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美術修行 読書録20170504:高橋龍太郎.2016/10 現代美術コレクター

2017年05月06日 00時01分12秒 | 美術修行
2017年5月5日-4
美術修行 読書録20170504:高橋龍太郎.2016/10 現代美術コレクター


[た]
高橋龍太郎.2016/10/20.現代美術コレクター.口絵16+173pp.講談社[現代新書].[本体800円(税別)][Rh20170504][大市中図707.9]


 ネオテニー?。ネオテニーの使い方が正しいとしても、それになぞらえるたりのはおかしい。括り方としても、わからない。


 「現代アートは、どう見たらいいのかということ自体を問う闘いそのものだ。現代アートは、「分かろう」として持っている知識にとらわれると、つまり既成概念にとらわれると、本質が見えなくなってしまう。故に〔略〕マインドフルネスのあり方で臨めば、これまで地球上に存在していなかった見たことのない美を感じられるのである。」
(高橋龍太郎 2016/10、42頁)。

 「コンセプト」とは何なのか、日本語で定義し、この人の解釈での訳語を提示し、解説してほしいところである。
 「現代アートは、どう見たらいいのかということ自体を問う」のであれば、展覧される色と形をどう観るのか、の見方を論じるべきでる。伝統やパロディや構図の借用とといったことではなくて、ましてやあれこれの解釈ではない。

 「風神雷神図と「美しい肌」とは、一見相関がないように見えるが、手の構え、気配、風の流れ等、会田誠が風神雷神図を意識したことは容易に読み取れる。」
(高橋龍太郎 2016/10、44頁)。

 また、会田誠 1995『美しい旗』についてあれこれ述べているが、そのような解釈が成立するようにはとても見えない。

 〈見立て〉を日本の美術の本質的なこととしているようだ。見立てとは、別のものに、置き換えるとか、なぞらえるということで、形式や内容について類似性などを適用することである。だから、間接的受容であり、また知的反応である。色形への直接的受け取りではない。

 絵画製作にあたっては、技法や構図といった技術的なことをかんがえることはあるかもしれない。しかし(或る環境のもとで存在している)作品の受容者または作品との相互作用者は、なんらの思考なく、直接に作品のいわば本題である色形に反応すること、これが絵画の定義からして、本質である。

 なぞらえや本歌取りは、自分の作品を先人の作品へとなんらかの様式でつなげることであって、結局は独創的なことではない。
 琳派の系譜にしても、各作者の美意識によって洗練された作品ができるだろうが、新たな独創性にはつながらない。
 この本では、矛盾するか対立するようなことを、曲げてつなげた主張をしている。


 「日本人の意識の中には、美は個人の中に限ってあるのではなく、一つの美が生まれるとそれを共有の財産として、作家達と受け手である鑑賞者たちが合わせて伝えていくと言う意識が強い。」
(高橋龍太郎 2016/10、45頁)。

 まずは、各個人において美は生まれたり発見される。それが、ある共同体または繋がり体の構成員に共有される。誤解を招くような言い方である。→「美は個人の中にとどまらず」とすべきか。しかし、下記を読むと、美の成立は日本では共同体において成立するように書いている。

 「欧米では、独自性が尊ばれるが、日本では、共同体が評価し続けることで初めて美が成立するのである。美は、一人の作家、一つの作品として限定して独立するのではなく、共同体の中で活かされていく。」
(高橋龍太郎 2016/10、45-46頁)。

 独自性と美は対立しない。むしろ、新しい、つまりそれまでには無かった、とりわけ独自の感性によって作られた作品が尊ばれるのは、美意識の向かうところである。西欧でも、評価はなんらかの共同体で行なわれる。【→歴史記述の問題】
 欧米と日本での差異は結局何だと主張しているのだろうか?。日本では、独自性が尊ばれないということなのか?。

 ミラー ニューロンにしろ、そのほかのことにしろ、システムで考えるべきである。

 「人類は類的存在だと言われる。これは単独でしか〔→単独では、の間違いだろう〕生きていけないことを指し示している。」
(高橋龍太郎 2016/10、47頁)。

 主張の論拠や根拠立てが、間違っているか薄弱である。議論の仕方と事実的事柄の出し方が、妥当ではないか不明である。

 「鈴木大拙は、一九三八年の『禅と日本文化』の中で〔略〕語っている。
「非均衡性・非対称性・一角性・貧乏性・さび・わび・その他、日本の芸術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて『多即一、一即多』という禅の真理を中心から認識するところに発する」」
(高橋龍太郎 2016/10、51頁)。

 →わび、さび、の検討。「わび」や「さび」が日本の美的感性だとすることに反対の意見は、誰だったかな?。


 日本現代アートの背景に息づく美意識の鍵語は、
  ネオテニー
  職人的技巧
  なぞらえ(ミラー ニューロンの働き)
  貧
  一瞬の美
としている(高橋龍太郎 2016/10、53頁)。

 →造形的動き、→生命的?、問題意識では?。


 国立新美術館は、 art center であって、美術博物館 art museum ではないようになったのは、どういう経緯からなのだろう?。単に日展などの美術団体展の要望によるもの?。

  「活動内容は複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品コレクションや学芸員は置かない方針だった。
しかしこれに対して、公募団体側も国側も新美術館を通して何を実現したいのか、という展望や戦略がないまま、箱の建設のみを進めていたという、ハード面のみの重視に対する批判もある[3]。
〔略〕
 外国から美術品を借りる際に、受け入れる学芸員が必要なことや、独自の展覧会も開催すべきだとの指摘を受け、数名の学芸員を置くことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/国立新美術館[受信:2017年5月5日。]
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