湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

逗子開成にまつわる話

2016-11-21 02:30:34 | 文学
昨日行われた第25回逗子海岸流鏑馬の特別企画、逗子開成学園和太鼓部演奏。

オリジナリティと伝統を兼ね備えたレベルの高いパフォーマンスを代々受け継いで、イベントで地域の人々を楽しませてくれるいい部活ですよね~。
今月16日にAが講演させていただいた地域の変遷とゆかりの文学でも、逗子開成にまつわるお話を少しさせていただきました。
それはこんな内容でした。
昭和53年平林たい子文学賞を受賞した「七里ヶ浜」の作者、宮内寒弥は逗子開成中学ボート遭難事件の責任をとって退職し逗子を去った教師の息子さんです。68年を経て事故の背景の真相を描いたということで、受賞当時話題になりました。
作中で「石塚」となっている、明治43年に逗子開成中学を去った教師は岡山で婿養子になり、遭難事故の関係者・責任者として取りざたされていた「石塚」という名前を捨てて人生をやり直すことになります。彼は息子に教科書以外の書物を読むことを禁じます。こっそり入手した文学全集を配本途中で父親に見つかって読む前に燃やされた恨みから、逆に意地になったかのように上京後小説家を志した息子は、作家・宮内寒弥としてデビューしました。そして還暦を過ぎてから鎌倉で暮らしている内に、蘆花の「不如帰」が父親に与えた影響を、自分の身辺整理のひとつとして確かめようと思い立って、ボート遭難事故を知る人に取材を始めます。それをセミフィクション的に書いたのが「七里ヶ浜」です。東郷平八郎や徳冨蘆花も列席した遭難生徒追弔大会で歌われた「真白き富士の根」又は「七里ヶ浜の哀歌」を作詞した三角錫子教諭のエピソードもリアルに描かれています。当時逗子開成の近くに住んでいて、亡くなった男子生徒との交流もあり、遺体が引き揚げられるのをずっと逗子海岸で待っていたそうです。彼女と主人公の間には縁談ももちあがっていたのですが、ボート遭難事故のせいで水の泡となりました。

明治中期から昭和初期の逗子は結核の療養地で、それが逗子ゆかりの文学にも大きく影響というか貢献しているという事もお話したのですが、三角錫子先生が逗子にやって来たきっかけも結核療養でした。それまでもかなり波乱の人生だったのですが、ヒット曲「真白き富士の根」作詞者というだけで終わらずその後も教育界で頑張り、常盤松女学校を創設しました。

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