蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

『支那革命実見記』 池亨吉 (1911.11)

2015年12月19日 | 辛亥革命 日本人 1
   
   
   孫逸仙氏序文
   黄克強氏題字
   断水楼主人 池亨吉 著

 支那革命実見記

    附録   革命潮(英文)
         革命方略(漢文)

 〔写真〕

     

  ・支那革命党統領 孫文逸仙氏
     明治四十年一月の撮影に係り著者が革命見物の途に上りたる後「敬贈池夫人敬存孫文逸仙」と手記して著者の留守宅に寄せし者
  ・To Mr. and Mrs. Ike With compliments of Sun Yat Sen and his son Sun Fo. Hondulu, Hawaii 5th., 1910.
     明治四十三年五月五日布哇に於ける支那革命党大会の成功を記念する為めに撮影し如上の英文を手記して著者に惠贈し来れる孫逸仙氏父子の写真
  ・支那革命党副統領 黄興克強氏
     明治四十年三月の撮影に係り鎮南関戦役後仏領印度にて暫らく袂を別ちたる時共に死生の間を往来したる記念として特に著者に餞したる者は是れ
  ・潜夫自有孤雲侶 可要王侯知姓名

 序

 緒言

  此一文は去明治四十一年五月大阪朝日新聞社の嘱に応じ特に起草せる儘にして、更に些の改竄を加へず。当時同社は左の予告文を添へ、同五月より六月に亘る二ヶ月間、懇ろに是を其紙上に連載したり。〔以下略〕

 一   雲南の革命軍
 二   其の由来
 三   一頓挫
 四   予定行動
 五   檄文 〔上の一番右の写真は、文中にあるもの〕
 六   一奇談
 七   鎮南関の活動
 八   仏人の支那革命観
 九   十二月一日晩
 十   翌二日
 十一  宿望
 十二  異象
 十三  第二の異象
 十四  天成の自由郷
 十五  戦場の第一砲声
 十六  桂林山水甲天下
 十七  清国官軍の意向
 十八  安宅の関
 十九  放資二千萬金
 二十  孫逸仙氏の書信
 二十一 言志
 
 雲南革命軍情況
     支那革命党総理 孫逸仙特報  断水楼主人訳

 附録

    革命潮  孫文逸仙稿 THE TRUE SOLUTION OF THE CHINESE QUESTION.
    革命方略
    雲南百革命軍情形
    支那革命の犠牲
    嗽巌枕濤録
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『中華民国革命秘笈』 萱野長知 (1940・41)

2015年12月13日 | 辛亥革命 日本人 1
     萱野長知著 
 中華民国革命秘笈
     皇国青年教育協会発行

 題字
 
  ・張人傑
  ・譚延闓

 口絵

 革命闘士の写真集

     

  ・孫文
  ・黄興
  ・林森
  ・上 晩年の孫文、中 青年時代の孫文、下 孫文(向つて左)と黄興
  ・上 宋教仁〔上の写真:左〕、下 何天烱
  ・上 居正、下右 李烈釣、下左 張継
  ・汪精衛、蒋中正贈〔上の写真:左から二枚目〕
  ・萱野先生老同志 惠存 中華民国南京政府成立後三日撮影記念 弟陳其美贈、漢民持贈
  ・上 章炳麟、中 戴天仇、下 陳少白(中央) 
  ・上 若き日の宋慶齢〔上の写真:左から三枚目〕、中 宋慶齢 、 孫科
  ・上右 史堅如、上左 徐錫麟、下 呉樾
  ・王昌、温生戈、李文甫、秋瑾女士、熊越基
  ・張聲、朱執信、鐘明光、陳敬岳、林冠慈(炸李準)
  ・上 譚延闓、中 堅、下 孫武
  ・上右 陳中孚、上左 劉紀文、下右 鄒魯、下中央 李紅堂、下左 田桐(学生時代)
  ・許崇智、曾傑、幕幹、鄒永成、夏重民
  ・許雪秋、黄隆生、劉揆一、馮成継、陳烱明
  ・上右 張傅泉、上左 馮自由、下右 李國桂、下左 子瑜
  ・上右 呉亜男女士、上左 胡毅生、下右 周象垣、下左 傅文郁
  ・殷汝驪、澤如、殷汝耕、陳策
  ・孫毓筠父子、陳乙白、孫毓筠
  ・右 萱野長知 中 張永福 左 方漢城、(向つて右より立てる)孫文 張永福 林時● (座せる)陳勇波 萱野長知 湯壽山、シンガポール 張永福別邸 朱霽、林直勉
  ・孫文(中央)、若き日の汪精衛(左) 萱野長知 許雪秋(左) シンガポールに於て、馬伯援敬贈 民国十九年九月十三日午撮於東京牛込陶陶亭 頭山満(前列右) 犬養毅(前列左) 馬伯援(後列左ヨリ二人目)
  ・孫文が鎮南関の戦に用ひたる軍帽ー「高野」は孫文の仮名なり(池享吉氏蔵)、南京軍政府成立(前列中央孫文・黄興)、南京政府創業時の陸軍病院開院
  ・維県陣営、革命軍総司令部
  ・孫文(中央)、露人ピルストキー歓迎(民報社庭園にて)
  ・民報社における章太炎、東京両国福井楼に於ける孫文歓迎会(二列中央孫文)
  ・胡瑛送別会(月の家)、宮崎滔天送別会(前列中央宮崎)、章行厳送別会
  ・孫文神戸最後の撮影(中央孫文)、佐原篤介送別会(前列中央佐原)、犬養毅歓迎会(中央犬養)
  ・天津に惨死せる谷村幸平太追弔会、七十二烈士の墓
  ・蒋介石結婚記念 蒋介石美齢贈〔上の写真:左から四枚目〕、廖仲の家庭、居正夫人、汪精衛夫妻、戴天仇夫妻
  ・中山陵三景〔三枚〕
  ・孫文慰霊祭〔三枚〕
  ・孫文慰霊祭、慰霊祭出席者
  ・上 帝政取消一笑会に於ける孫文(右)、中 孫文真蹟の委任状、下 中華革命党成立記念撮影 孫文(前列中央)

 革命名家の真蹟集

  ・孫文自筆の中華革命党総章
  ・孫文
  ・孫文の著者に交付せる白紙委任状(数葉の内)
  ・孫文
  ・孫文、密電翻訳
  ・密電翻訳、孫文
  ・孫文、何天烱
  ・下は底漢〔武漢〕起義のとき著者が在米の孫文に対し急遽帰国を促した電報を受取った意味を認めた大塚氏宛謝状(右は其の封筒)
  ・黄興
  ・黄興
  ・黄興
  ・黄興
  ・黄興
  ・黄興
  ・宗教仁〔宋教仁〕
  ・居正
  ・陳少白
  ・陳少白
  ・譚人鳳、陳其美
  ・陳其美、田桐
  ・張人傑
  ・張人傑
  ・廖仲、何天烱
  ・章炳麟
  ・章炳麟
  ・章炳麟
  ・章炳麟
  ・汪精衛
  ・胡漢民
  ・胡漢民
  ・譚延闓
  ・戴天仇
  ・戴天仇
  ・張継
  ・柏文蔚、子瑜
  ・熊越山、朱執信
  ・葉恭綽
  ・李書城、但●心
  ・孫氏に伝へるために送られた露西亜人の真蹟、杉田定一

 自序〔下は、その一部〕

  本書の出版は大正十五年、張人傑、譚延闓等に題字を乞ひ起稿したが、赤裸々に書きたくない事情あつて、書くがイヤになり筆を折つて 底に秘め置きたるが這回また書いてみたくなり、こゝにものすることとした。

  〔省略〕

  尚ほ書中、中華革命党の連判帳とも云ふべき誓約書其他重要文書を公表せし写真は、当年の同志が如何に夫れに真面目であつたかを證據立てると共に、歳月を経過するに随つて其偉績が段々消滅しつゝあるを虞れ、之を後世に伝えしめんが為めである。又白紙の写真を載せたるは孫公が日本に在らざる時、孫文の名義を必要とする場合は之を行使せよとてサインして委任したものである。其の数枚の内一枚を掲げたに過ぎぬ、当時孫公が予等に対する気持ちは実に筆舌を以て尽されぬものがあつた。予も亦人生意気に感ずるのであつた。
 孫公が北京ロックフェラー病院にて肝臓の大手術を行ひ死に垂んとして予に二通の招電を発し来りて最後の面談を希望した。新聞電報は已に危篤を伝へ或は死を伝へた。予も亦た、せめては臨終の顔なりと見たかつた。急遽北京に駆けつけた、尚は意識は明瞭であつた。彼は神戸に於ける最後の獅子吼たる大亜細亜主義の反響が心がゝりであつた。予は日本朝野の賛同するところと為つた旨を物語つた処、彼れは非常に満足して死灰亦燃ゆるが如く蒼ざめたる顔にやゝ紅を潮した、謂へらく之れが最後の幕であつて、波乱変遷多きイデオロギーの終点は大亜細亜主義で日支提携であつた。是れ本書に東京神田錦輝館に於ける三民主義発表の最初の演説全部と、神戸高等女学校に於ける最後の演説全部を特載したる所以である。
 又同志の誓約書全部を公表せし主旨は孫公去世後、其志を継承して違背せざるもの果して幾何あるかを問はんと欲するものである。重ねていふ、大亜細亜主義、日支提携は孫中山最後のイデオロギーであつた。
 胡漢民去世の前年香港に在りて談孫公の事に及び予に囑するに中華革命史編輯特に日支関係のことを以てした。然るに老来筆を執るに●ふく且つ遺忘せしこと多しと雖も現在の時局に直面して感更に深く未定稿のまゝ上梓することゝした。尚ほ多少の史料を遺しあり、他日筆硯を洗つて完成を期するのである。中華民国政府の基礎確立安定せし時本資料中の重要なるものは中山陵又は革命記念館に陳列して永遠に保存せられんことを期待するのである。已上所感を述べて序文に代へたのは所謂へたの長談義と為つたのである。

  昭和十五年三月  日      著者誌

 第 一章 腕白の破壊から第二の洪秀全
 第 二章 学生時代の革命運動 ‥李鴻章に上るの書‥
 第 三章 初期の失敗
 第 四章 三民主義、五権憲法の発端及日本有志の同情と犠牲
 第 五章 中国同盟会の成立 ‥革命潮‥
 第 六章 黄花岡と中部同盟会
 第 七章 失敗々々又失敗、粛親王汪精衛と獄中問答 ‥汪精衛獄中にて粛親王の問に答ふ・籌款と中山の世界漫遊・革命殉難者小伝・烈士就義表
 第 八章 辛亥革命〔下はその一部〕

 此の武漢の戦ひ起るや、老同志末永節は吉田、川村などを引き連れて早く駆けつけ漢口を根拠として外交其他に力を尽し、又小山田剱南、神尾茂、澤村幸夫、中久喜信周、其他大新聞特派員が筆を揃へて、革命贔屓の通信を発送した事は大局を動かす力があつた、特に大毎特派員の小山田は我党奮戦大勝すなど、本社に打電した程、熱烈なる同情者であつた。武昌には大原武昌が原二吉を帯同して応援に来り都督府の附近に事務所を設け軍事上の知識を與へ、陸軍歩兵大尉野中保教は林一郎と仮名し小鷹某と共に前線に転戦し、金子陸軍歩兵大尉は琴断溝附近にて敵弾に中り戦死し、陸軍歩兵中尉甲斐靖は盲貫銃創を負ひ、最年少にして最も勇敢に戦ひたる岩田愛之助は腿部に貫通銃創を受けて、弾丸の中九死に一生を得漸く江を渡りて後送、医師垣内喜代松は負傷者の手術に昼夜の区別なく立ち働き、石間某は敵の内応に欺かれて暗夜、漢水岸壁舟中に斃れた。

 第 九章 革命方略は行はれず大総統を辞す
 第 十章 第二第三革命と中華革命党
 第十一章 護法の為めに奮闘と著述
 第十二章 対外的奮闘
 第十三章 孫文学説に就いて
 第十四章 孫文学説と経綸抱負
 第十五章 支那民族と満州民族は別 ‥支那革命党宣言書‥
 第十六章 日支共存策
 第十七章 三民主義最初の大演説
 第十八章 中山最後の獅子吼

  附録   

  ・革命秘話
  ・唱和集
  ・孫中山年譜
  ・党員誓約書〔下の写真は、誓約書の訳文とその原文の写真である。。本書には、六四〇人全ての原文の写真がある。〕

   

 中華民国革命秘笈正誤表

  昭和十六年二月五日発行

  著作者 萱野長知
  発行所 皇国青年教育協会

   

 なお、本書には、帝国地方行政会版がある。この二つは、口絵の写真やその説明、党員誓約書が前者では一頁に八枚に対して後者では四枚掲載等若干の異同がある。

  昭和十五年七月三日発行

  著作者 萱野長知
  発行所 株式会社 帝国地方行政学会
  

 下は、帝国地方行政会版の題字の前頁にあるもの。

    お断り
 一、著者の二三失敗史あるも、事重大にして国際的又は現在生存せる個人的関係あるを以て暫く遠慮す
 一、国民党の容共政策裏面史は都合あり遠慮す
 一、資料及写真の大部分を大震災の時焼失又は他に貸与したるまヽ紛失せしを以て完全せざるを遺憾とす
 一、諱、字、号、等は日本人に通称せられたる方を記載せり

  以上は第二次出版の時補充完璧を期す

                   著者雑す

 同じく、帝国地方行政会版の奥付裏面にあるもの。

    華訳本出版予告!

 萱野長知先生、素與孫中山先生●革命党諸領袖、交誼至深、近以手蔵秘笈、撰成「中華民国革命秘笈」一書、洋洋数十萬言、不独対於中国革命史予以一新頴史料、且対東方文化之貢献、至深且鉅、現日文本業已出版、茲為使中国志士明瞭起見、特請中華民国新民会東京連絡処長何達先生、訳成中文、現排印中、不日可貢献於読者之前、謹此予告!
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『片鱗』 伊東知也 (1919.4)

2015年06月29日 | 辛亥革命 日本人 1
 片鱗 東京 龍川社発兌

    大正八年 〔一九一九年〕 四月廿二日発行 著者 伊東知也

 武昌の一日 (明治四十五年一月)〔下は、その一部〕

 漢陽陥落してより茲に三日。陣雲低く垂れて寒鴉乱れ飛び、腥雲戎衣を福処死屍縦横、喪狗の彷徨するを見、時に殷々遠来の如く巨弾の大江を横切るを聞く。黄鶴楼は夢の如く江の一角に屹立するを望むも、伯牙弾琴の古跡は徒らに馬蹄の蹂躙に委するあるのみ。思へば四日以前、襄陽丸の壮麗なるサルーンに於て、同志と共に瑠璃の杯を挙げ、余等一行の前途を祝福して、一日も早く武昌城頭新建国の壮国を発表すべく囑望せられたりしに、驚くべし。形勢は走馬灯のそれよりも急に、僅に一昼夜にして船の鎮江に達するや、上海に残留せる二人の同志は急遽火車を駆つて余等の後を追ひ、満腔の希望に安らけき夢を結べる余等の枕頭を蹴て、一大事起れり、一大事起れりとの喚声に、俄然として驚き起てば、漢陽遂に守りを失し、武昌亦危殆に迫り、黄興江を下れりとの確報に接せり、加ふるに手に唾して取るべしと唱へられし南京城も、難攻不落、其の略取の日を期すべからず、漫然遡江するも何の得る所かあるとの注意に、余等三人は肚膽を抜かれ、船室に鳩首協議の末、天烱、滔天の二氏は此地に上陸して黄氏を待ち合す事とし、余一人敗後の状態を視察し、黎元洪の意中をも慥むる事と定め、単身孤影漫々たる大江を遡り、客心轉た無量の感慨に打たれつゝ、足を漢口の埠頭に印せしは、天日光リ鈍く将に西山に舂かんとする昨日なりき。
 道途の傳ふる所によれば、漢陽の一挙、官軍大に気勢を添へ、独人の手によりて運搬せる十五珊カノン砲は既に五門の据ゑ附けを了り、榴霰弾、機関砲の準備豊富にして、一撃の下武昌は粉砕せらるゝに至らん、武昌の革軍、漢陽の敗兵、皆な焼け糞となり盛んに掠奪を始め、而かも外人と見れば赤裸々にせずんば止まずと、我が領事館の諸氏亦た此の説を信ずべしとなし、強ひて余等の渡江を中止せしめんとせり。
 されど余は同志と深く約する所あり、身首処を異にすと雖も其の使命を恥かしめ難きを以て、断固其の決心の翻すべからざるを述ぶ、幸いにして同志本城氏の紹介によりて、一見旧知の感ある高須領事は、大いに余の意中を諒とし、然らば領事館のランチに便乗の計らひをなさん、若し彼岸に達し危険の兆あらば直ちに引返し来れ、我がランチの船長は支那人に似気なき勇敢無比、幾たびか弾丸雨飛の間を往来せし経験を有す、恐らくは卿等の希望を達するを得ん乎と、余勇躍、深く其の好意を感謝す。
 旭日暉々として大江に映じ、金波銀波相連りて舷側を打つ。日、英、米、独、仏、露、白の軍艦十数隻、各々其の国旗を朝風に翻へし、堂々たる雄姿長江を圧するの概あり、其の間を縫ひ、巨大なる日章旗を舷頭に掲げたる我がランチは、白波を蹴立て疾駆して進む、列国の海兵眼を峙て々望み、其の何人たるやを想見するものゝ如し。男児桑蓬の志、未だ酬い難しと雖ども、亦た一時の快ならずとせんや、東坡清遊の地此所を距る遠からず、其の、西夏口を望み、東武昌を望めば、山川相繆ひ、鬱乎として蒼々たりと称へ、周郎を憶ひ、孟徳を偲び、天地の大観に憧憬したりしも此の附近山河の形勢の感化にあらざるなきか、星移り人変り、依然たる江山、幾たびか其の主を代ふるも、滔々たる長江何れの時にか盡きん、今や亦た両軍江を隔てて相対するに至る、地下の東坡は果して如何の感をかなすと、眸を放つて大河山嶺を望めば、数條の陣烟高く天に冲するを見る。
 船の南岸に近く頃、傍人声を放つて曰く、数十の兵勇皆な我が船に向つて射撃の構へをなすと。双眼鏡を取りて見るに果して一斉射撃の態度を示す、船長に注意して除行せしめ、其の他意なきを表し、岸に達するに及び先づ同行せる此の地方在住者を上陸せしめ、余等の来意を述べ、上海陳都督より余に與へられたる護照を示すに及び、兵勇皆な直立不動の態度に復す、乃ち悠然として上陸すれば、護岸隊長陽某慇懃に迎へ、此の地方一帯の司令官数町の奥にあり、希くば駕を抂げて懇談せられたしと、二名の兵勇を附して案内せしむ、路傍の飲食店、小雑貨店等、何れも非常の繁昌にて、支那到る処の場外市場の状況たる、煙草を喫する者、甘蔗を嚙る者、立ちながら駄菓子を喰ふ者嬉々として小児婦女子の戯るゝ状、少しも平素の態に異らずして、絶て戦乱の悲運にあるを認むる態はず、況んや大別山頭の巨砲一発の下に、粉砕せらるべき恐怖の感念の如きは、群集何者の辞色にも発見する能はず、余輩は寧ろ奇異の情に打たるゝを禁ずる能はざりき。

 〔中略〕

 正午少しく前に、漸く洪山寶通寺に達す。寺は武昌城東の一勝地にして、平時諸人遊覧の区、後ろに高丘を負ひ、一大塔を有し、壮麗なる伽藍、歴代諸帝の勅額等を蔵し甚だ有名なり。又た有事の時に当つては、常に武昌争奪の要衝にして、太平天国の乱、幾たびか両軍の拠る所となり、之れを得しものは武昌を略するを得しの重地なり。黎将軍の漢陽陥落後、其の本営を此の地に移せる故あるかな。刺を通じて待つ事少事、一士官の導くに任せ、例の支那的の布袋、毘沙門等を安置せる殿堂を過ぎ、数百級の石階を登りつめ、奥まりたる一室に案内せらる。外務部の江華本なる人出でゝ応接す、我が帝国大学法科に遊学せる年少気鋭の士なり。氏の言に曰く、黎都督は昨日六十清里許の処に出掛け居りしが今日は場内に往きて在らずと、余等一行の落胆云ふ許りなし、されど余は其の語気に怪しむべき点あるを看破し、且つ頃来漢陽武昌に於て、所謂援助的行動を執れる日人の多数が、俄然信用を失墜せる事実を知悉せるを以て、江氏の不在と称するに拘らず尚ほ頻りに黎将軍に面会を求めて止まず、恰かもよし。我が海軍士官の服装せる人の入り来るあり、余の名刺を熟視し、是ある哉ゝ、不肖貴国に在るの時、同志より貴下の名を聞く事久し矣、貴下に対して何をか秘せん。黎都督は現に此所を距る数町の処にあり、直ちに迎へ来るべければ暫く待たれよと疾走して去れり。氏は我が海軍砲術学校を卒業して、黎都督の副官を務あつゝある范騰宵其の人んり。
 少焉くして、石段の一方より都督来れりゝとの喚聲響く、間もなく入り来れる四十余歳とも覚しき堂々たる一偉丈夫あり、青色羅紗の詰襟洋服を著、赤皮の長靴を穿ち、日本刀を仕込めりと思はるゝ長剣を横へ、悠然たる態度、肥満せる体格、黒き大なる眉は最も男らしき風貌を示し、少し延びたる五分化刈頭は勇気の充ちゝたるを偲ばしむ、是れなん鄂軍都督黎元洪とは問はずしてぞ知られける。一応の挨拶ありて、余は来武の理由より同志の行動に及び、漢陽の守りを失せるは甚だ残念なるも、大江の険未だ容易に指を武昌に染ましむべからず、況んや難攻不落の称ありし南京城は、昨日を以て全く革軍の手中に帰し、形勢大いに振へるありとの飛電に接せり、将單姑らく隠忍此の地を守らば、天下の事復た憂ふるに足らざるべしと、黎氏答へて曰く、実に先生の下教の如し、弟不肖と雖ども徒らに筍且の計をなし、殉難八千の子弟に辜負するに忍びんや、唯だ憾む独逸の北軍を助くる尽さゞるなく、曩に十五珊カノン砲二門に過ぎざりしもの今や五門に増加し、又た将に十数門に達せんとす、其の威力実に驚くに堪へたり、弟の憂ふる所は唯だ此の武器の一点のみ、諮議局に設けたる都督府は、此の砲弾と榴霰弾の為に焼失せしめらるゝに及び、昨日を以て本営を此の地に移すの止むを得ざるに至りしなり。而かも士気愈々旺盛、昨亦広西の援軍湖南を経て新たに着し、京口より上陸して入城しつゝあり兵士の不足等は憂ふるに足らざるも唯巨砲、機関砲、榴霰弾の欠乏実に憂ふべしと大息す。余乃ち答へて、不肖等敢て聊か一臂の力を此に尽さん、弟明日を以て下江するを以て、上海に於て同志と協議する所あらん、将軍幸に少しく安ずる所あれ唯だ偸安の講話最も戎しむべしと、云ひ了らざるに黎氏は起つて堅く余の手を握り、元洪不肖と雖ども何ぞ先生の教に背くべけんや、希くは微衷の存する所を以て宮崎〔滔天〕其他の諸同志に伝へ給はれよと、感慨禁じ能はざるものゝ手戦き体顫ふ、余も覚えず胸臆四塞、涙の双眸を下るを禁せず、互に必ずゝを繰り返して、再たび三たび其の手を握る。満座寂として声なく窓外の剣戟燦として白日に映ずるを見るのみ。
  黎氏重ねて曰く、先生若し上海に於て幾分の望を有せられば、今日弟等協議の上一二の者を先生に随行せしめ、以て商量する所あらんとす、高見如何と、余其の最も可なるを答ふ、偶ま急用起れりとて都督を迎ひの参謀来る。黎氏乃ち慇懃其の旨を述べ陣中何等の用意なきも昼食の準備を命ぜり、弟は聞かるゝ如く直ちに城内に往かざるを得ず、陪食の栄を負ふ能はず切に海容を請ふと、恭しく辞す。白戟を持せる二十余名の猛卒前後より護衛して石階を下るを見る。余等厚意の饗を受け、二時辞して山を下り、轎を聯ねて賓陽門を入り、総司令部、兵営等の前を過ぎ、諮議局即ら前の都督府の跡を見る。宏壮なる煉瓦造りの大建築、四壁は未だ崩壊に至らざるも、屋根は全く破壊し尽され、窓より黒烟を吐ける状歴々として見るべく、光景惨憺たり。

 〔以下略〕

  刃に衂ること三十六人 (明治四十五年二月) 〔下は、その一部〕

 此の夜、余等は山田純三郎氏の宅に晩餐に招かれた。純三郎氏は、彼の三十三年事件、即ち広東省の恵州に於て事を挙げた時、最後まで踏み止まつて、遂に行方不明と云ふ名の下に、支那革命の犠牲となつた吾人の同志山田良政君の実弟である。今は満鉄の特派員として、三井物産に執務して居るが、常に阿兄の志を忘れず、何とかして支那革命を大成して、阿兄の霊を慰めたいと苦心して居たが端なく今回の震天撼地の大革命が成就せんとし、阿兄の遺志始めて酬いられんとするのを見て欣躍措く能はずである。況んや当年阿兄の同志として共に死生の巷を馳駆せし我等の来滬を見て、感慨禁ぜず、ぜひ兄哥の霊前で一杯傾けて呉れと云うふから、此の招宴となつた次第である。
 見よ正面に掲げられたる三尺大の額面には、胡装の偉丈夫、凛々しき一文字の眉通れる鼻筋、緊れる口元、裂けんとする眦には決死の覚悟を現はして居る良政君の風貌活けるが如く、吾が魂魄此の士に止まり、遂に今日の事を成せりと囁く如く思はれる。額前に台を設け、花を挿し香を焚き、一盞の清酒が供へられてある。座に連なる者、黄一欧、何天烱、滔天、余と主人と五人、皆粛然として容を正す。滔天先づ進んで一杯の酒を捧げ、三拜して後其の酒を戴いて飲んだ、次いで余、天烱一欧の順に此の式を行つた。最後に主人も酒を捧げ拜し了つたが、胸に溢るゝ萬感の切なるに堪へずやありけん、見るゝ双肩波の如く戦いて、額面を仰ぎながら、「兄サン……ウ……嬉しいでせう」と覚えず台下にヒレ伏した。一座暗然として暫く歔欷を禁じ得なかつた。嗚呼誰か男兒をして四方の志を抱かしむるものぞ、丈夫の涙は敢て別離の間に濺かずと雖も、斯かる涙はとゞめ難きものにこそ、悲しきにつけ嬉しきに付け、志士の胸中ほど感慨の切なるものはあるまい。
 やがて主人は容を改め、ヤア失敬しました何も悲しい事はないです。兄哥も嘸喜んで居るでせう、サアどうぞ召し上れ」と、細君の苦心になれる珍品佳肴を堆く列ねて灘の芳醇を頻りに勧めらる。酒三行にして滔天は余を顧み、もうどうだと云ふ、余乃ち携へ来れる秘蔵の一刀を、同郷在京の青年諸氏の餞別に係る紅絹を以て飾り、静かに之れを捧げて、霊前に一拜し、而して黄一欧に向ひ、「此刀は先年或人より誰れにも遣らぬと云ふ約束の下に贈られたもので、永年珍蔵して居たもの、又此紅絹は余が同郷青年の革軍に対する赤誠である、今ま君が南京攻撃軍の先鋒隊司令官として出発せらるゝを祝して餞別する、而かも山田良政君の霊前に於て特に贈る所以のものは、吾々同志の殉難者たる氏の志をも継いで抜群の働きをし、二人分の功名を顕して貰ひ度いからである、能く此の事を思つて呉れ給へ」と云ひつゝ刀を渡す。
 一欧起つて恭しく之を受け、儼然として「有難う御座います、御言葉の如く屹度充分の働きをして、我党の為め異国の露と消えられた山田様の御心にも叶ふやうに致しませう」と、其の言語、其の態度、二十歳の青年とは思へず傍人をして襟を正さしむるの慨があつた。収め了つて黄一欧はドレと許りに鞘を払ひ、晃々たる秋水を燈火に照らし見て、一と揮り二た揮り、エーツと気合の掛声勇ましく「ウムこれなら大丈夫張勲の首が斬られますゾ」と小躍りしたる武者振りに、一座皆な勇み立ち覚えず杯を挙げて、黄先鋒司令官萬歳を三唱した、勿ち撻を排し、醉歩蹣跚として入り来つた女がある。林漓たる酔態呂列も廻らぬ程にて、「何んですタイ、山田サマ厭な顔しまつすナ、の御写真ナ貴様方の兄い様ぢやろ、私ダッテ知つチョルタイエーツ、宮崎サマ、伊東サマ、ヲツウした顔して呉れマスナー、エーツ、カ……何サマ、それからコ……黄坊ぢやろ、皆な知つチョルタイ、矢つ張りさうぢやつた、今晩ナね、山田サマ、革命党の親分株が此処に集つていると聞いたケン、押しかけて来ましたタイ、オンドは革命党大好きぢやもの、浪人婆ぢやもの、ヨカたのドンゲン云つたからツテ、併しこの伊東サマナ、オンドを姉御と云はつしやるケン好カン、かう見えたつてオンドはバクチは打たんケン、姉御ナンテ云つて呉れマスナ、エー、辛気臭か、唄ひマッセ、ドウ云うもんぢやろカイ、酒飲んでも浮かれぬ豪傑は屁の河童タイ、サア皆んな飲みマッセ、山田サマ奥サマ酒持て来マッセ」と気焔萬丈当る可からずである。満座の豪傑も皆呆然として唯だ苦笑するのみ。是れなん豪傑婆を以て南清一帯に有名なる、酔月楼の女将お安婆である。此の女将の元気に圧せられて、感慨深き一夕の小宴は興味を以て終りを告ぐる頃と成つた。
 黄一欧は山田氏の宅を出ると、軍事上の打ち合せありと云つて別れたが、翌日一日帰つて来ない、其の翌日の昼頃になつても帰らない、滔天始め一同が心配して、どうした事だろらう直ぐ鎮江に往つたのぢやあるまいか、などゝ噂さをして居ると、三時頃になつて悠揚たる態度でノソリゝと帰へつて来た。例の長靴を脱ぎ捨てて「オヽ寒いゝ」と火鉢の傍に胡坐をかく「何を愚図ゝして居るか、先鋒隊の癖に」と一本喰はすと、「何!昨日から蘇州に往つて、チヤンと準備をして来たんだ」と答へる、滔天も「蘇州もよいが、先鋒隊が往かなければ南京は敗けて了ふぞ」と揶揄する、坊は、「大丈夫、もう砲台二つ取れた、もう直ぐだ、烏龍山と幕府山の砲台を取つたから、明日か明後日には南京が取れるよと悠然たるものである。〔以下略〕

 ○ 清国の革命戦を実見した婦人 
                 大倉組清国漢口支店員阿部又三郎氏夫人 阿部春子

 △揚子江の対岸に銃声

 私は清国漢口の租界地にをりましたが、最初変乱のことを聞きましたのは、十月十日の朝で、揚子江の対岸の武昌に騒動のあつた翌日でございました。しかし、私どもは、初めゐ普通の暴動ぐらゐに思つてをりましたのですが、その日の夕方から、日本人や支那人がドンドン川を渡つて、武昌から漢口へ逃げてまゐりました。十一日になると、武昌方面の空は一面の黒煙が渡つて、鉄砲の音が豆を焙るやうにズドンパチパチと響きます。
 私は吃驚いたしまして、二階へ上つて武昌の方を見ますと、猛火は二ヶ所も三ヶ所も焔を上げて燃え上つてをります。

 △日本租界で義勇兵隊組織

 この時はじめて、これはなかなか重大だと思ひました。そして、それが夕刻になつても夜になつても止 や みませんので、方方 ほうぼう に散つてをります日本人は皆租界へ集まつて来るといふ有様で、四辺 あたり が何となく殺気を帯びてまゐりました。そして、日本租界では、もしもの時にはといふので、この日、義勇兵を組織しました。
 翌十二日になりましても、武昌の騒動は少しも静まりません。大きな製鉄所などが焼けるといふ騒ぎで、人人は皆ふるへてをりました。

 △二人の幼児を抱いて狼狽

  午後の九時頃になつて、領事館から、『漢口も危険になつて来たから、租界の警鐘が鳴つたらすぐ領事館の方へ逃げて来い。さうすれば船に乗せて避難するから。』といふ達しがありましたので、俄 にはか にうろたへ始めて、せめて着替だけでもと思ひまして、身のまはりのものだけ人通り纏めて、それを門の前まで持出して、今鐘が鳴るか、今鐘が鳴るかかと、チヨツとした音にも胸を轟 とどろ かしながら、八歳と五歳との二人の子供を抱いて、同役の奥様方と一緒に、門前にウロウロしてをりました。

 △相図の鐘を持つて徹夜

  対岸の武昌はやはり黒煙がたつて銃声がポンポン聞えるので、気が気ではありません。丁度夜の十二時頃まで門前に今か今かと待ち暮らしましたが、ともかくもとの家の内に入つて、一睡もせずに夜を明かしました。夜は明けましたが、武昌の騒ぎは少しも止まず、見るにつけ聞くにつけ、居たり立つたりして、少しも心が落着きません。子供はまだ幼 をさな うございますから、ただ怖い怖いといつて、わなわなと震 ふる へてゐるといふ有様でございました。しかし、その日は何事もなくて済みました。

 △汽笛を相図に逃げ支度 じたく

  それから十五日までは、市内は静かになつてまゐりましたから、少し安心してをりますと、十六日になつて、『今日は愈 いよい よ危険になつて来た。軍艦の汽笛を相図に前の通り逃げ支度をせよ。』といふ回状が来ましたので二度吃驚 びつくり 、御飯を頂いても咽喉には通らず、ただウロウロしてゐるばかりでしたが、ヤツと着替だけを一括して門前に運び出し、汽笛の鳴るのを一心に待つてをりました。そのうちに、誰といふなく、『今日は心配がない』といひますから、少し安心してゐると、一時間も経 た たぬうちに、『危険だから注意せよ』といつて来る有様で、何人 だれ の顔を見ても皆真青になつてをります。

 △銃声聞 きこ ゆソラ始まつた

  それに、十一日からは毎夜安心して眠ることもできず、食事も美味しくないので、食べたり食べなかつたりしたものですから、身体は疲れて来る、泣くには泣かれず、どうなることかと胸を痛めてをりましたが、丁度私たちのをります日本租界から僅か三町ほど離れた競馬場で、突然銃声が聞えました。
  さては愈 いよい よ始まつたと、汽笛の鳴るのを今や遅しと待つてをりましたが、汽笛は鳴りません。そのうちに、パチパチといふ銃声と、家の焼ける物凄い音が聞こえて来るので、汽笛は鳴らないが逃げ出さうかと思ひました。

 △一日違ひで大助かり

  しかし十二日から婦人子供は一歩も外出してはならぬといふ達しですから、それもできず、二時間あまりも銃声を聞きながら門前に立つて、今か今かと汽笛の鳴るのを待つてをりましたが、この日もとうとう汽笛は鳴らず、銃の音も何時 いつ しか止んで、静かになつてしまひました。
  しかし、かう物騒では困るからと存じまして、その翌日十七日に南陽丸に乗つて帰国の途に就き、九江まで下つて碇泊してをりますと、十八日には漢口の戦争も烈しくて、前日私どものゐた日本租界まで銃丸が飛んで来たと聞いて、一日早くて仕合せだつたと、安心いたしました。二十日には上海に着いて一週間ほど滞在しました。その時はまだ割合に平穏でしたが、長崎に着いてから初めて上海は天長節の日に革命党に占領されたといふことを聞きました。

 上の文は、明治四十四年 〔一九一一年〕 十二月発行の『婦人世界』 第六巻 第拾四号 に掲載されたものである。
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『内外時事月函』 十一月号 黒龍会 (1911.11)

2014年10月19日 | 辛亥革命 日本人 1
 内外 時事月函 明治四十四年拾一月号 黒龍会編纂

     

 支那革命乱記事及評論 〔351-523頁:88編〕

 武漢の戦記

  漢口の掃蕩戦

 曩に革命勃発当夜漢口に遁れし元武昌第八鎮統制張彪は集め得たる残卒五百人と共に京漢鉄道江岸停車場に駐屯し以て援軍の至るを待ちしに十三日には河南開封の新軍千二三百名到着、十六日十七日の両日直隷先発軍も到着したるを以て武昌の革命軍は北軍の軍容の整斉せざるに先ち一気之を掃蕩せんと欲し十八日午後三時より運動を起し江岸停車場に前進したり、其の勢力は約一千五百にして、砲四門を引き、漢口居留地の後方なる鉄道線路に沿うて前進し、外国競馬場附近に至りて鉄道外の郊野に開展し村落を挟んで進撃したり、而して砲隊は競馬場附近に放列を布き、歩兵の大部隊は殆ど停車場の約七八百米突の附近まで肉薄したり。
 是に於て河南軍及ひ武昌の残卒は停車場附近の堤防によりて応戦し張彪能く奮闘して午前七時より約一時間激戦の後遂に革命軍を撃退し之を大智門に追撃せしも此処には革命軍の砲弾能く功を奏して北軍をして後方に退却するの止むを得ざるに至らしめたり
 是に於て、革命軍は更に勢力を挽回し、同日午後再び停車場に向つて前進せり、其の進路は依然鉄道線によりて進み、競馬場附近に集中し、砲四門を以て先づ前村落を砲撃し、北軍の已に退却するを見るや、其の一部隊は更に前進して、鉄道上に大砲二門を据え附け、盛に停車場に向つて砲弾を送りたり。
 然れども北軍は全く沈黙して応戦せず、其状此かも停車場内の堤防いよりて以て革命軍の近づき来らんこと竢ちつゝあるものゝ如し。已にして革命軍の大部隊約千二三百名が、競馬場附近にて集中しつゝあるや、江中に碇泊中の清国軍艦は先づ建威号より砲撃を初め、革命軍の集中点に向つて激烈に砲弾を浴せかけたり、而して其の砲弾は最初甚だ遠き距離に落ちしも最終の一二発は革命軍の集合点に落ち来り、多大の負傷者を生ぜしむるに至りしを以て、革命軍は遂に退却するの已を得ざるに至り、再び支那街側の根拠地に引揚げたり。
 此夜革命軍には武昌より応援隊来りて軍容大に振ひ翌十九日には約三千の兵を以て前日同様の進路を取りて再び停車場の攻撃を始めたりたる然るに北軍は何の見る所ありてか此日一発の弾丸だに酬いず全く沈黙して後方に退却し江中の軍艦亦た遥か青山の下游に逃れたるを以て革命軍は残留兵の降服を容れて全く江岸停車場を占領し漢口附近は全然革命軍の勢力に帰したり此戦前後二日北軍の死傷凡二百革命軍は稍々之よりも多数の死傷者を出せり

 革新派の躍進
 上海の占領
 湖北革命党騒乱前記(十月十一日) 上海 申報
 武漢革命の大風雲(十月十四日発刊)(一) 民立報 :他に◎中華民国軍政府鄂羣都督黎佈告、◎民軍兵工廠を占領するの記

   武昌凾 十月十日 八月十七日 陽暦十月八日 夜十二時鐘、水師巡防統領陳得龍、漢口英租界に在りて、革命党員二名を拿獲せり一名は陳堯徽、一名は邱和商、均しく是れ日本留学卒業生。解送して院に至る、訊供諒まず、唯、其党羽及一切の内容を供出せず、同時に、第八鎮統制も亦砲隊已に暇をを告ぐる正目某甲に依りて、今夜三句鐘、革命党事を起すことを報告し、並に革命党の住址、小朝街八十五、九十二、八十二の等号を指明す。即ち督轅に飛報せしかば張統制親ら親信の護兵、及、督院の戈什、巡防隊の巡警を率ゐ、各、刺刀を佩び、真弾を帯し、各該会議の処を分圍す。革命党倉皇として措く所を失し、迅雷耳を掩ふに及ばす、然れども、事機已に露はる、亦即ち炸弾を抛擲して力拒し、各官兵傷を受くるもの多し。張統制令して猛進せしめしかば、革命党支へず、多くは屋瓦を飛越して逃る。拿獲に当り死力争ひ拒くもの、二十七名。其中、軍、学の両界半に居る。是れ正に天已に曙けんとする時なり。
 十八日 十月九日 司道、及、要差の人員、均しく督署に至りて会議し、城を閉ちて大に革命党を捜索せしかば、市面震驚、人心惶惶、各党人皆督署に梱解す、瑞督、張統制と協同して之を訊問するに、党人内、彭曾範を以て、最も強項なりと為す、曾範は、湖北陸軍特別警察隊一隊一棚の正兵に係る。其之を訊問するや、曾範曰く、『大丈夫、豈死を畏れんや殺さば則ち殺されんのみ。絮絮亦何ぞ為さん』問て曰く『首領は誰ぞ、党羽は誰ぞ』曰く『普天率士、同憤同志の士は甚だ衆し』と。即ち西轅門に在て法を正うし、嗣て又法を正うするもの、二人。正午十二句鐘、尚訊問中に在り。十句鐘半、城門を開くこと少時、旋て又關閉す。居民恐慌特に甚しく、紛紛遷り避け長街一帯の舖戸市を閉つ、現在の情形此の如し。

 討伐軍進発の上諭(監国摂政王章)
 中華国民軍政府條例
 黎都督の訓令

 一 各軍士、戦闘の時に於て、務めて必ず敵人あるを見れば、方に搶を放ち、以て子弾を糜費する勿れ。
 二 戦線上に於て、敏捷を要すと雖も、必ず沈著の性質方に事に益あらん。
 三 戦闘の勝敗は、全く精神に在り。各軍士、努めて必ず志気を鼓舞し、醜満を滅盡せよ。
 四 軍隊は軍紀に頼る、各軍士務めて必ず上官の命令に服従せば、方に完全の効果を得ん。

 革命軍佈告全文
 中華革命党本部宣言書
 領事団に対する照会
 軍民人等に対する佈告(中華民国軍政府鄂軍都督黎命令)

 一 軍隊中、上は都督より、下は兵夫に至るまで、均しく一律に紀律を守る。違ふものは、斬。
 二 原有父、新募兵兵士に論なく。等しく三五群を成して編制に帰らざるもの、及、編制内に在りて、擅に所在を離れ、装を易へて私に逃るゝものあらば、斬。
 三 擅に民家に入り、銭財を苛索し、及、私に火を縦つを行ふものは、斬。
 四 軍隊中の各幹部如し約束に遵はざるものあらば、斬。
 五 官兵調遣を受けず、及命令に違背するものは、斬。
 六 擅に自ら搶を放ち、行人の、往来を恐駭するものは、斬。
 七、兵士中、如し私を挟みて同胞を仇殺するものあらば、斬。
 八、如し当鋪に在りて強て軍装物件を当するものは、斬。

 各督撫に檄するの文
 人民に対する佈告(中華民国軍政府革命軍鄂軍都督黎示)
 軍政府天壇を祭るの文
 黎都督薩軍門に與ふる文
 黎都督紳民に慰労するの文
 暴発の真相(十一月二日東京朝日)     在漢口 霞菴

 今回の武漢暴動は当初より革命党と軍隊との脈絡ありて、叛旗を翻へせしが如きも決して然らず軍隊内に於ける動揺と革命側の画策とは全く相関係せざりしが如し革命党側は去九日露国租界に於て爆裂弾製造者の逮捕せられたるを初とし次で同党員の大捜索となり為に武昌、漢陽、漢口の三地に於て嫌疑者として捕縛されたるもの十七名に達し内劉耀章以下五名は證拠十分なりとし直に斬首に断ぜられ一方軍隊側に於ては砲兵隊の一部数日来動揺し騒擾を醸さんとするの状あり瑞総督は是等軍隊並に学生等に対し何等かの手段を取らざるべからざるに至り猜疑と嫉視とは遂に軍隊学生をして革命党と野合的絡脈を通せしむるの結果を生めるは事実なるが如し
 事は暴動の前々日頃砲兵隊に於て除隊さるべき一隊の兵士に対し一夕離杯のため小宴を開かんとしたるに中隊長は何故か之を許可せず兵士の哀願を斥け遂に強制的に之を中止せしめたるより大に憤激せる一隊の兵士は直に脱営して兵器庫を襲ひ弾薬銃器を掠奪し逃走を企てたり乃ち瑞総督は砲兵隊の行動を注視すると共に一方新軍歩兵に対し其の革命党と気脈を通ずるの虞ありとし猜疑百出益圧迫を加ふるに至れるより革命党は機乗すべしと為し脱走兵を煽動して遂に排満興漢を名とし血祭りとして瑞澂、布政使連甲を襲撃したるに始まれり斯くの如く軍隊に於ては砲兵隊一部の暴動と革命党逮捕の一事とは全く別問題にして両日偶発して遂に野合の結果を見たるものなり
 〔以下省略〕

 武昌暴発状勢(十月二十八日大阪朝日所載) 武昌陸軍教官 寺西中佐談
 黎元洪心事の解剖(十月卅日東京日々)
 革命軍民政の首領(十月十七日東京朝日載)

 法政大学の出身 支那今回の変乱に革命軍に投じて諮議局議事堂を叛軍の本営に宛て專ら民政を湖北一帯の地に布き内外人の順撫に勤め一方軍隊総指揮を掌どる黎元洪等と共に寝食を忘れて国事に奔走しつゝある武昌諮議局湯化龍氏は湖北蘄水県の人、曩に進士館より官費生に選抜されて我が東京に来り法政大学に入学して専ら梅博士の教鞭を受け速成科を卒業し去四十一年中帰省したり、氏は齢三十五なるも普通清国人中稀に見る人物にて兼ねて刑法学者なり日本留学当時刑法学に関する一書を著はして清国学生の指導に便じたることは今尚学生間に喧伝され居るが帰省後北京に赴きて民政部主事の任に就けり
 悲憤の動機 〔以下省略〕

 死を決して漢口の官軍に投ぜる清国官吏の書簡(十月卅日大阪毎日所載) 北京特派員
 革命党主将を訪ふ(十月大阪毎日)         米人某氏手記
 清国騒乱に就て(十月時事)            根津一氏談
 騒乱と犠牲(十月十五日時事所載)         大隈伯談

 騒乱の性質 今回騒乱を起こしたる武昌の新練軍は夙に張之洞が我邦より武官を招聘し若くは多数の青年を日本に留学せしめて教育したる湖南の壮丁より成り清国新軍中錚々たるものである左れば彼等の多くは日本軍隊の精神形式を稟けたるものと思はる而して今度の騒乱は全く革命を目的として起りたるものゝ如く伝へられて居るが其真偽は未だ俄かに断定し難き所である〔以下省略〕

 前途憂ふべし(十月十三日時事所載)        大原武慶氏談
 武漢大動乱に就て                 鋳方陸軍少将談
 中清暴動の将来                  小田切万寿之助氏談
 中清の動乱は必然の勢(十月十七日報知新聞載)   青柳篤恒氏談
 事は第一戦の後に始まる              樋口龍峡氏談
 動乱原因は総督の外にあり(十月十四日国民新聞載) 康有為高弟湯氏談
 革命乱益発展(十月十四日)            大阪毎日新聞社説
 支那流の革命運動(十月十五日)          読売新聞社説
 清国の擾乱(十月十七日)             国民新聞社説
 武昌乱事の感言(十月十三日)           上海 中外報社説
 嗚呼奈何天下乱(十月十四日)           上海 中外報社説
 鄂督の変を論ず(十月十三日)           新聞報
 鄂乱を論ず(十月十四日)             時報
 革命軍の現状(十月十五日)            新聞報
 鄂乱を靖むるの方策(十月十五日発刊論説)     中外報
 交戦時の中立論(十月十四日)           上海 民立報
 清国動乱評 
    (一)ジヤパン、ガゼツト (二)アトヴアタイザー (三)神戸ヘラルド (四)横浜ヘラルド (五)ジヤパンタイムス
 革命軍の将来(十月十四日) ノース、チャイナ、デーリー、ニュース
 革命軍と長髪賊       ノース、チャイナ、デーリー、ニュース
 主動者は何人                   チャイナ、プレス
 革命乱に就ての疑問                チャイナ、プレス
 時局と日露関係(十月二十六日)          ロシヤ紙所載
 支那時局の解決                  英国スタチスト氏
 煽揚せらるゝ勿れ                 竹越三叉
 清国動乱の前途如何(日本及日本人十一月号所載)  稲垣伸太郎
 清国の革命と日本の態度              東洋経済雑誌社説
 騒乱と国際法(十月二十一日時事所載)       法学博士 高橋作衞
 中清動乱に対する我官民の態度           法学博士 有賀長雄
 清国と列国(十月二十三日)            中央新聞社説
 外国干渉の端(十月廿五日)            東京朝日社説
 列国傍観の外なし(十月二十八日)         東京日々新聞社説
 動乱と干渉(十月十六日)             チャイナ、クリチック
 革命乱に対する日本の態度             上海 △△報
 日本人に敬告す(十月十九日)           上海 民立報
 湘鄂贛軍事と地勢(十月廿七日)          上海 民立報
 革命軍余命(十月廿三日)             中外商業新報社説
 袁世凱の地位(十月二十二日東京朝日所載)     某陸軍少将談
 袁世凱と盛宣懐(十月三十日大阪毎日載)      某清国通談
 袁世凱の趣向(十一月二日国民新聞載)       門外漢
 北京政局と袁氏南下(十一月二日時事所載)     某高官談
 如何んか窮極(十月廿六日)            東京毎日新聞社説
 講話乎降服乎(十月二十六日)           二六新報社説
 革命調停條件(十一月一日)            萬朝報社説
 共和政体の先声(十月廿四日)           上海 民立報
 清国政変如何(十一月二日)            時事新報社説
 清国政局の変転(十一月二日)           東京朝日社説
 清朝の事実的滅亡(十一月三日)          大阪毎日新聞社説
 戦慄時代の閃影(十一月二日報知所載)       佐藤天風
 欺瞞的袁内閣(十一月四日)            大阪毎日新聞社説
 清国革命の成功(十一月三、四日)         大阪朝日新聞社説
 清国政局の前途(十一月三日東京朝日所載)     某外交通談
 北京政変と米独(十一月二日東京朝日所載)     某清国人談
 反乱の教訓(十月卅日)              やまと新聞
 歴史より観たる湖北省の地位            市村文学博士講述
 革命軍の兵器                   本荘陸軍少将談

 漢陽兵工廠 素と槍砲局と称したる兵工廠と改めたるものなり独逸人の設計に係り工場の外形及据付機械の如き極めて堂々たるものなれども各種機械の能力甚だ不調和なれば資金を投じたる割合に工程少く或は殊更に仕事の出来ざる様設計されたるに非ずやと疑はれたり依て余の赴任するや否や色々改革意見を提出したりしも独逸人との間に存する種々の契約に検束されて一も行はれざりし先づ人物養成の急務を認め当路に建議して兵工学堂を設立し大阪東京の砲兵工廠より中川工学士外技師職工等都合十五名を雇聘して中川氏を教頭其他を教習とし生徒を養成したるに学科は相当の好成績なりしも実習は思はしからす是れ支那人体量の比重甚だ少く随て精力なき結果なるべし
 工廠の能力 
 革命軍の兵器 兵工廠製造の小銃は多く他省軍隊の注文に係るものにて武昌軍の小銃は独逸より買入れたる旧式モーゼル銃なるが其構造気毒なる程粗末なるものにして例へば照尺がハンタ付けなるを以て余の実験したる所に依れば最良のものにても二十八発目に照尺の脱落するを見たり革命軍の有せる小銃は全部此類にして北洋軍の三十年式日本銃を有せるに比せば甚だ不利なりと云はざるべからず之を要するに漢陽の兵工廠は単に国内に於て軍器を製造し得らると云ふに止まり其実際の価値に至りては殆ど云ふに足らざれども北軍の弾丸の供給意の如くならざる際に武昌軍は兎に角く一日二萬発前後の製造力を有する工廠を占領せるは多少の力となるべきが如し

 組織連絡の整備せる革命軍(十一月二日日本所載)
 革命党の現状                   小川平吉氏談
 満州の秘密結社 哈爾賓 新聞所載
 清国の陸軍(十月廿四日至廿八日東京朝日所載) 〔下は、その一部〕

 徴兵資格 既成師団及び今後設立さるべき師団の徴兵は陸軍営制餉章にて資格を左の如く定む
  一、年齢二十歳以上二十五歳以下
  二、身丈四尺八寸以上(但し南方人は四尺六寸以上)にして五官全体健全且つ眼疾たきもの
  三、膂力百斤以上を挙げ得る者
  四、必ず土着して家屬を有する者
  五、阿片を吸はざる者犯罪者ならざる者

 〔以下省略〕

    湖広総督
 第八師団(所在地武昌) 第十五歩兵旅団(第二十九、三十歩兵連隊)第十六歩兵旅団(第三十一、三十二歩兵連隊)第八騎兵連隊、第八砲兵連隊、第八工兵大隊、第八輜重兵大隊
 十一師団(所在地同上) 第二十一歩兵旅団(第四十一、四十二歩兵連隊)騎、砲、工、輜重兵各少許、一箇旅団欠
 十三師団(所在地長沙) 第二十五歩兵旅団(第四十九、五十歩兵連隊)一箇旅団及騎砲工輜重兵欠

 〔以下省略〕

 京漢鉄道輸送力(十月十九日時事所載)
 上海漢口間水路状況(十月二十五日時事所載)
 清国財界動乱来(十月廿二、廿三日二六新報所載)  根岸佶氏談
 現代支那 国民雑誌社説

 明治四十四年八月 創刊 明治四十四年十一月十日印刷 明治四十四年十一月十五日発行 発行所 黒龍会本部

 なお、北輝次郎は、黒龍会により時事月函記者として派遣されたことでも知られる。
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「契約書」「電報略符号」 (1916)

2012年10月24日 | 辛亥革命 日本人 1
   

  契約書

 中華民国革命軍最高顧問萱野長知角田他十郎ト左ノ条項ヲ契約ス
 以下萱野ヲ甲トシ角田ヲ乙トス 
 第一条 甲ハ乙ヨリ、モーゼル短銃及ビ実包ヲ買入ルゝコトヲ約ス
 第二条 其ノ取引地及ビ期日数量価格ハ左ノ如シ
  (一)取引地、 青島渡シ
  (ニ)期 日、 四月貳拾貳日入港予定ノ薩摩丸ニテ持チ来ルコト
  (三)数 量、 五百挺以内但シ毎壱挺弾丸百発付キノコト
  (四)価 格、 壱挺ニ付キ銀百円マデトス
 第三条 代金ハ青島ニ於テ現品引換ニ即時支払ノコト
      但シ右薩摩丸便ニ間ニ合ハザル時ハ本契約ハ無効トス
 右契約ノ証トシテ本書二通ヲ作成シ各自一通ヲ所持ス
  大正五年 〔一九一六年〕 四月十二日
                萱野長知  【印】
                角田他十郎 【印】

   

 電報略符号 大正五年 〔一九一六年〕 七月ヨリ

  言葉ハ(アイウエヲ)ニテ操ルベシ
     例ヘバ  馬具五十購求セヨ金送ツタト打電スルニハ下ノ如シ
          (ソツ五十ツネヨタ)消ス
          (クヤ五十ツネヨタ)
   「野砲アルカアルナラ20送レ代金●●ト打電スルニハ」 
    (ハニアルカアルナラ二〇ロロハハ)

 1  ア、イ、ウ、エ、ヲ
     ●●  (ユメ) 送レ(ロロ)  安心セヨ(トト) 安全  (ヲヲ)
 2  カ、キ、ク、ケ、コ
     金送ッタ(ヨタ) 金送レ(タレ) 契約シタ(レソ) 購求セヨ(ツネ) 購求シタ(ネナ) 軍刀(ヤマ)
     ●金  (エテ) 漢口 (ヱヒ) 海路  (モセ) 確実  (イン) 降服  (ハセ) 黄興(ホヒ)
     面会  (ルキ) 開会 (ヲサ) 解決  (ツマ) 干渉  (ネヤ) 開●  (ウム) 居正(ヘヱ)
     機関銃 (ニホ) 機関砲(ホヘ) 議長  (ワア) 議員  (カテ)
 3  カ、キ、ク、ケ、コ
     交渉  (ノラ) 契約セヨ(ニニ)
 4  サ、シ、ス、セ、ソ
     小銃   (ロハ) 送金急グ(カヨ) 借款  (ラム) 出発スル(ノオ) 出発シタ  (オク) 進行(コエ)
     右全訳シタ(テア) 済南  (キユ) 青島  (メモ) 上海  (シシ) 戦闘開始  (セス) 孫文(ニモ)
     総統   (チモ) 撰挙  (ヌエ) 岑春煊 (タコ) 蔡鍔  (レフ) 守備軍司令部(ラオ) ●功(ホホ)
 5  タ、チ、ツ、テ、ト
     弾丸   (イロ) 毒瓦斯   (リヌ) 出来タ (ムウ) 出来ヌ (ウ井) 奪略    (ケフ) 鉄道  (ヒモ)
     退却   (レン) ●●    (ロス) 段祺瑞 (ヨエ) 張継  (ナク) 手附金   (ムノ) 代金●●(ハハ)
     中傷   (チチ) 代金●地渡シ(ヌヌ)
 6  ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ
     荷物積出シタ(ヌル) 荷物積出シタカ(ワカ) 南京(シヱ)
 7  ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ
     ブローム (トチ) 飛行機(チリ) 早クタノム(井ノ) 病気(マケ) 副総統(リメ) 北京(サキ)
     船ニテ積ム(リリ) 甚ダシ(ルル)
 8  マ、ミ、ム、メ、モ
     マダカ(ソツ)   萬発 (ナラ) 馬具(クヤ) 見込(ヘヘ)
 9  ヤ、ユ、ヨ、ラ、リ、ル、レ、ロ
     野砲 (ハニ) 薬品(ヘト) 李烈均(ソケ) 黎元洪(トシ) 用意(フコ) 陸軍省(ワワ)
 10  ワ、ウ
     我軍勝利(スン) 運動(アサ) 受取シヤ(ル●) 受取ッタ(●ワ)
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『三十三年之夢』 宮崎滔天 (1902.8)

2011年03月13日 | 辛亥革命 日本人 1
 ○ 表紙には、「三十三年之夢」とある。内表紙には、「白浪庵滔天著 三十三年之夢 国光書房出版」とある。奥付には、「明治三十五年 〔一九〇二年〕 八月二十日発行 三十三年の夢 著者 宮崎寅蔵 発行者 遠藤栄治 発兌元 国光書房」などとある。22.2センチ、写真2頁、題辞1頁、孫逸仙の序2頁、無何有郷生の一文1頁、自序11頁、目次10頁、本文278頁などである。

 写真
 ・白浪庵滔天

  

 ・桃中軒連中及保寧山人

 題辞 清藤幸七郎
 序  
 ・孫逸仙 〔孫文〕
 ・三十三年夢 無何有郷生〔武田範之〕
 自序 滔天 宮崎寅蔵

 目次 

 ・半生夢覚めて落花を懐ふ
 ・故郷の山川
 ・余が家庭
 ・中学校及び大江義塾
 ・自棄の卵子の反動
 ・耶蘇教徒となる
 ・思想の変遷と初恋
 ・大方針定まる
 ・夢寝の郷国に入る
 ・無為の四年間
 ・暹羅遠征
 ・帰国中の三ヶ月
 ・第二の暹羅遠征
 ・嗚呼二兄は死せり
 ・新生面開け来る
 ・再び夢寝の郷国に入る
 ・興中会主領孫逸仙
 ・素人外交家
 ・康有為日本に入る
 ・南洋の風雲と吾党の活動
 ・形勢急転
 ・大挙南征
 ・新架坡の入獄
 ・大本営(佐渡丸船中)
 ・経綸画策悉く破る
 ・與孫○○書
 ・恵州事件
 ・唱はん哉落花の歌

 ○ 表紙には、「三十三年之夢」とあり、奥付に「大正十五年 〔一九二六年〕 七月十日発行 三十三年の夢 著作者 宮崎寅蔵 校訂者 吉野作造 発行所 明治文化研究会 発売元 福永書店」などとある。19.2センチ。
 附録として、「解題 吉野作造稿、写真(著者一族)、著者小伝 宮崎龍介稿 索引 吉野作造編」が加えられている。
 
 下は、吉野作造の凡例の一部である。

 本書執筆以後の著者の行動を多少之を知つて置くの必要と考えたので、とくに令嗣龍介君を煩してその小伝を添へることにした。

 本書は菊版を四六版に改めた外、成るべく原形に據つた。

 文章には多少の改訂が施してある。一つには著者自ら生前に朱筆を加へたものがあつたので、其の改訂は全部採り、その外明白に誤植と思はれるもの二三も改めたからである。

 復刻本の一つの特色は、原本に変名になつて居つたものが多く本名に改められたことである。

 終りに著者自序中にある変名の本人をここに明にしておく。中六とあるは本文中の背山で、弄鬼斎は一木才太郎、一念兄は古島一雄である。又序文を書いた無何有郷生は武田範之だといふ。武田氏は桃中軒連中の写真の中にも入つて居る。

 ○ 満州文藝春秋社版の『三十三年の夢』である。カバー表紙には、赤い字で「宮崎滔天 三十三年の夢」とあり、また、絵がある。背表紙には、赤字で「三十三年の夢 宮崎滔天」とある。奥付には、「康徳十二年一月十日印刷 康徳十二年 〔一九四五年〕 一月十五日発行(四000部)、著作権者 宮崎龍介、印刷所 満州誠文堂、配給元 満州書籍配給株式会社、発行所 満州文藝春秋社」などとある。342頁。
 装丁・奥付・紙の質が、昭和十八年〔一九四三年〕発行の文藝春秋社版『三十三年の夢』と異なるが、ほかは内容・頁数など同じと思われる。
 満州文藝春秋社は、昭和十八年十月に満州の新京〔現在の長春〕で菊池寛を社長に設立された。
 
 

 ○ 『三十三年之夢』の漢訳本のひとつ。奥付には、「著者 宮崎寅蔵 校刊者 A K 出版者 中国研究社」とある。18.5センチ、序2頁、目録4頁、本文114頁。定価四角。
 「A K 」は、『清末小説研究 第6号』の楊友仁「金松岑先生行與著作簡譜」によれば、金一の英語名である。 

 ○ 表紙には、「宮崎寅蔵著 三十三年落花夢 P.Y. 上海 出版合作社印行 1933」とある。奥付には「中華民国二十二年〔一九三三年〕九月七版 著作者 宮崎寅蔵 校刊者 P.Y.(兪平伯?) 発行者 出版合作社」とある。18.8センチ、140頁。
 なお、出版合作社及びこの書の出版事情は、『中国アナキズム運動の回想』(総和社)の「出版合作社のことなど」に詳しい。それによると、出版合作社は1925年春に鄭佩剛らが上海で創設したもの、また、金一訳の『三十三年落花夢』は当時入手困難となっていたので、孫文が逝去したのを機に新たに刊行したとある(初版は1925年)。

 ○ 表紙には、「宮崎滔天演 支那革命軍談 明治出版社刊行」とある。奥付には、「明治四十五年 〔一九一二年〕 一月二十五日発行 編輯者 高瀬魁介 発行所 明治出版社」などとある。22.1センチ、写真3葉(孫文、黄興、黎元洪)、目次6頁、本文と附録(革命事情)で174頁。

 

 表紙には、「狂人譚」とある。奥付には、「明治三十五年 九月二十五日発行 著者 宮崎寅臧 〔宮崎滔天〕 発行者 遠藤栄治 発兌元 国光書房」などとある。18.2センチ、書1頁、本文153頁、広告12頁。

 緒言

  吾性甚だ世の所謂狂人なるものを愛するの病あり、愛するものに近 ちかづ かんとするは、蓋し人間自然の情理である、吾れ其情理に駆られ知らずゝの間に親近したる狂人の数は、実に少なくない、而して其少なからぬ狂友中には、狂情狂態の類別も、亦種々様々であるが、就中 なかんづく 、尤 もつと も吾れの心に深印せられて居る特殊の狂友があるので、今其特殊の狂友丈 だ けを、読者に紹介せんがために、茲 ここ に狂人譚と云ふ標題を掲げた次第である。〔以下省略〕

 ナポ鉄

 釈迦安と道理満

  宗教の方面より進んで、一旗幟を狂人中に揚げたる釈迦安、道理主義に心酔して終に一種の異彩を狂人中に放ちたる道理満、此二人が、共に感想を披歴して、議論を上下したる親友の間柄とは、面白いではないか、〔以下省略〕
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