青蘊さんという方から、私の「今一度、天皇陛下の生前譲位について私見」にコメントいただき、そのコメントでご紹介していただいた記事を読ませていただいた。
その青蘊さんの「目に見えないものの力」に対して私がコメントしたものに対して、下記のようにコメント返しくださった。
招魂神社から靖国神社 (青蘊)
2017-03-20 08:11:28
幕末維新の名称変更と軍の変遷を考えなければ靖国は権力の功労者をただ祀ることにまります。
覇権により植民地化を守る戦いと植民地化する戦いを同じと考えることは同じ過ちをくりかえすことになります。
権力を持てば何をしても良いと考えるのは、どのような結果を招くかを今の権力者が見せてくれるようです。
幼稚園出身者の職業から判断することは、どのように仕事と向き合っているか知らずに語ることになり、今の医療や企業のかかえる歪みを助長することになると思います。
権力者として祀られる霊よりも名もなき霊の弔いに務める姿に統一する国作りのスメル精神を感じます。
危惧している私は、何を務めているのでしょう。
冒頭の画像は敵を弔う静男の舞 古への日本の敵を弔う精神から争いを収束する思考に感心します。
むずかしい問題なので、もうこのまま終わりにさせていただこうとも思っていたが、それも無責任のような気がするので、もう一度コメントさせていただく代わりに記事にすることにする。
*
(塚本幼稚園)出身者の職業のみから判断することは単略だったかもしれませんが、しかし、(世間的に)立派な職業に就いていられる(私の知り合いの)塚本幼稚園出身者達は、職業が立派なだけではなく、人間的にも立派な方々です。
その人たちが、いまの医療や企業のかかえる歪みを助長することは、私にはまず考えられません。
そこまでは踏み込んで書かなかったのですが、私としては、そこまでの気持ちを込めて、例に挙げさせていただきました。
ニュース等で見ている限りでは、「いいところは何もない幼稚園」であるかのように報道されていますが、私が間接的に知る塚本幼稚園は、そこまで極悪非道の幼稚園ではなかったといことを書いたまでです。
その後、情勢が変わって、そういう幼稚園になったのかもしれませんが、私の知る限りではという前提のもとに書かせていただきました。
私は、最近のマスコミの、付和雷同的な報道には少なからず疑問をもっているものですから、たまたま、今回知っている幼稚園が槍玉にあげられている?ことから、少し疑義を呈してみたまでです。
また一人の人間として、たとえ罪を犯した人々に対してでも、あたかも自分は完全無欠の人間だと言わんばかりの姿勢で(罪を犯した)人々を攻撃するのは、どうかと思うところもあります。
人間、神様でなければ、完全無欠の人間などいません。
人を攻撃する前に、まず自分という人間を顧みるという姿勢も忘れたくないと思います。
それからもう一点、天皇陛下が名もなき御霊の慰霊に、というくだりですが、私が言いたいのは、日本を貶めようと画策する国々の慰霊に出かけられるのなら、それより先に、天皇陛下が守るべきこの国の「お国のため、天皇陛下のために戦った御霊の慰霊」をこそと書いたのです。
日本は、日本を貶めようと画策する国々がいうほど悪いことはしていません。
間違った自虐史により、洗脳されている国民が多いことをこそ嘆かなければなりません。
それなのに、天皇皇后両陛下は、その日本を貶めようと画策する国々に対して謝罪の旅で出られます。
これほど日本を貶める行為が許されるわけはありません。
まして、国民の血税によって立っていられる方々でありますれば、余計に。
私は皇室は必要と考える者ですが、しかし、この国のためにならない慰霊の旅などを今後も続けられるのでしたら、皇室不要論が国民の間から湧き上がってきても、これはもうとどめようもないことかと。
青蘊さんの記事からは話が逸れてしまいましたが、物事を深くお考えになられる青蘊さんなら、私のこの気持ちはご理解いただけるかと。
国民の国民による皇室であれば持つべし国守(も)る御意志 biko
国民を思う陛下と思ふゆゑわれらは仰ぐ天皇陛下 biko
慰霊する旅とはすなはちどの国の慰霊をすなる天皇陛下 biko
皇室が必要なりと思ふゆゑ人は皇室尊崇すなり biko
皇室を不要と思ふことあらばこれほど皇室あがめざらめや biko
祭祀なき皇室なれば皇室の存在意義はもはやあらざり biko
外国(とつくに)に出かけるひまに心込めこの国祈ることが肝要 biko
災害の多き遠因祭祀なきお上のせいと思ふ国民 biko
これ以上災害起こらぬ国にするために祭祀をしたまへお上 biko
その青蘊さんの「目に見えないものの力」に対して私がコメントしたものに対して、下記のようにコメント返しくださった。
招魂神社から靖国神社 (青蘊)
2017-03-20 08:11:28
幕末維新の名称変更と軍の変遷を考えなければ靖国は権力の功労者をただ祀ることにまります。
覇権により植民地化を守る戦いと植民地化する戦いを同じと考えることは同じ過ちをくりかえすことになります。
権力を持てば何をしても良いと考えるのは、どのような結果を招くかを今の権力者が見せてくれるようです。
幼稚園出身者の職業から判断することは、どのように仕事と向き合っているか知らずに語ることになり、今の医療や企業のかかえる歪みを助長することになると思います。
権力者として祀られる霊よりも名もなき霊の弔いに務める姿に統一する国作りのスメル精神を感じます。
危惧している私は、何を務めているのでしょう。
冒頭の画像は敵を弔う静男の舞 古への日本の敵を弔う精神から争いを収束する思考に感心します。
むずかしい問題なので、もうこのまま終わりにさせていただこうとも思っていたが、それも無責任のような気がするので、もう一度コメントさせていただく代わりに記事にすることにする。
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(塚本幼稚園)出身者の職業のみから判断することは単略だったかもしれませんが、しかし、(世間的に)立派な職業に就いていられる(私の知り合いの)塚本幼稚園出身者達は、職業が立派なだけではなく、人間的にも立派な方々です。
その人たちが、いまの医療や企業のかかえる歪みを助長することは、私にはまず考えられません。
そこまでは踏み込んで書かなかったのですが、私としては、そこまでの気持ちを込めて、例に挙げさせていただきました。
ニュース等で見ている限りでは、「いいところは何もない幼稚園」であるかのように報道されていますが、私が間接的に知る塚本幼稚園は、そこまで極悪非道の幼稚園ではなかったといことを書いたまでです。
その後、情勢が変わって、そういう幼稚園になったのかもしれませんが、私の知る限りではという前提のもとに書かせていただきました。
私は、最近のマスコミの、付和雷同的な報道には少なからず疑問をもっているものですから、たまたま、今回知っている幼稚園が槍玉にあげられている?ことから、少し疑義を呈してみたまでです。
また一人の人間として、たとえ罪を犯した人々に対してでも、あたかも自分は完全無欠の人間だと言わんばかりの姿勢で(罪を犯した)人々を攻撃するのは、どうかと思うところもあります。
人間、神様でなければ、完全無欠の人間などいません。
人を攻撃する前に、まず自分という人間を顧みるという姿勢も忘れたくないと思います。
それからもう一点、天皇陛下が名もなき御霊の慰霊に、というくだりですが、私が言いたいのは、日本を貶めようと画策する国々の慰霊に出かけられるのなら、それより先に、天皇陛下が守るべきこの国の「お国のため、天皇陛下のために戦った御霊の慰霊」をこそと書いたのです。
日本は、日本を貶めようと画策する国々がいうほど悪いことはしていません。
間違った自虐史により、洗脳されている国民が多いことをこそ嘆かなければなりません。
それなのに、天皇皇后両陛下は、その日本を貶めようと画策する国々に対して謝罪の旅で出られます。
これほど日本を貶める行為が許されるわけはありません。
まして、国民の血税によって立っていられる方々でありますれば、余計に。
私は皇室は必要と考える者ですが、しかし、この国のためにならない慰霊の旅などを今後も続けられるのでしたら、皇室不要論が国民の間から湧き上がってきても、これはもうとどめようもないことかと。
青蘊さんの記事からは話が逸れてしまいましたが、物事を深くお考えになられる青蘊さんなら、私のこの気持ちはご理解いただけるかと。
国民の国民による皇室であれば持つべし国守(も)る御意志 biko
国民を思う陛下と思ふゆゑわれらは仰ぐ天皇陛下 biko
慰霊する旅とはすなはちどの国の慰霊をすなる天皇陛下 biko
皇室が必要なりと思ふゆゑ人は皇室尊崇すなり biko
皇室を不要と思ふことあらばこれほど皇室あがめざらめや biko
祭祀なき皇室なれば皇室の存在意義はもはやあらざり biko
外国(とつくに)に出かけるひまに心込めこの国祈ることが肝要 biko
災害の多き遠因祭祀なきお上のせいと思ふ国民 biko
これ以上災害起こらぬ国にするために祭祀をしたまへお上 biko