蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「大久保脳病院」 絵葉書 (明治)

2017年02月26日 | 医学関係
   

 大久保脳病院 絵葉書 〔右は表面〕 

 掲載写真は、下記の5枚である。

 ・大久保脳病院研究室
 ・大久保脳病院図書室
 ・電気●
 ・〔説明なし〕
 ・蒸気機関
 ・大久保脳病院附属春日園大躑躅

 なお、大久保は躑躅 つつじ でも有名だったようで、下の絵葉書には、「AZALEA AT OKUBO.」とある。

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「第三回日本医学大会」 絵葉書 (1910.4)

2017年02月21日 | 医学関係
  
 
 梨本宮守正殿下
   会頭青山〔青山胤道〕博士  副会頭佐多〔佐多愛彦〕博士 準備委員長緒方〔緒方正清〕博士
     中ノ島公会堂 大阪府立高等医学校

   東京医事新誌局発行(非売品)

 この絵葉書は、一九一〇年〔明治四十三年〕四月に大阪で開催された第三回日本医学大会関連の記念絵葉書と思われる。
 なお、この絵葉書にある中之島公会堂は、昔のものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「青山脳病院」 年賀状・絵葉書 (1907.12)

2017年02月14日 | 医学関係
 

 上の写真は、明治四十年 〔一九〇七年〕 十二月三十一日の日付印が押された年賀はがきである。通信欄には、下の内容のスタンプが押されている。

 裏面  : 謹賀新正 明治四十一年 一月元旦 青山病院邸内帝国脳病院 Dr. K. Saito , Director des Aoyama Hospitals in Tokyo Japan.
 スタンプ:  東京青山 脳病神経病 帝国脳病院 | 青山病院 精神病専門 電話新橋三六四五番

 なお、「東京赤坂 山腦病院繪葉書」とある袋の絵葉書は、次の4枚である。

     

 ・Dr. K. Saito 〔斉藤紀一〕, Director des Aoyama Hospitals iu Tokyo Japan. 青山脳病院
 ・Direct des Aoyama Hospitals in Akasaka Tokyo Japan 青山脳病院羅馬式建築部
 ・The Bnilding of Roman Style in the Aoyama Hospitals. 青山脳病院娯楽室ノ図
 ・The hause of Amusement and Spot 娯楽室

 

 Dr. Med. K. Saito
  Director des Aoyama Hospitals in Tokyo Japan.

     帝国脳病院 青山病院院長 ドクトル 齋藤紀一

 明治二十四年東京帝国医科大学ニ入校シ病理学内外科学衛生学精神病学及法医学等ヲ撰修シ同二十七年同校撰科卒業同二十八年帝国脳病院長トナリ同三十一年脳神経精神及脊髄病研究ノ為メ欧行仏国パリス大学ニ入リ同三十四年独乙伯林大学ヘ転校シ同三十六年同校卒業シドクトルメヂチネノ学位ヲ得テ同三十七年皈朝青山脳病院ノ設立工事ヲ起シ同四十年竣功シ同四十一年再ヒ脳神経専門学研究ノ為メ欧行シ米国ヨリ仏国西班牙和蘭英国独乙墺太利伊国瑞典丁抹露西亜其他十余ヶ国ニ於テ脳神経精神脊髄病等ノ治療法幷ニ看護手配等ニ関スル視察ヲナシ同四十四年帰朝ス

 上の人物写真と説明文は、絵葉書のものである。 

 青山病院帝国脳病院

 赤坂区青山南町五丁目に在り院長をドクトルメディネー齋藤紀一とし、脳病、精髄病、神経病治療を専門とす。内、青山病院は明治三十六年四月の創立に係り、病室の構造は、独逸国ハーレー在ニューテレーベン精神病院を模範とし、室を男女に区別し、右翼に女室廿五、左翼に男室三十二、及脳病室二十を有す。帝国脳病院は、三十九年十月の創立にして、仏国巴里に於けるアルグアイチ、ホスピタールに模型を取り、羅馬式脳病室十七室を有する二階建也、其外、娯楽室、伝染病隔離室、死体室、運動場等の設備あり。診察時間は、偶数日の午前八時より午後一時迄を院長診察とし、奇数日の午前八時より午後一時迄を医長診察とす。診察料は二円、処方箋五円、診断書一円以上十五円迄、往診は市内五円以上、府下十円以上、地方五十円以上、入院料は特別二等三円五十銭、特等二円、一等五十銭、二等一円、三等七十五銭也。

 上は、明治四十年発行の『東京案内』下巻 166-167頁 の記述である。

  

 青山脳病院全焼 
  患者多数無惨の焼死
   大正十三年十二月二十九日


 大正十三年十二月廿九日午前零時半赤阪区青山南町の青山脳病院炊事場から発火し本館及新館附属舎等四百室を全焼した外隣接民家二階三戸も焼失し同三時半頃に至って鎮火した。元来同病院は脳病専門の事とて癲癇、狂人等三百五十余名を収容しあり、出火と共に極力収容に努めたが何分狂人とあって意の如くならず多数の患者は無惨の焼死を遂げ同午後一時までに十九の黒焦死体を発見した程である。これが原因は同病院炊事場で患者を賑はすべき餅つきを行った残火より此大事を惹起したのである。写真は焼失せる病院の残骸上と鎮火直後の現場死体発掘の光景である。

 上左の写真と解説は、大正十四年 〔一九二五年〕 二月一日発行の 『写真通信』 第百卅貮号 大正拾四年 貮月号 のものである。

 死者十九名を出したる青山脳病院の焼跡

 十二月二十九日午前零時二十五分東京青山南町三丁目なる青山脳病院の賄所から発火し、折柄北西の烈風に煽られて火は忽ち平屋本館の燃え拡がり更に二階建新館に延焼し同病院全部総建坪三千坪の大建築を全焼して午前三時二十分漸く鎮火した 当時病院内には公費患者二百四十三名の外に私費患者五十五名合計二百九十八名の患者を収容してゐたが、出火と共に入院患者は何れも窓の鉄棒に取りすがって悲鳴叫喚を挙げたが重病患者は戸締り厳重な為救助思ふに任せず遂に十九名の惨死者を出すに至った。写真は同病院焼跡の光景で中央に白木の箱を積めるは焼死体を納むる棺である。

 上右の写真と解説は、大正十四年二月一日発行の 『歴史写真』 第百三十九号 大正十四年 二月号 のものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『医師写真帖』 医事衛生研究会 (1910.7)

2014年08月24日 | 医学関係
 医師写真帖

      

 ◎前言1頁

 ◎題字など3頁 

 ◎学校写真、故人写真など9頁

 ・東京帝国大学医科大学正門、福岡医科大学、東京医科大学、京都医科大学
 ・大阪医学専門学校、千葉医学専門学校、仙台医学専門学校、金沢医学専門学校
 ・岡山医学専門学校、熊本医学専門学校、長崎医学専門学校、京都医学専門学校
 ・台湾総督府医学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、慈恵会医学専門学校
 ・台湾総督府医学校西北部外観、台湾台北医院新築病棟第八、東京歯科医学専門学校、福岡医科大学付属医院
 ・東京医科大学産科婦人科手術室、東京医科大学ニ於ケル 入沢博士内科臨床講義室、東京医科大学ニ於ケル 近藤博士外科大手術室、東京医科大学 附属医院小児科病室
 ・京都医科大学 中西博士内科臨床講義室、福岡医科大学ニ於ケル 第二内科臨床講義室、京都医科大学 高山博士婦人科手術室、福岡医科大学ニ於ケル 三宅博士外科臨床講義室〔二枚〕
 ・台北医院ニ於ケル 長野博士外科大手術室、京都医科大学ニ於ケル 松岡博士整形外科手術室、故佐藤尚中氏、故陸軍々医総監 医学博士子爵 橋本綱常氏、故長与専斉氏、故陸軍々総監 松本順氏 
 ・故緒方洪庵氏、故陸軍々医監 緒方洪準氏、故林強氏、故陸軍々総監 林紀氏、故海軍軍医総監 戸塚文海氏、故 医学博士 田口和美氏、故医学博士 榊俶氏、故医学博士 樫村清徳

 ◎医師写真221頁 〔以下、左の数字はページ数〕 

 1 東京帝国大学医科大学長 医学博士 青山胤通氏、東京帝国大学医科大学教授 土肥慶蔵氏、東京帝国大学医科大学名誉教授 医学博士 三宅秀、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 佐藤三吉氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 三浦謹之助氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 緒方正規氏、東京帝国大学医科大学教授 岡田和一郎氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 隈川宗雄

 2 東京医科大学教授 医学博士 高橋順太郎氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 片山國嘉氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 河本重次郎氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 小金井良精氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 三浦守治氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 大澤謙二氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 入澤達吉氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 近藤次繁

 3 東京医科大学教授 医学博士 大澤岳太郎氏、高橋順太郎氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 田代義徳氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 呉秀三氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 弘田長氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 山極勝三郎氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 木下正中氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 林春雄氏、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 宮本叔

 5 東京帝国大学医科大学講師 医学士 橋爪哲造氏、医学博士 北里柴三郎氏、東京伝染病研究所第一部長 医学博士 北島多一氏、東京伝染病研究所 医学博士 宮島幹之助氏、内科 医学博士 眞木等氏、岡村病院長 (皮膚科) 医学博士 岡村龍彦氏、(胃腸病専門) ドクトル 杉山源作氏、(小児科) 医学士 内田愼太郎

 6 順天堂医院長 陸軍軍医総監 医学博士 男爵 佐藤進氏、順天堂医院 医学博士 佐藤達次郎氏、順天堂病院 (産婦人科) 医学博士 吾妻勝剛氏、(泌尿生殖器科) 医学博士 阿久津三郎氏、明々堂眼科医院長 医学士 須田卓爾氏、(耳鼻咽喉科) ドクトル 小此木信六郎氏、松山医院長 (内科) ドクトルメヂチーネ 松山陽太郎氏、明治病院長 (内科) 医学士 鳥居春洋

 11 東京病院副院長(外科) エル・アル・シーヱス エル・アル・シービー 高木喜寛氏、東京病院医員、エル・アル・シーヱス エル・アル・シービー 高木兼二氏、医学博士 山口秀高氏、(内科)森安連吉氏、(内科)刈谷喜久二氏、(刈谷医院医員) 遠藤政一氏、赤阪病院長 (眼科) ドクトル ホイトニー氏、(内科) 山川宗治

 16 医学博士 男爵 池田謙斎、侍医寮頭 医学博士 男爵 岡玄卿氏、侍医 医学博士 渡邊悌二郎氏、侍医 片山芳林氏、侍医 医学博士 伊勢錠五郎氏、(産科 婦人科) ドクトルメヂチーネ 侍医 田澤敬與氏、侍医 竹井静氏 

 22 陸軍々医総監 男爵 石黒忠悳氏、陸軍軍医総監 医学博士 男爵 小池正直氏、陸軍軍務局長 陸軍軍医総監 医学博士 文学博士 森林太郎氏、陸軍省医務局衛生課長 陸軍一等軍医正 大西龜次郎氏、陸軍省医務局医事課長 陸軍一等軍医正 矢島柳三郎氏、陸軍省医務局課員 陸軍三等軍医正 村山有氏、陸軍省医務局課員 陸軍三等軍医正 薬学士 井上圓治氏、陸軍々医監 落合泰蔵

 54 福岡県医師会長 医術開業試験委員 医学博士 熊谷玄旦氏、前福岡医科大学長 医学博士 大森治豐氏、久留米市病院長 医学士 今井楢三氏、(私立小倉病院長) ドクトルメヂチーネ 浦野文彦氏、(内科 小児科) 内野慶太郎氏、医術開業試験委員 勲六等 医学士 榎本與七郎氏、門司病院長 医学士 廣澤豊作氏、外科 ドクトルメヂチーネ 溝口喜六

 86 金沢医学専門学校長 医学博士 高安右人氏、金沢医学専門学校教授 医学博士 金子治郎氏、金沢医学専門学校教授 金沢病院長 医学士 山崎幹氏、金沢医学専門学校教授 医学博士 松原三郎氏、金沢医学専門学校教授 医学士 下平用彩氏、金沢医学専門学校教授 医学士 鬼頭英氏、金沢医学専門学校教授 医学士 宮田篤郎氏、医学士 山田謙治

 120 台湾新竹医院 小林唯三郎氏、安田稲實氏、田原医院長 田原千城氏、台湾新竹医院 織田秀時氏、榊原繁氏、三村静氏、早田今朝治氏、台湾鉄道部医務嘱託 正八位 勲六等 梅崎久一

 204 (眼科) 医学得業士 大野木直吉氏、首藤環氏、海軍々医総監 医学博士 子爵 實吉安純氏、鈴木医院長 (肺病及呼吸器病) 海軍軍医総監 医学博士 鈴木孝之助氏、村上荘三郎氏、毛利功氏、東京病院長 医学博士 男爵 高木兼寛氏、海軍々医総監 戸塚環海氏 

 ◎その他の写真2頁

 222 鹿児島加藤病院附属病室境濱海濱院全景(其ノ一)、鹿児島加藤病院附属病室境濱海濱院全景(其ノ二)
 223 区立函館病院、神経病 脳病 精神病 松村清吾氏の経営になれる 根岸病院 婦人室 脳病室 表門  男子室 廊下〔五枚〕、脳病神経病精神病科 院長奈良林浅次郎氏の経営になれる 加命堂脳病院 之全景、台湾台南私立里見医院分院診察室

 ◎掲載人物の県別索引及び奥付3頁

 明治四拾産年七月六日出版

 著作兼発行者 杉謙二

 発行所 日本衛生新聞社 医事衛生研究会

 ◎医療関係広告18頁

 なお、掲載医師は、1780名〔故人13名、外国人医師1名、女医23名を含む〕である。 

 ○女医23名

 15 
 ・(婦人科 小児科) 女医 鷲山弥生氏 麹町区飯田町三丁目八番地)
 ・女医 高橋瑞氏 日本橋区元大工町九番地(電話本局二一四二番)
 ・ドクトル 井上トモ氏 麹町区中六番町七番地(電話番町一六九三番)
 ・前田園子氏 牛込区北山吹町十二番地
 ・(眼科) ドクトル 女医 宇良田唯子氏 神田区連雀町十八番地
 ・中村田鶴氏 深川区洲崎弁天町一丁目一番地
 ・(婦人科 小児科) 吉田賢氏 京橋区銀座三丁目二十一番地
 ・(婦人科) 女医 小川トシ氏 浅草区象潟町二番地(電話下谷一五三九番)
 41 
 ・河村悦子氏 京都市下京区蛸薬師通河原町東入
 ・今村歌子氏 京都市下京区柳馬場綾小路入南入
 ・合田成尾氏 京都市上京区麩屋町二條下ル
 44 
 ・橘薫氏 大阪市東区今橋 緒方病院内
 ・河越まさよ氏 大阪市北区大仁新道二百三十六番地
 ・(産科 婦人科) 萩谷清江氏 大阪市南区谷町筋七丁目四番地
 ・(産科 婦人科) 村上琴氏 大阪市北区堂島船大工町十九番地
 61 
 ・太田繁子氏 横浜市平沼町三丁目三十五番地
 66 
 ・多々良産科婦人科病院内 狭間縫子氏 静岡市一番町九十四番地
 70 
 ・(産科 婦人科 小児科) 丹羽美知子氏 三重県津市玉置町四十番地 
 84 
 ・高野ナヲ氏 富山市南田町七十八番地
 93 
 ・小野安氏 神戸市三宅町一丁目四十八番地ノ一
 ・私立神戸衛生病院長 野間キク氏 神戸市 合旗塚通五丁目十八番屋敷
 ・大槻とき氏 神戸市元町四丁目五番地
 158 
 ・早坂千賀子氏 北海道函館惠比須町十三番地
 167 
 ・上羽志磨子氏 京都府加佐郡新舞鶴町五百九十五番地 
 221 
 ・(小児科) 女医 高橋小丈氏 東京市牛込区西五軒町三十四番地
 ・ドクトル 大屋米氏 麹町区土手三番町一番地
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『東京脳病院規則并ニ規定』 東京脳病院

2012年10月09日 | 医学関係
 東京脳病院規則并ニ規定  東京田端 東京脳病院 電話下谷二二〇二番 距田端停車場西貮丁

             

 東京脳病院規則

   第一 外来患者診察

 一 診察ハ毎日午前九時ヨリ午后二時マデトス
    但シ急病大患ハ此限ニ非ラス
 一 初メテ診察ヲ請フモノハ受付ヘ宿所姓名職業年齢等ヲ申出ツヘシ
 一 診察料薬価又ハ診断書薬方書等ノ手数料ハ東京医会ノ規約ニ準シテ各別ニ且ツ即時之ヲ申受クヘシ

   第二 往診

 一 往診ハ午后トス
 一 初メテ往診ヲ請フモノハ受付ヘ宿所姓名職業年齢及病歴ノ大要ヲ申出ツヘシ
 一 往診ハ往診料トシテ初診金五圓以上再診金三圓以上ヲ毎回申受クヘシ
 一 一里以外遠隔ノ地ニ往診ヲ請フモノハ遠近ニ応シテ特別ニ往診料ヲ申受クヘシ

   第三 入院

 一 本院ハ精神病及脳脊髄精神系病患者ノ入院治療ヲ主トス
    但シ伝染病患者ハ伝染病室ノ備ナキヲ以テ之ヲ謝絶ス
 一 入院ヲ請フモノハ一応医院ノ診察ヲ受ケテ其承諾ヲ受クヘシ
 〔以下省略〕

 東京脳病院規定

 ◎入院者一般ニ関スル件

  第一 入院ノ時ハ別紙書式ノ如ク入院委託書ヲ差出サルヽ事
     但シ本院別ニ定ムル所ノ書式ニ従ヒ入院委託書ヲ差出サルヽ事
 〔以下省略〕

 精神病者入院ニ関スル件

 第十七 精神病者入院委託者ハ法定ノ精神病看護義務者ナルヘキ事
      但シ法定ノ看護義務者トハ(第一)後見人(第二)配偶者(第三)父母(第四)戸主(第五)親族会ノ撰定者以上順序中ノ一人ヲ云フ(明治三十三年三月九日発布)法律第三拾八号精神病看護法(参照)
 〔以下省略〕

  注意

 一 医員事務員看護人ニ私ニ金銭物品ヲ贈ラルヽ事ヲ謝絶ス
 〔以下省略〕
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「解剖碑 〔観臓記念碑〕 の除幕式」 (1922.7)

2012年08月13日 | 医学関係
 

 小塚ッ原に建立せられたる解剖碑 〔観臓記念碑〕 の除幕式

    百五十年前本邦最初の人体解剖を試みたる記念

 今より百五十年前の明和八年 〔一七七一年〕 三月江戸千住の小塚ッ原に於て時の徳川幕府は当時の有名な医師前田蘭花 〔前野良沢〕 、杉田玄白、中川潤庵 〔中川淳庵〕 の三学者を召し其頃和蘭 オランダ より伝来したる人体の構造図に基づき同所に於て斬首したる一罪人の死体を以て本邦最初の立会解剖を試みたところが、在来の漢法医学とは全く異り蘭書の解剖図が実際の人体構造と寸分相異なきこと判明し茲 ここ に期せずして日本医学界の革命を喚起するに至った。乃 そこ で帝国医科大学の呉 〔呉秀三〕 、宮本 〔宮本仲〕 、富士川 〔富士川游〕 の諸博士発起して此の因縁深き地を永く記念せんがため同所に『解剖碑』の建立を企画し大正十一年六月竣工、七月二日除幕式を挙行した。写真は記念碑前の右より宮本、呉博士、左石黒子爵 〔石黒忠悳〕 其他である。

 上の写真と説明は、『歴史写真』 第百九号 大正十一年 〔一九二二年〕 八月一日発行 に掲載されたものである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『脳丸』 山崎帝国堂薬房 (明治)

2012年08月08日 | 医学関係
    大日本帝国脳病院長ドクトル斉藤紀一先生方剤
  脳丸発売之趣旨

 田島博士曰く、天地の顕象は錯綜せり万物の形質は複雑なり然れども之を以て人間社会の事物に比較せば太た簡にして至単なり彼の星辰の循環して止まざる、雲霧の集散常なきは此の人事交通の頻繁なるに孰れぞ彼の山川草木の雑然として禽獣蟲魚の紛然たるは此の世態人情の錯然たるい若かんやと宣なる哉維新以来我国長足の進歩に連れ学術技芸は勿論百事漸く複雑となり労働に代るに精神的勤労を以てし四肢を労せずして脳漿を絞り運動不足にして精神過労を為すに至る之れ近年著しく神経系病脳患者脳病患者等を増加する所以にして亦文明に伴ふ弊害と謂つべきか弊家薬業に従事する数十年常に公衆衛生に心を用ひ聊か社会に尽さんと欲す曩日大日本帝国脳病院長ドクトル斉藤紀一先生い乞ふて神経系脳病薬の最新なる処方を得茲に脳丸と命名して発売するに至る、世の同病患者本剤の為め重患を治療せらるゝに於ては弊舗が責任の一部を尽し得たりとして歓喜措く能はざる所也
                                                   帝国堂 山崎嘉太郎謹白

  脳の側面図     脳の下面図

        

 神経系は脳髄脊髄及び神経に依て組織せられ脳髄を分つて大脳、小脳延髄脳膜と為す延髄より延びて脊骨の背面に在る縦孔内を充せる部を脊髄と名く、全脊骨の長さに沿ふに非ず略ぼ帯の辺にて終り其下部は数多の神経に分れて馬尾状を為す、大脳は思考、記憶、判断等総て高尚なる精神作用を司り小脳は全身の運動を調節し各筋肉の収縮をして互に相矛盾せしめざるの作用を為す神経は脳髄下面及び脊髄の両側より出で身体各部に達す脳髄より出つるものは其数十二対ありて之を脳神経と名け概して頸以上の運動及ひ知覚を司るものなり脊髄より出る神経は三十一対ありて之を脊髄神経と称す頸以下の身体各部に分布し全身の知覚及び運動を分担す延髄は反射運動を司り脳膜は三枚より成りて最も外にあるは鞏膜にして頭骨の裏面に密着し最も内にあるは脈絡膜にして脳髄の表面に密着して之を包めり而して以上二膜の間に在るを蜘蛛膜とし何れも脳髄を保護するの壮置なり脊髄は手足、躯幹の神経と脳髄とを連絡し一方に於ては手足躯幹に於ける反射運動の中枢となるものなり  

  脳丸の主治効能

  

 脳丸の用法
  
   脳丸の定価

 神経系脳病原因及徴候

 ・脳充血 Hyperaemia cerebri. ヒペレーア. チエレブリー (原因) (徴候)
 ・神経衰弱症 Neurastheuie. ノイラスチニー (原因) (徴候)
 ・脊髄炎 Myelitis. ミエリチス (原因) (徴候)
 ・脊髄労 Tades dorsalis. ターベル ドルサアリス (原因) (徴候)
 ・遺精 Pollutionen. ポラルチオーエン (原因)
 ・卒中 Apoplexia. アポプレキシア (原因)
 ・偏頭痛 Hemicranie. ヘミクラニー (原因) (徴候)
 ・便秘 Obstipatioarloi. オブスチバチチアルウ井ー (原因) (徴候)
 ・卵巣炎 Ppphoritia. ホホリチス (原因) (徴候)

 養生心得

 脳充血には頭部 あたま を高くして安臥 らくにね せしめ病室を暗くし頭部及後頸 くびすじ 部を氷嚢 こうりふくろ にて冷却 ひや し手足を温め脳丸を服用して通じを快 こゝろよ くし飲食物を節制 きまりをつけ すべし
 神経衰弱性には精神的事業を徐々 だんゝ に減じ海岸 うみべ 或は山中 やま の空気よき処に転地し按摩法を行ひ又は冷水 みづ にて身体 からを を摩擦し就業 しごと と休憩 やすみ とを適度に相交換し規則正しく戸外 そと 運動を為し食事の時間を確定し可成 なるべく 肉食を選み、アルコール、煙草 たばこ 、茶、珈琲 かうひ 等 とう を節減し脳丸を服用し便通 つうじ を整 とゝの ひ精神を安静 しづか ならしめ房事 まじわり 手淫 ていたづら を厳禁 きびしくきん ずべし

  ◎脊髄炎  
  ◎遺精  
  ◎卵巣炎

 総て脳病神経病患者は可成精神を安靖 しづか にし酒精 さけるい 煙草と房事 いろごと を慎み劇場 しばい 、寄席集会所 よりあい 、祭典式場 まつりのしきじやう 等多数人 おうぜいのひと の群集 おひあふ する場所を避け海辺山中等空気よき処に転地療養し飲食物は滋養に富みたるものを制限 きまりをつけ して用ゆべし

  ◎頭部を炎天に曝露 さらし する等は最も有害なれば厳禁 とゞめ すべし
  ◎房事 いろごと 過度長時 どをすぎながじかん の入浴 ゆいり 、喫煙 たばお 、鯨飲酒 さけのみすぎ 、手淫等は最も有害なれば慎むべし
  ◎常に便通 つうじ に注意し便秘を起さざる様なすを良 よし とす
  ◎煩雑なる事務は一切放棄 なげすて し精神 こゝろ の安逸 きらく を計るべし

 ▲患者の参考▼

  

    
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「文部省報告 11-13」「医術開業試験願」(1875、1886)

2012年05月10日 | 医学関係
◎ 〔明治八年〕文部省報告」11-13号 (1875.3)

 文部省報告 第十壹号
     明治八年 〔一八七五年〕 三月廿五日発行
 本年二月医術開業ヲ請フ者ノ手続ヲ三府ニ達セリ
 右ハ後来医学ニ就クモノ、志向ニ関係アルヲ以テ左ニ其要略ヲ揚ク
 自令新ニ医術開業ヲ請フモノ左ノ試業ヲ遂ケ開業免状ヲ授ケベシ
   但 従来開業ノ医師ハ試業ヲ要セス府県ニ於テ住所姓名年齢等ヲ詳細取調其員数記シ新ニ免状ヲ受ケ開業スル者ト混雑セサル様処分致シ
     文部省ヘ開申スベシ

 試業目科
  甲 物理学化学大意 丙 生理学大意
  乙 解剖学大意   丁 病理学大意
  戊 薬剤学大意   己 内外科大意
  産科眼科口中科等専ラ一科ヲ修ムル者ハ各其局部ノ解剖
  生理病理ノ大意及手術ヲ検メ免状ヲ授クヘシ
 試業ノ上府庁ヨリ文部省ニ具状シ免状ヲ受ケ之ヲ本人ニ交付スベシ

 文部省報告 第十二号
     明治八年三月二十五日発行
 文部省所轄東京湯嶌博物館書籍館ハ嚮ニ展覧会事務局ト合併タリシ処今般更ニ文部省ノ所轄ニ帰セリ物品書籍縦覧手続ハ追テ両館ヨリ広告スヘシ

 文部省報告 第十三号
     明治八年二十七日発行
 第一大学区東京医学校ニ於テ医学予科生徒百人製薬学予科生徒二十人ヲ限リ学力ヲ試験シ入学ヲ許ス齢十六歳以上二十歳迄ニテ志願ノ者ハ来九月三十日迄ニ同校ヘ申出ベシ
 但入学ハ普ク通学科ノ外独逸学算術ノ大意ヲ学ビ得タル者タルベシ


◎ 医術開業試験願 (1886) 

 ・庁務第二号
  明治十九年 〔一八八六年〕 十二月十三日

   医術開業試験願
            ○○県○○国○○郡○○村○○
            ○○番地平民○○長男
                 ○○○○〔氏名〕
                 文久三年十一月生
            現時○○区○○町三丁目三番地
            ○○○○氏名〕方寄留

  私儀明治廿年四月東京ニ於テ医術開業試験相受度別紙書類相添附●殿奉願候也

  明治十九年十二月十三日    ○○○○〔氏名〕
             神田区長○○○○〔氏名〕
             衛生委員○○○○〔氏名〕

    内務卿伯爵山縣有朋殿

 ・履歴書
            ○○○○〔氏名〕
  
   一 明治十三年六月ヨリ同十四年十二月マテ神田区西小川町●明治医学校ニ於テ普通医学修業
   一 明治十五年一月廿五日ヨリ明治十七年四月マテ東京神田区西小川町壱丁目拾五番地東亜医学校ニ於テ更ニ理学化学解剖学動物植物学生理学病理学内科学外科学薬物学眼科学産科学等●●眼科及ヒ産科内外科実地研究仕候也
          
          右之通リ相違無御座候也
                        右○○○○〔氏名〕〔印〕

     明治十七年四月八日  神田区西小川町壱丁目拾五番地
                東亜医学校総理
                    岩佐純 印〔「東亜医学校総理岩佐純」〕

 ・授業證   〔右は張り紙〕「本証明治十八年六月東京府庁エ差出置候也」
    
            ○○○○〔氏名〕

      
  一 理学化学動物学植物学組織学解剖学生理学病理学内科外科眼科薬物学及ヒ内外科眼科産科等臨床講義実地手術学

  右者本校ニ於テ明治十五年一月ヨリ明治十七年四月マテ教授候也

   明治十七年四月 東亜医学校

 ・第十一号
    医術開業前期試験及第之證
          ○○県平民
             ○○○○

   右ハ明治十七年三月東京ニ於テ施行セシ医術開業試験ニ及第ス因テ此證ヲ與フ
 
       明治十七年三月二十一日

    試験委員
   物理学 二等薬剤官従七位 八木秀太郎
   同   東京大学助教授  田中館愛橘
   化学  海軍省御用掛   高橋秀松
   同   内務省一等技手  田原良純
   解剖学     勲五等  三瀬謙三
   同   東京大学御用掛  古川榮
   生理学 海軍大軍医従七位 鈴木孝之助
   同   東京大学助教授  片山國嘉

    試験主事
       内務省書記官従六位勲六等 嶋田恭夫
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「コッホ氏歓迎記念」 絵葉書 (1908.6)

2012年02月22日 | 医学関係
 

 この記念絵葉書には、中央にコッホ、左右には発見の菌の図柄がある。写真の下には、次の説明があり、記念印が捺されている。

  R.Koch.

 ZUR ERINNERUNG AN DEN BESUCH VON
 S.EXGELLENZ PROF. DR.ROBERT KOCH IN JAPAN
JUNI 1908

   東 コツホ氏歓迎記念 京
  明治四十一年六月十六日
      各学会連
    6.JUNI.1908
   〔一部省略〕
   R-BERT KOCH.

 また、『柳塘遺影』には、次の二枚の写真がある。

 

      コツホ博士歓迎会

 細菌学の世界的権威ロベルトコツホ博士の来朝せしは明治四十一年五月下旬なりき。
 吾が医界に於てはこの国賓とも称すべき博士に対して歓迎の催は各処に於て行はれたるが本写真は歌舞伎座に於ける歓迎観劇会の一場面なり。
 桟敷中央なるはコツホ博士夫妻来賓に石黒子爵、北里博士等の顔も見え其他の来会者は何れも医学関係者及び其の家族の人々なり。

 

      コツホ博士歓迎会(其二)

 歓迎観劇会の舞台面なり。長唄囃子連中は芳村伊十郎、杵屋六左衛門(現寒玉)社中、出演せるは当年の名妓五郎及び清香なり。
 本写真二面は二三の関係者の希望により撮影せられたるものにて多くの出席者も知る人少なく且つ先生も博士来朝に就ては歓迎委員として尽力奔走せられたる因縁もあり当時出席せられたる方々の古るき思ひ出の記念ともなるが故茲に掲ぐる事となしたり。
      
 

 なお、上の絵葉書は、「日本結核予防協会発行」のものである。

  結核予防ノ二大恩人

 結核予防の鼻祖コッポ先生〔右上〕 肺病自然療法ノブレーメル先生〔左下〕

      大正博覧会出品 日本結核予防協会〔背景〕
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「長谷川泰先生銅像」 湯島公園 (1916.4)

2012年02月20日 | 医学関係
 

 絵葉書下には、赤字で「長谷川恭〔長谷川泰〕先生銅像除幕式記念」とある。表面には、「東京今川橋 青雲堂印行」とある。横14センチ。
 写真は、右上が晩年の長谷川泰で、左の写真は、大正五年〔一九一六年:像銘文は三月〕四月に湯島公園に建設された「長谷川恭〔長谷川泰〕先生銅像」〔長谷川先生坐像〕である〔現存せず〕。
 なお、『柳塘遺影』には、銅像と銅像除幕式の写真がある。下は、後者の解説である。

 湯島公園に於ける銅像除幕式

 刀圭界は勿論一般の人々よりも先生の徳を慕ふて醵金せらるゝもの合せて壹千余名其の金額二万五千余円に達し発起せられし方々も実に愉快なる結果なりとて喜ばれし事なりき。
 この日大正五年四月二十日晩春の陽光暖く会するもの五百余名頗る盛会を極めたり。 
 右壇上に立てるはこの建設を喜ぶ旨の演説をせらるゝ石黒忠悳子爵なり。

 なお、下は、銅像建設の関連資料である。

 拝啓 黄梅天気益御健勝敬賀仕候陳者旧済生学舎舎長故長谷川泰先生銅像建設仕度昨年以来我東京同窓会ニ於テ協議仕候処御案内ノ通リ本事業ニ就テハ大方同窓諸賢ノ御賛助ニ依ラザレバ銅像ノ大小ニ論ナク到底建設シ得ヘカラザル事ニ御座候間甚ダ唐突ニ候得共貴下ニ於テ御賛成ハ勿論発起人トシテ御尽力被成下度左ニ概要申上候
 一 故長谷川先生ハ独リ吾人同窓者ノ恩師タルノミナラス実ニ我邦医界ノ恩人タルハ今更ニ喋々ヲ要セサル事ニシテ吾人同窓者ハ其英風ヲ鋳テ百世ニ伝フヘキ義務アルモノト信シ申候
 一 元来建設ノ主意書及ヒ其設計細目ヲ具体シテ御賛成ヲ求ムヘキ筈ニ御座候得共想フニ吾人同窓者ハ一致協力竣成ヲ旨トシ徒ニ他人ヲ強ヘ且ツ漫ニ発表シテ万一不結果ニ終リ候事アラハ却テ故先生ノ名誉ヲ毀傷シ世人ノ胡蘆ト相成候ヲ以テ予メ貴下及ヒ諸君ノ同意ヲ得テ充分成算相立候上更ニ公々然発表シテ世上有志ノ賛成ヲ求ムル事ニ致度候
 一 建設地ハ東京市本郷区ニ於テ撰定シ其竣成ハ可相成大正三年三月故先生ノ大祥日ヲ期シ度ヲ以テ来ル八月末日頃マテニ御快諾書ヲ希望仕候
 一 建設金額ハ御賛成諸君ノ御醵金額ニ因テ定マルモノナレトモ目下ノ概算ハ全国三千人(所在不明)ト見積リ一人ノ出金ハ貮円以上トシ全額壹万円以内ニ於テ竣成ノ見込ト御承知被下度候
 一 同窓者所在ニ就テハ当同窓会ニ於テ種々ナル方面ヨリ探求候モ未タ其十一ヲ得ル能ハザルニ苦ミ申候間何卒貴下ニ於テ精々御知己御勧誘被下且ツ芳名御通知ニ預リ度事ニ御座候
 一 尚横浜市、京都市、大阪市、長野県、栃木茨城群馬三県連合、高崎市、佐賀県、鹿児島県等既ニ同窓会ヲ設立セラレシ御地方ハ幹事諸氏ニ於テ会員諸君ヘ御勧誘ノ上御報告ヲ煩ハシ度併セテ願上候

 以上倉卒得貴意候モノニシテ其意ヲ罄サヽル所アリ御下問次第重テ可申上候 匆々敬具

   大正二年七月
           東京済生学舎同窓会
              幹事
                 石井萬次郎
                 飯塚養
                 中村致道
                 大石榮三
                 宮田哲雄
                 木村助三郎
                         拝具
       殿

  追テ右御賛成ノ上ハ御出金額御記入御報知願上候

  故長谷川先生 銅像建設準備会 事務所
      ○○○○
       東京市日本橋区本銀町三ノ十四
       電話本局二四六四番                 

 

 上の写真は『柳塘遺影』にある銅像の写真で、下がその解説である。

 銅像

 鋳型原型は武石弘三郎氏、台座の設計は故岡田信一郎氏に依つて成され、両巨匠が会心の作として他の多くの銅像とは其の趣を異にし、彼の著名なる独逸国フランクフルト市に建てられある文豪ゲーテの坐像にも比敵すべき芸術的作品と称せらる。
 為めに美術家の方面よりは異常なる賞讃を博し竣工の当時参観者踵を接して一大センセーションを捲き起したるは先生の銅像なるが故に意義深く感ぜらる。
 茲に先生の容姿は其のゆかりの地湯島台上緑深きほとりに芸術的にも誇り得る銅像として永久に遺されたり。 
 更にこの建設の発起者、賛成者の先生に対する追慕の念も亦この銅像と共に永久に記念せらるゝに至れり。

 

 絵葉書右下には、赤字で「長谷川恭〔長谷川泰〕先生銅像除幕式記念」とある。表面には、「東京今川橋 青雲堂印行」とある。横14センチ。
 写真は、左上が像の正面下のもので、「長谷川泰先生座〔?〕像」の銘である。下の3枚は側面・裏面のもので、「長谷川先生銅像銘」で始まり「大正五年 〔一九一六年〕 三月 海軍軍医総監従四位勲三等 石黒宇宙治撰〕」で終わる。
 
 なお、昭和三年 〔一九二八年〕 十月に、二六新報社より発行された銅像写真集『偉人の俤(おもかげ)』には、次の銅像写真・説明文・偉人伝がある。

 

 長谷川泰銅像

 〔所在地〕  東京市本郷区梅園町二番地湯島公園
 〔建設年月〕 大正五年三月
 〔原型作者〕 武石弘三郎
 〔鋳造者〕  久野留之介
 〔建設者〕  石黒宇宙治、井上千蔵、小此木信六郎、佐々木東海、外三千二百十八人
 〔銘記〕
      長谷川先生銅像銘

  先生諱泰字子寧号蘇門又柳塘長谷川氏越後人世為長岡藩医員考諱宗済妣原山氏先生長子就佐藤尚中松本良順修医学任大学医学校長並東京府病院長昇衛生局長叙従四位勲三等選為代議士斉三明治四十五年三月十一日卒壽七十一先生天資豪邁博学淹通無書不読而志常在報国嘗創済生学舎教育医生前後三十季及門下三万余人其成業者名者甚衆頃日友人門生胥謀建銅像於湯島以伝不朽
 銘日
   非相即医 X人医X 猗歟先生 博学達識 在野養材
   立朝尽職 高明之資 済以柔克 帝城之北 銅像維X〔「山」に「疑」〕
   仰止千秋 永表遺徳
 大正五年三月
        海軍々医総監
         従四位勲三等 石黒宇宙治 撰

 長谷川泰

 一

 顕微鏡下に一種の細菌を発見して博士號を獲得するのも、医者としての天職を完うしたものと云ひ得る。だが、気軽に患家を見廻る町医者を多く養成することも亦医者として学位に匹敵する程の名誉であると云ひ得やう。いや、一般人の生活実態から推して論ずるならば後者の方がより以上親しみと尊敬とを感ずるに相違ない。
 済生学舎の創始者長谷川泰先生は寧ろ此後者の尊敬に価する日本医界の恩人である。
 奇行があつたのでよく交遊間の話材を賑はしてゐた先生は、天保十三年六月越後の医者長谷川宗齋の子として生れた。幼より卓犖不羈と伝記筆者は云つてゐるが尠くとも不羈の性質であつたことは窺はれる。最早や漢法医の時代ではない、西洋医術を学ばなければ時世遅れだと先見の明を働かせて疾くから江戸へ出ると坪井芳洲の門に入つた。熱心な先生はそれ丈では満足出来ないと見えかのシーボルトの直弟子で当時蘭医中の鏘々たる佐藤尚中を慕つて下総の佐倉に行き親しく教へを乞うた。その頃、秀才振りを互に競つた塾生の中に佐藤進博士もゐた。学と術とが全く成ると大学東校い職を奉じて総長石黒忠悳の下に彼は次長を拝命した。然るに狷介な先生は石黒総長とは反 そり が合はぬと云つて職を弊履の如く捨てゝ去り、自個独得の教育方法で東郷に済生学舎を明治九年に創設した。この下駄穿きでどかゝ上る風変りの学校が、他日、全国的に医者の開業網を張らうとは誰が想像し得たであらうか。

 二

 変つてゐると云へば恐らくこれ位変つた学校も珍しかつた。入学試験もなければ卒業試験もない。学生は高履きを鳴して帽子の儘教室に這入つたり、時には教師の講義に拍手喝采するといふ放任主義で先生の性格その儘を具象化したものであつた。併し締め括りは丁燃 ちやん とつけて学生の実力に重点を置いてゐたから頭脳 あたま のいゝ者は期せずして雲集した。従つて卒業生の文部省検定試験に及第する者前後六千名に達し校名から喧伝せられたのである。
 一方、内務省の衛生局に勤めて局長を補佐し衛生行政の基礎を確立したが次で局長に昇任し、又、市会議員、衆議院議員等の政治的手敏をも発揮するなど多角な才能の所有者であつた。
 然るに明治三十五年に専門学校令は布かるゝに方つて先生は該学舎の大学待遇を申請力説したけれども容れられなかつたので、然らば廃校に如かずとなし、憤然校門を鎖して了つた。奇に出発した医学校は遂に寄に終つたのである。先生の奇癖はこの校門閉鎖のみではなかつた。
 
 三

 一体、物事に無頓着な先生は日頃の言語挙動から既に頗る粗野だつた。お役人であり学校の校長でありながら市井を徘徊する勇肌な兄哥達の如き口吻だつたので、何時とはなしに「ドクトル・ベランメー」の渾名を奉られてゐた。廃校以来、官を辞し公職を避けてすつかり読書に没頭し書斎人と化し了つたが、漢、独、英、蘭の諸書を亘つて読み耽り晩年には佛経を渉獵して読破一萬巻に至るとは又奇人の名を辱かしめぬものである。嘗て政府当路者彼に学位を授けんと人を遣はして内意を伝へたところ、余は博士號などに用なしとて恬然受けつけなかつたといふ。其他人を驚倒せしめる幾多の奇行を残して明治四十五年三月一日病没した。時に七十有一歳。

 

 表紙には、「柳塘遺影」とあり、内表紙には、さらに「長谷川保定撮影」とある。奥付には、「昭和九年 〔一九三四年〕 十月二十日発行 定価金拾円 撮影者 長谷川保定 著作兼発行者 山口梧郎 発行所 長谷川泰遺稿集刊行会」などとある。25.3センチ。
 
 序文‥‥編者
 題辞‥‥子爵 石黒忠悳先生 
 長谷川家系譜
 先生の御履歴 
 済生学舎の事歴

 一、明治九年四月九日本郷区元町一丁目十番地ニ創立
 ニ、同十五年一月同区湯島四丁目八番地ニ移転拡張
 三、同三十六年八月三十日廃校
 四、卒業生徒延総数約二万五千人内東京ニ於テ受験医術開業試験ニ及第シタルモノ九千六百二十八人地方ニ於テ受験及第シタルモノ約四千人。

 写真目次
  先生五十歳の肖像
  壮年時代の石黒子爵
  先生明治十三年の写真
  青年時代の長井長義博士
  先生四十二歳の写真
  最後の真影
  夫人柳子刀自
  済生学舎開校願書
  先生の遺墨
  夫人の遺墨
  済生学舎職員
  卒業生
  コツホ博士歓迎会
  同其ニ
  葬列聖堂前を過ぐ
  葬列谷中斎場に着す
  塋域
  銅像除幕式
  銅像
  追悼会

 下は、「序文」〔「昭和甲戌新秋 保定識」とある。甲戌は、昭和九年。〕の最初。

 父は性来写真嫌いなりし故其の肖像の少なきは遺憾なれども旧知の方々より贈られたる珍貴なる御写真や記念すべきものを蒐めて一部の写真帖となしたり。

  なお、紙質が違い内容は同じもので、翌年〔昭和十年 一九三五年 七月二十日〕発行の『柳塘遺影』もある〔下は、その表紙〕。

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「松本良順 石黒忠悳 銅像」 (1915)

2012年02月20日 | 医学関係
 

 松本良順(左の胸像)・石黒忠悳(右の立像)の銅像で、陸軍軍医学校に建設されたものである。13.7センチ。
 絵葉書の通信欄には、次の記載が印刷されている。

 

 なお、昭和三年 〔一九二八年〕 十月に、二六新報社より発行された銅像写真集『偉人の俤(おもかげ)』には、屋外の台座のある銅像写真と共に次の説明文がある。

 

 松本順 石黒忠悳 銅像

 〔所在地〕  東京市麹町区九段上陸軍々医学校
 〔建設年月〕 大正四年
 〔原型作者〕 武石弘三郎
 〔建設者〕  森林太郎等門弟一同
 〔銘記〕   是為松本蘭疇石黒況齊ニ先生之像也半身垂髯者松本氏也全身均服石黒忠悳氏也初予等胥謀醵財欲造石黒氏聞而謂軍医之業蘭疇子所創始予唯承続之今蘭疇子墓有宿草而無像予忍独金石我形哉乃自補資之不足使予等成成松本氏像是所目此ニ像同跌庶幾不負石黒氏謙冲之徳也若夫泥塑石雕之事武石弘三郎任之武石蓋石黒氏郷人云大正四年歳次乙卯森林太郎記

 また、同書には、次の写真〔一部:台座はかなり長い〕と説明文があり、さらに偉人伝もある。

 

 石黒忠悳銅像

 〔所在地〕  東京市赤坂区葵町三番地大倉高等商業学校内
 〔建設年月〕 大正九年十月二十四日
 〔原型作者〕 武石弘三郎
 〔構造〕   高サ二尺五寸
 〔建設者〕  卒業生団
 〔銘記〕   ナシ

 石黒忠悳

 一

 衛生といふ言葉は可なり一般化されてゐるとするならば、衛生そのものゝ持つ本質的思想を一般化し、普及化した大なる蔭の力を思はなければならない。蔭の力とな何か、曰く子爵況翁石黒忠悳その人である。
 越後の人で平野順作の長男として弘化二年二月十一日三島郡片貝村で生れた。幼にして狐となると伝記にあるから少年時代頗る不遇であつたらしい。十五歳の頃に水戸新論といふ書籍を読んで大に動かされた。時代は維新を生む陣痛期で思想は動く、世論は喧しい、右往左往、処士が随所に頭を鳩めて横議してゐる。見るもの聞くもの新しきを求めざるはなしである。幼名を庸太郎と云つた翁は十五歳でも頭だけは一と廉の思想家に発育してゐる。尊攘の論を説いて四方を跳ね廻つてゐた。文久二年、先覚者佐久間象山の雷名を慕つて信州松代に来ると親しく意見を闘はして大に啓発せらるゝところがあつた。成程、迂闊に構へてはゐられぬわいと異常な昴憤を感じながら帰国して豫ての話通り祖父の後を継ぎ、姓を石黒と代へ名を恒太郎と改めた。
 石黒恒太郎と全く更生した青年に打つて変つた翁は、思想的にもこの期間を画して太い一線を引いたのである。 

 二

 愈々医学を研究しやうと決心した。当時の医学は現今とは大に異にしてゐる。医学は即ち知識であり文明であつたからだ。思想的には目覚めた翁が医学に志したのは当然の帰趨である。後ち柳見山の門に入り蘭医ポンペの講本を得てこれを謄写し苦学年余に及んだ。次で江戸の幕府医学所に入所して漢学を修め成績が抜群だつたので句読師に挙げられた。戊辰の変に際して帰郷したが依然勉強を捨てなかつた。
 明治二年再び上京して医学所に入り寮長の任に就き助教の職をも兼ねた。間もなく大舎長となつたが四年辞して兵部省に転じたが八等出仕に補せられた。翌年には一等軍医兼軍医補助となつた、六年にはニ等軍医正六位、七年には佐賀征伐に久留米病院を監し、又、台湾の役には長崎に在つて医務を督した。九年に至つて馬医監をも兼ぬるに至つたが、その年には米国ヒラデルヒヤ博覧会開催に際して派遣せられた。
 十年の西南の役に臨んで当局に建言し大阪に臨時病院を設立し自ら之が長となつて頗る奮闘し功績の見るべきものがあつたので勲四等に叙し軍医監に任ぜられた。十二年には東京帝大医学部副総理を兼任して文部省御用掛をも命ぜられ翁の声望は愈々昴まつて来た。

 三

 当時、軍隊に於ける脚気病の猖獗甚だしいので脚気病院の設置を提唱し自らも医院に挙げられてその設立に尽力し翌年には軍医本部次長に補せられ従五位を授けられた。十七年には東京大学御用掛を兼務し、次で恩給局御用掛、内務省四等出仕、十八年には勲三等、十九年には医務局長及び内務省衛生局次長といふとんゝ拍子に累進して二十年には欧洲に簡派せられ墺国ウヰーンの万国衛生及「デセクラフヒー」第七回会議委員として出席した。日本政府の衛生に関する意見を代表し使命を果して帰朝すると、軍医学舎長、軍医学校長、陸軍衛生会議々長等の軍隊に於ける衛生医療の各重機に参與し、遂に軍医総監の栄位に就き明治二十三年には陸軍省医務局長に補せられた。
 超へて二十七年には日清戦役勃発し戦端の繁くなるに従つて翁の活躍も亦多事多端となつて来た。即ち野戦衛生長官といふ肉体的に皇軍の戦闘能力を支配する最も重い責任を帯びて出征し、異境に弾雨を浴び瘴疫と闘ふ我が士卒の為めに日夜奮闘措かなかつた功績は素より説明の限りでないが、何よりも記憶せねばならぬことは我が陸軍衛生制度の完備を内外に示した一事である。
 尚ほこの大戦の側面史に点綴すべき佳話として伝へられてゐるものは、下の関で李鴻章が凶手に襲撃せられて負傷した際に、翁は勅を奉じて佐藤軍医監を伴ひ馳せ参じ懇に治療を施した功に依り清国皇帝から第二等双龍章を贈與せられたことである。
 戦端熄んで凱旋に意気昴る二十八年には正四位勲二等に叙し瑞寶章を賜つたのみでなく特に華族に列し男爵を授けられた。加ふるに功三級金鵄勲章及旭日重光章の勲功が翁の胸間を赫々飾つたのである。翌二十九年には陸軍の要職を辞退し鋭意主力を赤十字社、体育会及び衛生会等に濺ぎ翁の活躍は限られたる軍隊より解放せられて一般社会の衛生上に及ぼされたのである。枢密顧問官、中央衛生会々長、日本薬局方調査会長等に就任し後ち子爵を昇授せられ老来益々国家に奉仕してゐる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加