コンパクトデジカメで近郊の風景を散策!時々旅にも出かけます。
気ままにブログ
8月の終わりに・・・。
畝傍山を望む藤原京の蓮の花
蓮の花
本薬師寺のホテイアオイ
ホテイアオイ
醍醐池西のキバナコスモス
キバナコスモス
4'seasonのHP「トピックス&カフェオーナーのブログ」で藤原京の蓮、本薬師寺のホテイアオイ、醍醐池西のキバナコスモスが見ごろだと聞き早速、観に出かけました。
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歌垣にみる歌の闘争
第36回万葉古代学研究所講座
場 所 奈良県立万葉文化館
時 間 14:00~15:30
演題:「歌垣にみる歌の闘争」
講師:曹 咏梅 さん (万葉古代学研究所主任研究員)
【内容】
歌垣と歌掛けの定義
歌垣の研究状況
中国の歌垣(歌会)と歌掛け(対歌)
記紀にみる歌垣
侗(トン)族の対歌―攔路歌
【資料一】『万葉集』における歌垣
【資料二】『古事記』の歌垣
【資料三】『日本書紀』の歌垣
【資料四】本居宣長『古事記伝』(『本居宣長全集』第十二巻)
【資料五】歌垣と闘争性
【資料六】侗族の紹介
【資料七】侗族の攔路歌(道塞ぎの歌)
【資料八】貴州省黎平の攔路歌
以上きょうのレジュメを一部コピーしました。
もんちっち桜井機種変更した、携帯デジカメで撮影しました。
ケーキセット(季節のケーキ)¥480-機種変更した、携帯デジカメで撮影しました。
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『万葉集』からみた古代のアジア
第35回万葉古代学研究所講座
場 所 奈良県立万葉文化館
時 間 14:00~15:30 (90分間)
演題 『万葉集』からみた古代のアジア
講師 万葉古代学研究所主任研究員 井上 さやか さん
きょうは、定員70名の会場が満席の状態で講演がはじまりました。
【一】『万葉集』中の海彼の地名
(1)カラ
(2)「高麗」・「新羅」・「百済」
(3)その他
【二】地名に関わるイメージ
(1)日本の地域名として
(2)舶来品の名称として
(3)その他
【参考資料として】茨城県天心記念五浦美術館で開催された。
「万葉集1250年記念 万葉のこころを描く」の講演資料
古代のコスモポリタン
ずっと気になっている歌があります。それは次のような歌です。
大伴宿祢家持の、詔の応へたる歌一首
大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも(第十七-三九二六)
以上は、きょうのレジュメの一部をコピーしました。
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歌木簡は語る
時間 14:00~15:30
場所 奈良県立万葉文化会館
第34回万葉古代学研究所講座
演題:万葉歌木簡は語る
講師:万葉古代学研究所副所長・奈良大学教授 上野 誠 さん
1.馬場南遺跡歌木簡の発見
「阿支波乃之多波毛美智×(234)・(24)・12 081
(『馬場南遺跡出土遺物記者発表資料』京都府埋蔵文化財調査家研究センター、2008年)
秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ぬれば 風を疾
【いた】みかも (巻十の二二〇五)
2.萩の下葉
①雲の上に 鳴きつる雁の 寒きなへ 萩の下葉は もみちぬるかも
(作者未詳 秋の雑歌 巻八の一五七五)
②我がやどの 萩の下葉は 秋風も いまだ吹かねば かくそもみてる
(大伴家持 秋の相聞 巻八の一六二八)
③このころの 暁露に 我がやどの 萩の下葉は 色つきにけり
(作者未詳 秋の雑歌 巻十の二一八二)
④秋風の 日に異に吹けば 露を重み 萩の下葉は 色付きにけり
(作者未詳 秋の雑歌 巻十の二二〇四)
⑤秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ぬれば 風を疾みかも
(作者未詳 秋の雑歌 巻十の二二〇五)
⑥秋萩の 下葉の黄葉 花に継ぎ 時過ぎ行かば 後恋ひむかも
(作者未詳 秋の雑歌 巻十の二二〇九)
⑦天雲に 雁そ鳴くなる 高円の 萩の下葉は もみちあへむかも
(中臣清麻呂 巻二十の四二九六)
3.法会と歌の場
冬十二月の晦に、味経宮【あぢふのみや】に二千一百余の僧尼を請せて、一切経を読ましむ。是の夕に、二千七百余の灯を朝庭内に燃して、安宅・土側等の経を読ましむ。是に天皇、大郡【おほこほり】より遷りて、新宮に居します。号けて難波長柄豊碕宮【なにはのながらのとよさきのみや】と曰ふ。(『日本書紀』孝徳天皇白雉二年〔六五一〕十二月晦条)
丁亥に、勅して、百官人等を川原寺に遺して、燃灯供養す。仍りて、大斎悔過【だいさいいくゑくわ】す。(『日本書紀』朱鳥元年〔六八六〕六月十九日条)
〇壬辰、天下の諸国をして薬師悔過せしむること七日。〇丙申、一百人を度す。この夜、金鐘寺と朱雀路とに灯一万坏を燃す(『続日本紀』聖武天皇天平十六年〔七四四〕十二月二日-八日条)
〇甲寅、天皇と太上天皇と皇后と金鐘寺に行幸したまひて、盧舎那仏を燃灯供養したまふ。仏の前後の灯一万五千七百餘坏。夜、一更に至りて数千の僧をして、脂燭をげ、賛歎(さんたん)供養して、仏を繞(めぐ)ること三匝(みたび)せしむ。三更に至りて宮に還りたまふ。(『続日本紀』聖武天皇天平十八年〔七四六〕十月六日条)
4.維摩講の仏前唱歌
仏前の唱歌一首
しぐれの雨 間なくな降りそ 紅に にほへる山の 散らまく
惜しも
右、冬十月、皇后宮の維摩講に、終日に大唐・高麗等の種々の音楽を供養し、爾して乃ちこの歌詞を唱ふ。弾琴は市原王・忍坂王〔後に、姓大原真人赤麻呂を賜る〕、歌子は田口朝臣家守・河辺朝臣東人・置始連長谷等十数人なり。(巻八の一五九四)
聖武朝の歌舞管弦振興政策や、天皇・皇后・皇太子を中心とする聖武内廷の音楽愛好の状況(その状況は前掲拙稿に詳述した)から推し量れば、もしやこの「歌舞所」は、「光明皇后の皇后宮職に所属して、もっぱら聖武天皇・光明皇后内廷の音楽を預かる―したがって令文に規定もなく、しかも公的な性格を持つていたらしい―音楽機関」であって、折しも皇后宮職の写経司知事であった市原王や、同じく皇后宮職の舎人であった(と私かに推測する)弾琴忍坂王や唱歌の名手河辺東人ら「諸王・臣子等」の音楽グループこそ、その天平十一年前後の構成メンバーではなかったか。そういう性格の音楽機関であったからこそ、皇后宮で修する法会の席に、雅楽寮楽人と並んで楽屋に着く機会を得たのではないだろうか。〔井村哲夫一九九七年〕
以上は、本日のレジュメをコピーしました。
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