを得させるようにしなければならない。親戚、友人、知人の間に同信の人をつくるように努めなければならない。そうすることによって彼らもまた仏の慈悲に浴することとができる。

 三宝に対する信を持ち、在家としての戒を守ることは、さとりを得るためであるから、在家の愛欲の生活の中にあっても、愛着に縛られないようにしなければならない。

 父母ともついには別れなければならない。家族ともついには離れなければならない。この世もついには去らなければならない。別れなければならないもの、去らなければならないものに心を縛られず、別離というもののない涅槃*に心を寄せなければならない。

 二、華厳経第二二、十地品

 仏の教えを聞いて、信が厚く、退くことがなければ、喜びは自然にわき起こる。この境地に入れば、何ごとにも光を認め、喜びを見いだしてゆくことができる。

 その心は清く柔らかに、常に耐え忍んで、争いを好まず、人びとを悩まさず、仏と教えと教団を思うから、喜びは自然にわきいで、光はどこにでも見いだされる。

 信ずることによって仏と一体になり、我(が)という思いを離れているから、わがものを貪(むさぼ)らず、したがって、生活に恐れがなく、そしられることをいとわない。

 仏の国に生まれることを信じているから死を恐れない。教えの真実と尊さを信じているから、人びとの前に出ても、恐れることなく自分の信ずるところを言うことができる。

 また慈悲を心のもととするから、すべての人に対して好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、進んであらゆる善を修める。

 また順調の時も逆境の時も信仰を増し、恥を知り、教えを敬い、言ったとおりに行い、行うとおりに言い、ことばと行いが一致し、明らかな智慧*をもってものを見、心は山のように動かず、ますますさとりへの道に進むことを願う。

 また、どんなできごとに出会っても、仏の心を心として人びとを導き、濁った世の中にも、汚れた人びとの間にも交わって、その人びとが善にうつるように尽くすのである。
第二節 信者の道 (豊岳正彦)
2017-06-24 19:01:15
 三、大槃涅槃経

 だから、だれでもまず自ら教えを聞くことを願わなければならない。

 だれかが「この燃え立つ火の中へ入れば教えが得られる。」と言うなら、その火の中へ入る覚悟を持たなければならない。

 世界に満ちた火の中に分け入って仏の名を聞くことは、まことにその人の救いだからである。

 このようにして自ら教えを得て、広く施し、敬うべき人を敬い、仕えるべき人に仕え、深い慈悲の心をもって他人に向かわなければならない。利己的であったり、思うままにふるまうのは、道を行う人の行ではない。

 このようにして教えを聞き、教えを信じ、他人をうらやまず、他人のことばに迷うことなく、自分のするしないについて省みることが肝心であり、他人のするしないを心にかけてはならない。
何よりも自分の心を修めることが大切なのである。

 仏を信じない人は、自分のことだけを思いわずらうから、心が狭く小さく、いつもこせこせと焦るのである。しかし、仏を信ずる人は、背後の力、背後の大悲を信ずるから、自然に心が広く大きくなり、焦らない。

 四、大槃涅槃経

 また、教えを聞く人は、もとよりこの身を無常*なものと見、苦しみの集まるもとと見、悪の源と見るから、この身に執着しない。

 しかしまた、この身を大切に養うことを怠らない。それは楽しみを貪るためではなく、道を得、道を伝えるためである。

 この身を守らなければ命をまっとうすることができず、命をまっとうしなければ、教えを受けて身に行うことも、また教えを広く伝えることもできない。

 河を渡ろうとする者はよく筏を守り、旅をする人はよく馬を守るように、教えを聞く人はその身を大切に守らなければならない。

 また仏を信ずる者は、着物を着るにも虚飾のためにせず、ただ羞恥のためにし、寒さ暑さを防ぐためにしなければならない。

 食物をとるにも楽しみのためにせず、身をささえ養って教えを受け、または説くためにしなければならない。

 家に住むにも同じく、身のためにし、虚栄のためにしてはならない。さとりの家に住み、煩悩*の賊を防ぎ、誤った教えの風雨を避けるためと、思わなければならない。

 すべてこのように、何ごとも身のためを思わず、他人に対してもおごる思いをせず、たださとりのため、教えのため、他人のためと思ってしなければならない。

 だから、家にあって家族と一緒にいても、その心はしばらくも教えを離れない。慈悲の心をもって家族に従っているが、手段を示して彼らに救いの道を教えるのである。
第二節 信者の道 (豊岳正彦)
2017-06-24 20:06:55
 五、華厳経第七、浄行品

 またこの仏教教団の在家者には、日常、父母に仕え、家族に仕え、自分に仕え、仏に仕えるいろいろな心がけがある。

 すなわち、父母に仕えるときには、一切を守り養って、永く平和を得ようと思い、妻子と一緒にいるときは、愛着の牢獄から脱しなければならないものと思わなければならない。

 音楽を聞いているときには、教えの楽しみを得ようと思い、室にいるときは、賢者の境地に入って永く汚れを離れようと思わなければならない。

 また、たまたま他人に施しをするときは、すべてを捨てて貪(むさぼ)る心をなくそうと思い、集いの中にあるときには、諸仏の集いに入ろうと思い、災難にあったときには、どんなことにも動揺しない心を得ようと願わなければならない。

 また仏に帰依するときには、人びととともに大道を体得して、道を求める心を起こそうと願い、

教えに帰依しては、人びととともに深く教えの蔵に入って、海のように大きい智慧を得ようと願い、

教団に帰依しては、人びととともに大衆を導いて、すべての障害を除こうと願うがよい。

 また、着物を着るなら善根(ぜんごん)と慚愧(ざんぎ)を衣服とすることを忘れず、

大小便をするときは、心の貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの汚れを除こうと願い、

 高みに昇る道を見ては、無上の道へ昇って迷いの世界を超えようと思い、

低きに下る道を見ては、優しくへり下って奥深い教えへ入ろうと願うがよい。

 また、橋を見ては、教えの橋を作って人を渡そうと願い、

なげき悲しむ人を見ては、うつり変わって常なきものをなげく心を起こし、

欲を楽しむ人を見ては、幻の生活を離れてまことのさとりを得ようと願い、

おいしい食物を得ては、永く世間の欲を遠ざけようと願うがよい。

 また夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。

 経を誦(よ)むときには、すべての教えを保って忘れないようにと願い、

仏を思っては、仏のようなすぐれた眼(まなこ)を得たいと願い、

夜眠るときには、身(からだ)と口と意(こころ)のはたらきを休めて心を清めようと願い、

朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。
第二節 信者の道 了 (豊岳正彦)
2017-06-24 21:06:11
 七、華厳経第二一、金剛幢菩薩十廻向品

 仏教を信ずる者は、このようにして、仏を信じ、その信の心をもって世の中のことを尊く味わうが、またその心をもって、身をへり下らせて他人に仕える。

 だから、仏教を信ずる者にはおごる心がなく、へりくだる心、他人に仕える心、大地のようにすべてを載せる心、すべてに仕えていとわない心、すべての苦しみを忍ぶ心、怠りのない心、すべての貧しい人びとに善根を施す心が起こる。

 このように、人びとの貧しい心を哀れみ、すべての人びとの慈母となってその心を育てようとする心は、そのまま、すべての人びとを父母のように敬い、自分の尊い善き師として崇(あが)める心である。

 だから、仏教を信ずる者に対して、たとえ、百千の人びとが怨みを起こし、敵視し、害を加えようとしても、その心のままになしとげることはできない。例えば、どのような毒でも、大海の水を汚し損なうことができないようなものである。


 八、大槃涅槃経

 仏教を信ずる者は、また、省みておのれの幸せを喜び、この仏を信ずる心はまったく仏の力によるものであり、仏のたまものであると感謝する。

 また煩悩の泥の中には、信仰心の種はないのであるが、この泥の中に仏の慈悲が植えつけられて、仏を信ずる心となったことを、明らかに知る。

 さきに説いたように、エーランダという毒樹の林に、チャンダナ(栴檀せんだん)香木の芽が生えるはずはなく、煩悩の胸の中に、仏を信ずる種が芽生えるはずはない。

 しかも、いま現に芽生えて歓喜の花が煩悩の胸の中に開くのは、その根はそこになく、別のところにあると知られるのである。

その根は仏の胸の中にある。

 仏を信ずる者も、我(が)の思いに立つときは、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの心から、他人をそねみ、ねたみ、にくみ、損なったりする。しかし仏に帰ると、いまいうような大きな仏の仕事をするようになる。

これはまことに、不可思議といわなければならない。
超訳文庫維摩経 (豊岳正彦)
2017-06-24 22:20:31
超訳【維摩経】
bunchin.com/choyaku/yuima/index.html

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。
で、この面白さ・楽しさの万分の一でも、誰かと分かち合えればよいなぁ、と思い、浅学菲才を省みず、無謀な挑戦を始めた次第です。
娯楽性を重視したため、学術的正確さを相当犠牲にしています。仏さま、どうもすみません。
m(_ _)m
「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。


第1話 維摩居士、登場bunchin.com/choyaku/yuima/yuima001.html
2006.11.29
昔々、インドのヴァイシャーリーという大都市に、維摩詰(ヴィマラキールティ、以下「維摩」)という長者がいました。

彼は熱心な仏教徒でしたが出家はせず、お城のような巨大なお屋敷で、妻子や使用人たちと暮らしていました。

維摩は溢れんばかりの才能と情熱、そして資産を持っていました。

そして、とても幸いなことに、それら全てを人助けのために使うと固く心に決めていたのです。

実際、彼の活動は融通無碍であり、大きな成果を上げていました。

貧しい人には施しを与え、悪人は教え諭し、怠け者にはハッパをかけるなど、全ての人に対して、それぞれのレベルに合った導き方をする彼の人望は、まさに天下に轟いていたのです。

ある日、維摩はこう考えました。

「これまでは自分であちこち飛び回り、色んな人たちを導いてきたわけだが、もう長いこと続けてきたのでちょっとマンネリ気味だなぁ。
そうだ!ここはひとつ、私が「病気で寝込んだ」という噂を流してみよう。
そうすればきっと、私のことを心配して、人々は自分たちの方から私のところに集まってくるに違いない。
うん、なんて効率的なアイデアだろう!」

さて、維摩が「病気で寝込んだらしい」という噂が広まると、国王や大臣をはじめ、資産家やその家族たちなど、あらゆる階層の人々が、数え切れないほど彼の家に集まってきました。

こうして彼らを待ち構えていた維摩は、病気をネタにした説教を実施し、大成功をおさめることができたのです。

作戦成功の余韻にひたりながら、維摩はふと思いました。

「私はこうやって「病気で寝ている」ことによって、たくさんの人たちに仏の教えを説くことができた。
そういえば当の仏様は、こんな私を見舞いにきてくれないものだろうか?」

next


・・・・・
順番に読むのが一番楽しいですが、りんごさんは女性だから維摩経で天女が出てくるところをご紹介しましょう。
超訳が一番いいお経の現代語訳だと思います。維摩経以外の超訳もとても面白いです。

・・・・・
以上、は下記から転載
http://burogu321.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-ae75.html
超訳文庫維摩経第24話 維摩の「人間観」 (豊岳正彦)
2017-06-24 22:25:10
第24話 維摩の「人間観」
2007.2.25

文殊菩薩は維摩の言葉をさえぎってツッコミました。

「ちょっと待ってください!そもそもあなたは人間たちの存在を何だと思っているのですか?」

維摩は答えました。

「ん、何?ワシの「一般ピープル」に対する見解?
ふむ・・・例えるならこんな感じじゃな。

・マジシャンが自分のマジックを見物するようなものじゃ。
・水に映った月を見るようなものじゃ。
・鏡に映った自分の顔を見るようなものじゃ。
・暑いときのかげろうのようなものじゃ。
・響くこだまのようなものじゃ。
・浮かぶ雲のようなものじゃ。
・水のしぶきのようなものじゃ。
・水に浮かんだ泡のようなものじゃ。
・イナズマの光のようなものじゃ。
・「地、水、火、風」以外の元素のようなものじゃ。
・「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」以外の感覚のようなものじゃ。
・「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」から生じる5種の認識に「意識」を加えた6種以外の認識領域のようなものじゃ。

・・・どうじゃ、少しはピンときたかな?
もっと言うなら、こうじゃ。

・一度火を通した穀物の芽のようなものじゃ。
・生まれつき眼の見えない人が考える「色」のようなものじゃ。
・飛ぶ鳥が空中に残した跡のようなものじゃ。
・目覚めた時に覚えている「夢」のようなものじゃ。
・煙の出ない火のようなものじゃ。

・・・まぁ、ワシは「その他大勢」の連中を、そのようなもんじゃと考えておるよ。」


第25話 天女あらわる!
2007.2.26
大勢の野次馬が見守るなか、激しい問答を繰り広げる文殊と維摩。

議論が白熱したその時です。
部屋の中空に突然ひとりの天女が出現しました。

そしてイキナリそこにいる全員の頭上に美しい天界の花びらを振りかけたのです。

菩薩たちの上に落ちた花びらは、そのまますぐに地面に落ちましたが、十大弟子たちの上に落ちた花びらは、なんと彼らの頭や身体にピタリと貼り付いてしまったではありませんか!

大弟子たちは必死になって手で引っ張ったり、日ごろ鍛えた超能力を駆使したりしましたが、くっついた花びらは全く外すことができません。

それを見ていた天女は、シャーリプトラにたずねました。

「ねぇお兄さん、どうしてお花を取ろうとするの?」

シャーリプトラは答えました。

「やかましいっ!どこの世界に花びらを全身にくっつけた修行僧がいるものか!これは我らにはふさわしくないんだよ!だから取るんだ!!」

天女は言いました。
「あらあら・・・そんな風に考えちゃ、お花に失礼だわ。
その花びらは別に「ようし、あいつにくっついてやれ!」なんて考えてあなたにくっついているわけではないのだから。
菩薩の皆さんを見てごらんなさい。
なんで彼らには花がくっつかないのだと思いますか?
悪魔は、「恐れ」のない人には襲いかかれないということがありますよね。
菩薩たちは既に、いかなる外部環境によっても左右されない心を持っています。
もちろん花がつこうがつくまいが、全く気にしません。
だから、かえって花びらはくっつかないのです。
お兄さんたちお弟子さんがたには、どうやらまだ生死に恐れがあるようですね。
眼や耳や鼻などの全身の5つの器官から受ける刺激に対する煩悩が、まだまだたっぷりと残っているのでしょう。(笑)」

シャーリプトラは、ムッとして話題を変えました。

「そういえば天女さん、あんたいったいいつからこの部屋の中にいるんだい?」

天女:「そうね、維摩のオジサマが解脱しているのと同じぐらいかしら。」

シャーリプトラ:「え?じゃあ、もうずっと長いこと?」

天女:「あら、オジサマの解脱はずっと長いあいだだと考えてるわけ?」

シャーリプトラ:「・・・・・・・・・」

天女:「あらあら。お兄さんみたいに賢い人が、どうして黙っちゃったの?」

シャーリプトラ:「うるさいな!解脱ってのはな、言葉では表現できないものなんだよ!だから・・・オレにはここで何て言ったらいいか、わからないんだよ・・・」


第26話 天女、シャーリプトラをへこませる
2007.2.27
天女はしれっと言いました。

「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」

シャーリプトラ:「えーっと・・・解脱って、淫欲とか怒りとか迷いとかから離れることじゃなかったのでしたっけ?」

天女:「ああ、それはまだ悟りもしないのに「悟った」などと思い上がっている人のために、仏があみ出した説明よ。(笑)
思い上がりの全くない人に対しては、仏は「淫欲・怒り・迷いがあることこそが解脱なのだ」と説明しているわ。」

シャーリプトラはぐうの音も出ないほどやっつけられてしまいましたが、何とか言葉をしぼり出しました。

「こ、これはオミソレいたしました・・・
貴女の弁説は完璧です。素晴らしいのひとことです!
それにしても天女さん、貴女はいったいどんな奥義を誰から授けられたのですか?」

天女は答えました。

「奥義ですって?私はいまだかつて何も授けられたこともなければ、得たこともないわ。
だからこそ、このように弁じることができるのです。
だってそうじゃない?
何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」


第27話 天女、維摩の部屋の素晴らしさを説く
2007.3.4
天女はさらに言いました。
「この維摩のオジサマの部屋はとってもスゴイのよ。
例えば今、この部屋は明るいでしょう?
これって昼だから明るいのじゃないのよ。
夜になってもこの明るさなの。
しかも、とくに何か明かりを使っているわけじゃないの。
部屋全体がまばゆいばかりに発光しているっていうわけ。
この部屋のスゴさはそれだけじゃないわ。
お兄さんたちにわかるかどうかしらないけど、この部屋は全体が究極のオーディオシステムになっていて、ありとあらゆる音階を忠実に再現することができるのよ!
それだけじゃないわ。
この部屋には実はたくさんの宝物がしまわれていて、そこから困っている人たちに惜しげもなく与えられるわけなのだけど、どれだけ与えたからといっても、ちっともなんにも減らないのよ。
わかる?
まぁ、ちょっとムリかもね。(笑)
でもね、ここは本当にそういうところなのよ。
そんな部屋に住みついている私が、いったいどうして「人の言ったことを忠実に守るだけ」なんていうしょーもないレベルで
満足できると思うのかしら?」
超訳文庫維摩経第28話 天女、「女」について語る (Unknown)
2017-06-24 22:26:12
第28話 天女、「女」について語る
2007.3.4

シャーリプトラは言いました。

「・・・いやはや、まったくたいしたもんです。
というかさ、それだけの能力があるんだったら、女なんてやめて男になればいいのに。できますよね? そのぐらい、楽勝で。」

天女はあきれ顔で言いました。

「あらあら、何を言うのかと思ったら!
実は私は12年間かけて「女」とは何かということを追求してきたのですが、結論から言うと、よくわからなかった、というか、どうやらそんなものは実在しないのよ。
「女」が存在しない以上、「女」をやめるとかやめないとかいう議論は全く意味がないのじゃないかしら?
あなたは例えば、幻術師が作り出した幻の女のところへ行って、「なんで男にならないの?」とか言うのかしら?」

シャーリプトラ:「いやいや、ちょっと待ってください。
それは違うでしょう? 幻は幻です。
いまさら変化のしようもないじゃないですか。」

天女:「でしょー? 幻は幻なのよ。
全ての事柄も、また同じことなの。
「理由」なんてありゃしないわ!!」

次の瞬間、シャーリプトラと天女の姿が入れ替わりました。

天女の姿のシャーリプトラ:「ぐ、ぐおっ!?」

シャーリプトラの姿の天女:「はーい、そこのあなた。
女なんてやめて、男になっちまいなよ!」

天女の姿のシャーリプトラ:「え!?え!?な、なんじゃこりゃあ!!」

シャーリプトラの姿の天女:「ほらほら、どうしたの!?だらしないわね!!(笑)
もしも今のあなたが「女」をやめることができるなら、全ての女性もまた「女」をやめることができるはずよ!
今のあなたならわかるでしょう?
全ての女性は今のあなたと同じなの。
「女」の姿をしているけれども、本性は「女」なんかじゃないのよ。
ブッダも言っているでしょう?
「「男」なんていない、「女」もいない」って。」

言い終わると、天女はシャーリプトラの姿を元に戻してあげました。

天女:「はい、ここで質問です。「女」はどこへいきましたか?」

シャーリプトラ:「い、いや・・・
どこへいったとかいかないとかじゃなくって、そんなもの初めからなかったんですけど・・・」

天女は言いました。

「でしょー? 全ての事柄はそんなものなのよ。
「ある」のでもなく、「ない」のでもないわけ!!」


第29話 天女、「究極の悟り」について語る
2007.3.6
シャーリプトラは言いました。

「あー・・・すみません、ちょっといいですか?
もしも貴女がここで死んだとしたなら、いったいどこに生まれ変わることになるのでしょうか?」

天女は答えました。

「どこに生まれ変わるか、ですって?
ブッダがサイキックパワーで作り出す人間たちと同じところに決まってるじゃない。(笑)」

シャーリプトラ:「いやいやいや!ちょっと待ってください。
ブッダがサイコパワーで作り出す人間たちは、基本的に不死です。
それと同時に、確か生まれることもなかったハズでは?」

天女:「そうよ。全ての一般大衆も同じことよ。死なないし、生まれないの。」

シャーリプトラ:「・・・。
えーと、話を変えさせてください。
貴女は既に、限りなく「究極の悟り」に近づいているように思えるのですが、いったいいつ、「究極の悟り」をゲットするのですか?」
天女:「うふふ・・・(笑)
それはね、シャーリプトラのお兄さんが、ただの凡人に戻ることができた時よ!」

シャーリプトラ:「私が「ただの凡人」になるなどということは有り得ません!絶対に!!(怒)」

天女:「そうよね。(笑)
私が「究極の悟り」を得る、なんていうのは、それと同じくらい有り得ないことなのよ。
「悟り」は決して同じ状態に長いこと留まっていたりはしないわ。
だから、「悟りを得た!」なんていう人がいたら、その人はウソつきなの。」


第30話 維摩、カットインする
2007.3.11
シャーリプトラは言いました。

「・・・えーっとですね、貴女はそう言いますが、確かブッダはこうおっしゃったハズですよ。
「ガンジス河の砂粒の数ほどの人々が、既に悟りを得た、今まさに悟っている、これから悟ることになるであろう」って。
これはいったいどういうことなんですかね?」

天女は答えました。
「ああ、それね。
それはレベルの低い人たちに説明する便宜上、持ち出しただけの話なのよ。(笑)
本来、「悟り」には現在も過去も未来もないわ。
で、お兄さんはそれを得ているのかしら?」

シャーリプトラ:「もちろんですよ!
「何も得ることはできない」という「究極の悟り」をね。」

天女:「そうそう。全ての仏や菩薩たちもそれと同じよ。
「何も得られない」ということを得ているの!」

維摩居士は、天女とシャーリプトラのやりとりを黙って聞いていましたが、ここでようやく口を開きました。

「シャーリプトラよ、この天女はな、92億の仏の供養をコンプリートして、超能力をゲットしたのじゃよ。
そのぐらいのレベルになると、もはや全ての願いは叶っており、輪廻転生の無限ループからも離脱できているのじゃ。
だから、もはや「何も生まれない」し、「何も得ることはない」ということになっておる。
じゃあ、なんでこんなところで遊んどるのか、と思うじゃろ?
それはな、純粋に彼女の趣味じゃよ。(笑)
彼女はお前さんみたいなヤツをおちょくるのが大好きなのじゃ。」


・・・
仏教聖典 勝鬘経ほか (豊岳正彦)
2017-06-24 22:33:36
聖徳太子が仏教を解説講義した三経義疏のうちのひとつ勝鬘経は、女性がさとりを得て成仏する教えです。
1600年前の昔から日本全国に建てられた寺院において全国の大和民族「庶民」婦女子がこの教えを聞くことになった。
上杉鷹山公が参姫への手紙で示した婦徳の道は世尊の前で誓願した勝鬘夫人の教えそのものです。その誓願は次の通りです。

仏教聖典 なかま 第二章生活の指針 第二節女性の生き方 文庫本p227

 六、勝鬘経

 さとりの道においては、男と女の区別はない。
女も道を求める心を起こせば、「さとりを求める者」といわれる。

 プラセーナジット(波斯匿はしのく)王の王女、アヨーディヤー国王の妃(きさき)、マッリカー(勝鬘しょうまん)夫人(ぷにん)は、このさとりを求める者であって、深く世尊の教えに帰依し、世尊の前において、次の十の誓いを立てた。

 「世尊よ、私は、今からさとりに至るまで、

(一)受けた戒を犯しません。

(二)目上の方々を侮(あなど)りません。

(三)あらゆる人びとに怒りを起こしません。

(四)人の姿や形、持ち物に、ねたみ心を起こしません。

(五)心の上にも、物の上にも、もの惜しみする心を起こしません。

(六)自分のために財物をたくわえず、受けたものはみな貧しい人びとに与えて、幸せにしてあげます。

(七)施しや、優しいことばや、他人に利益を与える行いや、他人の身になって考えてあげることをしても、それを自分のためにせず、汚れなく、あくことなく、さまたげのない心で、すべての人びとをおさめとります。

(八)もし孤独の物や、牢獄につながれている者、または病に悩む者など、さまざまな苦しみにある人びとを見たならば、すぐに彼らを安らかにしてあげるために、道理を説き聞かせ、その苦しみを救ってあげます。

(九)もし生きものを捕らえ、または飼い、あるいはさまざまな戒を犯す人を見たならば、わたしの力の続く限り、懲らすべきは懲らし、諭すべきものは諭して、それらの悪い行いをやめさせます。

(十)正しい教えを得ることを忘れません。
正しい教えを忘れる者は、すべてにゆきわたるまことの教えから離れて、さとりの岸にゆくことができません。

 わたしはまた、この不幸な人びとを哀れみ救うために、さらに三つの願いを立てます。

(一)わたしはこのまことの願いをもって、あらゆる人びとを安らかにしてあげます。
そして、その善根によって、どんな生を受けても、そこに正しい教えの智慧を得るでありましょう。

(二)正しい教えの智慧を得たうえは、あくことなく、人びとに説いて聞かせます。

(三)得たところの正しい教えは、体と命と財産を投げ捨てて、必ず守ります。

 家庭の真の意義は、相たずさえて道に進むところにある。
婦人といえども、この道に進む心を起こして、このマッリカー夫人のように大きな願いを持つならば、まことに、すぐれた仏の弟子となるであろう。

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仏教聖典_なかま_第二章、生活の指針_第二節、女性の生き方・・・p221~

 一、パーリ、増支部四-一九七

 世の中には四通りの婦人がある。第一種の婦人は、ささいなことにも腹立ちやすく、気まぐれで、欲深く、他人の幸福を見てはそねみ、施すことを知らない。

 第二種の婦人は、腹立ちやすく、気まぐれで、欲深いが、他人の幸福をうらやみねたむことがなく、また施すことを知っている。

 第三種の婦人は、心広く、みだりに腹を立てない。また、気まぐれでもなく、欲を抑えることを知ってはいるが、しかし、他人をうらやみねたむ心が取れず、また施すことを知らない。

 第四種の婦人は、心広く、腹を立てることがなく、欲を抑えて落ち着きがあり、そして他人をうらやまず、また施すことを知っている。


 二、パーリ、増支部五-三三

 娘が嫁入るときには、次の心がけを忘れてはならない。

 夫の両親に敬い仕えなければならない。夫の両親は、わたしども二人の利益を計り、なさけ深く守ってくださる方であるから、感謝して仕え、いつでもお役に立つようでありたい。

 夫の師は夫に尊い教えを授けてくださるから、自分もまた大切に尊び敬ってゆこう。人として心の師を持たずに生きられないからである。

 夫の仕事に理解をもってそれを助けてゆくように、自分も教養に心がけよう。夫の仕事を他人の仕事のように考えてそれに無責任であってはならない。

 夫の家の使用人や出入りの人たちについても、よくその気立てや能力や食べ物の好みなどを心得て、親切に面倒を見てゆこう。また夫の収入は大切にたくわえ、決して自分のために無駄遣いしないように心がけよう。

___________________

上記の第二項は、上杉鷹山の参姫への手紙と全く同一内容です。鷹山は武士の必須の嗜みとして細川平洲に師事して学んだ朱子学の四書五経を引用していますが、実は中国支那に仏教が伝えられて以来それまで支那帝国にあった老子の道教も孔子の儒教もみな人天の師釈尊が説いた仏教の門下に入りました。これはファンタジーではない厳然たる歴史の事実です。山岡鉄舟も参禅した幕末の臨済宗今北洪川禅師が岩国藩永興寺(ようこうじ)住職時の著書『禅海一瀾』において詳述しております。

また第二項の最後から二番目の一文は、江戸幕府を開いた徳川家康の同志となった伊達政宗が、武士道のもてなし「御馳走」について言い残した言葉と心軌を一にするものです。「日本武将列伝4天下統一編」桑田忠親著:秋田書店刊p209政宗の教養から転記します。

______________

政宗の教養

 政宗は、和歌に巧みで、書を能(よ)くし、また、能楽・茶の湯の嗜みもあった。殊に茶の湯は、これを古田織部に学んだといわれる。政宗が織部に茶事を依頼した書状もあるし、また、政宗に出した織部の返信も現存する。『命期集(みょうごしゅう)』というのは、政宗に関する逸話を集めた書物であるが、そのなかに、茶道に関する記事は、比較的少ない。ただ、振舞(ふるまい)料理にまつわる、次のような逸話が伝えられている。
 
 政宗は、江戸に参勤しているときは、いうまでもないが、国もとの仙台で下々(しもじも)の者に茶を振舞うときにも、前日から、掃除、道具万端の用意を家臣に命じ、夜の内から寝所を出た。そうして、---

---かりそめにも、人に振舞うとあらば、料理を第一と心得よ。亭主が勝手(台所)にはいって吟味もせず、粗末な料理を出し、さしあたり虫気(むしけ)でもあったならば、その心痛はいかばかりであろうか。そのようなことになるくらいならば、初めから客を招かないほうがましである。むかしは、何びとを招くにも、その人の好む物の有無を尋ね、嫌いな物をのけて、料理をしたから、気らくだった。ところが、近頃では、そのような考えがなくなってしまったため、なんとも、不安である。人は、身分の高下によらず、客を馳走するために、さまざまな食物を沢山に出すのは、まったく無用なことだ。一種か、二種か、品をととのえ、それに、ちょっとした物を添えるのがよい。亭主が自ら料理して、盛り物ならば、そのまま座敷へ持ち出すのがいい。珍しい物をいろいろと並べて出すよりも、このほうが、はるかにましだ。すずやかに、物ごとをきれいにするのが、何よりの御馳走であろう。いろいろな食物を百種も千種も取り揃えて三度も振舞うよりは、なんとも目にたたぬ物を、一種か二種ずつ出し、それが季節に合っているのが、好ましい---

---と、説明したという。

 心のこもった、軽い料理をよしとしたもので、政宗が茶道の奥義を究めていた証拠とも見られる。

______転記終わり
仏教聖典 女性の生き方ほか (豊岳正彦)
2017-06-24 22:38:20
仏教聖典_なかま_第二章、生活の指針_第二節、女性の生き方・・・p223~

 三、ビルマ仏伝

 夫婦の道は、ただ都合によって一緒になったのではなく、また肉体が一つ所に住むだけで果たされるものでもない。夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない。

 かつて夫婦の鑑とほめたたえられたある老夫婦は、世尊のところに赴いて、こう言った。「世尊よ、わたしどもは幼少のときから互いに知り合い、夫婦になったが、いままで心のどのすみにも、貞操のくもりをやどしたことがない。この世において、このように夫婦として一生を過ごしたように、後の世にも、夫婦として相まみえることができるように教えて戴きたい。」

 世尊は答えられた。「二人ともに信仰を同じくするがよい。一つの教えを受けて、同じように心を養い、同じように施しをし、智慧*を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう。」
____________


---用語解説p320 *智慧*(般若prajna)---

 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀(ぶつだ)”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見抜くことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

---p321 *波羅密*(paramita)---

 パーラミターという梵語の漢音写で、”度”とか”到彼岸”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅密(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の”彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられた。

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 四、パーリ、増支部七-五九、玉耶經

 アナータピンダダ(給孤独ぎっこどく)長者の長子に嫁いだスジャータ-(玉耶ぎょくや女)は、驕慢(きょうまん)であって他を敬うことを知らず、父母や夫の命に従わず、いつも一家の波風を起こすもととなっていた。

 ある日、長者の家に入ってこの有様を見た釈尊は、その若い妻のスジャーターを呼んでこう教えた。

 スジャータ-よ、世には七種の妻がある。

 第一は、人殺しのような妻で、汚れた心を持ち、夫に対して敬愛の思いがなく、はては他の男に心を移す妻である。

 第二は、盗人のような妻で、夫の仕事に理解を持たず、自分の虚栄を満たすことだけを考え、口腹(こうふく)の欲のために、夫の収入を浪費し、夫のものを盗む妻である。

 第三は、主人のような妻で、家政のことをかえりみず、自分は怠惰であって口腹の欲にだけ走り、常に荒々しいことばで、夫を叱咤している妻である。

 第四は、母のような妻で、夫に対して細やかな愛をいだき、母が子に対するように夫を守り、夫の収入を大切にする妻である。

 第五は、妹のような妻で、夫に仕えて誠を尽くし、姉妹に対するような情愛と、慚愧(ざんぎ)の心をもって夫に仕える妻である。

 第六は、友人のような妻で、常に夫を見て喜ぶことは、ちょうど久しぶりに会った友に対するようであり、行いは正しくしとやかに、夫を敬う妻である。

 第七は、女中のような妻で、よく夫に仕え、夫を敬い、夫のどんな行いをもよく忍び、怒りも恨みも抱(いだ)かず、常に夫を大切に生かしてゆこうと努める妻である。

「スジャータ-よ、おまえはこのうち、どの類(たぐい)の妻になろうとするのか。」 

 この教えを聞いたスジャータ-は、大いにわが身を恥じて懺悔(さんげ)し、これから後は女中のような妻となって夫を助け、ともに道を修めてゆこうと誓った。

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 五、長阿含經第二・遊行經

 アームラパーリーは、ヴァイシャリーの名高い娼婦であり、自ら大勢の娼婦をかかえている主人であった。あるとき、この女がよい教えを聞こうとして仏*を訪れた。

 釈尊はこの女にこう教えられた。

「アームラパーリーよ、女は心の乱れやすいもの、行いの間違いやすいものである。欲が深いから、惜しむ心ねたむ心が強い。男に比べて、障害の多いものといわなければならない。

 だから、女は男に比べて、道に進むことが困難である。まして年若くて容色の美しい者はなおさらである。財と色との誘惑にうち勝って、道に進まなければならない。

 アームラパーリーよ、女にとって強い誘惑である財と色は、決して永久の宝ではない。たださとりの道だけが、永久(とこしえ)にこわれない宝である。強い者も病に犯され、若い者も老いに破れ、生は死に脅(おびや)かされる。また愛する者と離れて、恨みある人と一緒にいなければならないこともあり、そして求めることも、とかく思うようにならない。これが世のならわしである。

 だから、この中にあっておまえの守りとなるものには、たださとりの道がある。急いでこれをもとめなければならない。」

 この教えを聞いた彼女は、仏弟子となり、教団*に美しい庭園を寄進した。

---p321 *仏(ぶつ)*(仏陀・Buddha)---

 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
 なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。

---p317 *教団*僧伽(samgha)---#本の記載が気に入らないので豊岳が改変した。
 同じ釈尊の教えに帰依して集まった人びとの集団をいう。初期仏教において、出家者(比丘・比丘尼)集団を僧伽(サンガ)と称した。

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女子どもを命を捨てて守る日本男児大和魂 (豊岳正彦)
2017-06-24 22:43:34
江戸時代以前の政教分離仏教国母子保護日本の真実の歴史「温故知新」2

(3)次は仏教徒武士道菩薩上杉鷹山(水戸斉昭、吉田松陰、勝海舟、西郷隆盛、山岡鉄舟、田中正造が心服師事した先達仏教徒武士)がしたためた孫娘「参姫への手紙」

http://blog.goo.ne.jp/newgenerations/e/b60ef7447b10ffe409c0156faa40a4b5#comment-list


仏法武士道の鑑上杉鷹山公「参姫への手紙」=実在の史料です。

上杉鷹山公が隠居後に江戸屋敷の新しい藩主に嫁ぐことになった孫娘(参姫二十歳)に藩主の妻たるべきものの心得を懇切丁寧に説いて手紙にしたためました。
「上杉鷹山に学ぶ」鈴村進著(三笠書房)から著者による現代語訳文を長文乍ら全文転載します。

「人は三つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。

 その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。このことは、自分は徳がないからとても行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。

 男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。男は外に向かって外事をし、女は内にあって、内事を治めるものである。国を治め、天下の政(まつりごと)を行うといえば、大変なことのように思われるであろうが、天下の本は国であり、国の本は家である。家がよくととのえられるためには、一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。根本が乱れて、末が治まることはありえない。

 普通に考えれば、婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、政治の本は一家の中から起こることであり、身を治め徳を積み、夫は妻の天であってこの天にそむいてはならない。これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、夫に従順であれば、やがては政事を輔(たす)けることとなるものである。

 あなたはまだ稚(おさな)いので、人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。しかし、感通とは妙なもので、人に知られず身を修めていると、いつかはそれが知られて、効果が大いに表われることは疑いのないところである。『鶴九皐に泣いて声天に聞こゆ(かく、きゅうこうにないて、せい、てんにきこゆ ・・・鶴は奥深い谷底で鳴いても、その気品ある泣き声は天に届く。つまり優れた人物はどこに身を隠しても、その名声は自然に広く世間に知れ渡るというたとえ)』と詩経に書かれているのはこのことである。奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、一国の賢夫人と仰がれるようになる。そうなれば、あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。ひたすら努めに努められよ。

 年が若いので、時折美しい着物を着たいと思われることもあるだろう。それも人情ではあるが、少しでもそんなことに心を動かして、これまでの質素な習慣を失うことのないよう、『終わり有る鮮し(詩経の大雅・蕩 「初め有らざること靡(な)し 克(よ)く終わり有ること鮮(すくな)し」 ・・・何事でも、初めはともかくもやっていくが、それを終わりまで全うするものは少ない) 』の戒(いまし)めを守られるべきである。そうすれば、いつまでも従来の質素な習慣は続けられるであろう。そして、養蚕女工のことを思い、一方では和歌や歌書などを勉強されたい。しかし、ただ物知りになったり、歌人になったりしようなどとは考えるべきではない。学問は元来、自分の身を修める道を知るためのものである。昔のことを学んで、それを今日のことに当てはめ、善いことを自分のものとし、悪いことは自分の戒めとされよ。和歌を学べば、物の哀れを深く知るようになり、月花に対して感興を深くし、自然に情操を高めることとなるであろう。

 くれぐれも両親へ孝養を尽くし、その心を安んじるとともに、夫に対しては従順であり、貞静の徳を積み、夫婦睦まじく、家を繁栄させて、わが国の賢夫人と仰がれるようになってもらいたい。出発に際して、末永く祝うとともに、婦徳を望む祖父の心中を汲み取られよ。他へこそ行かないが、今日より後、いつ会えるかわからないので、名残り惜しく思う。


  武蔵野の江戸なる館へ赴きたまうはなむけに
   春を得て花すり衣(ごろも)重ぬとも わが故郷(ふるさと)の寒さ忘るな         はる憲」
                                                       
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上杉鷹山がこの手紙で言う「婦徳」を身につけた婦人が、釈尊がいう「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」すなわち女人出家仏弟子比丘尼あるいは女人在家信者ウバイです。

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江戸時代以前の政教分離仏教国母子保護日本の真実の歴史「温故知新」1

江戸時代以前のわれわれのご先祖仏教徒庶民が地上に「実現した」ファンタジーでない母性と子ども保護社会。

(1)親父の小言より。

2.  朝、機嫌を良くしろ

3.  朝早く起きろ

9.  家内笑うて暮らせ

16.  年寄りをいたはれ

19.  女房の言ふ事半分聞け

20.  子の言ふ事は九ッ聞くな

22.  何事も我慢をしろ

23.  子供の頭を打つな

24.  己が股をつねれ *わが身をつねって人の痛さを知れ

28.  女郎を買ふな

29.  女房を探せ

30.  病人は労いたはれ

35.  年忌・法事をよくしろ

36.  親の日は万事慎め *親の年忌・命日には謹慎しろ

38.  子供はだまかせ *だまくらして上手に扱え

39.  女房に欺されるな

40.  博奕をするな

41.  喧嘩をするな

45.  世話焼きになるな   *世話とは、特に男女の夫婦縁固めの仲人のこと。他人の嫁を自分勝手に自分の都合良いように世話するな、人の恋路の邪魔をするな(そういう奴は馬に蹴られて死んでしまえ)、人情の赴くところ当人同士の自然の縁づきに任せろと言うこと(ここの解説は江戸時代の石頭仏教徒豊岳でした笑)

75.  身持ち女は大切にしろ *妊婦は大事にしろ

76.  産後は、なほ大切にしろ

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(2)次は法句經、釈尊の言葉から。

http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149

「ブッダのことば」として中村元さんが邦訳

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「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」

「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」

「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」

「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」

「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」

「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子(女の子)は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」

「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」

「盛年をすぎた男がティンバル果のように盛り上がった乳房ある若い女を誘い入れて、かの女への嫉妬から夜も眠れない。これは破滅への門である。」 

「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって、得たものを、その度に失う人がいる。これは破滅の門である。」

「婦女の求めるところは、男性であり、心を向けるところは装飾品、化粧品であり、よりどころは子どもであり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である。」

・・・

仏教は無我の教えなり (豊岳正彦)
2017-06-24 22:51:47

仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩_第三節、現実の人生

三、パーリ、増支部三-六二

 世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。
すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。
しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

 ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。
それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

 母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。
子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。
子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。
いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。



五、パーリ、長老尼偈註

 裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

 この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。
彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

 釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

 狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。
芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。
ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。
かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。




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「無我(むが)」


仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三項仏のたとえ

十、雑宝蔵経

 ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き屋に宿をとった。
すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。

 間もなく、後からもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。

 すると、前の鬼が言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有をきめよう。」

 後の鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついで来たかを言ってくれと頼んだ。

 男はもう絶体絶命である。
どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。

 案の定、一方の鬼は大いに怒ってその男の手をもぎ取った。
これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って来て補った。
後の鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。
前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。

 こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。

 男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見も知らぬ死体のものである。
一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに、気が狂って空き屋を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。
人びとは、この話の中に、無我(むが)の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。

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仏教聖典用語解説

*無我(anartman)*****
 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。

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小説維摩詰から天女の場面 (豊岳正彦)
2017-06-25 06:35:29
「小説維摩詰ヴィマラキールティの生活と意見」池田得太郎著大雄閣出版
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 と、座の中心にやってきた踊り子の一人が、やおら薄衣を脱いで、唖然として見守る沙門たちに投げかけた。

「何をなさるのです」
 もっとも驚いたのはサーリプッタである。頭上に舞い降りてくる衣から逃れようとして、夢中で手を動かした。皮肉というか、あまりあがいたので、衣はかえってサーリプッタの四肢に絡みついてしまった。
「大徳よ、そのように暴れてなんとなされます」

 美しい女が鈴を転がすようなあでやかな声で言った。
「知れたことです。このような蠱惑的なものはわたしにふさわしくありません」
 言いながら、サーリプッタはなおも手足をばたばたさせた。
「衣が蠱惑的だとおっしゃるのですか」
「蠱惑的です。この変な香り、すべすべした感じ、ふざけていないで、これを取ってください」
「これはまた、大徳にあるまじい、狭いお考えです。衣は衣、香水は香水で、別に他の何ものでもありませぬものを……」
「いや、これはあなた方、女が着ていたものです。女はわたしにとって魔物です」
「これは恐ろしいことを」

 女が美しく笑って言った。
「女は衆生ではなくて、魔物だとおっしゃるのですか」
「つべこべ言わずに取ってください」
「大徳よ、別に衣に意志があるのではありません。衣があなたさまから離れようとしないのは、衣のせいではなくして、あなたに魔性への恐怖心があるからではありませんか。すべての煩悩を断じたと思っているあなたさまから、衣が離れようとしないのは、何故かしら……」

 サーリプッタは目を白黒させて、しっかりした顔立ちの、ペルシア美人を見守るしかなかった。
「魔と申しても、魔そのものがこの世にある訳ではありません。魔の実体は個体というより、一つの作用なのです。そしてその根本は己れ自身に内在するものです。ですから、女が魔物だなどというのは、わたしたち女性にとって、とんだ濡れ衣と申すもの。もし己れ自身の恐怖心や嫌悪感をとり除いてしまえば、ほら、大勢の方々のように素直に歌舞を楽しめるのです」
「あなたは、一体、何者ですか」
 サーリプッタがへきえきとなって、訊ねた。

「私は菩薩です」

「いま、何と言われました」

「菩薩と申しました。菩薩と申すものは、何も粗末な衣をまとい、托鉢する人には限りません。疲れた人々に妙なる音楽を聞かせてあげ、明日の活力を養ってあげる、これは妙音菩薩と申します。あれなる異国の楽師さんも、やはり妙音菩薩と申せましょうね。わがご主人は、それはそれは音楽好きで、わたしどもを大事にして下さいます」
 どうやら、ヴィマラキールティは、異国のさすらい芸人の中から、これらの人を連れて来たらしい。
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 このように、和を以て貴しとなす聖徳太子がペルシアについて詳細に通暁した維摩経を最重要聖典として義疏したこと自体、聖徳太子の出自がペルシアにあることの実に強力な傍証になります。
仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
2017-06-25 11:13:44
第二章 生活の指針

 第一節 家庭のしあわせ

 一、六方礼経

 災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。

 朝早く起きて口をすすぎ、顔を洗い、東西南北、上下の六方を拝んで、災いの出口を守り、その日一日の安全を願うのは、世の人のするところである。

 しかし、仏の教えにおいては、これと異なり、正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行って、災いを防ぐ。

 この六方を守るには、まず四つの行いの垢(あか)を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさがなければならない。

 この四つの行いの垢とは、殺生(せっしょう)と盗みとよこしまな愛欲と偽りであり、

四つの悪い心とは、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと恐れである。

家や財産を傾ける六つの口とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、賭博にふけること、悪い友だちに交わること、それに業務を怠ることである。

 この四つの行いの垢を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさいで、それからまことの六方を拝むのである。

 このまことの六方とは何かというと、東は親子の道、南は師弟の道、西は夫婦の道、北は友人の道、下は主従の道、そして、上は教えを信ずる者としての道である。

 まず、東の親子の道を守るというのは、子は父母に対して五つのことをする。父母に仕え、家業の手伝いをし、家系を尊重し、遺産を守り、父母の死後はねんごろに供養することである。

 これに対して、親は子に五つのことをする。悪をとどめ、善をすすめ、教育を施し、婚姻をさせ、よい時に家を相続させることである。互いにこの五つを守れば、家庭は平和であり、波風が立たない。

 次に南の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく仕え、素直に命(めい)を守り、供養を怠らず、慎んで教えを受ける。

 それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正しくして弟子を正し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、正しく説いて正しく教え、引き立てて名を表すようにし、何ごとについても守護を忘れないようにする。こうして師弟の間が守られて平和になる。

 次に西方の夫婦の間は、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって向かい、家政をまかせ、ときどきは飾りを与える。妻は夫に対し、家政をととのえ、使用人たちを適切に使い、貞操を守り、夫の収入を浪費せず、家政をうまく行うようにする。これによって夫婦の間はむつまじく、争いは起こらない。

 次に北方の友人の道は、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかってやり、常に相手を思いやる。

 また友人が悪い方に流れ落ちないように守り、万一そのような場合には財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、不幸のときは助けの手をのばし、必要の場合にはその妻子を養うこともする。このようにして友人の間は美しく守られ、互いに幸せが得られる。

 次に下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい給与を与える。病気の時は親切に看病する。珍しいものは分かち与える。ときどき休養させる。

 これに対して使用人は、主人に向かって五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直を守り、仕事にはよく熟練する。そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。こうして主従の間にもつれがなくなり、常に平和が保たれてゆく。

 教えを信ずる者としての道というのは、どんな家庭であっても、仏の教えが入っていなければならない。そしてこの教えを受ける人として、師に対し、身(からだ)も口も意(こころ)もともになさけに満ち、ていねいに師を迎え、その教えを聞いて守り、供養をしなければならない。

 これに対して、仏の教えを説く師は、よく教えを理解し、悪を遠ざけ、善を勧(すす)め、道を説き、人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。このようにして、家庭は中心となる教養を保って成長してゆく。

 六方を拝むというのは、このように、六方の方角を拝んで災いを避けようとすることではない。

人としての六方を守って、内からわいてくる災いを、自(みずか)ら防ぎとめることである。


仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
2017-06-25 12:19:53
 二、六方礼経

 人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。

 親しむべきでない友とは、むさぼりの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。

 親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。

 ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。

 このような友を得ることは容易でないが、また、自分もみずからこのような友になるように心がけなければならない。

よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。


 三、パーリ、増支部二-四

 父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。

例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。

 また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。

 しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪(むさぼ)りを捨てて施(ほどこ)しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。

あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。

 父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。


 四、パーリ、増支部三-三一

 家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすものである。

 この場合、他人のことは言わず、まず自ら自分の心を守ってふむべき道を正しくふんでいなければならない。

 五、パーリ、本生経四一七、迦栴延本生

 昔、ひとりの信仰厚い青年がいた。父親が死んで、母親とともに親ひとり子ひとりの親しい生活を送っていたが、新たに嫁を迎えて三人の暮らしとなった。

 はじめは互いにむつみあい、平和な美しい家庭であったが、ふとしたことから姑と嫁との心持ちに行き違いが起こり、波風が立ち始めると、容易には納まらず、ついに母は、若い二人を後に、家を離れることとなった。

 母が別居すると、やがて若い嫁に男の子が生まれた。「姑と一緒にいる間は、口やかましいので、めでたいこともなかったが、別居をすると、こうしてめでたいことができた。」と、嫁が言ったという噂が、さびしいひとり暮らしの姑の耳に入った。

 姑は大変腹を立てて叫んだ。「世の中には正しいことがなくなった。母を追い出して、それでめでたいことがあるならば、世の中は逆さまだ。」

 姑は、「このうえは、’正しさ’という主張を葬り去らなければ。」とわめき立て、気違いのようになって、墓場へ出かけた。

 このことを知った神は、すぐに姑の前に現れて、ことの次第を尋ね、いろいろに諭したけれども、姑の心の角(つの)は折れない。

 神はついに、「それではおまえの気のすむように、これから憎い嫁と孫を焼き殺してやろう。それでよいであろう。」と言った。

 この神のことばに驚いた姑は、自分の間違っていた心の罪をわびて、嫁と孫の助命を願った。子も嫁もまたこのときには、いままでの心得違いを反省し、母を訪ねて、この墓場へ来る途中であった。神は姑と嫁を和解させて、平和な家庭にかえらせた。

 自ら正しさを捨てなければ、教えは永久に滅びるものではない。教えがなくなるのは、教えそのものがなくなるのではなく、その人の心の正しさが失われるからである。

 心と心の食い違いは、まことに恐ろしい不幸をもたらすものである。わずかの誤解も、ついには大きな災いとなる。
家庭の生活において、このことは特に注意をしなければならない。
仏教聖典_なかま_第二章生活の指針 (豊岳正彦)
2017-06-25 13:15:43
 六、六方礼経

 人は誰でもその家計のことについては、専心に蟻のように励み、蜜蜂のように努めなければならない。いたずらに他人の力をたのみ、その施しを待ってはならない。

 また努め励んで得た富は、自分ひとりのものと考えて自分ひとりのために費やしてはならない。その幾分かは他人のためにこれを分かち、その幾分かはたくわえて不時の用にそなえ、また国家のため、社会のため、教えのために用いられることを喜ばなければならない。

 一つとして「わがもの」というものはない。すべてはみな、ただ因縁*によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。

 七、法句譬喩経四

 アーナンダ(阿難)が、ウダヤナ王の妃、シャマヴァティーから、五百着の衣を供養されたとき、アーナンダはこれを快く受け入れた。

 王はこれを聞いて、あるいはアーナンダが貪りの心から受けたのではあるまいかと疑った。王はアーナンダを訪ねて聞いた。

「尊者よ、五百着の衣を一度に受けてどうしますか。」

 アーナンダは答えた。「大王よ、多くの比丘は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」
「それでは破れた衣はどうしますか。」
「破れた衣で敷布をつくります。」
「古い敷布は。」
「枕の袋に。」
「古い枕の袋は。」
「床の敷物に使います。」
「古い敷物は。」
「足ふきを作ります。」
「古い足ふきはどうしますか。」
「雑巾にします。」
「古い雑巾は。」
「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」

 ものは大切に使わなければならない。生かして使わなければならない。

これが「わがもの」でない、預かりものの用い方である。   了



華厳経 善財童子 仏教聖典 (豊岳正彦)
2017-06-26 16:11:18
仏教聖典_はげみ_第二章、実践の道_第一節、道を求めて

 九、華厳経三四、入法界品

 昔、スダナ(善財ぜんざい)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。

海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。

人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。

また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。

 また座禅する出家を訪れては、その寂(しず)かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。

また、気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃(やいば)の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。

 このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。

 かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子どもの群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧(ちえ)をさとった。

 香を焚く道にも仏の教えがあり、華(はな)を飾る道にもさとりのことばがあった。

ある日、林で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の*無常を教わった。

 昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財(ぜんざい)童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。

 童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。

 まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。

そして敬虔(けいけん)に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華(はな)を供え、歓喜の香を捧(ささ)げなければならないことを童子は学んだのである。

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*無常(むじょう)anitya・・・・・p325用語解説

あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。
無我 (豊岳正彦)
2017-06-26 19:07:02
仏の教えの中心は無我である。

無我を悟ることによってあらゆる慈悲が生まれる。

無我を教えの中心に置く宗教は仏教だけである。


用語解説
*無我(anartman)
 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。


上記のように、他宗教には無我という概念はない。
我思う、ゆえに我ありの「有我」が認識の根源なのだ。

しかし逆に言うと、「我」があるゆえに我と異なる教えを信じる異教徒という存在がある。
そして我のある宗教ではすべて異教徒は社会から排斥し削除する「政治的行動」の対象である。
これが一神教がその存在そのものに不可分に内包する「政教一致」である。

いっぽう仏教は無我だから、排斥すべき異教徒が存在しない。
我がなければ彼も無いのである。
これが仏教の寛容である。

霊鷲山説法七不衰法を渡辺照弘師が解説した文章を転記する。

「新釈尊伝(旧字)」渡辺 照宏【著】昭和四十一年 大法輪閣発行 より抜粋

人天の師ゴータマ・ブッダ(釈尊)が入滅前霊鷲山でヴリッヂ族の都市国家ヴァイシャリー(維摩居士の国)を武力征服しようと企てるマガダ国アジャータシャトル王の重臣ヴァルシャカーラ大臣(バラモン)の訪問を受けたときに説いた「七不衰法」にこうあります(大般涅槃経)。

「アーナンダよ。
第一、ヴリッジの人たちはしばしば会合し、よく集まっているか。
第二、ヴリッジの人たちは一致和合して会合し、決議し、事を処理しているか。
第三、彼らは新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っているか。
第四、彼らは年長者を尊敬し、その言うことを聞くか。
第五、彼らは婦女や少女を強制して言うことをきかせようとはしないか。
第六、彼らは内外の社(やしろ)を尊敬し、昔からしきたりの供物を怠らないか。
第七、彼らは宗教家たちを尊敬し、よそから喜んで宗教家がそこを訪れ、そこにいる宗教家は喜んでそこに留まっているか。
これらを守っているあいだは、ヴリッジの人たちは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

「バラモン(ヴァルシャカーラ大臣)よ。
かつて私はヴァイシャリーのヴリッジの人たちに、これらの七不衰の法を教えた。彼らがこれらのほうを守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

「釈尊(ゴータマ・ブッダ)よ。
(ヴリッジの人たちが)これらの七不衰法のうちのただひとつでも守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してありますまい。七つの法がぜんぶ揃っていれば申すまでもありません。マガダ国のアジャータシャトル王は武力で彼らをくだすことはできません。もっとも、陰謀か内部分裂でもおこれば別でしょう」

・・・内外の社とさまざまの宗教家とを尊敬すべしという教えは注目に値します。ここで「内外の社」と訳しておきましたが漢訳には「宗廟」とあります。内は氏神、外は氏神以外の社をさすものでしょう。佛陀が既存の民族宗教の信仰を廃するどころか、むしろその信仰を奨励した証拠がこれであります。のちに仏教は中国でも日本でも土地固有の信仰を採用しました。神仏の融和を日本における仏教の堕落だと考える学者もいますが、そういう人はインド仏教を知らないからそういえるのです。あらゆる宗教に対する寛容もこの七ヵ条の中にあります。
・・・


以上の事実から分かることは、仏教だけがあらゆる宗教を排斥せずあらゆる異教徒をそのサンガすなわち教団に受け入れる、政教分離の教えであると言うことである。

そして日本列島というムー大陸の遺残の島国では、ムー大陸の国教であった仏教を蓬莱島の住人がすべて先祖代々受け継ぐ仏国土であるから、悠久の太古からあらゆる渡来人を分け隔てなく優しく受け入れて、力を合わせて政教分離の和を以て貴しとなす三宝帰依和合社会を、庶民常民の親子相伝で代々伝え続けてきたのである。

憲法ということばは聖徳太子が作った、仏法を守るという意味の仏語日本語である。

明治憲法は廃仏毀釈して作ったから、本来の意味の憲法ではない。

しかし日本国憲法は主権を庶民に取り戻して大光王の七不衰法を打ち建てた仏法であるから、日本国憲法は日本語の正しい意味において政教分離民本主義農本主義立憲法治国家の、仏心最勝王教仏法そのものとなるのである。
仏教聖典_ほとけ_第二章 永遠の仏_ (豊岳正彦)
2017-06-27 03:25:02
 第一節 いつくしみと願い

 一、観無量寿経・維摩経・首楞厳経・大槃涅槃経

 仏の心とは大慈悲である。あらゆる手だてによって、すべての人びとを救う大慈の心、人とともに病み、人とともに悩む大悲の心である。

 ちょうど子を思う母のように、しばらくの間も捨て去ることなく、守り、育て、救い取るのが仏の心である。
「おまえの悩みはわたしの悩み、おまえの楽しみはわたしの楽しみ。」と、かたときも捨てることがない。

 仏の大悲は人によって起こり、この大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。
それは、子を愛することによって母であることを自覚し、母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである。

 ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知からとらわれを起こして苦しみ、煩悩のままにふるまって悩む。
罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆けめぐる。

 二、法華経第一六、寿量品・心地観経

 仏の慈悲をただこの世一生だけのことと思ってはならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今日まで続いている。

 仏は常に人びとの前に、その人びとに最も親しみのある姿を示し、救いの手段を尽くす。

 釈迦族の太子と生まれ、出家し、苦行をし、道をさとり、教えを説き、死を示した。

 人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限りがなく、人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底がない。

 だから、仏はその修行の初めに四つの大願を起こした。

一つには誓ってすべての人を救おう。

二つには誓ってすべての煩悩を断とう。

三つには誓ってすべての教えを学ぼう。

四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。

この四つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこの誓願であることは、そのまま
仏の心が人びとを救う大慈悲であることを示している。


 三、大槃涅槃経

 仏は、仏に成ろうとして殺生の罪を離れることを修め、そしてその功徳によって人びとの長寿を願った。

 仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人びとが求めるものを得られるようにと願った。

 仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によって人びとの心に害心がなく、また身に餓えや渇きがないようにと願った。

 仏は、仏に成ろうとして、偽りのことばを離れる行を修め、その功徳によって人びとが真実を語る心の静けさを知るようにと願った。

 二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常に仲良くして互いに道を語るようにと願った。

 また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が安らいでうろたえ騒ぐことがないようにと願った。

 むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心をつちかうようにと願った。

 また仏は、仏に成ろうとして、貪むさぼ)りを離れる行を修め、その功徳によって人びとの心に貪(むさぼ)りがないようにと願った。

 憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思いがあふれるようにと願った。

 愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を無視する誤った考えがないようにと願った。

 このように、仏の慈悲はすべての人びとに向かうものであり、その本領はすべての人びとの幸福のため以外の何ものでもない。

仏はあたかも父母のように人びとをあわれみ、人びとに迷いの海を渡らせようと願ったのである。

仏教聖典_ほとけ_第二章 永遠の仏_ (豊岳正彦)
2017-06-27 04:41:19
 第二節 救いとその手だて

 一、法華経第三、譬喩品

 さとりの岸に立って、迷いの海に沈んでいる人びとに呼びかける仏のことばは、人びとの耳には容易に聞こえない。だから、仏は、自ら迷いの海に分け入って、救いの手段を講じた。

 さて、それでは一つの比喩(たとえ)を説こう。
ある町に長者があって、その家が火事になった。たまたま外にあった長者は帰宅して驚き、子供たちを呼んだが、彼らは遊びにふけって火に気づかず、家の中にとどまっていた。

 父は子供たちに向かって―「子供たちよ、逃げなさい、出なさい。」と叫んだが、子供たちは父の呼び声に気づかなかった。

 子供たちの安否を気遣う父はこう叫んだ―「子供たちよ、ここに珍しいおもちゃがある。早く出てきて取るがよい。」子供たちはおもちゃと聞いて勇み立ち、火の家から飛び出して災いから免れることができた。

 この世はまことに火の家である。ところが人びとは、家の燃えていることを知らず、焼け死ぬかもしれない恐れの中にある。

だから、仏は大悲の心から限りなく様々に手段をめぐらして人びとを救う。


 二、法華経第四、信解品

 さらに別の比喩を説こう。
昔、長者のひとり子が、親のもとを離れてさすらいの身となって、貧困のどん底に落ちぶれた。

 父は故郷を離れて息子の行方を求め、あらゆる努力をしたにもかかわらず、どうしてもその行方を求めることができなかった。

 それから十数年か経(た)って、今はみじめな境遇に成り果てた息子が、たまたま父の住んでいる町の方へさすらってきた。  

 めざとくもわが子を認めた父は喜びに躍り上がり、召使いを遣(つか)って放浪の息子を連れ戻そうとした。しかし、息子は疑い、だまされるのを恐れて、行こうとしなかった。

 そこで父はもう一度召使いを息子に近寄らせ、よい賃金の仕事を長者の家で与えようと言わせた。息子はその手段に引き寄せられて仕事を引き受け、召使いのひとりとなった。

 父の長者は、わが家とも知らずに働いているわが子をおいおいに引き立て、ついには金銀財宝の蔵を管理させるに至ったが、それでも息子はなお父とは知らないでいた。

 父はわが子が素直になったのを喜び、またわが命のやがて尽きようとするのを知って、ある日、親族・友人・知己を呼び集めてこう語った―「人びとよ、これはわが子である。永年探し求めていた息子である。今より後、わたしのすべての財宝はみなこの子のものである。」

 息子は父の告白に驚いてこう言った―「今、わたしは父を見いだしたばかりでなく、思いがけずこれらすべての財宝までもわたしのものとなった。」

 ここにいう長者とは仏のことである。迷える息子とはすべての人びとのことである。

仏の慈悲は、ひとり子に向かう父の愛のようにすべての人びとに向かう。

仏はすべての人びとを子として教え導き、さとりの宝をもって彼らを富める者とする。


 三、法華経第五、薬草喩品

 すべての人びとを子のようにひとしく慈しむ仏の大悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じてその救いの手段には相違がある。

ちょうど、降る雨は同じであっても、受ける草木によって、異なった恵みを受けるようなものである。


 四、

 親はどれほど多くの子供があっても、そのかわいさに変わりがないが、その中に病める子があれば、親の心はとりわけその子にひかれてゆく。

 仏の大悲もまた、すべての人びとに平等に向かうけれども、ことに罪の重い者、愚かさゆえに悩める者に慈しみと悲(あわれ)みとをかける。

 また、例えば、太陽が東の空に昇って、闇を滅ぼし、すべてのものを育てるように、仏は人びとの間に出て、悪を滅ぼし、善を育て、智慧の光を恵んで、無知の闇を除き、さとりに至らせる。

 仏は慈しみの父であり、悲(あわれ)みの母である。

仏は、世間の人びとに対する慈悲の心から、ひたすら人びとのために尽くす。

人びとは仏の慈悲なくしては救われない。

人びとはみな仏の子として仏の救いの手段を受けなければならない。

仏教聖典_ほとけ_第二章 永遠の仏_ (豊岳正彦)
2017-06-27 05:26:44
 第三節 仏はとわに

 一、法華経第一六、寿量品

 人びとはみな、仏は王子として生まれ、出家してさとりを得たのだと信じているけれども、実は仏と成ってよりこの方、限りのない時を経ている。

 限りない時の間、仏は常にこの世にあり、永遠の仏として、すべての人びとの性質を知り尽くし、あらゆる手段を尽くして救ってきた。

 仏の説いた永遠の法の中には偽りがない。なぜなら、仏は、世の中のことをあるがままに知り、すべての人びとに教えるからである。

 まことに、世の中のことをあるがままに知ることはむつかしい。なぜなら、世の中のことは、まことかと見ればまことではなく、偽りかと見れば偽りでもない。愚かな者たちはこの世の中のことを知ることはできない。

 ひとり仏の身はそれをあるがままに知っている。だから、仏はこの世の中のことがまことであるとも言わず、偽りであるとも言わず、善いとも言わず、悪いとも言わず、ただありのままに示す。

 仏が教えようとしていることはこうである。
―「すべての人びとは、その性質、行い、信仰心に応じて善の根を植えるべきである。」


 二、

 仏はただことばで教えるだけでなく、身をもって教える。仏は、その寿命に限りはないが、欲を貪って飽くことのない人びとを目覚ますために、手段として死を示す。

 例えば多くの子を持つ医師が、他国へ旅をした留守に子供らが毒を飲んで悶え苦しんだとしよう。医師は帰ってこの有様を見、驚いてよい薬を与えた。

 子供たちのうち、正常な心を失っていない者はその薬を飲んで病を除くことができたけれども、すでに正常な心を失ってしまった者はその薬を飲もうとしなかった。

 父である医師は、彼らの病をいやすために思いきった手段をとろうと決心した。彼は子供たちに云った
―「わたしは長い旅に出かけなければならない。わたしは老いて、いつ死ぬかもわからない。もしわたしの死を聞いたなら、ここに残しておく薬を飲んで、おのおの元気になるがよい。」

こうして彼はふたたび長い旅に出た。そして使いを遣わしてその死を告げさせた。
子供たちはこれを聞いて深く悲しみ、「父は死んだ。もはやわれわれにはたよる者がなくなった。」と嘆いた。
悲しみと絶望の中で、彼らは父の遺言を思い出し、その薬を飲み、そして回復した。

 世の人はこの父である医師のうそを責めるであろうか。
仏もまたこの父のようなものである。
仏は、欲望に追い回されている人びとを救うために、
仮にこの世に生と死を示したのである。

(了)
仏教聖典_ほとけ_第三章 仏の姿と仏の徳 (豊岳正彦)
2017-06-27 13:54:57
_第一節 三つのすがた

 一、華厳経第五、如来光明覚品

 姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だから、さとりを見る者がまことに仏を見る。

 世に優れた仏の相(すがた)を見て、仏を見たというならば、それは無知の眼の過ちである。仏のまことの相は、世の人には見ることもできない。どんなにすぐれた描写によっても仏を知ることはできないし、どんな言葉によっても仏の相は言い尽くすことはできない。

 まことの相とはいっても、実は、相あるものは仏ではない。仏には相がない。しかも、また、思いのままにすばらしい相を示す。

 だから、明らかに見て、しかもその相にとらわれないなら、この人は自在の力を得て仏を見たのである。


 二、大槃涅槃経

 仏の身はさとりであるから、永遠の存在であってこわれることがない。食物によって保たれる肉体ではなく、智慧より成る堅固な身であるから、恐れもなく、病もなく、永遠不変である。


 だから、仏は永遠に滅びない。さとりが滅びない限り、滅びることはない。このさとりが智慧の光となって現われ、この光が人をさとらせ、仏の国に生まれさせる。

 この道理をさとった者は仏の子となり、仏の教えを受持し、仏の教えを守って後の世に伝える。
まことに、仏の力ほど不思議なものはない。


 三、金光明経第三、三身品

 仏には三つの身(からだ)がそなわっている。一つには法身(ほっしん)、二つには報身(ほうじん)、三つには応身(おうじん)である。

 法身とは、法そのものを身とするものである。この世のありのままの道理と、それをさとる智慧が一つになった法そのものである。

 法そのものが仏であるから、この仏には色もなく形もない。色も形もないから、来るところもなく、去るところもない。来るところも去るところもないから充満しないところがなく、大空のようにすべてのものの上にあまねくゆきわたっている。

 人が思うからあるのではなく、人が忘れるから無いのでもなく、人の喜ぶときに来るのでもなく、人の怠るときに去るのでもない。
仏そのものは、人の心のさまざまな動きを超えて存在する。

 仏の身は、あらゆる世界に満ち、すべてのところにゆきわたり、人びとがふつう持っている仏に関する考えにかかわらず永遠に住する。


 四、三身品

 報身というのは、形のない法身の仏が、人びとの苦しみを救うために形を現わし、願を起こし、行を積み、名を示して、導き救う仏である。

 この仏は大悲をもととし、いろいろな手段によって限りなき人びとを救い、すべてのものを焼き払う火のように、人びとの煩悩の薪(たきぎ)を焼き、また、ちりをふき払う風のように、人びとの悩みのちりを払う。

 応身の仏は、仏の救いを全(まっと)うするために、人びとの性質に応じてこの世に姿を現わし、誕生し、出家し、成道し、さまざまの手段をめぐらして人びとを導き、病と死を示して人びとを警(いまし)める仏である。

 仏の身は、もともと一つの法身であるけれども、人びとの性質が異なっているから、仏の身はいろいろに現われる。しかし、人びとの求める心や、行為や、その能力によって、人のみる仏の相は違っていても、仏は一つの真実を見せるのみである。

 仏の身は三つに分かれるが、それはただ一つのことをなしとげるためである。一つのこととは、いうまでもなく人びとを助け救うことである。

 限りのないすぐれた身をもって、あらゆる境界に現われても、その身は仏ではない。

 仏は肉体ではないからである。
たださとりを身としてすべてのものに満ちみち、真実を見る人の前に仏は常に現われる。
仏教聖典_ほとけ_第三章 仏の姿と仏の徳 (豊岳正彦)
2017-06-27 18:38:44
 第二節 仏との出会い

 一、華厳経・華厳経第三四、入法界品・阿弥陀経

 仏がこの世に現われるのは、はなはだまれである。
仏は今この世界においてさとりを開き、法を説き、疑いの網を断ち、愛欲の根を抜き、悪の源をふせぎ、妨げられることなく、自由自在にこの世を歩く。
世に仏を敬うより以上の善はない。

 仏がこの世に現われるのは、法を説いて、人びとにまことの福利を恵むためである。

苦しみ悩む人びとを見捨てることができないから、仏はこの苦難の世界に現われる。

 世に道理なく、不正はびこり、欲に飽くことなく、心身ともに堕落し、命短きこの世に、法をとくことは、はなはだむつかしい。

ただ大悲のゆえに、仏はこの困難に打ち勝つ。


 二、華厳経・雑阿含経三五巻五

 仏はこの世におけるすべての人びとの善い友である。
煩悩の重荷に悩む者が仏に会えば、仏はそのために代わってその重荷をになう。

 仏はこの世におけるまことの師である。
愚かな迷いに苦しむ者が仏に会えば、仏は智慧の光によってその闇を払う。

 子牛がいつまでも母牛のそばを離れないように、ひとたび仏の教えを聞いた者は仏を離れない。
教えを聞くことは常に楽しいからである。


 三、大槃涅槃経

 月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現われると、人びとは月が出たという。
けれども月は常に住して出没することがない。
仏もそのように常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとを教えるために生滅を示す。

 人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。
仏もまたそのように、常に住して生滅しないのであるが、ただ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。

 月はまたすべての上に現われる。
町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末の露にも現われる。
人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。
月そのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。
仏もまたそのように、世の人びとに従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。


 四、大槃涅槃経

 仏がこの世に現われたことも、また隠れたことも、因縁*を離れてあるのではない。
人びとを救うのによい時が来ればこの世にも現われ、その因縁が尽きればこの世から隠れる。

 仏に生滅の相はあっても、まことに生滅することはない。
この道理を知って、仏の示す生滅と、すべてのもののうつり変わりに驚かず、悲しまず、まことのさとりを開いて、この上ない智慧を得なければならない。

 仏は肉体ではなくさとりであることはすでに説いた。
肉体はまことに容器であり、その中にさとりを盛ればこそ仏といわれる。
だから、肉体にとらわれて、仏のなくなることを悲しむ者は、まことの仏を見ることはできない。

 もともと、あらゆるもののまことの相は、生滅・去来(こらい)・善悪(ぜんなく)の差別を離れた空*にして平等なものである。

 それらの差別は、見る者の偏見から起こるもので、仏のまことの相も、実は現われることもなく隠れることもない。



_第三節 すぐれた徳

 一、パーリ、中部八-七七、善生優陀夷大経

 仏は五つのすぐれた徳を備えて、尊敬を受ける。
すぐれた行い、
すぐれた見方、
すぐれた智慧、
さとりの道を明らかに説くこと、
人びとをしてよく教えのとおりに修めさせることである。

 また仏には八つのすぐれた能力がある。
一つには、仏は人びとに利益と幸福とを与える。
二つには、仏の教えはこの世においてただちに利益がある。
三つには、世の善悪正邪を正しく教える。
四つには、正しい道を教えてさとりに入らせる。
五つには、どんな人をも一つの道に導く。
六つには、仏にはおごる心がない。
七つには、言ったとおり実行し、実行するとおりに語る。
八つには、惑いなく、願いを満たし、完全に行をなしとげる。

 また仏は、
瞑想に入って静けさと平和を得、
あらゆる人びとに対して慈しみの心、悲(あわれ)みの心、とらわれのない心を持ち、
心のあらゆる汚れを去って、
清らかな者だけが持つ喜びを持つ。

 
 二、大槃涅槃経・楞伽経

 この仏はすべての人びとの父母である。
子が生まれて一六ヶ月の間、父母は子の声に合わせて赤子のように語り、それからおもむろにことばを教えるように、
仏もまた、人びとの言葉に従って教えを説き、
その見るところに従って相(すがた)を現わし、
人びとをして安らかな揺らぎのない境地に住まわせる。

 また仏は、一つの言葉をもって教えを説くが、人びとはみなその性質に応じてそれを聞き、仏は今、わたしのために教えを説かれたと喜ぶ。

 仏の境地は、迷える人びとの考えを超えており、ことばでは説き尽くすことはできないが、強いてその境地を示そうとすれば、たとえによるほかはない。

 ガンジス河は常に亀や魚、馬や象などに汚されているが、いつも清らかである。
仏もこの河のように、異教の魚や亀などが競い来って乱しても、少しも思いを乱されることなく清らかである。


 三、華厳経第三二、如来性起品

 仏の智慧はすべての道理を知り、かたよった両極端を離れて中道*に立ち、また、
すべての文字やことばを超え、すべての人びとの考えを知り、
一瞬のうちにこの世のすべてのことを知っている。

 静かな大海に、大空の星がすべてその形を映し出すように、
仏の智慧の海には、すべての人びとの心や思いや、その他あらゆるものがそのままに現われる。
だから仏を一切知者という。

 この仏の智慧はあらゆる人びとの心をうるおし、光を与え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果*の道理を明らかに知らせる。
まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこの世のことを知る。


 四、法華経第二五、普門品・大槃涅槃経

 仏はただ仏として現われるだけでなく、あるときは悪魔となり、あるときは女の姿となり、神々の像となり、国王、大臣となり、あるいは娼婦の家、賭博者の家にも現われる。

 病のあるところには医師となって薬を施して教えを説き、
戦いが起これば正しい教えを説いて災いを離れさせ、
固定的な考えにとらわれている者には無常*を説き、
自我と誇りにこだわっている者には無我*を説き、
世俗的悦楽の網にとらわれている者には世の痛ましい有様を明らかにする。

 仏のはたらきは、このようにこの世の事物の上に現われるが、それはすべてみな法身の源から流れ出るもので、
限りない命、限りない光の救いも、その源は法身の仏にある。


 五、法華経第二、方便品

 この世は火の宅(いえ)のように安らかでない。
人びとは愚かさの闇(無明*)につつまれて、怒り、ねたみ、そねみ、あらゆる煩悩*に狂わされている。
赤子に母が必要であるように、人びとはみなこの仏の慈悲*に頼らなければならない。

 仏は実に聖者の中の尊い聖者であり、この世の父である。
だから、あらゆる人びとはみな仏の子である。
彼らはひたすらこの世の楽しみにのみかかわり、その災いを見通す智慧を持たない。
この世は苦しみに満ちた恐るべきところ、老いと病と死の炎は燃えてやまない。

 ところが、仏は迷いの世界という火の宅(いえ)を離れ、静寂な林にあって、
「いまこの世界はわがものであり、その中の生けるものたちはみなわが子である。
限りない悩みを救うのはわれひとりである。」と言う。

 仏は実に、大いなる法*の王であるから、思いのままに教えを説く。

仏はただ、人びとを安らかにし、恵みをもたらすためにこの世に現われた。

人びとを苦しみから救い出すために、仏は法を説いた。

ところが、人びとは欲に引かれて聞く耳を持たず気にもしていない。

 しかし、この教えを聞いて喜ぶ人は、もはや決して迷いの世界に退くことのない境地におかれるだろう。

「わが教えは、ただ信によってのみ入ることができる。

すなわち、仏のことばを信ずることによって教えにかなうので、自分の知恵によるのではない。」と仏は言った。

したがって仏の教えに耳を傾け、それを実践すべきである。



(仏教聖典_ほとけ_了)
////////仏教聖典用語解説////////////////// (豊岳正彦)
2017-06-27 18:39:28
*仏(仏陀・Buddha)

 梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。
普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。
仏教の目的は、各人がみなこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
 大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦如来といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
 なお日本では、死者のことを”ほとけ”とよぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”に成るという信仰に由来する。


*法(達磨・dharma)

 さとれるものである”仏陀”によって説かれた”真実の教え”ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律に対する解釈や註釈)の三種の聖典である。
これは、覚者である”仏陀”、仏教徒の集まりである”僧伽”と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。


*空 (sunyata)

 存在するものには、実体・我がないと考える思想である。すべてのものは相縁(よ)り、相起こって存在するにすぎないから、実体として不変な自我がその中に存在する筈がない。したがって実体ありととらわれてもいけないし、存在しないととらわれてもならないわけである。すべてのものは、人もその他の存在も相対的な関係にあり、一つの存在や主義にとらわれたり、絶対視してはならない。般若経系統の思想の根本とされる。

*中道 (madhyama pratipad)

 偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を徹見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、止揚する思想として表れてくる。例えば有無の両極端、断常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。

*因果=業(ごう)と結合して因業(いんごう)として説明
*業 (karman)

 本来の意味は行為ということであるが、因果関係と結合して、行為のもたらす結果としての潜在的な力とみなされている。つまり一つの行為は必ず善悪・苦楽の果報をもたらすから、その影響力が業と考えられ、例えば前世の行為の果報としての宿業などが説かれるに至っている。善い行為を繰り返し、積み重ねれば、その影響力が未来に及んで作用すると考えられている。なお、業には、身口意(しんくい)の三種の行為があるとされる(身業・口業・意業)。

*無常(むじょう)anitya

 あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態に止(とど)まっていないことをいう。
仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。
あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。
これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。
生成発展も無常の一面だからである。

*無我(anartman)

 仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえらるべき実体はない」ということである。
それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我”(アートマン)を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけがない”と説いたのは当然である。
なお”我”は他宗教で言う霊魂にあたるといえる。

*煩悩(klesa)

 悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。
人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。
その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。
貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。
これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。
しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。

*涅槃(nirvana)

 梵語の”吹き消す”という意味の、ニルバーナという単語の音写で、”滅”・”滅度”・”寂滅”などと訳される。
丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを”入涅槃”といい、達したものを”仏陀”とよぶ。
釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を入涅槃ということもあるが、肉体が滅びたtきに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、三五歳で仏になったときに”涅槃”の状態に達したと考えられている。

*無明(avidya)
 正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説*では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

*十二因縁
「仏陀」塚本啓祥著 教育新潮社1969年発刊 フリドブックスp94
釈尊の教え四聖諦(ししょうたい)「苦集滅道」のうち「集諦(じゅうたい、じったい)」の「十二支(十二縁起、十二因縁)」について塚本師の解説です。
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・・・仏陀は「苦」を滅するために、苦を生ぜしめる種々の条件を思索した。・・・

 十二支とは無明(むみょう)・行(ぎょう)・識(しき)・名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・触(そく)・受(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)である。

この支分は「無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至、生を縁として老死あり」と因から果へ順次に思索せられる。

また「老死は生を縁とし、生は有を縁とし、乃至、行は無明を縁とす」と果より因へ逆次に思索せられる。

また「無明滅するに縁(よ)って行滅す、行滅するに縁って識滅す、乃至、生滅するによって老死滅す、故に憂悲苦悩滅す」という思索の過程も示される。


 そこで十二支の意味と成立の関係について説明しよう。

(1)無明とは心の迷闇無知で、これによって種々の作為が起こる。この心の作為を(2)行という。ゆえに無明を縁として行ありという。

また、心の作為は、(3)識、すなわち識別・意識を生じる。ゆえに行を縁として識ありという。

次に、(4)名色とは名称と形態あるもの、すなわち個体をいう。仏教においては、認識以前に存在する物自体を措定しないで、それぞれの個体は、識によってはじめて存在の意味をもつとするのであるから、識を縁として名色ありという。

次に、(5)六処は眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜっ)・身(しん)・意(い)の六種の知覚器官で、これは知覚の対象たる個体があってはじめて成り立つのであるから、名色を縁として六処ありという。

そして、知覚器官と知覚の対象との接触によって知覚すなわち感受が成り立つので、六処を縁として(6)触あり、触を縁として(7)受ありという。

さて、感受によって対象に対する渇望、すなわち、(8)愛(渇愛)を生じる。したがって、受を縁として愛ありという。

また、対象に対する渇望は、そのものに対する取著、すなわち固執を生じる。ゆえに愛を縁として、(9)取ありという。

次に、対象に対して欲望をもち、それに固執している姿がわれわれの生存、すなわち現実世界である。ゆえに取を縁として、(10)有(=生存)ありという。

そして、われわれの生存は、(11)生をもってはじまり(出生)、(12)老死をもって終わるので、有を縁として生あり、生を縁として老死ありと説くのである。

 要するに、人生の苦は執著(しゅうちゃく、しゅうぢゃく)に由来するが、その執着は生存に対する渇愛によって生じ、その渇愛は、さらに無明に由来すると教えるのが十二縁起説である。

かくて(苦諦を滅する)集諦の認識が成立する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*解脱 (vimukti ・ vimoksa)

 文字どおりに、この輪廻転生する迷いの世界という縛から解き離れて、涅槃とよばれるさとりの境地へと脱出することである。そして、此の迷いの世界(此岸)から脱出して、永遠に(彼岸の)さとりの状態にとどまるものが、”仏陀”であり、そこでは一切の縛、すなわち煩悩から離れているので、自由自在なのである。

*廻向 (parinama)

 自分のなしたよい行為をふり向けることで、これに、自分自身の未来のさとりにふり向ける場合と、他の人びとにふり向ける場合とがある。現在一般に世間で使われているものは、「死んだ人が、この世でなした悪行の罪を消して、来世での良い結果を得るように」という願いをもって、葬式や法事の際の読経の功徳によって死者の冥福を祈念する、という形の廻向である。

*輪廻 (samsara)
 
 過去世から現在世へ、更に未来世へと、生まれ変わり死に変わることを、輪がまわるのにたとえたもので、輪廻転生という言葉もある。人間が、此の迷いの世界から彼のさとりの世界へと脱出(解脱)しない限り、地獄・餓鬼・畜生の三悪道や、それに阿修羅・人間・天上を加えた六道の世界への転生を永遠に繰り返すのである。この輪廻の輪から抜け出たものが、”仏陀”とよばれる。


*智慧(般若prajna)

 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀(ぶつだ)”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見抜くことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。

*波羅密(paramita)

 パーラミターという梵語の漢音写で、”度”とか”到彼岸”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅密(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の”彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられた。

『父母恩重経』 ぶもおんじゅうきょう  (和訓) (豊岳正彦)
2017-06-27 22:29:49
是(かく)の如く 我れ聞けり。

或る時、佛、王舎城(おうしゃじょう)の耆闍崛山(ぎしゃくつせん)中に菩薩声聞(しょうもん)の衆と倶(とも)にましましければ、

比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・一切諸天の人民(にんみん)・および龍鬼神等、法を聞かんとて、来たり集まり、

一心に寶座(ほうざ)を囲繞(いにょう)して、瞬(またた)きもせで尊顔を仰ぎ見たりき。
是のとき、佛、すなわち法を説いて宣(のたま)わく。

一切の善男子・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。

そのゆえは、人の此の世に生まるゝは、宿業(しゅくごう)を因として、父母(ちちはは)を縁とせり。

父にあらされば生(しょう)ぜず、母にあらざれば育てられず。

ここを以て氣を父の胤(たね)に稟(う)けて形を母の胎(たい)に托(たく)す。
此の因縁を以ての故に、悲母(ひも)の子を念(おも)うこと世間に比(たぐ)いあることなく、その恩未形(みぎょう)に及べり。

始め胎に受けしより十月を經(ふ)るの間、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)ともに、もろもろの苦惱を受く。

苦惱休(や)む時なきが故に、常に好める飲食(おんじき)・衣服(えぶく)を得(う)るも、愛欲の念を生ぜず、

唯だ一心に安く生産(しょうさん)せんことを思う。
月滿ち日足りて、生産(しょうさん)の時至れば、業風(ごっぷう)吹きて、之れを促し、

骨節(ほねふし)ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、其の苦しみ堪(た)えがたし、

父も心身戦(おのの)き怖(おそ)れて母と子とを憂念(ゆうねん)し諸親眷属(しょしんけんぞく)皆な悉(ことごと)く苦惱す。

既に生まれて草上に墮(お)つれば、父母の喜び限りなきこと猶(な)ほ貧女(ひんにょ)の如意珠(にょいじゅ)を得たるがごとし。

その子聲(こえ)を發すれば、母も初めて此の世に生まれ出でたるが如し。
爾來(それより)母の懐(ふところ)を寝處(ねどこ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情(なさけ)を生命(いのち)となす。

飢えたるとき食を需(もと)むるに母にあらざれば哺(くら)わず、渇(かわ)けるとき飲料(のみもの)を索(もと)むるに母にあらざれば咽(の)まず、

寒きとき服(きもの)を加うるに母にあらざれば着ず、暑きとき衣(きもの)を撒(さ)るに母にあらざれば脱がず。

母飢(うえ)に中(あた)る時も哺(ふく)めるを吐きて子に食(くら)わしめ、母寒きに苦しむ時も着たるを脱ぎて子に被(こうむ)らす。

母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。

その闌車(らんしゃ)を離るるに及べば、十指(じっし)の甲(つめ)の中に、子の不浄を食らう。

計るに人々、母の乳を飲むこと一百八十斛(こく)となす。

父母(ちちはは)の恩重きこと天の極(きわ)まり無きが如し。

母、東西の隣里に傭(やと)われて、或(あるい)は水汲み、或は火燒(ひた)き、或は碓(うす)つき、或は磨挽(うすひ)き、種々の事に服従して

家に還(かえ)るの時、未だ至らざるに、今や吾が兒(こ)、吾が家(いえ)に啼(な)き哭(さけ)びて、吾を戀(こ)ひ慕はんと思い起せば、

胸悸(むねさわ)ぎ心驚き両乳(りょうにゅう)流れ出でて忍び堪(た)ゆること能(あた)わず、乃(すなわ)ち去りて家に還る。

兒(こ)遙(はるか)に母の歸(かえ)るを見て、闌車(らんしゃ)の中に在れば、即ち頭(かしら)を動かし、腦(なづき)を弄(ろう)し、

外に在(あ)れば、即ち葡匐(はらばい)して出で來(きた)り、嗚呼(そらなき)して母に向う。

母は子のために足を早め、身を曲げ、長く兩手を伸(の)べて、塵土(ちりつち)を拂(はら)い、

吾が口を子の口に接(つ)けつつ乳を出(い)だして之れを飲ましむ。

是のとき母は子を見て歡(よろこ)び、子は母を見て喜ぶ。

兩情一致、恩愛の洽(あまね)きこと、復(ま)た此れに過ぐるものなし。
二歳懐(ふところ)を離れて始めて行く。

父に非(あら)ざれば、火の身を焼く事を知らず。

母に非ざれば、刀(はもの)の指を墮(おと)す事を知らず。

三歳、乳を離れて始めて食う。

父に非ざれば毒の命を殞(おと)す事を知らず。

母に非ざれば、薬の病を救う事を知らず。

父母外に出でて他の座席に往き、美味珍羞(びみちんしゅう)を得(う)ることあれば、自ら之を喫(くら)うに忍びず、懐に収めて持ち歸り、喚(よ)び来りて子に與(あた)う。

十(と)たび還れば九(ここの)たびまで得(う)。得(う)れば即ち常に歡喜(かんき)して、かつ笑いかつ食(くら)う。

もし過(あやま)りて一たび得ざれば、則ち矯(いつ)わり泣き、佯(いつ)わり哭(さけ)びて、父を責め母に逼(せ)まる。

稍(や)や成長して朋友と相交わるに至れば、父は衣(きぬ)を索(もと)め帶(おび)を需(もと)め、

母は髪を梳(くしけず)り、髻(もとどり)を摩(な)で、己(おの)が好美(このみ)の衣服は皆な子に與えて着せしめ、

己れは則(すなわ)ち古き衣(きぬ)、弊(やぶ)れたる服(きもの)を纏(まと)う。

既に婦妻を索(もと)めて、他の女子を娶(めと)れば、父母をば轉(うた)た疎遠して夫婦は特に親近し、私房の中(うち)に於て妻と共に語らい樂しむ。

父母年高(ちちははとした)けて、氣老い力衰えぬれば、依(よ)る所の者は唯だ子のみ、頼む所の者は唯だ嫁のみ。

然るに夫婦共に朝(あした)より暮(くれ)に至るまで、未だ肯(あえ)て一たびも来(きた)り問はず。

或は父は母を先立て、母は父を先立てて獨(ひと)り空房を守り居るは、猶ほ孤客(こかく)の旅寓(りょぐう)に寄泊(きはく)するが如く、

常に恩愛の情(じょう)なく復(ま)た談笑の娯(たのし)み無し。

夜半、衾(ふすま)、冷(ひややか)にして五體(ごたい)安んぜず。

況んや褥(しとね)に蚤虱(のみしらみ)多くして、暁(あかつき)に至るまで眠られざるをや、

幾度(いくたび)か輾転反側して獨言(ひとりごと)すらく、噫(ああ)吾れ何の宿罪ありてか、斯(か)かる不孝の子を有(も)てるかと。
事ありて、子を呼べば、目を瞋(いか)らして怒(いか)り罵(ののし)る。

婦(よめ)も兒(こ)も之れを見て、共に罵り共に辱しめば、頭(こうべ)を垂れて笑いを含む。

婦も亦た不孝、兒も亦た不順。夫婦和合して五逆罪を造る。
或は復た急に事を辧(べん)ずることありて、疾(と)く呼びて命ぜむとすれば、十(と)たび喚(よ)びても九(ここの)たび違(たが)い、

遂に来(きた)りきて給仕せず、却(かえ)りて怒(いか)り罵(ののし)りて云(いわ)く、

「老い耄(ぼ)れて世に残るよりは早く死なんには如かずと。」
父母(ちちはは)これを聞いて、怨念胸に塞(ふさ)がり、涕涙瞼(ているいまぶた)を衝(つ)きて、目瞑(めくら)み、心惑(こころまど)い、悲(かなし)み叫びて云く、

「あゝ汝幼少の時、吾に非ざれば養われざりき、吾に非ざれば育てられざりき、

而して今に至れば即ち却(かえ)りて是(かく)の如し。

あゝ吾れ汝を生みしは本より無きに如かざりけり。」と。
若し子あり、父母(ちちはは)をして是(かく)の如き言(ことば)を発せしむれば、子は即ちその言と共に堕ちて地獄、餓鬼、畜生の中(うち)にあり。

一切の如来、金剛天、五通仙も、これを救い護ること能わず。

父母(ちちはは)の恩重きこと天の極まり無きが如し。
善男子善女人よ、別(わ)けて之れを説けば、父母(ちちはは)に十種の恩徳あり。

何をか十種となす。

 一には 懐胎守護(かいたいしゅご) の恩

 二には 臨生受苦(りんしょうじゅく) の恩

 三には 生子忘憂(しょうしぼうゆう) の恩

 四には 乳哺養育(にゅうほよういく) の恩

 五には 廻乾就湿(えげんじゅしつ) の恩

 六には 洗灌不浄(せんかんふじょう) の恩

 七には 嚥苦吐甘(えんくとかん) の恩

 八には 為造悪業(いぞうあくごう) の恩

 九には 遠行憶念(おんぎょうおくねん) の恩

 十には 究竟憐愍(くきょうれんみん) の恩
父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。

善男子・善女人よ、是(かく)の如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。

佛、すなわち偈(げ)を以て讃じて宣わく、

悲母(ひも)、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒(わか)ちて、身重病を感ず、子の身体これに由(よ)りて成就す。

月満ち時到れば、業風催促して、[*ぎょうにんべんに扁]徧身疼痛(へんしんとうつう)し、骨節(こっせつ)解体して、神心悩乱し、忽然(こつねん)として身を亡ぼす。

若(も)し夫(そ)れ平安になれば、猶ほ蘇生し来(きた)るが如く、子の声を発するを聞けば、己れも生れ出でたるが如し。

其の初めて生みし時には、母の顔(かんばせ)、花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す。
水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁(あかつき)にも、乾ける処に子を廻(まわ)し、濕(しめり)し処に己れ臥す。

子己(おの)が懐(ふところ)に屎(くそま)り、或は其の衣(きもの)に尿(いばり)するも、手自ら洗い濯(そそ)ぎて、臭穢(しゅうえ)を厭(いと)うこと無し。

食味を口に含みて、これを子に哺(ふく)むるにあたりては、苦き物は自から嚥(の)み、甘き物は吐きて与う。

若し夫れ子のために止むを得ざる事あれば、自(みずか)ら悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず。

若し子遠く行けば、帰りて其の面(おもて)を見るまで、出でても入りても之を憶い、寝ても寤(さ)めても之を憂う。

己(おの)れ生(しょう)ある間は、子の身に代らんことを念い、己れ死に去りて後(のち)には、子の身を護らんことを願う。
是(かく)の如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。
然るに長じて人と成れば、声を抗(あ)げ気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず、母の言に瞋(いか)りを含む。

既にして婦妻を娶れば、父母にそむき違うこと恩無き人の如く、兄弟を憎み嫌うこと怨(うらみ)ある者の如し。

妻の親族訪(と)い来れば、堂に昇(のぼ)せて饗応し、室に入れて歓晤(かんご)す。

嗚呼(ああ)、噫嗟(ああ)、衆生顛倒して、親しき者は却(かえ)りて疎(うと)み、疎き者は却りて親しむ。

父母(ちちはは)の恩重きこと天の極まり無きが如し。
『父母恩重経』 ぶもおんじゅうきょう  (和訓) (豊岳正彦)
2017-06-27 22:31:54
其の時、阿難、座より起ちて、偏(ひとえ)に右の肩を袒(はだ)ぬぎ、長跪合掌して、前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して云(もう)さく、

「世尊よ、是(かく)の如き父母(ちちはは)の重恩を、我等出家の子(もの)は、如何にしてか報ずべき。

具(つぶ)さに其の事を説示し給え。」と。
佛(ほとけ)、宣(のたま)わく。

「汝等大衆よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。

出でて時新の甘果を得れば、将(も)ち帰り父母(ちちはは)に供養せよ。

父母これを得て歓喜し、自ら食(くら)うに忍びず、先ず之を三寶(さんぽう)に廻(めぐ)らし施せば、則ち菩提心を啓発せん。
父母病あらば、牀辺(しょうへん)を離れず、親しく自ら看護せよ。

一切の事、これを他人に委(ゆだ)ぬること勿(なか)れ。

時を計り便を伺いて、懇(ねんご)ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。

親は子の勧むるを見て、強いて粥飯を喫し、子は親の喫するを見て、抂(ま)げて己(おの)が意(こころ)を強くす。

親暫(しばら)く睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡(ねむり)覚むれば、医に問いて薬を進めよ。

日夜に三寶に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒(い)えんことを願い、常に報恩の心を懐(いだ)きて、片時も忘失(わす)るゝこと勿れ。
是の時、阿難また問うて云く。

「世尊よ、出家の子、能(よ)く是(かく)の如くせば、以って父母(ちちはは)の恩に報(むくゆ)ると為(な)すか。」

佛、宣わく。

「否。未だ以て、父母(ちちはは)の恩に報ると為さざるなり。

親、頑固(かたくな)にして三寶を奉ぜず、不仁にして物を残(そこな)い、不義にして物を盗み、無礼にして色に荒(すさ)み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽(ふけ)らば、

子は当(まさ)に極諫(ごくかん)して、之れを啓悟(けいご)せしむべし。

若し猶ほ闇(くら)くして未だ悟ること能(あた)わざれば、則ち為に譬(たとえ)を取り、類を引き、因果の道理を演説して、未来の苦患(くげん)を救うべし。

若し猶ほ頑(かたくな)にして未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷(ていきゅうきょき)して己が飲食(おんじき)を絶てよ。

親、頑闇(かたくな)なりと雖も、子の死なんことを懼るるが故に、恩愛の情に索(ひ)かれて、強忍(きょうにん)して道に向わん。

若(も)し親志(こころざし)を遷(うつ)して、佛の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて婬(いん)せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、

則ち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦して、婢僕(ひぼく)忠順し、六畜蟲魚(ろくちくちゅうぎょ)まで普(あまね)く恩沢(おんたく)を被(こうむ)りて、

十方の諸仏、天龍鬼神、有道(うどう)の君(きみ)、忠良の臣より、庶民万姓(ばんしょう)に至るまで、敬愛(きょうあい)せざるはなく、

暴悪の主(しゅ)も、佞嬖(ねいへい)の輔(ほ)も、妖児兇婦(ようじきょうふ)も、千邪万怪(せんじゃばんかい)も、之れを如何ともすること無けん。

是(ここ)に於て父母(ちちはは)、現(げん)には安穏に住し後(のち)には善処に生じ、仏を見、法を聞いて長く苦輪を脱せん、

かくの如くにして始めて父母の恩に報るものとなすなり。」

佛、更に説を重ねて宣わく。

「汝等大衆能く聴けよ。

父母のために心力(しんりょく)を盡(つく)して、有らゆる佳味、美音、妙衣(みょうえ)、車駕(しゃが)、宮室(きゅうしつ)等を供養し、

父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、若し未だ三寶を信ぜざらしめば、猶ほ以て不孝と為す。
如何となれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を検(ひきし)め、柔和にして恥を忍び、

勉強して徳を進め、意を寂静(じゃくじょう)に潜(ひそ)め、志を学問に励ます者と雖も、

一たび酒食に溺るれば、悪魔忽(たちま)ち隙を伺い、妖魅(ようみ)則ち便(たより)を得て、

財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)させ、怠(おこたり)を増させ、心を乱し、智を晦(くら)まして、

行いを禽獣に等しくするに至ればなり。

大衆よ古(いにしえ)より今に及ぶまで、之に由りて身を亡ぼし家を滅ぼし君を危くし、親を辱しめざるは無し。

是の故に、沙門は独身(どくしん)にして耗(ぐう)なく、その志を情潔にして、唯だ道を是れ務む。

子たる者は深く思い、遠く慮(おもんばか)りて、以て孝養の軽重・緩急を知らざるべからざるなり。

凡(およ)そ是等(これら)を父母(ちちはは)の恩に報(むくゆ)るの事となす。」と。

是のとき阿難、涙を払いつつ座より起ち長跪(ちょうき)合掌して前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して曰(もう)さく、

「世尊よ、此の経は当(まさ)に何と名づくべき。

又如何にしてか奉持(ぶじ)すべきか。」と。
佛、阿難に告げ給わく。

「阿難よ、此の経は父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)と名づくべし。

若し一切衆生ありて、一たび此の経を読誦(どくじゅ)せば、則ち以て乳哺(にゅうほ)の恩に報(むくゆ)るに足らん。

若し一心に此の経を持念し、又人をして之を持念せしむれば、当(まさ)に知るべし、

是の人は、能(よ)く父母の恩に報(むくゆ)ることを。

一生に有らゆる十悪、五逆、無間(むげん)の重罪も、皆な消滅して、無上道を得ん。」と。

是の時、梵天・帝釈(たいしゃく)・諸天の人民(にんみん)、一切の集会(しゅうえ)、此の説法を聞いて、悉(ことごと)く菩提心を発(おこ)し、

五体地に投じて涕涙(ているい)、雨の如く。

進みて佛足(ぶっそく)を頂礼(ちょうらい)し、退(しりぞ)きて各々(おのおの)歓喜奉行(かんぎぶぎょう)したりき。

父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)。   
法相宗薬師寺管長 高田好胤老師 (豊岳正彦)
2017-06-27 22:36:23

感恩の歌        竹内浦次作


あはれはらから心せよ 山より高き父の恩

海より深き母の恩 知るこそ道のはじめなれ

児(こ)を守(も)る母のまめやかに わが懐中(ふところ)を寝床(ねどこ)とし

かよわき腕をまくらとし 骨身を削るあはれさよ


美しかりし若妻も 幼児(おさなご)一人そだつれば

花のかんばせいつしかに 衰へ行くこそかなしけれ

身を切る如き雪の夜も 骨さす霜のあかつきも

乾けるところに子を廻し ぬれたるところに己れ伏す


幼きもののがんぜなく 懐中(ふところ)汚し背をぬらす

不浄をいとふ色もなく 洗ふも日々に幾度ぞや

己れは寒さに凍えつつ 着たるを脱ぎて子を包み

甘きは吐きて子に与え 苦きは自ら食(くら)ふなり


幼児乳をふくむこと 百八十斛(ももやそこく)を超すとかや

まことに父母の恵こそ 天の極り無きが如し

父母は我が子の為ならば 悪業(あっごう)つくり罪かさね

よしや悪趣に落つるとも 少しの悔(くひ)もなきぞかし


若し子遠く行くあらば 帰りてその面(かほ)見るまでは

出ても入りても子を憶(おも)ひ 寝ても覚めても子を念(おも)ふ

髪くしけづり顔ぬぐひ 衣を求め帯を買い

美しきは皆子に与へ 父母は古きを選むなり


己れ生あるその内は 子の身に代わらんことを思ひ

己れ死に行くその後は 子の身を守らんことを願ふ


よる年波の重なりて いつか頭(かうべ)の霜白く

衰へませる父母を 仰げば落つる涙かな

あゝありがたき父の恩 子はいかにして酬(むく)ゆべき

あゝありがたき母の恩 子はいかにして報ずべき



報恩の歌


あはれ地上に数知らぬ 衆生(しゆじやう)の中にただひとり

父とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝み

起てよ人の子いざ起ちて 浮世の風にたたかれし

余命少なきふた親の 弱れる心慰めよ


さりとも見えぬ父母の 夜半の寝顔仰ぐとき

見まがふ程の衰へに 驚き泣かぬものぞなき

樹しづまらんと欲すれど 風の止まぬを如何にせん

子養はんとねがへども 親在(おは)さぬぞあはれなる


逝きにし慈父(ちち)の墓石を 涙ながらに拭いつゝ

父よ父よと叫べども 答へまさぬぞ果敢(はか)なけれ

あゝ母上よ子を遺(お)きて いづこに一人逝きますと

胸かきむしり嘆けども 帰りまさぬぞ悲しけれ


父死に給ふその臨終(きは)に 泣きて念ずる声あらば

生きませる時なぐさめの 言葉かはして微笑(ほほえ)めよ

母息絶ゆるその臨終に 泣きて合掌(おろが)む手のあらば

生きませる時肩にあて 誠心(まごころ)こめてもみまつれ


実(げ)に古くして新しき 道は報恩のをしへなり

孝は百行(ひゃくぎょう)の根本(もと)にして 信への道の正門ぞ

世の若人よとく往きて 父母の御前に跪拝(ひざま)づけ

世の乙女子(をとめご)よいざ起ちて 父母の慈光(ひかり)を仰げかし


老いて後思い知るこそ悲しけれ

この世にあらぬ親の恵みに

                          合掌


_____________________________


あとがき             法相宗管長薬師寺住職  高田 好胤
            
 私は常づね、父母恩重経を一人でも多くの人々に読んで頂きたいと願っています。

しかし、佛壇店をたずねても般若心経、阿弥陀経、観音経等の経本は必ずおかれていますが、父母恩重経をおいて下さっているお店はまだまだ少ないようです。

そこでお佛壇を扱っておられる方々にお会いするたびに、温かい世づくりのお手伝いの為にぜひ父母恩重経もそろえてもらいたい旨お願いをし続けてきました。

今回(昭和五十八年)、全日本宗教用具協同組合で父母恩重経を刊行され、それを各佛壇店において下さる由、大変有難い事だと喜んでいます。


 私は結婚式に招かれた時、必ず父母恩重経をお持ちして、新婚のお二人に差上げ、新婚旅行の道中、二人で心を合わせ、声を揃えて読んできてほしい。

そして帰ってからは座右の書の一冊に加えてもらいたいとお願いしています。

皆さんお読みになってきて下さるようで、新婚旅行の旅先から情景描写などをまじえてのお礼状を頂きます。

中には「こんなお経を読まされたばっかりに楽しかるべき新婚旅行が涙の旅行になってしまいました」と恨み状めいたものを手にする事もあります。

けれども私は「よかったなあ」と喜びの気持ちで読ませてもらっています。

親の恩の尊さを身近に説いたこのお経を、新婚の夫婦がいっしょに読んで催してくれるその涙は、人の心の中にその本質としてだれもが授かっているやさしさ、温かさに目ざめてもらったあらわれの涙であることがとてもうれしいのです。

ですから、どのお礼状も最後には「この涙は二人が生涯忘れてはならない大切な涙であると思いました」といった意味の言葉で結ばれているのが常です。

こうしたお礼状を頂くたびに、新しい人生の門出を父母恩重経でお手伝いする事のできた満足感が私の胸を潤してくれます。


 ところでこのお経において親の苦労の具体的な姿は殆どが母の姿で説かれています。

お釈迦様のお母さま、摩耶夫人(まやぶにん)はお釈迦さまをお産みになって七日後に亡くなっておられます。

大変な難産だったのです。

そのせいか、父母恩重経の中に子供を産むときの母親は命がけである事を所をかえて二度も説かれています。

これはお釈迦様八十年のご生涯を通じてのご実感であったと思います。

こうしたご自分の命とひきかえに魂と肉体をこの世に生み出して下さったお母さまに何一つして差上げる事ができなかったお釈迦様のお気持ちが、お母さまに傾きっぱなしのままでこのお経が説かれている所以であると拝察されます。

同時にこのようにお釈迦さまがお母さまをお慕い続けられた飾り気のないおやさしいお気持ちがその底に流れているところに読む人の心を打つ所以があるのだと思います。

先年、父母恩重経を講義し、一冊にまとめて出版した本の題を「母」(徳間書店刊)とした理由もここにあります。


 諸人(もろびと)よ 思い知れかし 己(おの)が身の

  誕生の日は 母苦難(ははくなん)の日


 これはよみ人しらずのお歌ですが、まさに父母恩重経の精神(こころ)さながらの一首であります。


 私は両親の命日と自分の誕生日に父母恩重経を読誦(どくじゅ)しております。

毎年三月二十三日、母の祥月命日には六つ年上の姉と位牌を前に読誦致します。

やはり姉の方が早く声をつまらせてしまいます。

するとそれにつりこまれて私も胸に熱いものがこみ上げてきて、最後は共にとぎれとぎれに読み終えるのがやっとです。

はらからの情愛に心潤さずにおかないのがこのお経であります。

また、「父母恩重経は私にとって、生前親不孝を重ねた懺悔のお経であります」とおっしゃられる方もおられます。

どうか皆さん方もご両親在(おわ)しまさぬ場合、ご命日に兄弟姉妹(ごきょうだい)でこのお経を読誦して頂きたい、
そしてはらからの情愛に心潤され合(お)うて頂きたいと思います。

幸いご両親ご健在の方は自分の誕生日に読誦して、人の心の初心にかえる感動の涙に心洗われて頂きたいと思います。

 「大孝は終身父母を慕う。」(命ある限りいついつ迄も両親を慕い続ける事、それは真(まこと)の親孝行である)
これは中国の思想家、孟子さまのお言葉です。

孔子さまも孝経の中で、
「孝は徳の本なり。教への由(よ)って生ずる所なり(親孝行はすべての道徳の源であり、これなくして教育は成り立たない)」と教えて下さっています。

孝謙天皇の天平宝字元年(西紀七五七年)、天皇は各家庭に孝経をおいて読むようにとの勅を発しておられます。

以来、明治に至る迄、孝経は国民必読の書でありました。

私共が子供の頃はまだ孝経や論語の教えが学校で教えられていました。

それによって東洋的な無我と智恵、そして日本人のあたたかな宗教的情操の涵養が学校教育の場でいただくことができていました。

けれどもこれが涵養は学校教育の場から追放されているが如きが今日の現状です。

青少年非行化をふくめて各種もろもろの問題の大きな原因がこのあたりにあることに気づいてほしいものです。

それであるだけにどうか家族揃って父母恩重経を読誦していただき、はらからの情愛に心潤され合うていただきたい、

また人の心の初心に帰った感動の涙に心洗われていただきたいとひたすらに願いつつ、

全日本宗教用具協同組合で父母恩重経を刊行され、広く世にひろめていただく事に諸手(もろて)をあげて賛意を表します。

 また、このお経のお話を申上げるときよく、「このお経が感恩・報恩の歌のお経ですか」とのおたずねを受けます。

そうですこのお経がまさしく感恩・報恩の歌のお経なのです。

この感恩の歌、報恩の歌は修養団の講師であり、また青少年の健全なる育成に生涯をささげ、昭和五十七年三月二十三日に九十六歳の天寿を全うされた竹内浦次翁の作になるものです。

翁がさる年慈愛深き御尊母がみまかられませし時に悲哭の思ひを父母恩重経に託しておつくりになりましたのがこの歌です。

 旧制師範学校などで愛唱され、その訓導を受けたひとびとに語りつがれています。

どうかみなさまがたこの歌を黙読だけではなく声に出して朗読また御唱和をなさっていただき、潤はしい情操の養いの糧資を得ていただくことをお願いいたします。

                              合掌


___________________________________

この父母恩重経は永田文昌堂のご好意により同社編集部編纂の和訓を引用させていただきました。

昭和五十八年六月二十七日 発行
平成十九年四月一日 印刷

発行者
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父母恩重経 臨済宗聖典 (豊岳正彦)
2017-06-27 22:42:51

仏のたまわく、大地の土の多きが如く、

この世に生をうくるもの多けれど、

中にも人間と生るるは

爪の上の土の如く稀なり。

この故に人のこの世に生まるるは、

宿業を因とし、

父母を縁とせり。

父にあらざれば生まれず、

母にあらざれば育てられず。

子の心身は父母にうく。

この因縁の故に

父母の子を思うこと、

世間に比ぶべきものあることなし。


 母、胎児をみごもりしより、

十月の間、

血をわけ肉をわかちて

子の身体をつくる。

身に重き病を患うが如く、

起き伏し、

もろもろの苦しみをうくれば、

常に好める飲食衣服をうるも

愛欲の心を生ぜず。

ただ一心に安産せんことを思う。

月みち日たりて出産のとき至れば、

陣痛しきりに起りてこれを促し、

骨節ことごとく痛み、

あぶら汗しきりに流れて、

その苦しみたえがたく、

これがため忽然として

母の身を亡ぼすことあり。

父もおののき怖れ、

母と子とを思い悩む。

もし子安らけく産れいずれば、

父母の喜び限りなく、

その子、声を発すれば、

母も初めてこの世に生れいでたるが如し。


 もし子、遠くにゆけば

帰りてその顔を見るまで

出でても入りてもこれを思い、

寝てもさめてもこれを思う。

子病み悩める時は

子に代らんことを思い、

死して後も

子の行末を護らんことを誓う。

花の如き母も、

若さに光る父も、

寄る年波の重なりて、

いつか頭に霜をおき、

衰え給うぞ涙かな。


 もろ人あきらかに聞け。

孝養のことは在家出家の別あることなし。

或は言う。

親は己の好みにて子を生めば、子は親に孝養のつとめなしとかや。

されど、こは人の道に反くものぞ。

真の親は子について報謝を求めず、

自らの功を誇らぬものなれど、

子はひたすらに孝養をつとむべし。


 汝ら大衆よく聴け。

父母の為に心をつくし、美味なる飲食、麗わしき衣服、

心地よき車、結構なる住居等を供養し、一生安楽ならしむるとも、

もし父母いまだ三宝に帰依せず因果の理を信ぜずば、

なお真の孝養いたるとせず。

もし父母、かたくなにして仏の教えを奉ぜずば、

子は時に応じ機に随い、

たとえをとり類をひき、

因果の道理を説ききかせ、

未来の苦しみを救うべし。

父母は恩愛の情にひかれて

やがて仏の道に向わん。

即ち生きものを殺さず盗みせず、

男女の道を過たず、

うそ偽りをいわず、

心迷わざれば、

家の内、

親は慈しみ、

子は孝に、

夫は正しく妻は貞に、

親族睦まじく家人順い、

畜類虫魚までも普く恵みを蒙り、

家栄え国和やかに、

十方の諸菩薩天龍鬼神大衆まで

これを敬愛せざるなし。

暴悪の主も不良の徒も、

千萬の悪魔も

これを如何ともすることなけん。

こゝにおいて

父母現世には安穏に住し、

後世には善処に生じ、

仏を見、

法を聞きて長く苦しみを脱せん。

かくの如くにして始めて

父母の恩に報ずるものとなす。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

産める子に 踏まれ蹴られど 母ごころ

わが身消ゆれど 子をば守らむ

          雲居杣人正顔


南無父母無二佛  合掌
仏教聖典_おしえ (豊岳正彦)
2017-06-29 17:27:01
_第一章 因縁

 第一節 四つの真理(四諦したい、四聖諦ししょうたい)__苦・集・滅・道

 一、パーリ、律蔵大品一-六・パーリ、相応部五六-一一-一二、転法輪経

 この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。
怨みあるものと会わなければならないことも、愛するものと別れなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。
まことに、執着(しゅうじゃく)を離れない人生はすべて苦しみである。
これを苦しみの真理(苦諦くたい)という。

 この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。
その煩悩をつきつめてゆけば、生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。
このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。
また転じて、死をさえ願うようにもなる。
これを苦しみの原因(集諦じったい)という。

 この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。
これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦めつたい、めったい)という。

 この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道はっしょうどう)を修めなければならない。
八つの正しい道とは、
正しい見解、(正見・・・正しい信仰)
正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
正しい言葉、(正語)
正しい行い、(正業しょうごう)
正しい生活、(正命しょうみょう)
正しい努力、(正勤しょうごん)
正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想)
である。
これらの八つは欲望を滅ぼすための
正しい道の真理(道諦どうたい)といわれる。

 これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは誰でも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地「涅槃寂静ねはんじゃくじょう」は、さとりによってのみ到達し得る。
さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。


 二、パーリ、本事經一〇三・パーリ、中部二、一切漏経

 道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。
これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむときがない。
この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。

 だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。
いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。

 この四つの聖い真理が明らかになったとき、人は初めて、
欲から遠ざかり、
世間と争わず、
殺さず、
盗まず、
よこしまな愛欲を犯さず、
欺かず、
そしらず、
へつらわず、
ねたまず、
瞋(いか)らず、
人生の無常を忘れず、
道にはずれることがない。


 三、四十二章経・勝鬘経

 道を行うものは、例えば、燈火(ともしび)をかかげて、暗黒の部屋に入るようなものである。
闇はたちまち去り、明るさに満たされる。

 道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。

 仏は単にこの四つの真理を示すことによって人びとを導くのである。
教えを正しく身に受けるものは、この四つの聖い真理によって、はかないこの世において、まことのさとりを開き、この世の人びとの守りとなり、頼りとなる。

 それは、この四つの聖い真理によって、あらゆる教えに達し、すべての道理を知る智慧と功徳をそなえ、どんな人びとに向かっても、自在に教えを説くことができる。


 第二節 不思議なつながり

 一、華厳経

 人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。

 雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。

 この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。

 だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。

 網の目が互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあってできている。

 一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。

 網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。

 網の目は、それぞれ、他の網が成り立つために、役立っている。


 二、華厳経

 花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。
ひとり咲き、ひとり散るのではない。

 縁によって咲き、縁によって散るのであるから、どんなものも、みなうつり変わる。
ひとりで存在するものも、常にとどまるものもない。

 すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。
だから、うつり変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのないまことの道理であり、これだけは永久に変わらない。

仏教聖典_おしえ (豊岳正彦)
2017-06-29 19:19:49
_第三節 ささえあって

 一、華厳経

 それでは、人びとの憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。
つまりそれは、人に執着があるからである。

 富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。
この執着から苦しみ悩みが生まれる。

 初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、その上、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。

 しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。

 さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明(むみょう)と貪愛(とんあい)とが見いだされる。

 無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いことである。
貪愛とは、得ることのできないものを貪(むさぼ)って、執着し愛着することである。

 もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貪愛とのはたらきである。
もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この無明と貪愛とのはたらきである。

 すべての人びとは、常によこしまな思いを起こして、愚かさのために正しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。

 業(ごう)を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貪愛の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。


 二、華厳経

 だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、この心である。
 
 迷いのこの世は、ただこの心から現われた心の影にほかならず、さとりの世界もまた、この心から現われる。


 三、華厳経

 この世の中には、三つの誤った見方がある。

もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。

 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。

二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。

三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。

 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。

 したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。

 次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。

 だから、この三つの見方はみな誤っている。

どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。
仏教聖典_おしえ_第二章人の心とありのままの姿 (豊岳正彦)
2017-06-30 07:29:24
 第一節 変わりゆくものには実体がない

 一、二、三、既出ここの55番目2017-06-24 12:02:53

 第二節 心の構造

 一、二、三、既出ここの56番目2017-06-24 12:26:35

 第三節 真実のすがた

 一、華厳経第一六、夜摩天宮経・楞伽経

 この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともと差別はない。
差別を見るのは、人びとの偏見である。

 大空に東西の差別がないのに、人びとは東西の差別をつけ、東だ西だと執着する。

 数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の差別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の差別をつける。

 もともと生もなければ滅もないのに、生死(しょうじ)の差別を見、また人間の行為それ自体には善もなければ飽くもないのに、善悪の差別を見るのが、人びとの偏見である。

 仏はこの差別を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。


 二、パーリ、中部三-二二、蛇喩経・楞伽経

 人ははからいから、すべてのものに執着する。
富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。

 有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。

 ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危ないが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。

 このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。

 この喩えは、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。
まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。


 三、楞伽経

 すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。

 仏は、「すべてのものは、有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。
すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。

 ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因になる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。
さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。

 まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。
絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。
すべては陽炎のようなものである。


 四、楞伽経

  無量の因縁によって現れたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。
また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。

 この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。
すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。

 ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。
実体を持っているもののように永遠不変ではない。 
うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようであるが、しかも、また、同時にそのままで真実である。
うつり変わるままに永遠不変なのである。

 川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。
だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。

 これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。

 しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。

 ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の植えにあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。
誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。

 智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りをおかすことはない。

植え>上に訂正 (豊岳正彦)
2017-06-30 08:01:21
 ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。
仏教聖典_おしえ_第二章人の心とありのままの姿 (Unknown)
2017-06-30 12:13:23

 第四節 かたよらない道

 一、パーリ、律蔵大品第一-六、転法輪経・楞伽経

 道を修める者として、避けなければいけない二つの偏った生活がある。
その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、
その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。

 この二つの偏った生活を生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。

 この中道の生活とは何であるか。
正しい見方、(正見・・・正しい信仰)
正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
正しいことば、(正語)
正しい行い、(正業しょうごう)
正しい生活、(正命しょうみょう)
正しい努力、(正勤しょうごん)
正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想禅定)
この八つの正しい道である。

 すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。
愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧の見るところは、有と無とを離れている。
これが中道の正しい生活である。


 二、楞伽経等・パーリ、中部二-一八、蜜丸経

 一本の材木が大きな河を流れているとする。
その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸(おか)にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。

 この材木の喩えのように、内にも外にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修める者の中道の見方、中道の生活である。

 道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。

 すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。

 とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。
道を修める者は、死を恐れず、また、生をも願わない。
この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。

 人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。
だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。


 三、楞伽経

 さとりには決まった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。

 迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。
迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。

 だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。
闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。
照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。

 まことに、道を修める者は、さとってさとりにとどまらない。
さとりのあるのはなお迷いだからである。

 この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。
すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。


 四、楞伽経

 ものが平等であって差別のないことを空*という。
ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずることも、滅することもなく、それはことばでいい表すことができないから、空というのである。

 すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いにより合って存在するものであり、ひとりで成り立つものでない。

 ちょうど光と影、長さと短さ、白と黒のようなもので、ものそれ自体の本質が、ただひとりであり得るものでないから「無自性(むじしょう)」という。

 また、迷いのほかにさとりがなく、さとりのほかに迷いがない。
これら二つは、互いに相違するものでないから、ものには二つの相反した姿があるのではない。


 五、維摩経、入不二品

 人はいつも、ものの生ずることと、滅することとを見るのであるが、ものにはもともと生ずることがないのであるから、滅することもない。

 このものの真実を見る眼(まなこ)を得て、ものには生滅の二つのないことを知り、
別のものではないという真理をさとるのである。

 人は我があると思うから、わがものに執着する。
しかし、もともと、我がないのであるから、わがもののあるはずがない。
われとわがもののないことを知って、別のものではないという真理をさとるのである。

 人は清らかさと汚れとがあると思って、この二つにこだわる。
しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。

 人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。
しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。
さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。

 人は不幸を恐れて幸福を望む。
しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることが分かる。
それだから、不幸がそのままに幸福だとさとって、
心身にまとわりついて自由を束縛する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、
こうして、人はその真理をさとるのである。 

 だから、有と無といい、迷いとさとりといい、実と不実といい、正と邪といっても、
実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿においては、
言うことも示すことも、識(し)ることもできない。
このことばやはからいを離れることが必要である。
人がこのようなことばやはからいを離れたとき、
真実の空をさとることができる。


 六、華厳経第三四、入法界品

 例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、
迷いを離れてさとりがあるのではなく、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。

 あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価(あたい)も知れないほどに素晴らしい宝は得られないように、
迷いの泥海の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我(が)への執着を持つ者であって、
はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。

 だから、昔、仙人が刃(やいば)の山に登っても傷つかず、自分の身を大火の中に投げ入れても焼け死なず、すがすがしさを覚えたというように、
道を求める心があれば、名誉利欲の刃の山や、憎しみの大火の中にも、
さとりの涼しい風が吹き渡るであろう。


 七、楞伽経等

 仏の教えは、相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理をさとるのである。
もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。

 もしも、人がすべてのものはうつり変わるという考えにとらわれるならば、
これも間違った考えにおちいるものであり、
また、もしも、すべてのものは変わらないという考えにおちいるならば、
これももとより間違った考えなのである。
もしまた人が我があると執着すれば、それは誤った考えで、
常に苦しみを離れることができない。
もしも我がないと執着するならば、それも間違った考えで、
道を修めても効果がない。

 また、すべてのものはただ苦しみであるととらわれれば、これも間違った考えであり、
また、すべてのものはただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。

仏の教えは中道であって、これらの二つの偏(かたよ)りから離れている。
仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種 (豊岳正彦)
2017-06-30 16:48:35
 第一節 清らかな心

 一、パーリ、律蔵大品一-五・律蔵小品五-二一

 人にはいろいろの種類がある。
心の曇りの少ない者もあれば、曇りの多い者もあり、賢い者もあれば、愚かな者もある。

 善い性質の者もあれば、悪い性質の者もあり、教えやすい者もあれば教えにくい者もある。

 例えていうと、青・赤・黄・白、色さまざまな蓮の池があって、水中に生え、水中に育って、水の表面に出ない蓮もあれば、水面にとどまる蓮もあり、水面を離れて、水に濡れない蓮もあるようなものである。

 この差別の上に、さらにまた、男・女の区別があるが、
しかし、人の本性として差別があるのではない。
男が道を修めてさとりを得るように、
女もまた道を修めれば、
しかるべき心の道すじを経て、さとりに至るであろう。

 象を扱う術を学ぶのには、
信念と
健康とを持ち、
勤勉であって、
偽りがなく(正直で)、その上に
智慧*がなければならない。
仏に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。
この五つがあれば、男でも女でも、
仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。
これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。


 二、首楞厳経

 さとりの道において、人はおのれの眼(まなこ)をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。
それと同じく、人をして生死(しょうじ)の巷(ちまた)に今日(こんにち)まで流転させたのも、また、
この眼と心である。

 国王が、侵入した賊を討とうとするとき、何よりも先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、
いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。

 人が室内にいて目を開けば、まず、部屋の中のものを見、やがて窓を通して、外の景色を見る。
部屋の内のものを見ないで、外の者ばかりを見る目はない。

 ところが、もしもこの身の内に心があるならば、何よりも先に、身の内のことを詳しく知らなければならないはずであるのに、
人びとは、身の外のことだけをよく知っていて、身の内については、殆ど何事も知ることができない。

 またもしも心が身の外にあるとするならば、身と心が互いに離れて、
心の知るところを身は知らず、身の知るところを心は知らないはずである。
ところが、事実は、心の知るところを身が感じ、
身に感ずるところを心はよく知っているから、
心は身の外にあるということもできない。
いったい、心の本体はどこにあるのであろうか。

 
 三、首楞厳経

 もともと、すべての人びとが、始めも知れない昔から、業(ごう)のきずなに縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。

 一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること、
二つには、さとりの本性である清浄(しょうじょう)な心が、
迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることを知らないことである。

 拳をかためて臂(ひじ)をあげると、目はこれを見て心はこのことを知る。
しかし、その知る心は、真実の心ではない。

 はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからう心であり、縁に触れて起こる心であって、
真実の本体のない、うつり変わるこころである。
この心を、実体のある心と思うところに、迷いが起こる。

 次に、その拳を開くと、心は拳の開いたことを知る。
動くものは手であろうか、心であろうか、それとも、そのいずれでもないのか。

 手が動けば心も動き、また、心の動きにつれて手も動く。
しかし、動く心は、心の表面であって根本の心ではない。


 四、首楞厳経

 すべての人びとには、清浄の本心がある。
それが外の因縁によって起こる迷いの塵のために覆われている。
しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。

 月は、しばらく雲に覆われていても、雲に汚されることもなく、また動かされることもない。

 だから、人は浮動するちりのような迷いの心を自分の本性と思ってはならない。

 また、人は、動かず、汚されないさとりの本心に目覚めて、真実の自己に帰らなければならない。
浮動する迷いの心にとらわれ、さかさまの見方に追われているので、
人は迷いの巷をさまようのである。

 人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界(げかい)の縁に触れて起こるものである。

 この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、
これが人の心の本体であって、また主(あるじ)でもある。

 客が去ったからといって、宿屋がなくなったとはいえないように、
縁によって生じたり滅したりするはからいの心がなくなったからといって、
自分がなくなったとはいえない。
外の縁によってうつり変わるはからいは、心の本体ではない。


 五、首楞厳経

 ここに講堂があって、太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。

 明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。
しかし、その明るさや暗さを知る力は、どこにも返すことはできない。
それは心の本性、本体に返すよりほかに道はない。

 太陽が現われて、明るいと見るのもひとときの心であり、太陽が隠れて、暗いと見るのもひとときの心である。

 このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、
明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体でなく、
その明暗を知る力の根本は、心の本体である。

 外の因縁に引かれて生じたり滅したりする善悪(ぜんなく)・愛憎の念(おもい)は、
人の心に積まれたちりの汚れによって起こるひとときの心なのである。

 煩悩のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。

 まるい器(うつわ)に水を入れるとまるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。
しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。
ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。

 善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。

 縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、
身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が生まれるであろう。
仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種 (豊岳正彦)
2017-06-30 18:42:48

 第二節 かくれた宝

 一、首楞厳経

 清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性(ぶっしょう)である。
仏性とは、すなわち仏の種である。

 レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。
太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合(がっ)することはできないけれども、
太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。
また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。

 いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧のレンズを当てれば、
仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃え上がる。

 仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、
世をあげて信の火が燃え上がるのである。


 二、首楞厳経

 人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、
煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しのすがたに心を縛られて、不自由を嘆いている。

 なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、
このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。

 昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。
しかし、顔も頭も無くなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思ったのであった。

 さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、
また、必要のないことである。
さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、
妄想を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。

 だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、
さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。
しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、
さとられるものもなかったことに気づくのである。


 三、大槃涅槃経

 この仏性は尽きることがない。

たとえ畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。

 汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。


 四、法華経第七、化城喩品及び首楞厳経・華厳経第三二、如来性起品・大槃涅槃経

 昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。
友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物の襟に縫いこんでおいた。

 そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食(えじき)に苦しんだ。
その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物の襟に縫いこまれた宝石を用いよ。」と教えられた。

 このたとえのように、仏性の宝石は、
貪(むさぼ)り瞋(いか)り癡(おろ)かさ「貪瞋癡とんじんち」という煩悩の着物のえりに包まれて、
汚されずにいるのである。

 このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、
仏は人びとを見通して、
「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。

 しかも、人びとは愚(癡)かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、
おのれの仏性を見ることができないから、
仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、
本来、仏と違わないものであることを知らせる。


 五、梵網経

 ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。

 しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、
すでに道を成し遂げたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。

 仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成し遂げたのではない。


 六、大槃涅槃経

 昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいにいわせたことがある。
象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、
耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、
鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、
足に触れた者は、臼のようなものであるといい、
尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。
ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

 人を見るのもこれと同じで、火との一部分に触れることができても、
その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

 死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、
仏と法によるもののほかは、でき得ないのである。
訂正 火との>人の (豊岳正彦)
2017-06-30 18:45:57


 人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、
その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。
仏教聖典_おしえ_第三章 さとりの種 (豊岳正彦)
2017-06-30 20:57:38
 第二節 かくれた宝

 一、首楞厳経

 清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性(ぶっしょう)である。
仏性とは、すなわち仏の種である。

 レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。
太陽とレンズとはあいへだたること遠く、合(がっ)することはできないけれども、
太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。
また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。

 いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧のレンズを当てれば、
仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃え上がる。

 仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、
世をあげて信の火が燃え上がるのである。


 二、首楞厳経

 人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、
煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しのすがたに心を縛られて、不自由を嘆いている。

 なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、
このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。

 昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。
しかし、顔も頭も無くなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思ったのであった。

 さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、
また、必要のないことである。
さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、
妄想を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。

 だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、
さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。
しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想はなく、
さとられるものもなかったことに気づくのである。


 三、大槃涅槃経

 この仏性は尽きることがない。

たとえ畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。

 汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。


 四、法華経第七、化城喩品及び首楞厳経・華厳経第三二、如来性起品・大槃涅槃経

 昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。
友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物の襟に縫いこんでおいた。

 そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食(えじき)に苦しんだ。
その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物の襟に縫いこまれた宝石を用いよ。」と教えられた。

 このたとえのように、仏性の宝石は、
貪(むさぼ)り瞋(いか)り癡(おろ)かさ「貪瞋癡とんじんち」という煩悩の着物のえりに包まれて、
汚されずにいるのである。

 このように、どんな人でも仏の智慧のそなわらないものはないから、
仏は人びとを見通して、
「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳とをそなえている。」とほめたたえる。

 しかも、人びとは愚(癡)かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、
おのれの仏性を見ることができないから、
仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、
本来、仏と違わないものであることを知らせる。


 五、梵網経

 ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。

 しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏と成ったのではないから、
すでに道を成し遂げたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。

 仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成し遂げたのではない。


 六、大槃涅槃経

 昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいにいわせたことがある。
象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、
耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、
鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、
足に触れた者は、臼のようなものであるといい、
尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。
ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

 人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、
その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

 死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、
しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、
仏と法によるもののほかは、でき得ないのである。



 第三節 とらわれを離れて

 一、大槃涅槃経

 このように、人には仏性があるというと、
それは他の教えでいう「我」と同じであると思うかも知れないが、
それは誤りである。

 我の考えは執着心によって考えられるけれども、
さとった人にとっては、我は否定されなければならない執着であり、
仏性は開き現わさなければならない宝である。

 仏性は、我に似ているけれども、
「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。

 我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、
仏性を認めないことも、あるものをないと考える、さかさまの見方である。

 例えば、幼子(おさなご)が病にかかって医師にかかるとすると、医師は薬を与えて、この薬のこなれるまでは乳を与えてはならないと言いつける。

 母は乳房ににがいものを塗り、子に乳をいやがらせる。
後に、薬のこなれたときに、乳房を洗って、子の口にふくませる。
母のこのふるまいは、わが子をいとおしむやさしい心からくるものである。

 ちょうどこのように、世の中の誤った考えを取り去り、我の執着を取り去るために、我はないと説いたが、
その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。

 我は迷いに導くものであり、
仏性はさとりに至らせるものである。

 家に黄金の箱を持ちながら、それを知らないために、貧しい生活をする女をあわれんで、その黄金の箱を掘り出して与えるように、

仏は人びとの仏性を開いて、彼らに見せる。

 
 二、大槃涅槃経

 それなら、人びとは、みなこの仏性をそなえているのに、
どうして貴賤・貧富という差別があり、
殺したり、欺かれたりするようないとわしいことが起こるのであろうか。

 例えば、宮廷に仕える一力士が、眉間に小さな金剛の珠玉を飾ったまま相撲をとって、その額を打ち、玉が膚(はだ)の中に隠れてできものを生じた。
力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。
医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それを取り出して力士に見せた。

 人びとの仏性も煩悩の塵(ちり)の中に隠れ、見失われているが、
善き師によってふたたび見いだされるものである。
 
 このように、仏性はあっても貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと癡(おろ)かさのために覆われ、
業(ごう)と報いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。
しかし、仏性は実際には失われても破壊されてもおらず、
迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。

 喩えの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、
人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。


 三、大槃涅槃経

 赤・白・黒と、さまざまに毛色の違った牝牛でも、乳をしぼると、みな同じ白い色の乳を得るように、
境遇が異なり、生活が異なる、さまざまの人びとも、その業の報いの異なるにもかかわらず、
同じ仏性をそなえている。

 例えば、ヒマラヤ山に貴い薬があるが、それは深い草むらの下にあって、人びとはこれを見つけることができない。
昔、ひとりの賢人があって、その香りを尋ねてありかを知り、樋を作って、その中に薬を集めた。
しかし、その人の死後、薬は山に埋もれ、樋の中の薬は腐り、流れるところによって、その味を異にした。

 仏性も、このたとえのように、深く煩悩の草むらに覆われているから、人びとはこれを容易に見つけることができない。

いまや仏はその草むらを開いて、彼らに示した。

仏性の味は一つであるが、煩悩のためにさまざまの味を出し、
人びとはさまざまな生き方をする。


 四、大槃涅槃経

 この仏性は金剛石のように堅いから、破壊することはできない。
砂や小石に穴をあけることはできても、金剛石に穴をあけることはできない。

 身と心は破られることがあっても、仏性を破ることはできない。

 仏性は、実にもっともすぐれた人間の特質である。

世に、男はまさり女は劣るとするならわしもあるが、

仏の教えにおいては、男女の差別を立てず、

ただこの仏性を知ることを尊いとする。

 黄金の粗金を熔かして、そのかすを去り、練り上げると貴い黄金になる。

心の粗金を熔かして煩悩のかすを取り去ると、どんな人でも、

みな同一の仏性を開き現わすことができる。
仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩 (豊岳正彦)
2017-06-30 21:26:00

 第一節 心のけがれ

 一、勝鬘経

 仏性(ぶっしょう)を覆いつつむ煩悩に二種類ある。

 一つは知性の煩悩である(一つは道理に迷う理性の煩悩である)。

二つには感情の煩悩である(二つには実際に当たって迷う感情の煩悩である)。

 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、

一つには無明(むみょう)、

二つには愛欲となる。

 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。

そして、この二つこそ、すべての煩悩の源なのである。

 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。

愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、

見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、

また転じて、

死を願うような欲望ともなる。

 この無明と愛欲とをもとにして、

貪(むさぼ)り、

瞋(いか)り、

癡(おろ)かさ、

邪見(じゃけん)、

恨み、

嫉(ねた)み、

へつらい、

たぶらかし、

おごり、

あなどり、

ふまじめ、

その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


 二、パーリ、増支部二-一一・本事經九三・律蔵大品

 貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。

瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。

愚(癡)かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。

邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。


 この貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚(癡)かさは、世の三つの火といわれる。(貪瞋癡とんじんち)


貪りの火は、欲にふけって、真実心を失った人を焼き、

瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、

愚(癡)かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。


 まことにこの世はさまざまの火に焼かれている。

貪りの火、

瞋りの火、

愚(癡)かさの火、

生・老・病・死の火、

憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、

さまざまな火によって炎々と燃えあがっている。


これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、

人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。


しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥(おと)し入れる。



 三、パーリ、増支部三-六八

 貪(むさぼ)りは満足を得たい気持ちから、

瞋(いか)りは満足を得られない気持ちから、

愚(癡)かさは不浄な考えから生まれる。


貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易でなく、

瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。

愚(癡)かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。


 したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、

気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、

常に正しく考えて、

この三つの火を消さなければならない。


もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、

煩悩によって惑わされることはない。



 四、パーリ、増支部三-三四

 貪り、瞋り、愚(癡)かさは熱のようなものである。

どんな人でも、この熱の一つでも持てば、

いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、

その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。

 この三つの煩悩のない人は、

寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、

むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。


 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。

この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、

戒めと

心の統一と

智慧である。


戒めは貪りの汚れを取り去り、

正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、

智慧は愚(癡)かさの汚れを取り去る。



 五、方広大荘厳経・パーリ、律蔵大品一-六、転法輪経・中部二-一四、苦蘊小経

 人間の欲にははてしがない。

それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きが止まらないのに似ている。

彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。


 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。

 人は欲を決して満足させることができない。

そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。


 人は欲のために争い、欲のために戦う。

王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、

互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺し合う。


 また人は欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。

ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。


 また、欲のために身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、

死んで後の世には、暗黒の世界に入ってさまざまな苦しみを受ける。



六、大槃涅槃経

 愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。

 愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生じる。

愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。

 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。

愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。

愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。

 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。

愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。

 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。

たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。

この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。



 七、パーリ、本事經二四

 外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。

貪りと瞋りと愚(癡)かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。


 心に貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚(癡)かさがあるときは、

口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、

身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。


 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。

 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。

悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、

偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。

 
 人の貪(むさぼ)りも、愛欲も恐れも瞋(いか)りも、愚(癡)かさからくるし、

人の不幸も難儀も、また愚(癡)かさからくる。

愚(癡)かさは実に人の世の病毒にほかならない。

 

 八、パーリ、本事經二四

 人は煩悩によって業(ごう)を起こし、業によって苦しみを招く。

煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。

 この車輪の回転には始まりもなければ終わりもない。

しかも、人はこの輪廻(りんね)から逃れるすべを知らない。

永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。

 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、

その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。

 だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりに深いため、その芽生えは容易でない。

芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。

要するに… (小太郎)
2017-06-30 22:05:46
 なんか,難しいコメントがやけにたくさんあるようだが,要するにtoraさんの言いたいことは「孫氏の兵法を読め」ということですよね。
仏教聖典_おしえ_第四章 煩悩 (豊岳正彦)
2017-07-01 00:23:30

 第二節 人の性質

 一、パーリ、中部五一、カンダラカ経

 人の性質は、ちょうど入り口のわからない藪のように、わかりにくい。
これに比べると、獣の性質はかえってわかりやすい。
このわかりにくい性質の人を区分して、次の四種類とする。

 一つには、自ら苦しむ人で、間違った教えを受けて苦行する。

 二つには、他人を苦しめる人で、生きものを殺したり盗んだり、
そのほかさまざまなむごい仕業をする。

 三つには、自ら苦しむとともに他人をも苦しめる人である。

 四つには、自らも苦しまず、また他人をも苦しめない人で、
欲を離れて安らかに生き、
仏の教えを守って、
殺すことなく盗むことなく、
清らかな行いをする人である。


 二、パーリ、増支部三-一三〇・三-一一三

 またこの世には三種の人がある。

岩に刻んだ文字のような人と、
砂に書いた文字のような人と、
水に書いた文字のような人である。

 岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、
刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。

 砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、
砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。

 水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、
他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、
温和な気の満ちている人のことをいう。

 また、ほかにも三種類の人がある。

第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、常に落ち着きのない人である。

第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、、欲を忍ぶ人である。

第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩を滅ぼし尽くした人のことである。

 このように、さまざまに人を区別することができるが、その実、人の性質は容易に知ることはできない。

ただ、仏だけがこれらの性質を知り抜いて、さまざまに教えを示す。

訂正 (小太郎)
2017-07-01 03:55:50
孫氏ではなく孫子ですね。
中国が日本に兵法でかつて勝ったことがない (豊岳正彦)
2017-07-01 05:48:53
日本武士の間では孫子はふつうに生兵法と呼ばれていた。お見通しという意味で(笑)

兵法に限らず宗教も学問(書道も写経も学問)も芸術(武術も藝術である)も文明も政治(天下のご政道)も、すべて日本人庶民士農工商仏教徒(天皇や将軍などのいわゆる統治者ではない笑)がいつの時代でも地上最高峰である。

仏教聖典_おしえ_第四章、煩悩_ (豊岳正彦)
2017-07-01 14:13:16
(再掲含む)

 第三節、現実の人生

 一、パーリ本事經一〇〇、雑宝蔵経

 ここに人生にたとえた物語がある。
ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。
岸に立つ人が声をからして叫んだ。
「楽しそうに流れを下ることをやめよ。
下流には波が立ち、渦巻きがあり、鰐と恐ろしい夜叉との住む淵がある。
そのままに下れば死ななければならない。」と。

 このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、
「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着することであり、
「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表し、
「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、
「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、罪によって滅びる生活を指し、
「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。

 ここにもう一つのたとえがある。
一人の男が罪を犯して逃げた。
追っ手が追ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓(ふじづる)が下がっている。
彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇が口を開けて待っているのが見える。
しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。
やがて、手が抜けそうに痛んでくる。
そのうえ、白黒二匹の鼠(ねずみ)が現われて、その藤蔓をかじり始める。

 藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。
そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。
すると、男は自分の危(あやう)い立場を忘れて、うっとりとなるのである。

 この比喩(たとえ)で、
「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、
「追っ手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、
「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、
「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、
「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。


 二、大般涅槃経

 また、さらにもう一つのたとえを説こう。
王が一つの箱に四匹の毒蛇を入れ、ひとりの男にその蛇を養うことを命じて、もし一匹の蛇でも怒らせれば、命を奪うと約束させる。
男は王の命令を恐れて、蛇の箱を捨てて逃げ出す。

 これを知った王は、五人の臣下に命じて、その後を追わせる。
彼らは偽って男に近づき、連れ帰ろうとする。
男はこれを信じないで、ふたたび逃げて、とある村に入り、隠れ家を探す。

 そのとき、空に声あって、この村は住む人なく、そのうえ今夜、六人の賊が来て襲うであろうと告げる。
彼は驚いて、ふたたびそこを逃げ出す。
行く手に荒波を立てて激しく流れている河がある。
渡るには容易でないが、こちら岸の危険を思って筏を作り、かろうじて河を渡ることを得、はじめて安らぎを得た。

 「四匹の毒蛇の箱」とは地水火風の四大要素から成るこの身のことである。
この身は、欲のもとであって、心の敵である。
だから、彼はこの身を厭って逃げ出した。

 「五人の男が偽って近づいた」とは、同じくこの身と心とを組み立てている五つの要素のことである。

 「隠れ家」とは、人間の六つの感覚器官のことであり、「六人の賊」とは、この感覚器官に対する六つの対象のことである。
このように、すべての官能の危ういのを見て、さらに逃げだし、
「流れの強い河を見た」とは、煩悩の荒れ狂う生活のことである。

 この深さの測り知れない煩悩の河に、教えの筏を浮かべて、安らかな彼の岸に達したのである。


 三、パーリ、増支部三-六二

 世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。

すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。

しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助け合う機会がある。

 ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。

それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れとの襲い来たったときのことである。

 母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。

子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。

子どもの死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。

いかに深く愛しあっている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。


 四、パーリ、増支部三-三五

 この世において悪事をなし、死んで地獄に落ちた罪人に、閻魔王が尋ねた。

「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」

「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」

「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」

「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」

「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」

「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」

「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」

「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へ来ることになったのだ。」

「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」

「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」

「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。

おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」


 五、パーリ、長老尼偈註

 裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、
冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子どもの病を治す者はいないかと尋ね回った。

 この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、
釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。

彼女は早速、釈尊のもとへ子どもを抱いて行った。

 釈尊は静かにその様子を見て、
「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。
町に出て四・五粒もらってくるがよい。
しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

 狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。

芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。

ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。

かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、
夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、
釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。

仏教聖典_おしえ_第四章、煩悩_ (豊岳正彦)
2017-07-02 21:53:41
 第四節  迷いのすがた

 一、無量寿経下巻

 この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。

しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。

 身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。

なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。

 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。

あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命まで失うようになる。

しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。

 貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、

この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れ果ててしまう。

このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。

 すべての世界が敵対するかのように見え、

死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。



 二、無量寿経下巻

 また、この世には五つの悪がある。

 一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、

強いものは弱いものを倒し、

弱いものは強いものを欺き、

互いに傷つけあい、いがみあっている。

 二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、
それぞれおのれの道がなく、守るところもない。

ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、
心と口とが別々になっていて誠がない。

 三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、

そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。

 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、

ともに教えあって悪い行為をし、

偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。

ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、

他人を傷つけて省みるところがない。

 五つには、すべてのものは怠りなまけて、

善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、

ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、

ついには恐ろしい罪を犯すようになる。



 三、無量寿経下巻

 人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、

わずかな利害のために互いに憎み争うことだけをしている。

しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、

時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。

 この世の争いは、互いに害(そこな)いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、

毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、

生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。

 人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。

未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、

おのれひとりでそれに当たらねばならない。

 善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、

動かすことのできない道理によって定まっている。

しかも、それぞれが、おのれの業を担い、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


 四、無量寿経下巻

 恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、

長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。

それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、

他人と争い、真実の道に親しむことができず、

寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。

 このような人の仕業は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、

必ず災いを招くようになり、

この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。

 まことに、世俗のことはあわただしく過ぎ去ってゆき、

頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。

この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


 五、無量寿経下巻

 このような有様が、まことにこの世の姿であり、

人びとは苦しみの中に生まれてただ悪だけを行ない、善を行なうことを少しも知らない。

だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。

 ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。

そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。

 栄華の時勢は長続きせず、たちまちに過ぎ去る。

この世の快楽も何一つ永続するものはない。
 

 六、無量寿経下巻

 だから、人は世俗のことを捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わねばならない。

道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。

 ところが人びとは、善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。

また、人が死んでまた生まれるということを知らず、施せば幸いを得るということを信じない。

すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。

 ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、

吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、

ただ眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。

 どんなものでも永久に変わらないものはないのであるから、すべてうつり変わる。

ただ、これについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、

教えを聞くことがなく、

心に深く思うことがなく、

ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


 七、無量寿経下巻

 人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。

しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。

ところが、いま、仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。

 だから、よく思いを重ね、

悪を遠ざけ、

善を選び、

努め行なわなければならない。

 いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、

どんな人も仏の教えを信じて、

仏の国に生まれることを願わなければならない。

仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになってはならない。

また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、

それを実践し、

それを他人に教えなければならない。


第四章 了
仏教聖典_おしえ_第五章 仏の救い (豊岳正彦)
2017-07-03 04:51:28
 第一節 仏の願い

 一、無量寿経上巻

 人びとの生活は、すでに説いたように、その煩悩は断ちにくいものであり、また、
始めもわからない昔から、山のような罪業をになって、迷いに迷いを重ねてきている。
だから、たとえ仏性の宝をそなえていても、開き現わすことは容易ではない。

 この人間の有様を見通された仏は、はるかな昔に、ひとりの菩薩となり、
人びとを哀れみ、あらゆる恐れを抱く者のために大慈悲者となろうとして、
次のような数多くの願いを起こした。
例え、この身はどんな苦しみの海の中にあっても、
必ず努め励んで成し遂げようと誓った。

 (ひ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
わたしの国に生まれる人びとが、
確かに仏と成るべき身の上となり、
必ず悟りに至らないならば、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (ふ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
わたしの光明に限りがあって、
世界のはしばしまで照らすことがないならば、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (み)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
わたしの寿命に限りがあって、
どんな数であっても数えられるほどの命数であるならば、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (よ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方の世界のあらゆる仏が、ことごとく称賛して、
わたしの名前を称(とな)えないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (い)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方のあらゆる人びとが真実の心をもって深い信心を起こして、
わたしの国に生まれようと思って、
十返わたしの名前を念じても、
生まれないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (む)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方のあらゆる人びとが、道を求める心を起こし、
多くの功徳を修め、真実の心をもって願いを起こし、
わたしの国へ生まれようと願っているのに、
もしもその人の寿命が尽きるとき、
偉大な菩薩達に取り巻かれて、その人の前に現れないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (な)たとい、わたしが仏と成っても、
十方のあらゆる人びとが、わたしの名前を聞いて、
わたしの国に思いをかけ、
多くの功徳のもとを植え、
心を込めて供養して、
わたしの国に生まれようと思っているのに、
思い通りに生まれることができないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (や)わたしの国に来て生まれる者は、
「次の生には仏と成るべき位」に到達するであろう。
そして、彼らは思いのままに人びとを教え導き、
それぞれの願いに従って、
数多くの人びとを導いてさとりに入らせ、
大悲の功徳を修めることができるであろう。
たとい、わたしが仏と成ったとしても、
もしもそれができないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (こ)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方の世界のあらゆる人びとが、
わたしの光明に触れて、
身も心も和らぎ、
この世のものよりもすぐれたものになるようでありたい。
もしもそうでないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 (と)たとい、わたしが仏と成ったとしても、
十方の世界のあらゆる人びとが、
わたしの名前を聞いて、
生死にとらわれることのない深い信念と、
さえぎられることのない深い智慧とを得られないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

 わたしは、いま、このような誓いを立てる。
もしもこの願いを満たすことができないようなら、
誓ってさとりを開かないであろう。

限りのない光明の主となり、
あらゆる国々を照らして世の中の悩みを救い、
人びとのために、
教えの蔵を開いて、
広く功徳の宝を施すであろう。


 二、無量寿経上巻

 このように願いを立てて、
はかり知れない長い間功徳を積み、
清らかな国を作り、
すでにはるかな昔に仏と成り、
現にその極楽世界にいて、
教えを説いている。

 その国は
清く安らかで、
悩みを離れ、
さとりの楽しみが満ちあふれ、
着物も食物もそしてあらゆる美しいものも、
みなその国の人びとの心の思うままに現われる。
快い風がおもむろに吹き起こって、
宝の木々をわたると、
教えの声が四方に流れて、
聞く者の心の垢を取り去っている。

 また、その国には
さまざまな色の蓮の花が咲きにおい、
花ごとにはかり知れない花びらがあり、
花びらごとにその色の光が輝き、
光はそれぞれ仏の智慧の教えを説いて、
聞く人びとを仏の道に安らわせている。


 三、無量寿経上巻

 いま十方のあらゆる仏たちから、
この仏のすぐれた徳が称(たた)えられている。
 
 どんな人でも、
この仏の名前を聞いて、
信じ喜ぶ一念で、
その仏の国に生まれることができるのである。

 その仏の国に至る人びとは、
みな寿命に限りがなく、
また自らほかの人びとを救いたいという願いを起こし、
その願いの仕事にいそしむことになる。

 これらの願いを立てることによって、
執着を離れ、
無常をさとる。
おのれのためになると同時に他人をも利する行為を実践し、
人びととともに慈悲に生き、
この世俗の生活の足かせや執着にとらわれない。

 人びとはこの世の苦難を知りつつ、
同時にまた、
仏の慈悲の限りない可能性をも知っている。
その人びとの心には、
執着がなく、
おのれとか、他人とかの区別もなく、
行くも帰るも、
進むも止まるも、
こだわるところがなく、
まさに心のあるがままに自由である。
しかも、
仏が慈悲を垂れた人びととともにとどまることを選ぶのである。

 だから、
もしもひとりの人がいて、
この仏の名前を聞いて、
喜び勇み、
ただ一度でもその名を念ずるならば、
その人は大いなる利益を得るであろう。
たとえこの世界に充ち満ちている炎の中にでも分け入って、
この教えを聞いて信じ喜び、
教えのとおりに行わなければならない。

 もしも、
人びとが真剣にさとりを得ようと望むなら、
どうしても、
この仏の力によらなければならない。
仏の力がなくてさとりを得ることは、
普通の人間のできることではない。


 四、無量寿経下巻

 いま、この仏は、
ここよりはるか遠くのところにいるのではない。
その仏の国ははるか遠くにあるけれども、
仏を思い念じているものの心の中にもある。
 
 まず、
この仏の姿を心に思い浮かべてみると、
千万の金色に輝き、
八万四千の姿や特徴がある。
一つ一つの姿や特徴には八万四千の光があり、
一つ一つの光は、
一つ残らず、
念仏する人を見すえて、
包容して捨てることがない。

 この仏を拝み見ることによって、
また仏の心を拝み見ることになる。
仏の心とは大いなる慈愛そのものであり、
信心を持つ者を救いとるのはもちろん、
仏の慈悲を知らず、
あるいは忘れているような人びとをも救いとるのである。

 信ある者には仏は仏と一つになる機会を与える。
この仏を思い念ずると、
この仏は、
あらゆるところに満ちみちる体であるから、
あらゆる人びとの心に入る。

 だからこそ、
心に仏を思うとき、
その心は、
実に円満な姿や特徴をそなえた仏であり、
この心は仏そのものとなり、
この心がそのまま仏となる。

 清く正しい信心を持つ者は、
心が仏の心そのままであると思い描くべきである。


 五、無量寿経下巻

 仏の体にはさまざまの相(すがた)があり、
人びとの能力に応じて現れ、
この世界に満ちみちて、
限りがなく、
人の心の考え及ぶところでない。
それは宇宙、
自然、
人間のそれぞれの姿の中で仰ぎ見ることができる。

 しかし、
仏の名を念ずる者は、
必ずその姿を拝むことができる。
この仏は常にふたりの菩薩を従えて、
念仏する人のもとに迎えに来る。

 仏の化身はあらゆる世界に満ちみちているけれども、
信心を持つ者だけが、
それを拝み見ることができる。

 仏の仮の姿を思うことさえ、
限りない幸福を得るのであるから、
真実の仏を拝み見ることの功徳には、
はかり知れないものがある。


仏教聖典_おしえ_第五章 仏の救い (豊岳正彦)
2017-07-03 04:52:32

 六、無量寿経下巻

 この仏の心は、
大いなる慈悲と智慧そのものであるから、
どんな人をも救う。

 愚かさのために恐ろしい罪を犯し、
心の中では、
貪(むさぼ)り、
瞋(いか)り、
癡(おろ)かな思いを抱き、
口では偽り、
むだ口、
悪口、
二枚舌を使い、
身では殺生し、
盗み、
よこしまな愛欲を犯すという十悪をなす者は、
その悪い行いのために、
永遠に未来の苦しみを受けることとなる。

 その人の命の終わるとき、
善い友が来てねんごろに、
「あなたはいま苦しみが迫っていて、
仏を思うこともできないであろう。
ただこの仏の名を称(とな)えるがよい。」と教える。

 この人が心を一つにして仏の名を称えると、
ひと声ひと声のうちに、
はかり知れない迷いの世界に入る罪を除いて救う。

 もし人が、
この仏の名を称(とな)えるならば、
永遠に尽きることのない迷いの世界に入る罪をも除くのである。
ましてや一心に思うに至っては、
なおさらのことである。

 まことに念仏する人は、
白蓮華(びゃくれんげ)のようなすばらしい人である。
慈悲と智慧の二菩薩はその友となり、
また、
常に道を離れることなく、
ついに浄土に生まれることになるであろう。

 だから、
人びとはこのことばを身につけなければならない。
 
このことばを身につけるということは、

この仏の名を身につけることである。


_第二節 清らかな国土

 一、無量寿経下巻

 この仏はいま、
現にいて、
法を説いている。
その国の人びとはみな苦しみを知らず、
ただ楽しみの日のみを送るので、
極楽というのである。

 その国には七つの宝でできた池があり、
中には清らかな水をたたえ、
池の底には黄金の砂が敷かれ、
車の輪のように大きい蓮華が咲いている。
その蓮華は、
青い花には青い光が、
黄色の花には黄色の光が、
赤い花には赤い光が、
白い花には白い光があり、
清らかな香りをあたりに漂わせている。

 また、
その池の周囲のあちこちには、
金・銀・青玉・水晶の四つの宝で作った楼閣があり、
そこには大理石で作った階段がある。
また、
別の場所には池の上につき出た欄干があり、
宝玉で飾られた幕で取り囲まれている。
また、
その間にはよい匂いのする木々や
花がいっぱいに咲いた茂みがある。

 空には神々しい音楽が鳴り、
大地には黄金の色が照り映えて、
夜昼六度も天の花が降り、
その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、
ほかのすべての仏國へ持ってゆき、
無数の仏に供養する。

 
 二、無量寿経下巻

 また、
この国の園には、
白鳥、
孔雀、
おうむ、
百舌鳥、
迦陵頻伽(かりょうびんが)など数多くの鳥が、
常に優雅な声を出し、
あらゆる徳と善をたたえ、
教えを宣布している。

 人びとはこの声を聞いて、
みな仏を念じ、
教えを思い、
人の和合を念ずる。
だれでもこの声の音楽を聞く者は、
仏の声を聞く思いがし、
仏への信心を新たにし、
教えを聞く喜びを新たにして、
あらゆる国の仏の教えを受ける者との友情を新たにする。

 そよ風が吹き、
宝の木々の並木をよぎり、
輝く鈴をつけた網に触れると、
微妙な音を出し、
一時に百千の音楽がかなでられる。 

 この音を聞く者は、
また自然に仏を念じ、
教えを思い、
人の和合を念ずるようになる。

その仏の国は、

このような功徳と美しい飾りとをそなえている。


 三、無量寿経下巻

 どういうわけで、

この国の仏は無量光佛、

無量寿佛と名づけられるのであろうか。

 かの仏の光は量(はか)ることができず、

十方の国を照らして少しもさえぎられない。

またその寿命も限りがないから、

そう名づけるのである。

 そして、

その国に生まれる人びとも、

みな、

ふたたび迷いの世界に戻らない境地に至り、

その数はかぞえ尽くすことができないからである。

 また、

この仏の光によって新しい命に目覚める人びとの数は無量だからである。

 ただ、

この仏の名を心に保ち、

一日または七日にわたって、

心を一つにして動揺することがないならば、

その人の命が終わるとき、

この仏は、

多くの聖(ひじり)たちとともに、

その人の前に現われる。

その人の心はうろたえることなく、

ただちにその国に生まれることができる。

 もし人が、

この仏の名を聞き、

この教えを信ずるならば、

仏たちに守られ、

この上もない正しいさとりを得ることができるのである。


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