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教育再生実行会議が「家庭教育」を初議論、1930年にも文部省訓令「家庭教育振興に関する件」で戦争協力

2016-10-08 23:38:22 | 教育

 安倍政権の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早大総長)が「家庭の役割」などをテーマに議論を再開するという。学校の負担を減らすため、家庭や地域に役割分担を求めるという。松野博一文科相も「家庭や地域の教育力の低下が指摘され、教育現場は教師の長時間労働に支えられている」と述べている。

 「家庭の役割」を政府が一律に規定し、学校の負担を減らすという事で、家庭にその役割を押し付け果たさせようとしているわけですが、この発想はおかしくないですか。まず、学校の負担は学校行政の中で解消すべきであるという事。そして、「家庭の役割」を一方的に規定する事は不可能であり、越権行為であるという事。

 しかし、それを分かったうえで進めようとしていると考えられるので、真の目的は実は、国民の思想の画一化、そして国民の様々な形での組織化とそれらによる「挙国一致」体制の確立を狙っているという事であろう。

 政府による「家庭教育の振興」政策は、敗戦までの大日本帝国下においてすでに存在した。安倍政権はおそらくそれをテキストとしていると考えられる。それは、1930年の文部省訓令で「家庭教育振興に関する件」というものである。その内容を大まかに紹介すると、

「国家の盛衰は学校教育や社会教育に負うところが大きいが、その土台をなすものは家庭教育である。家庭は心身の育成、人格の涵養の素地であり、子どもの性行を支配する。……この時に当たり我が国固有の美風を振起し、家庭教育の本義を発揚し、さらに文化の進運にあわせて家庭生活の改善を図る事は……国運を伸長するための要訣である。家庭教育は父母ともに責任があるが、特に婦人の責任は重大である。従ってその教育振興は婦人団体の奮励を促す事によって一般婦人の自覚を喚起する事を主眼とする。……」

という内容である。

 この訓令によってその後どうなっていったであろう。その直後には「大日本連合婦人会(連婦)」が作られ、満州事変後の軍国ムードに乗って、1932年には「大日本国防婦人会(国婦)」が関西を中心に作られた。国婦はエリート意識がなかったため会員をどんどん増やした。この2つの婦人団体は、すでに1901年に作られていた「愛国婦人会(愛婦)」と互いに競い合いながら、軍事援護、愛国貯金などに乗り出した。千人針集めや前線へ慰問袋を送る運動だけでなく、街頭に立って洋髪の女性に「パーマネントはやめましょう」のビラを渡して圧力をかけたり、和服の長い袖をハサミで切り落とす実力行使も見られ、政府の威光を笠に着た振る舞いが多くなり、「泣く子も黙る婦人会」とも言われるようになった。

 1937年、日中戦争開始とともに、「国民精神総動員中央連盟」が発足し、1940年には「大政翼賛会」が発足して、生活必需品の統制が相次いだ。1942年、3つの婦人団体は「大日本婦人会(日婦)」に統合され、翼賛会傘下に入った。

 政府は1938年2月、「家庭報告三綱領・実践14項目」を発表したが、それは皇民教育を前面に出し、貯蓄奨励から食事・服装に至る実践項目を示し、国民生活の隅々までからめとるものであった

 政府はまた、1942年5月には「戦時家庭教育指導要綱」(母の戦陣訓)を発表したが、婦人団体も「戦力増強婦人総決起運動申し合わせ三条」を出し、「誓って飛行機と船に立派な戦士を捧げましょう」「一人残らず決戦生産の完遂に参加協力いたしましょう」「長袖を断ち、決戦生活の実践に決起いたしましょう」と訴えるようになった。

 新聞、雑誌、ラジオもまた国を守るための死を美化し、母を聖化した。「家の光」や「婦人の友」は、座談会で「今まで大事に育ててきた子供に『死ね』と一言言って送り出す強さが日本を支えている」と語らせ、戦争協力に励んだ。

 2千万人の女性を組織した日婦は、部落会や町内会や隣組と一体となって戦争遂行に大きな役割を果たしたのであった。

教育再生実行会議における「家庭教育」の最終目的はこのようなものとなるであろう。

 

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