蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

「東京女医学校仮規則」(1900.11)

2017年04月05日 | 東京女医学校

   

 東京女医学校規則

 ◉設立主意

 世界ノ文化ハ日一日ト其歩ヲ進メ我日本モ泰西ノ制度文物輸入以来女子ノ教育ハ長足ノ進歩ヲ成シ今ヤ普通教育ニ至リテハ殆ント間然スル所ナシ豈吾人女子ノ至幸之レニ比スルモノアランヤ蓋シ一歩ヲ進メテ益々其必要ヲ感ズルハ女子ノ専門学ニアリ由来女子ノ専門学ナルモノハ欧米ニ於テハ業ニ既ニ数十年以前ヨリ実施サレ其職ヲ或ハ政治界ニ或ハ新聞記者ニ或ハ医業ニ或ハ教育界ニ或ハ銀行会社ニ奉ジツヽ其資格毫モ男子ト軒輊スル処ナシ我邦モ條約実施以来対等ノ地位ヲ以テ列国ト交際スルニ至リタレバ女子ノ品位モ彼我又対等ナラザルヲ得ズ此際ニ当リテ社会ノ人心皆茲ニ意ヲ注グト雖モ其意ヲ満タスノ設備不完全ナルヲ如何セン思フニ女子ノ学校トシテハ女子師範学校、産婆学校、看護婦学校等ノ設ケアリテ各自其志望ヲ達セシムルト雖モ独リ女医学校ニ至リテハ未ダ日本全国否日本ノ首府タル東京ニ於テ其設立アルヲ見ズ聞説ク将ニ設立セラレントスル女子大学ニ於テモ文学科家政科等アル而巳ト余ノ考フル処ニ依レハ女子ノ本性ニ最モ適シ且ツ女子ノ品位ヲ高尚ナラシムル業務ハ医学ヲ以テ唯一ノ専門学トス隨テ斯学ニ志スノ女子又少シト云フ可ラス然ルニ是等ノ姉妹ニ其志ヲ遂ゲシムル学校ナキハ我邦学校設備ノ欠点ニシテ幾多ノ高尚ナル思想アル姉妹ヲシテ岐路ニ迷ハシム是千歳ノ恨事ニアラズヤ己レ女医ノ業ニ従事スル茲ニ九年熟ラ々々女医教育ノ不完全ト女子ノ医学研究ノ困難トヲ見満腔ノ同情ハ傍観座視スルニ忍ビス浅学不才ヲ顧ミズ蹶然起テ女医学校ヲ設立スル所以ナリ

 明治三十三年十一月        東京女医学校主 鷲山彌生識

 ◉規則

 第一條  本校ハ東京女医学校ト称シ当分事務所ヲ東京市麹町区飯田町四丁目九番地校舎ヲ牛込区市ヶ谷仲之町二十二番地ニ置ク
 第二條  本校ノ学科ヲ前期学科後期学科ノ二トス
    〇 前期学科
      組織学 解剖学 生理学 化学 物理学
    〇 後期学科
      病理総論 内科各論 外科通論 外科各論 診断学 薬物学
      眼科学  産科学  婦人科学 衛生学  法医学
      内科臨床講義 外科臨床講義 婦人科臨床講義 眼科臨床講義
 第三條  卒業年限ヲ四ヶ年トス前期学科修業年限ヲ一ヶ年半トシ後期学科ヲ二ヶ年半トシ前期ヲ三学期ニ分チ後期ヲ五学期ニ区分ス
     但シ新学期開始ハ各期トモ毎年五月及十一月トス
 第四條  毎日授業時間ヲ五時間トシ一週卅時間トス
     但シ正午ヨリ五時ニ至ル
 第五條  本校ニ入学セントスルモノハ年齢十七歳以上ノ女子ニシテ高等小学校卒業以上ノ学力ヲ有シ品行方正ニシテ思想確実ナルモノニ限ル
 第六條  試験ヲ分ツテ学期試験、前期試験、後期試験及ビ卒業試験ノ四種トシ学期試験ハ各学期ノ終リニ施シ前期試験ハ前期科目修了ノ後後期試験ハ後期科目修了ノ後、卒業試験ハ後期試験及第ノ後トス
 第七條  入学ノ期ハ各学期ノ始メトス
     但シ望ミニ依リ随時入学ヲ許ス
 第八條  休日ハ毎日曜日、大祭日、創立記念日、年始年末各々七日間
 第九條  本校ニ入学セントスルモノハ左ノ書式ニ依リ入学願書ヲ認メ履歴書及ヒ束修月謝ヲ添ヘ本校事務所ニ差出ス可シ然ルトキハ校主面接ノ上其許否ヲ定メ本校登録簿ニ原籍、現住所、族籍、姓名、生年月日ヲ認メ調印セシム
     但シ保證人ハ本人ノ父兄及ビ東京市内ニ居住ノ戸主ニ限ル

 〔上の右の写真〕

 第十條  毎月一回校友会ヲ開キ立身上ノ協議ヲナシ且ツ郊外ノ運動ヲ試ミ心神ノ安養ヲ図ラントス
 第十一條 学資ハ入学金貮円月謝前期金貮円後期二円五十セントス
 第十二條 教科書ハ校内ニ掲示ス
 第十三條 賞罰 品行方正ニシテ学期試験及ビ卒業試験ニ優等ヲ得タルモノハ賞与ヲ與ヘ不品行ニシテ成業ノ見込ナキモノハ退学ヲ命ズ可シ
 第十四條 転居若クハ保證人変更ノ節ハ其旨直ニ届出ヅ可シ
 第十五條 本校卒業生ハ永久校友トシテ優待シ開業奉職等立身上ノ事ニ関シ万般ノ指導ヲナス

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「女医志望の婦人へ」 吉岡彌生 (1916.10)

2017年04月03日 | 東京女医学校
  

 女医志望の婦人へ
           東京女医学校長 吉岡彌生

 御承知の通り去九月限り医術開業試験が廃止されましたので、新たに此の十月一日より医師試験が制定せられました。是は高等女学校又は中学校卒業者にして医学専門学校に入り、此専門学校若くは外国の医学校を卒業せしものに而巳 のみ 受験資格を有するので、恰度 ちやうど 大学を出た法学士でも高等文官試験の必要なのと同じです。独逸辺りでは学校の公私を問はず、皆此国家試験を通過しなければ開業することが出来ないのです。日本でも行くゝは然 さ うなることでせうが、今の処では私の学校と日本医学専門学校との出身者は此試験を受けなければならない事になつて居ります。これは専門学校の認可はあつても指定されてないからです。それがため日本医学校では先頃あの通りの示威運動をやつたので御座います。
 私の学校は明治四十五年に専門学校の認可を得ましたが、未だ指定を受けて居りません。認可を得て二ヶ年以上を経過すれば指定が下がる訳なので御座いますから、請求すれば得られない事もありませんが、今年のやうに受験者が皆合格してゐるやうなら、強ひて然うする必要もあるまいと黙つてゐます。
 私の学校に入つて女医とならうとするには、先づ高等女学校を卒業した者又は女子師範学校を卒業した者でなければ可 い けません。尤も高等女学校を卒業した丈けで直ぐ入れるかと云ふに、仲々然うは行きません。第一に体格の健全なる事、第二に意志の鞏固なる事、第三に学費の具はつてゐる事が必要であります。それに入学を許可するのが百二十人で御座いますから、志願者が定員を超えると競争試験を行つて其中から秀 すぐ れた百二十名の女子を抜擢しなければなりません。で如何 どう しても十番以下の成績では、徒 いたづ らに目的を起しても遂げる事が出来ないかと思はれます。それで先づ高等女学校の課程が満足に出来た上に、数学的思想を養成して置くのが必要であります。茲 ここ に数学的思想と云つても、幾何が平面幾何位 くらい 、代数が二次方程式位の処でよろしいので御座います。
 医学校は金が懸かると云ふ批難を世間からよく申されます。成程女の学校としては月謝は高価 たかい かも知れませんが、其代り裁縫学校などのやうに材料費と云つたやうなものはありませんから、結局他の学校に比べて然う際立つた相違はありません。私の学校は凡て寄宿舎制度になつて居りますが、凡そ一ケ月の学費は二十円あれば十分で御座います。寄宿舎生の食料舎費は一ケ月八円五十銭、月謝は五円、実験費一円で其他ノート代や小遣には残り五円五十銭で充分に間に合ひます。入学後の勉強は、鳥度 ちよっと 他の学校の生徒の夢想する事の出来ないものがあります。一体能力や体力が充分でない位なら、初めから医者にならうと云ふやうな志を起さないのが宜しいのです。私の学校では少し苛酷かも知れませんが、授業時間は毎日八時間乃至十時間で自修時間は三時間、床に就くのが午後十一時で、床を離れるのが朝の五時で御座います。斯う云ふ風ですから、まア子に甘い親御さんが、可愛娘を托する処ではないかも知れません。
 学校を出さへすれば就職には困りませんが、然し卒業したからと云つて直ぐ月給に有り着くと云ふのは、決して讃 ほ むべき事ではありません。実地の練習や不備な点を補ふ為めに、少くとも二年間は附属病院にでも勤めて、実際に研究をする方針です。先づ一年間は細菌や解剖病理などを行 や つて傍ら医化学の如き基礎医学を実地に修め後の一年間に於て自分の専門とする処に励む方が、自分も苦しくなく、外 ほか からも可く、将来の為めにもなると思ひます。一体病院辺りでは女医を頼みに来るものは沢山あります。これは看護婦の監督に勤めて貰へるのと、産婆学の講義などをやつて貰へるから非常に便利なので御座います。それに宿直などになると、男子の方では折々抜け出して他所 よそ に宿直して来たりする者もありますが、其処へ行けば婦人にはそんな心配は少しもありません。其上病人に対し親切にして受けが宜しいからでありましょう。収入の点は如何かと云へば、私の処に二年程ゐてから、食住は向ふ持ちで内地では一ケ月三十五円乃至五十円迄位、支那辺りへ行けば月に百円位。先日ビルマへ行つた者は月給ではなく歩合でしたが月に三百円位。又開業して二つか三つの病室でも持つてゐれば少くとも年収三千円位にはなりますし、多い人なら病室がなくとも八千円位の年収はあります。男の方では折角開業しても旨 うま く立行かないと云ふ人も多いやうですが、女の方ではそんなのは一人もないと云つて差支ありません。
 尚私の希望を云へば、今後女医にならうとする人は、悉くとは云ひませんが、特に頭の好い意志の鞏固な人ならば、結婚せずに一生を医学に捧げて、余り男子の方でも気の進まない方面に努力して貰ひたいと思ひます。一体男子は家長として一家を作り、妻子を養つて行かなくてはなりませんが、女子の方は然う云ふ義務はありませんから、男子程パン問題に齷齪する必要はありません。ですから一生独身で過ごせる堅い決心があれば、偉一切の煩累を避けて全力を充分に斯学の為めに費 ついや す事は、男子よりも遥か容易の事ではありますまいか。細菌学とか解剖などは余り金になりませんから、男子の方では進んで研究される人は多くないやうです。ですから、若し婦人が此方面に、献身的に努力したならば、天性緻密な頭を持つてゐるのですから、随分益する処が多からうと思ひます。然し余り女子の独身などを力説すると、女医亡国論などを唱へ出されて、飛んだ誤解を招かないとも限りませんから、此辺で止めて置きませう。

 上の写真と文は、『婦人公論』 秋季特別号 (第十号)現代女ぞろひ号 第一年 第十号 大正五年十月号 の 婦人の一芸一能 に掲載されたものである。  
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『東京至誠学院規則』 至誠学院 (1897-98)

2012年11月20日 | 東京女医学校
 明治参拾年 〔一八九七年〕 十月改定

  東京至誠学院規則  
              東京市麹町区飯田町三丁目五番地 至誠学院 〔18.8センチ、24頁〕

 目次

 通学部規則
 寄宿舎規則
 通信部規則

  ●至誠学院設立之趣旨

 国運ノ盛衰隆替ハ学問ノ独立如何ニアリ今ヤ我学術界モ輸入時期ヲ過ギ同化時期ニ入リシト雖モ未ダ世界ノ開明国ト対等ノ位置ニ進ミタリト言ヲ可ラズ我国ニ於テ最モ進歩セシト誇唱セラル、医学、法律学ノ現況ヲ見ヨ果ノ純然タル系統的ノ日本医学アリヤ将タ法律学アリヤ況ンヤ其他ニ於テヲヤ現世紀学術日進列国競争ノ間ニ立チ優ニ太平洋上ニ覇権ヲ振ヒ国勢ノ膨張ヲ維持シ祖宗ノ遺謨ヲ辱シメザラント欲セバ文タルト武タルト商タルト工タルトヲ問ハズ学術淵叢ノ称アル外国ノ語学ヲ講習シ其学術ヲ同化シテ学問ノ独立ニ資セザル可ラズ世人外国語ノ必要ヲ感ズル比々皆然リ然レドモ其学習ノ困難ト数多ノ歳月ヲ要スルトヲ恐レ其門ニ入ラゼルモノ尠シトセズ余欧州学術ノ中枢ナル独逸学ノ教授ニ従事スルコト茲ニ年アリ外国語教授法ニ於テ発明スル所亦不尠学者此法ニ依ルコトハ敢テ困難ヲ感ズルコトナク僅カノ日子ヲ以テ愉々快々ノ内ニ学修シ実地応用ヲ自在ナラシムルハ余ノ堅ク信ズル処ナリ以是本院ヲ設ケ浮華虚飾ヲ主トスル当世弊風ノ外ニ立チ教育勅語ヲ遵奉シ徳性ノ涵養ヲ務メ余ガ一新機軸ノ教授法ニ依リ教導修得セシメ斯学ノ普及ヲ図リ学問ノ独立国家隆盛ノ万一ニ裨補スル所アラントスル是レ本院設立ノ微志ナリ

   独逸学専門 至誠学院長 吉岡荒太識

 沿革 明治二十六年 〔一八九三年〕 五月初メテ本院ヲ東京市本郷区金助町ニ創立シ至誠学舎ト称シ普通及医学ニ関スル独逸学ヲ教授セリ次デ二十七年五月ニ至リ普通科医学科及高等科ノ三部ニ分チ一層精励教授ニ従事セシニ入学者日ニ日ニ多キヲ加ヘ校舎狭隘ヲ告ルニ依リ同年十二月ヲ以テ同区元町ニ移転シ名ヲ至誠学院ト改メ更ニ通信部ヲ増設セリ爾来教務大ニ繁劇ヲ来セリ為ニ同廿九年四月当区ニ転ジ益々院務ノ拡張ヲ図ル

 院内部規則
  ●学院規則
    
     第一條
 目的 本院ハ速成ヲ主トシ正則的ニ普通ノ独逸語竝ニ医学、博物学及文学等ニ関スル独逸学ヲ丁寧懇切ニ教授スル所トス

     第二條
 分科 本院ノ学科ヲ分ツテ普通科、高等科及医学科ノ三部トス●普通正科ハ高等学校同医学部尋常中学校士官学校幼年学校及地方医学校志願者ノ為ニ設ケ訳解、翻訳、会話、作文等ヲ自在ニ為シ得ル様正則ニ教授シ卒業ノ期ヲ二ヶ年トス●医学科ハ予科及本科ノ二部トス○予科ハ医学生又医師ニシテ速成ニ医書ヲ繙読セント欲スル者ノ為ニ設ク○本科ハ一定或ハ随意ノ医書ヲ講授シ別ニ年限ヲ定メズ但シ薬学書ヲモ教授ス●高等科ハ博物学及文学篤志者ノ為ニ設クル者ニシテ博物科及文科ノ二部トシ理、化、動、植、金石等ニ関スル書類又ハ文学ニ関スル高尚ノ詩、歌、歴史、小説、心理、論理、哲学等ノ書類ヲ講授スヘシ
 但シ法学、兵学、教育学等モ高等科ニ属ス
●特別科ハ特ニ篤志者ノ為ニ設ク

     第三條
     第四條
 学年 一学年ヲ分チ三学期トシ各学期ハ四ヶ月ヲ以テ終ル
    二月  六月  十月ヲ各学期ノ始トス
     但シ学級編制ハ別ニ之ヲ掲示ス可シ
     第五條
 授業時間 ハ院内ニ掲示ス
     第六條
 休日 日曜日、大祭日、創立記念日五月十四日、年始歳末各五日間、毎月末日
     第七條
 入学資格 普通科ハ高等小学二年級卒業以上ノ者○医学予科ハ左表第二期以上ノ学力ヲ有スル者○高等科ハ「ヱンゲリン」第三読本訳解以上ノ学力ヲ有スル者○医学本科ハ前期免状或ハ開業免状ヲ有スル者ニシテ相当ノ独逸学力ヲ有スル者○兵学法学教育学ハ正科第二期以上ノ学力ヲ有スル者
     第八條
     第九條
     第十條
     第十一條
     第十二條
     第十三條
 特権 本院ノ卒業證ヲ有スル者ニ限リ院友トシテ永ク当院ニ出入シ質問スルコトヲ得
     第十四條
 学費
  
  ●普通科
  ●医学科

       

  ●注意
  ●附言
  ●塾則
  ●院外部設立之趣旨
  ●院外部規則

 東京国文社印行

 なお、次の紙片二枚が挟まれていた。

 ・「至誠学院教学専修部設置趣旨  規則 ●尋常科(四ケ月卒業) ●高等科(四ケ月卒業) 授業時間 ●尋常科 ●高等科」
 ・「●別課設置ノ趣旨、●漢学課規則、●兼習学費、●時間表」

 

 明治参拾一年 〔一八九八年〕 七月改定

  東京至誠学院規則 

               東京市麹町区飯田町三丁目五番地 独逸専門学校 至誠学院 〔18.6センチ、16頁・通信部規則7頁〕
 目次

 通学部規則
 寄宿舎規則
 通信部規則

 
  ●至誠学院設立之趣旨
 通学部規則
  ●学院規則
  ●普通科
  ●医学科
  ●附則
  ●附言
  ●塾則

 東京国文社印行

 なお、次の紙片が挟まれていた。

 ・「●別課設置ノ趣旨、●漢学課規則、●兼習学費」
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「東京女医学校」 (1904-12)

2012年11月20日 | 東京女医学校
 

 上の写真は、明治三十七年 〔一九〇四年〕 十月五日発行の『女学世界』第四巻 第拾参三号 に「東京女医学校職員并に生徒  校長鷲山彌生氏」として掲載されたものである。

 

 上の写真は、明治四十一年 〔一九〇八年〕 八月一日発行の『東洋婦人画報』第十五号 に掲載されたものである。

 刀圭界の女流

  鷲山彌生女史校長たる牛込河田町女医学校卒業生にして○印は何れも医術開業試験に合格したる者、前列対つて右より、○弘田貞猪子、中川だい子、校長鷲山彌生女史、井出茂代子、○福田ますの子、○岩佐りん子、後列右寄り、○藤田静子、○飯田てい子、○倉田みね子、○米山はつ子。

 Female doctors, who have obtained government license to practise. They are pupils of Dr. Yayoi Washiyama, a well-known female physician of Tokyo.

 当時の東京女医学校については、上の写真にも見える最初の卒業生の竹内茂代女史の『吉岡弥生先生と私』(一九六六年8月)が興味深い。〔下は、その目次の一部〕

  一、医学を志すまで
  二、東京女医学校を知る
  三、東京女医学校に入学
  四、学校生活と学友さまざま
  五、弥生先生の出産を見学
  六、東京女医学校創立記念音楽会
  七、寄宿舎建設と医院の開設
  八、女子高等教育否定論と吉岡先生
  九、東京大学解剖教室に導かれる
  一〇、はじめて医術開業試験に合格
  一一、女医界創刊と入学志望者の激増
  一二、弥生先生との心のふれあい
  一三、第一回卒業式と祝賀会
  一四、東京女医学校昇格問題
  一五、七年間の医局生活

   

 ・上左の広告:明治四十二年 〔一九〇九年〕 四月一日発行の 『婦人世界』 四巻 第四号 に掲載されたもの。
 ・上右の広告:明治四十二年八月一日発行の 『婦人世界』 四巻 第九号 に掲載されたもの。



 上の写真は、明治四十四年 〔一九一一年〕 一月十日発行の『婦人画報 臨時増刊 現代名流婦人』 に掲載されたものである。

  鷲山彌生女史

  研究室に於ける東京女医学校長東京至誠病院長鷲山彌生女史

 また、同号には、次の一文もある。

 面白いこと、いやなこと   東京女医学校長 至誠病院長 鷲山彌生

 男子に混じつて学んだ

 私の父は医者でありまして、一つは其の家庭に生長 そだつ た為もありませう、私も婦人ながらいや婦人であるため女医にならうと決心しました。それは当方が婦人である為に、患者たる婦人又其の親族 みうち も安心して治療を受けることが出来ます。それやこれやの理由から女医にならうとした次第であります。併 しか し何をいふても私が医学を学びました時分は時が時でしたから、別に女医の学校といふものもなく、男子の中に混つて稽古いたすものですから、いろゝな圧迫や屈辱がありました。それを通り抜けて自己の意思を貫かうとするは容易なことではありませんでした。然し其等の間の苦心や経歴は毎度申し上げたことですから、今回は私が女医となりましてからのことに就いて一つ二つお話し申しませう。

 

 上の写真は、昭和十六年 〔一九四一年〕 五月一日発行の『女子青年 愛知県版』 五月号 の掲載記事「吉岡彌生女史の母堂 みせ子刀自 市川喜久子」中に「晩年のみせ子刀自」として掲載されたものである。

 忙しい間に面白いこと

 私は朝起ますと、もうそろゝ外来の患者が詰めかけてまゐります。朝餐 あさげ をしまひ身支度をし、此等の患者の診察をはじめまして、午前中は総て外来患者の治療や診察をして、それから午後は往診、其の間には皆様に御面会をいたしたり、又私の経営いたして居ります女医学校の教授其の他のこともありまして、猶自宅には病室の患者もあるといふ次第であります。一家の主婦といふ外に、私は日々此等のことをいたして居ります。多忙と申したら、私程多忙のものは沢山は無からうと思ひます。到底人様の様に音楽を聞いて楽むとか、演劇を見て喜ぶといふ様なことは出来ません。全然 まるで 、趣味も何も無い様な人間と思はれるかも知れません。然し私は何とも思ひません。趣味、面白いといふことも自 おのづか ら此の忙 いそが はしい間に湧いて来ます。

 患者の快復が面白い

 例へますなら、朝病室を廻診いたします、患者が私の顔を見ますや否や、今朝 けさ 程はお蔭様で気分が善いとか何とかいはれます時は私は愉快とも何ともいはれません。それから従前 いままで 、病気の為に食物も充分に頂けなかつた、いや仮令 たとへ 好物にせよ私より或食物を禁制し居りました患者に、其の病気の快方に向つて行くことから其の禁制を解いてやりまして、其の患者の喜ぶ顔を見ます時など、私は其の患者の心を思ひやり私も共に喜ぶ様になります。又外来患者にしましたところが、日々通つてまゐります中 うち にだんゞと其の病状が薄らいて行くのを見ますと真に我を忘れて其の治療が面白くなります。其の患者の来ます時刻が待ち遠い様な気持ちがします。それから婦人病の慢性に罹つたものが、あちら、こちらの医師ー男子ーの許 もと を迷ひ廻つたものが、遂に私の処にまゐり、いろゝの打ち明け話までも出て其の経過が充分に聞き取られて、其の治療に取りかゝり、それが全快する時などは、私が真に女医たる目的が達せられた様な心になり、女医の世に必要なることを唱道いたして居ります私は何だかますゝ勝利者となつた様な気がいたします。この外医師とし患者に接して、それが私の研究となりましたりいろゝなことがありますが、要するに、私は患者の恢復といふことが面白いのであります。

 出し抜かるゝ程不愉快はない

 然し私がかうやつて女医として世に立つ行きますに、一から十まで尽く愉快面白づくめなことばかりではありません。中には随分不愉快なやなことも少くはありません。其の中でも最も不愉快に感じますことは、往診の家で、何時の間にか医師を変へて置き、私が其の家に往診にまゐりますと折角のお出 いで でありますが、親類共の勧めで患者は病院の方に入れましたから、お戻りを願ひますとか、何とか、一寸と体裁のよい繕 つくろ い語 ことば !其の実は疾 とく に当方に察せらるゝ語で逐 お ひ帰さるゝことです。実に此時ほど不愉快ないやなことはありません。また新来の外来患者で、当方がよく其の患者を知らぬことから、其の経過を見る為に試みの治療をやつて居ります中に、患者は其の治療の効がてきめんに現はれませぬものから、当方の技倆を疑がひ、ふいと来なくなることがありますこれが面白くないことの一であります。

 

    東京 女医学校 組織変更 生徒 募集

 今般文部大臣ヨリ専門学校ノ認可ヲ得東京女子医学専門学校ト改称シ来ル四月八日ヨリ新学年ヲ開始ス
   ○入学志望者ハ四月五日迄ニ入学願書ヲ提出ス可シ
   ○入学資格高等女学校卒業
   ○募集定員壹百名
   ○規則要郵券参銭

  東京市牛込区市ヶ谷河田町
    私立 東京 女子 医学専門学校

 上の広告は、明治四十五年 〔一九一二年〕 四月一日発行の『新婦人』 四月の巻 に掲載されたものである。
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