Nastro azzurro

思いつきで書いていきます。ビールとは関係ないです。

1989年夏の旅行記(その4)

2020-01-23 | 旅行の話
7月18日
朝わりとゆっくりおきて天坛へ行く。
思えば七年前「北京画報」で見たあの
天坛に来たのだと思えば感動ものである。
12時ごろからずっと公園にいた。
とても広いから、つかれていたから ひととおり見たあとは ベンチですわっていた。
昼はパンとジュース おやつに可口可乐 少したかいようです。他のにくらべて。
いや、4元だから日本よりも高いか
5時ごろまでゆっくり休んだから、まあまあよかった。

いったんホテルに帰り食事をしてからタクシーで
北京站 9元。バスよりずっと高いけど、今日はバスに乗る気にならなかった。天坛も歩いて行きましたのでした。
汽車は無事にのれた。
コンパートメント4人のうち、後の3人は、2人がパキスタン人で、もう一人はその通訳の中国人でした。
パキスタン人とベッドをかわってあげました。
上の方がゆっくりできるような気もしまして。
とにかくあしたの昼前には長春につくのだ。
何かまだ信じられないところがあるのだ。

中国の汽車のこと。 西北方面行きの行き先表にはウイグル文字が書いてあっておどろく。
大阪駅で函館行き寝台車見ておどろくのなんか序の口だと思ってしまった。
時刻表には北京ーウランバートルーモスクワ行、 北京ー満州里ーモスクワ行、 北京ー丹東ー平壌なんかものっている。
大陸ネー と思ったのでした。
_______________________________
断片的な記述ですね。
この当時、1人民元およそ40日本円くらいの相場でした。かつ、現地の当時の物価事情からすれば、
コカ・コーラ(可口可乐)4元は160円だから、とんでもなく高いということになるのです。バス料金が1区間たしか、1元以下でしたから。
3日目にして、すこし疲れていますね。
初めての海外旅行ということもあるし、
とにかく、片道切符だけでつないでいく旅だからでしょうか。
当時はそれがあたりまえ(この国で個人旅行をする場合)だったし、それはそれで面白いのだけど、
かなり、「カルチャーショック」があったのだと、今読み返してみて思います。
外国語大学の中国学科学生現役バリバリでも、やはりショックは大きかったのだと、今読み返してみて感じます。




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(続く

1989年夏の旅行記(その3)

2020-01-13 | 旅行の話
明日、長城へ行く。 と書いて前日の日記は終わっている。実は、現金を持たずにタクシーに乗らざるを得なくなった経緯があって、私はホテルに着いたらすぐ両替をして料金を支払うつもりだったんだが、運転手さんは「明日、万里の長城へ往復で乗せていくから今日の分はそれと合わせて支払ってくれたらいい」と(詳細はここに書いてます)

そんなこんなで、ホテルでは無事に部屋をとれ、翌日の日記です。
______________________________
7月17日
雨。 雨がふると困るとつくづく思った。それにしても
北京は雨ふらないと思っていたのに。
タクシーも、キャンセルする。”司机同志对不起””(運転手さんごめんなさい)全く悪い外国人だ。
 カッパ着て北京城徘徊。はじめに ”北京站””买票””软卧”(北京駅 切符を買う 一党寝台)。 日本のパスポートは
やはり強い。駅構内に入るのもフリーパス。
 解放軍兵士と話してしまった。2人も。
それから、2回注意された。 うっかり立ち入り禁止に入りかけたので・・・。 
中国人は一人一人はいい人らしい(バスを教えてくれるときなど)
仕事がかかわると急に事務的、お役所仕事になる。
故宮に行く。 雨ふるから北京観光は故宮と王府井と前門付近だけ。
 帰り、”前门地铁站”(前門地下鉄)で、公安が呼びとめた。「身分証明書を見せな」
”咦 你是日本人吗? 他是日本人啊! 你懂中国话吗?”(えええ お前日本人? こいつ日本人だぞ! 中国語分かるのか?)
やはり日本のパスポートは強いと思ったのでした。 とても恐ろしかったけど。
たぶん、大きなカバンが目にとまったのでしょう。
いたるところにカービン銃?持った兵士がいらっしゃって
やっぱり戒厳状態だと思ったのでした。
_______________________________

よくもまあ「戒厳令下」へ行ったものだなあ思います。でもそれはとても貴重な経験だと思います。


(続く


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おことわり

2020-01-07 | 思いつきの話・思い出の話
久々に書き始めました「1989年夏の旅行記」は、
前に書いていた、「初めての海外へ旅行した時の話」と、かぶっている部分もあるんですけど、
30年後に記憶をたどりながら書いていた「初めて海外へ旅行した時の話」は、中途でやめてしまいました(記憶をたどるのが厳しかった)が、
今回の「1989年夏の旅行記」は、まさにその時に書いていた日記の転載ですので、
私も改めて読み返してみて、思い出と現実(当時の)落差に驚いた部分もあり、
それで、当時の旅行記の生の思いを
記録し且つお伝えするのも意味があると思って、
しばらくおつきあいいただきますれば、幸いでございます。
との思いで書きます。




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1989年夏の旅行記(その2)

2020-01-07 | 旅行の話
初日、当時は関空もなかったので、伊丹空港から北京へ向けて出国です。
________________
(1989年)
7月16日
この日本人のような人々は皆 中国人らしく…
結局、乗客は20人、日本人3人くらいか?
座席はどこに座ってもよいということになった。
天井から水漏れするし、サービスはどこまで良いかわからないし、少々心配である。
16:00機内食 早い。無愛想。日本式サービスが過剰に思える。

空港に着いたら銀行が閉まっていて困ったもんだ。
売店やら国内線売り場やらいろいろたずねたが、結局×
タクシーの運転手に世話になることになってしまった。
タクシーにはあまりのりたくなかったのに。

北緯飯店 まあまあ。

明日、長城へ行く。


_______________
この当時の中華人民共和国のナショナルフラッグであった「民航」にのって、伊丹空港から北京空港に至った経緯を
書いていますね。 空港の「両替所」がことごとく「閉まっていた」ので、到着後、いろいろと尋ねまわって、それでも結局、両替ができなかった思い出が
蘇りました。必死でしたねwww
時代だからですが、なにせ、往路航空券とトラベラーズチェックだけ持って、北京についたわけで、もちろんその日に泊まるホテルの予約もありません(外国人が事前に予約するにはChinaの国営旅行社手配にしなければならなかった。だが学生にとっては価格がかなり高いのでそれはしないということが多かった。)クレジットカードも当時の現地ではほぼほぼ使用できない。 最後のほうに書いている「北緯飯店」というのはホテルの名、これは空港の案内所で聞いたところですが、でも予約は取れていない。その状況でタクシーでそこへ行ったわけです。

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(続く

お久しぶりです

2020-01-06 | 旅行の話
ひょんなことから、1989年7月の海外旅行中の日記が発掘されましたので、それをちびちび、転載していこうと思います。

1989年

私は初めての海外旅行、Chinaへいきました。目的は「満洲訪問」でした。

事前に手配をしていた(往路航空券のみ)のですが、出発までに「64天安門事件」が発生し、それ以前から北京市は戒厳令下にあったのですが、
それでも私は行ったのです。

その、旅行顛末を、

当時の私が書いた旅行日記で、皆様にお知らせいたしたいと思います。
____________________________________________

7月15日
準備に手間取る、困ったもんだ
明日の出発が午後だから
いいようなものの また、ねるのがおそくなる。
ほんとうに明日の夜には北京にいるのか まだ 信じられない。チケットも
VISAもパスポートもあるから
ほんとうなんだろう。
少し恐ろしい気もする。 7月23日が大暑



(続く
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驚いた話

2018-01-24 | 思いつきの話・思い出の話
このごろではブログを書くこともめっきり少なくなりましたが、今日は書いてみます。


年末に、或る機器を5日間レンタルして、返却したところ、

「ご利用に関するアンケート」みたいな連絡が来て、それに答えたのである(ネットでね)

するとその二日後くらいに、その会社からメールが来て、「当社サービスのご利用にあたり、一部満足にご利用いただけなかったとのこと、ご迷惑をおかけしまして大変申し訳ございませんでした。差支えなければ、今後のサービス向上のため、詳細の内容をご教示いただけますでしょうか。」と、言うのである。

私はその時点で、自らの回答の詳細はうろ覚えだったのだが、確かに、「大満足」とは言わなかった自覚があったので、そのメールに「不満に思った点」を思い出しつつ返信したのです。

すると、即座に会社から返信、「ご返却いただきました機器を検証させていただきます。担当部署にて確認が出来次第検証となりますので、1~2週間お時間を要する場合がございます事ご了承下さい。確認が出来次第改めてご連絡をさせていただきます。」と。

そして、それから12日後、改めてメールが来ました。

詳細はさておき、「レンタル料金につきましては、2日間分をご返金させていただきます」
だそうです。


なんだか、すごく、誠実な会社だなあと思ってしまいました。最初のメールに返信しておいてよかったなあとも思いました。


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コンタクトレンズの話

2017-11-05 | 思いつきの話・思い出の話
私がコンタクトレンズを使い始めたのは二十歳の頃、だからもう幾十年使い続けているのである。

使い始めた当初に比べると、今のコンタクトレンズは非常に使いやすくなり、手入れも簡単になり、また、価格も下がった。

おまけに近年では、ネット通販で購入することも可能になった(実はこれは、違反の疑いもあるのだが。〔処方箋を使いまわすという意味で〕)

で、私もしばらくはネット通販で買い続けていたのであるが、
どうも、このごろ、よく見えない というわけで、

きょう、本来の購入をしてきました。本来の購入とはいえ、昔ながらの、実売店に出向いて、視力検査をし、付属かともいえる眼科の「形式的」な診断を受けて処方箋をもらい、そしてレンズの購入、という、それです。



そもそも、眼鏡にしても、コンタクトレンズにしても、本来元々の姿は、「眼科医の診断、およびそれによる処方」→「眼鏡店若しくは、コンタクトレンズ取扱店にて購入」というものでした。



それが後に、店舗(眼鏡店、コンタクトレンズ販売店)が主になり、眼科はそれに付属専門みたいになってしまった。


そしてさらに、コンタクトレンズに関しては、「処方箋」なしでもネット通販で買えるようになっている。
それを私も利用してきた。

今回は、どうもレンズの度が合わなくなってきていると感じ、「ああ、きちんとしたやりかたで買わねば」と
コンタクトレンズ実売店へ行ったのです。
(「はじめに眼科から処方箋をもらう」という本来本来の方法は、今でも残っていようが、わたしにはそれを使うことができなかった)

で、コンタクトレンズ販売店、わたくし、事前にネットで住所とか名前とか登録していたのです。でその情報登録番号みたいなのを受付で提示したら、
受付さん、「あ、データがあります。以前は○○市にお住まいでしたか?」と。

わたくし、思い出しました。そう、このコンタクトレンズ販売店のチェーン店は、わたくしが人生で初めてコンタクトレンズを買ったこころで、それ以来、長年そこでコンタクトレンズを買っていたところのチェーン店だったのだと。

でもね、15年ぶりくらいに行ったのに、前に暮らしていた住所データ持ちっぱなしだったのかよ!って思いましたw
まあ おかげで、会員割引みたいの適用でしたけど。


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似ている!

2017-09-30 | 思いつきの話・思い出の話
ここ数日来の選挙状況は、わたしがこれまで経験してきた或る時によく似ている。




まずは、1993年の「非自民非共産党政権」発足へと繋がった「第40回衆議院総選挙」」のときにに似ている!

選挙後、日本新党の細川代表を首相とし新生党(代表:小沢一郎)その他、自由民主党と日本共産党を除く当時のその他の政党の連立政権ができた。

で、どうなったのか。 

この政権の功績はあったのかどうか?私は覚えていない。
この政権中に「平成の米騒動」と言われた、コメ不足が起こり「タイ米」などを買った覚えがある。

結局は「寄せ集めの宿命、内輪もめ」やら、細川首相の金銭スキャンダルやらで、一年に満たず政権は瓦解した。





次に、2009年の「民主党政権」発足につながった「第45回衆議院総選挙」の時に似ている!

政権交代、政権交代と盛り上げられて、選挙後、民主党の鳩山代表を首相とし社民党・国民新党との連立政権ができた。当時の社民党党首「福島瑞穂」が大臣やってたのである。

で、どうなったのか。

普天間基地の移転に関する混乱など鳩山首相の数々の迷走により、社民党は連立離脱。
2代目首相カンナオトのときに「東日本大震災」発生するも、またまた迷走(能力不能)により、震災が人災になる。
尖閣諸島で支那漁船が海上保安庁の船に突っ込み、支那漁船船長を逮捕するも「不起訴放免」

またカンナオトは自らの辞任と引き換えに「異常な太陽光発電電気買い上げ制度」を残し、


野田首相まで、約3年ものあいだ日本を壊し続けたのであった。




で、いま、来るべき「第48回衆議院議員総選挙」

なんだか似ていると思うのです。


風とかブームとか、よくありません。 私は前の2回のときにその後の結果も含めて自らの「経験」として感じています。
風やブームに乗るのではなくて、立候補者個人をよく見て投票したいと、勉強しました。

今この国は国難に直面しています。
そのようなときに、「一回お試し」とか「勉強のためには」とか「お灸をすえる」とかしている時間はありません。


過去の「風・ブーム」の戦況及びその後の結果を知る者として、その時代を知らない若い有権者諸君に強く訴えます。



「小池劇場」が日本を滅ぼす(🄬有本香) と。


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「ブログ」というもの

2017-09-16 | 思いつきの話・思い出の話
久々にブログを書く。

このところ、ツイッターで、あれこれつぶやいたりしていて
なかなか、ブログでまとまったものを書くことがめっきり減ってしまった。

ま、もともと私は素人、文才なんかないことは初めから知ってるけど

この「ブログ」、始めたころは

自分勝手な思いではあるけれども、なにか「書く」ということで、
自己満足していた部分が多かった。

今はまた、ツイッターでも一時期ほど多くはつぶやかなくなった。

歳を取ったからなのか、なんなのかは自分でも分からない。

だが、このまま「何も言わない」で終わってしまうとは思わない。

だから、ここにも、また、まとまった文章を書ける時が来るかもしれないし。とにかくここは、私にとっての初めての場所だったから
「広告表示」で放置にはしたくないので、きょうはこんな何でもない文章を書きました。


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屋上ビアガーデンの思い出(その2)

2017-07-17 | 思いつきの話・思い出の話
いろんな話をし、いろいろと料理をつまんだ。そして杯は進んだ。

すると、その「わたしより5歳くらい年長の」連れはまず景色を褒めだした。

連「いい眺めやなあ」
私「そうですか?曇ってますよ?」

そのビルは近辺でも初めにできて当時は高層ビルと言われたが、今ではもっと高いビルに囲まれていてしかも曇天で、屋上とはいえそんなに解放感は感じられなかったのです。

(こんな空だった)



連「いやあ、じつはなあ、」と、目の前に大きくそびえているホテルを指さしてその人は言った。
連「ここのホテルで結婚式やったんや」

私「ああ、それで、この場所に思い出があるのですね」
連「いやあ、それほどでもないけどな・・・」と言いつつ、やはりうれしそうな顔をしている。



私「結婚って、大変じゃないですか?」

私は独身だし、当時の彼を見ていると失礼ながらそんなに給料も高くなさそうだし、晩婚だったらしく、歳のわりには小さい娘さん(小学校に上がる前の子が)三人いらっしゃって、僕はそんなことも思いながら訊いたんです。
すると、その連、曰く、

連「何で大変なん? 結婚したら奥さんもおるし、そのおかげで、かわいい娘が三人もおるんやで! ありがたい話やんか!」と。

いつも職場ではなんだか「お道化た」ような振る舞いをして、どちらかと言えば「できない奴」みたいに扱われていた彼が、
この時は真顔で(でも笑いながら)そう言ったのである。
「幸せ」って、こういうことなのかと、若造の私は偉そうにもそう思った。この人はすごく「自分を持っている人だ」と思った。

ふと気が付くと、その連は、ビールを1杯半くらいしか飲んでいない。

私「ビールがすすんでないみたいですが、○○さんはお酒弱いんでしたっけ?」
連「いやいや、ちがうねん。飲むときは飲むけどな、今日はもう、これだけで幸せやねん」
私「え?もっと飲みたいとか思わないのですか?」
連「そう。幸せになったら、もう、飲まんでもええやんか」
私「ジョッキ1杯半で、もう、いいんですか?」
連「そうそう。きょうは佐倉さんと一緒に話ができて、思わず結婚式の場所も見られて、それから料理も旨いし、本当にもう嬉しいし幸せやねん」

連「本当に、今日はええとこへ連れてきてもろたわ。佐倉さん、ありがとうな!」

そのとき私はすでにジョッキで4・5杯は飲んでいたのだけど、
彼は「幸せになったらもう飲まなくてもいい」と言ったのだ。
呑み放題食べ放題だったから、別に「勘定」を気にしていたわけではなくて、

彼は本当に幸せだったのだ。

そして、私に対する感謝の気持ちを、本当に「演技ではなく(と見えた)」言い続ける。

連「佐倉さんのおかげで、『なんちゃら閣』の『高級料理』も食べれたし」
連「おまけに、結婚式のホテルの前やし」
連「本当に今日は、佐倉さんに感謝感謝やわ」
連「佐倉さんと飲んでいろんな話ができて、ほんまに幸せやなあ」


この人は、ある意味、「悟って」いる。
いや、そもそも、そういう性格なのか、または育ちがいいのか?(確かに市内の超高級住宅街のマンションにお住まいであった)

職場での振る舞いは、演技だったのか?
その振る舞いのせいで、職場での評価が、失礼ながらかなり低くされていることについて、何も気にしていなかったのか?
妻と幼子三人を抱える父として、それでよかったのか?

こんな私の「邪推」も、すべて吹っ飛ばすように彼は「屋上ビアホール」で本当の自分を見せてくれた。



わたしはなぜか、もう、十数年経った今、その人を思い出したのです。

世間の評価や「ありていの幸せとみえること」をこの人は超えていたんだなあと。

風貌も上がらず、職場では「できない奴」と言われながらも、彼個人はそんなこと屁とも思わずに、もっと上位のというか、
ある意味、別の世界を見いたのではないか?と。


当時の私にはもうひとつよくわかっていない部分もあったけど、今になってしみじみそう思うのです。





その後、彼は異動(当時の私から見たら【厄介払い】されたように思った)し、
そして数年後に会社を辞めた。


今は何をしているのか分からないが、年賀状のやり取りはある。

でも私は「今どうしているのですか?」などといった具体的なことは訊かない。
ただただ、年始の挨拶のみを送り、彼もまたそうである。


本当のところはどうなんだかわからないけれど、きっと彼は彼が今いる場所であの時のように「幸せ」にやっているのだと
私は信じている。


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屋上ビアガーデンの思い出(その1)

2017-07-04 | 思いつきの話・思い出の話
屋上ビアガーデン

ほとんど行ったことがなかったし、今でもほとんど行く機会がないのですが、
もう、あれは何年前だったか、10年以上前だと思いますが、
当時同じ職場にいた、わたしより5歳くらい年長の方(職場の役職上の上下関係は無いフラットな関係、以下「連」)と、
職場帰りに「ちょっと一杯(´▽`)」てな感じで
特にどころ決めたわけでもなく、居酒屋みたいなところならどこでもいいという感じで
2人で出かけて、
たまたま、職場の近所のビルの屋上で「ビアガーデン」があって、

私「ここへ行ってみましょうか?」
連「もうお任せでどこでもええよ」
私「私は屋上ビアガーデンって行ったことがないので、行きたいと思ってるんですけど、ここに決めてもいいですか?」
連「ああ、ビアガーデン行ってみたいんかいな。そしたら行こかー。そやけど、料理(あて)はそんなに期待できへんかもしらんで」
私「ビアガーデンって枝豆とかポテトフライとかくらいだって聞いてますけど、でもここは『○○閣』の直営なんですよ」(注:『○○閣』というのは、某地の老舗支那料理店)
連「『○○閣』?なにそれ?」
私「かくかくしかじか・・・」
連「それはおもろい。決まりや、行ってみよ!」

確か当時、3,000円 飲み放題食べ放題だったと思います。

料理(あて)はバイキンク形式、ビールはもちろんその他サワー(チューハイ)類とかソフトドリンクとはセルフサービスで自由に、そんな屋上ビアガーデンでした。

連「屋上ビアガーデンでこんな上等な料理て、初めてや。」
私「そうなんですか?」
連「そや。その、なんや、なんちゃら閣、それやろ?」
私「『○○閣』です。」
連「そうそうそれや、それ、なんで知っとったん?」
私「学生時代に某地に住んでいまして、支那語の勉強をしてましたこともあって気にはしてたんです。でも『○○閣』なんかとても当時の貧乏学生が行けるような店でもなかったので・・・」
連「『○○閣』、知らんかったけど、なんかすごい店なんやなあ」
私「はい。ここで働くようになってからこのビルに『○○閣』の支店(屋上ビアガーデンのビルの中にある『○○閣』の実店舗)があることも気が付いていたんですけど、支那料理店に一人で行くのもいろいろ行きづらくて。」
連「へえ。おひとりさまが嫌やから、知ってても行かれへんかったん?」
私「いえ、おひとりさまが嫌ということではないんですけど、支那料理って大皿で出てくるでしょう、だから、一人で行くような所ではないと・・・」

連「なんや、そしたら、みんな誘って行ったらよかったんやんか。」
私「いやいやいやいやいや、私はまだまだ下っ端ですから、そんな、皆さんを引き連れて行くこともできないですし、なにせ『○○閣』ですよ、それなりにお値段も張りますし・・・」

連「なるほどな。佐倉さんはいろいろ気ぃ遣ってるんや・・・」
私「気を遣うというのともなんか違いますけど、なんか・・・」
連「まあ佐倉さんは優しい人やからな。」

実店舗の料理よりは値段の分それなりに「格」を下げているであろうが、そこのビアガーデンのバイキングは、確かにおいしかった。

その時も、ちょうどこんな梅雨空の曇天

でしたが、いろいろと話をして、楽しかったのです。

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(つづく・・・





24時間テレビの思い出の話

2017-06-25 | 思いつきの話・思い出の話
さきはおのがツイート転載のみなりたれば「今度はちゃんとしたのを書きます」といひしがのちにおもひかはりて「ツイッターのつぶやきをまとめて文の体裁を整えてブログに載せるのも全然おかしくなくそもそももとはすべて自分の書いたものなのだからそれでいいじゃん!」とてするなり
-- ✂ ------ 前置きおわり ------ ✂ --

いつの年だったか正確には覚えていないのだが、

「24時間テレビ」で、

「病後の西城秀樹さんが初めて生放送でヤングマンを歌う」という、「企画」があり、

またあの番組らしいイカニモな演出で盛り上げたその歌い出しの一瞬、西城さんが、「え?」って顔をなさった。(私にはそう見えた)

すぐ歌手の顔に戻ったが、私はその瞬間を見た。

このザックリした記憶をザザッと検索したところ、みて感じたことは人それぞれながら「24時間テレビでそういう企画があった」のはたしからしい。
というか、たしかだ。

そのときすでに私はあの番組の偽善というかウソというか、そういうところを知ったあとだったからそれを見なくなって久しかったのだが、

「西城秀樹 復活!」のところだけは観ていたのである。子供のころからのヒーローの一人だから。「ヒデキ」だから。

あの瞬間の、あの西城さんの、あの「え?」 今でも覚えている、わすれない。

「口パク用の音(カラオケ)」が流れたのだ。

あの番組は、自らの「企画」の演出のために視聴者はおろか西城秀樹さんご本人をも騙したのだ!と、今でも私はそう思っている。


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数時間国際国内旅行の話

2017-06-04 | 旅行の話
これを「旅行の話」に括っていいのかどうか、
そして「ツイッター」のつぶやきをブログにまとめるのもどうか、と、
いろいろ思うところあるのですが、

今日、私がつぶやいたある一連のものを、ここに残しておこうと思います。


(ここからいくつかのツイートの写し)

「さあ、これから2路線乗り継ぎの旅が始まる!」

「旅は終わった。「英國屋」でひと休み。ふと、目をやると、なんと手鏡出して化粧している女性がいる……。ここ、「英國屋」やで、しかし。なんでやねん!」

「各国人(欧米、台湾、大阪、南朝鮮、ASEAN、関東など)が集う店の店員は印度で、そこから旅立ち、2路線乗り継ぎで、いま「英國」にいる。このあとは「新潟」へ移動する予定」

「「新潟」を離れると私は「お菓子の国」に迷い込んでしばらく彷徨い、「虎の国」に。目薬だと言い張る青いSを連れて「伊勢」で名物を買った。」

「そして地上に出てみるとそこはOという大きな駅だった。雑踏に紛れながら西へ向かい、「熊本」、ついでに「天王寺の有名なアメ菓子」を連れて、またまた西へ歩き、ついに「点F」に辿り着いたのであった。おお、素晴らしきこの、数時間国際国内旅行よ!」

(ここまでいくつかのツイートの写し)(すべて私がしたツイート、一部文章がおかしいところ微小な訂正あるも、ほぼそのまま)


嗚呼素晴らしき哉!数時間国際国内旅行!


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(すみません、次はもっとちゃんとしたの書きます…

その後の顛末(八田與一銅像事件)

2017-05-21 | 思いつきの話・思い出の話
その後の顛末を追記します。

容疑者(というよりも自ら犯行をSNSで告白したうえで出頭した)が、捕まりました。
日本では「元台北市議の男」としか報道されなかったが、「李承龍」という中華民國籍の男と、共犯の女が逮捕されました。
この李承龍という男、元台北市議という肩書とはいえ、その実態は「親中・反日」の活動家であるとも聞きました。

被害にあった八田先生の銅像は、別に有った八田先生の「胸像」の頭部を利用して、迅速に緊急修理が行われました。
台南市の頼清徳市長(民主進歩党)はじめ多くの台湾の人々の尽力、多くの寄付金(日本からも寄付金が寄せられたそうです)によって、
5月8日の式典までに修理が完了し、式典は無事に執り行われました。(5月8日は先生の命日、記念式典が行われる)
修理のために使用した「胸像」については、今後、時間をかけて復元するとのことです。

やはり、「八田與一」先生は台湾の皆さんに愛されています。
おなじ日本人として誇らしく、うれしく、感謝の気持ちでいっぱいです。


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とにかく悲しい

2017-04-16 | 思いつきの話・思い出の話
台湾南部の灌漑に尽力された「八田與一」先生。

  

八田先生が作られた烏山頭ダムを見下ろす丘の上、
先生のお墓の前にある先生の銅像の首が刎ねられ、
頭部が何者かに持ち去られてしまいました。

一報に触れて、私は、犯人への怒りがこみあげました。許せません。
そして、とにかく悲しくてなりません。

八田與一先生のことは、このブログでも以前書いています。
(2015年1月26日 旅行の話)

八田與一先生は、
台湾では教科書に載る偉人で、台湾と日本の共通の恩人です。
そんな八田先生の首が刎ねられるとは!


とにかく、とにかく、悲しくてたまりません。

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