蔵書目録

明治・大正・昭和:来日舞踊家、音楽教育家、来日音楽家、音譜・楽器目録、士官教育、軍内対立、医学教育、林彪、北京之春 

『記念』(日本女子大学卒業アルバム)(1923.4)

2017年07月22日 | 女子教育
 
 
 記念

 〔題字〕

 ・信念徹底 樟渓
 ・信念徹底、自発創生、共同奉仕

 〔写真〕

     

 ・正門〔上の写真 左から1番目〕
 ・講堂〔同2番目〕
 ・国文館、家政館、英文館
 ・桜楓館、香雪化学館
 ・子爵 渋沢栄一〔同3番目〕、故男爵 森村市左衛門〔同4番目〕、故侯爵 大隈重信〔同5番目〕

      

 ・校長 麻生正蔵先生〔上の写真 左から1番目〕、校長室
 ・塘幹事〔同2番目〕
 ・晩香村(寮舎ノ一部)〔同3番目〕
 ・記念樹
 ・卒業式〔同4番目〕
 ・故校長 成瀬先生〔同5番目〕
 ・故校長墓地(除幕式)、故校長書斎

      

 ・市村瓚次郎先生、井上秀子先生〔上の写真 左から1番目〕、犬飼すみ先生〔同2番目〕、橋本進吉先生、二階堂保則先生
 ・友枝高彦先生、茅野儀太郎先生、綿貫哲雄先生、渡邊英一先生、川野健作先生
 ・河野清丸先生、横手千代之助先生〔同3番目〕、田邊淳吉先生、高橋誠一郎先生、武島又次郎先生〔同4番目〕
 ・中村進午先生、中村孝也先生、長井長義先生、生江孝之先生、浦口文治先生
 ・アール、エチ、クラーク先生、栗山重信先生、桑木巌冀先生、山内繁雄先生、前島春三先生
 ・松木亦太郎先生、二木謙三先生、イー、ジー、フィリップス先生、藤田外次郎先生、小林澄兄先生
 ・近藤耕藏先生、寺尾元彦先生、手塚かね子先生、姉崎正治先生、淺理肇先生
 ・安藤正次先生、阿部次郎先生〔同5番目〕、岸本能武太先生、菊池清治先生、三田定則先生
 ・塩澤昌貞先生、白井規矩郎先生、上代たの子先生〔同6番目〕、森岡常藏先生


 家政学部第一部卒業生

 家政学部第二部卒業生

 師範家政学部第一部卒業生

 師範家政学部第二部卒業生

 国文学部第一部卒業生

 国文学部第二部卒業生

 英文学部第一部卒業生

 英文学部第二部卒業生

 日本女子大学第二十回卒業生姓名
 (いろは順)

 大正十二年四月

  撮影所 東京市京橋区丸屋町三番地 株式会社 江木写真店
  印刷所 株式会社 江木写真店製版部
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「日本女子大学校設立の趣旨大要」

2016年04月02日 | 女子教育
 

 日本女子大学校設立の趣旨大要

 女子は国民の一半を組成する者にして社会国家に及す影響の深且大なる洵に世人の想像以外に在り女子教育の振否は邦家汚隆の由で岐るヽ所なりと謂ふべきなり然るに其普及発達の現状たる国家の運命を托するに足らざるものあり而かも尚之れが進歩改善を謀る者寂として聞ゆるなきは豈に明治聖世の一大恨事に非ずや是れ吾人が敢て天下の同志に訴へ茲に大阪に地を卜し日本女子大学校なるものを創設し女子教育の発達改善及普及を催進し以て国運振張の一助に供せむと欲する所以なり
 本校の執らむとせる所の女子教育上の方針は第一に女子を人として教育し第二に婦人として教育し第三に国民として教育するに在り女子教育の方法を視るに或は女子を器械視し若しくば芸人視し隨て目前実用の知識芸能のみを授け殆ど人たるの教育に注意せざるが如きものあり抑も人たるの教育とは心身の能力を開展せしめべからざる資質を修養せしむるに在り女子は其心身の構造社会の体制上より女子の尽すべき自然の天職なるものあり良妻賢母たるべきこと是れなり吾人は殊に此点に向て力を傾注せむと欲す女子も亦国家の臣民たり宜しく国民たるの観念を與へ一個国民としての能力を備へしめざるべからず本校の教育法其基礎を此三点に置かむとするもの偶然に非ざるなり
 本校の組織程度は大略左の如くせむと欲す

 

 本校称して大学校と云ふも其実本表に示せるが如く初等教育あり中等教育あり高等教育あり或は普通科あり専門科あり高低難易相合して一校を成すものにして唯高等教育のみを目的とするに非ず吾人の主眼とする所は下幼稚園より上大学部に至る迄首尾の系統整頓せる教育組織を一校内に設け吾人の執る所の特殊の教育主義及方法を実施し旁ら本邦女子教育改善の方法を研究実験し以て本邦女子教育界の中心たらむことを期するに在り然れども社会需要の緩急に依り先つ高等女学校に着手し順次校務の進捗に応じ上下に拡張せむと欲す大学部の程度の如きは高等女学校卒業後三年以内にて卒業するを得るに止め本邦現時の社会及女子に適合するを以て標準となし過度の高等教育に馳するが如き弊を避け徐々其実効を挙げむことを期す彼の欧米諸国に行はるヽ女子教育法を直に採りて我邦に施さむとするが如きは吾人の執らざる所にして吾人は本邦の女子に適応する所の教育を授けむと欲す雖然吾人は又泥古守旧を以て主義とする者に非ず過去に顧み現在に照らすのみならず亦大に将来に慮り以て中正適実なる進歩的女子教育を施行せむと欲す加之吾人は体育を重むじ過度の知育健康を阻害するの弊を避け個人の特性に適切なる教育を施し徳育は我邦固有の道徳に依るべきも文明諸国に於ける進歩の成蹟は之を選択取捨して補ふ所あらむとす殊に寄宿舎は家族制に依り有徳の婦人を舎監に聘し或は教員の家族を校内に住居せしめ以て生徒の管理訓育をして良家庭に在るの感あらしめん教職員選定に於ては殊に重きを人物に置き可成女子を採用せむと欲す
 吾人の目的を完成せむとするには莫大の資金を要すべきも本校基礎の鞏固を得むが為に先づ資本金参拾万円以上を募集し大凡拾万円を創立費に供し残額を基本財産となし其利息を以て本校の維持に備へ漸次資金の増加と事業の拡張とを謀らむと欲す然れども本校の設立に着手するは寄附金額十万円に達したるの暁に於てすへし而して凡て寄附金は第百十九銀行三井銀行第一銀行鴻池銀行住友銀行及加島銀行に預け確実に保管せしめ新民法実施と共に法人設立の手続を了し法律保護の下に安固を得むことを期す本校財産の管理等は評議員なるものを設けて之を処理せむと欲す評議員の資格権限出金者の待遇等は追て定むべし
 以上は日本女子大学校を設立せむとする趣旨の大要たり文略して意を尽さすと雖も幸に吾人の微意の存する所を諒せられ天下同志の翼賛を得本校設立の業を遂ぐることを得ば吾人発起人等の面白たるのみならす又多少国家に裨益する所あるべきなり

      

                         附言
 一 寄附金は東京にては会計監督渋沢栄一氏大阪にては同住友吉左衛門氏の名宛にて創立事務所に送附を乞ふ
 一 寄附金は受取次第会計監督の名を以て受領證を呈す
    但し郵便振替にて御送附の方は東京は飯田町郵便支局大阪は中の島郵便本局渡り御取組を乞ふ
 一 創立事務に関する通信等は凡て左の両所に御送附を乞ふ
     大阪西区北江戸堀一丁目三十番邸日本女子大学校創立事務所
     東京神田区一ツ橋通帝国教育会内日本女子大学校創立事務所

 

 ●日本女子大学校開校式式場内景
 
 同校開校式の記事は、詳細本誌第九十号に在り。此に掲けたるは、式の当日、本誌のために本郷茗渓なる玉翠館員が撮影したるもの。この我邦最初の女子大学校の記念として唯一の写真なり。中央に立ちて演説中なるは、渋沢会計監督にして、卓子 テーブル の傍に椅子に椅 よ らるゝは教頭麻生氏なり。写真に対ひて右の奥に立ちて、写真器械の方を眺め居らるゝは、校長成瀬仁蔵氏にして、其の前に椅子にかゝり居らるゝは、創立委員長大隈伯なり。撮影者に近き処に居らるゝは附属高等女学校生徒、演壇に近きは大学部生徒、左方の奥なるは来賓なり。当日は雨天なりしため到底撮影し難かるべしとて、其の設 もうけ もなさゞりしが、幸ひ雨晴れたれば漸にして撮影するを得たり。然れども既に式を開かれし後にて、加ふるに後方の天幕低く、為に充分の好位置を占むる能はざりしも、予想外の好写真を得たるは、撮影者の巧技に依ると云はざる可らず。尚吾人は同校に向って、この最も喜ぶべき記念の写真を撮影するの栄誉を本誌に與へられたる好意を謝す。

 上の写真は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の口絵写真にあるもの。その説明は、同号の 雑報 口絵写真版説明 のものである。なお、同号の口絵写真には、下の写真も掲載されている。

  

 ・日本女子大学校長  成瀬仁蔵君
 ・日本女子大学校学監 麻生正蔵君
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「津田梅子女史談話」 (1901)

2016年03月19日 | 女子教育
 

 津田梅子女史談話

    麹町区元園町なる女子英語塾は、乳臭の幼乙女 をとめ 時代より、米国に渡られ、彼国の空気を吸ひて生長せられたる、津田梅子女史の設立にかゝる、我邦に於る女子唯一の最高英語専門家塾なり。記者一日女史を此の家塾に訪ひ、昔年渡米当時の様を聞かんことを請ふ女史快諾其の間に応ぜらるゝ叮嚀詳細、為に大に得る所ありき。即左に掲ぐるところは、其の談話中の概要なり。

 私共の米国へ参りましたのは、今を距 さ る三十年前のことでありまして大使岩倉(具視)さんだの、大久保(利通)さんだの、伊藤(博文)さんなどが、欧米回覧に参られる一行に加はりましたので、百何十人といふ大勢でありました。私共女生は米国公使デロング夫婦の帰国を幸に、其の保護を受けて渡米の途に就きましたことでした。一行の中には、留学生も大分あったのですが、中には女子の留学生は吉益りやう、上田貞、山川捨松(大山侯爵夫人)、永井繁(瓜生海軍少将夫人)と私の五人にして、慥 たしか この事は、黒田(時の開拓使次官清隆)さんが、北海道に女子の学校を建て度 たい 其御考へから起ったかと存じます。そして女子も男子と一緒に、海外留学を命ぜらることになったのだそうですが、十五歳を頭に、十二三の小供はかしで、私は七歳でした。尤 もっとも どういふことから、私が其の中へ加へられたかは存じませんが、兎に角其の時分には、洋行を希望するものは、今に較べると余程少数なものであったので、縦令 たとへ 当人が進みましても、親が不承知だとか、何だとかいふ故障が起ったりして、誠に稀なことでしたから、況 ま して女子の留学などいふことは、別して珍らしく、私共留学に付、前には例 ためし のないことがありましたのです。
 出立前即明治四年十二月に 皇后陛下に拝謁を仰せ付られ其時紅白の紋縮緬一匹を下し給りました。申すも畏れ多いことでありますが 皇后陛下が、其の頃から女子教育のことに、御熱心にあらせられたことは、誠に難有 ありがたき 次第でして、華族だとか、又官位のあるものならば兎に角、我々の如き只の士族どもが、拝謁仰せ付けられたといふことは、感泣感喜の外ない訳であります。
 それから又政府から辞令が下りましたが、其の文言 もんごん なども今から見ますると、余程変で珍らしく感ぜられます。たしかかういふ風でした。
   其方女子にして洋学修行の志誠に神妙のことに候追々女学御取建の儀に候へば成業帰朝の上は婦女の模範と相成候様心掛け日夜勉励可致事
       辛未十一月       太政官
 扨 さて 彼地に参るについては、一度外国の様子を知って置くが善いといふことで、其の時分には米国公使館は横浜にあったものですから、横浜へ連れて行かれて、始めて西洋館へ入ったことでした。凡てがかういふ風で、何も解らなかったのですが、それは女だけではなくて、同行の男子の方も大抵は何も解らずであったので、又服装だといっても、元より和服で、男子の方は大小の二刀をたばさんで、頭 かしら には「とんぼ」を戴 いたゞ いて居ったのであります。
 当時新橋と横浜の間の鉄道が出来上りまして、まだ旅客を一人ものせませんでしたが、岩倉公使始 はじめ 一行出発につき、特別に発車しましたが、是が日本の汽車ののり初で御座りました。愈船に乗りましたが、丁度適当な室が無いものですから、我等五人は同じ狭い部屋……尤他の室に較ぶれば大きいのでしたが、二人か三人はいれば充分の所へ、五人も入ったものですから、如何にも窮屈で、二人は腰掛の上へ、一人は普通荷物などを入れる床の上へ、私と吉益さんといふ方とは、一人寝の寝台へ眠ることに致したことでした。
 この吉益りやうさんといふ方が、一番年長 としかさ であったものですから、色々な世話を受けたのですが、皆が舟に酔って一時は随分つらく感じました。勿論語学は誰も出来ませず、世話する女中が、食事のことや其の他のことを尋ねに参りましても、何をいふやら解りません故「エース」だとか、「ノー」だとか答へる許 ばかり で、手真似でやって用を弁じます様な次第で、食事をしますのにも、食器 うつは の用ひ方を誰も知らないものですから、何でも掴んで食べたのです。黄色なものがあるものですから、何だらうといって「バタ」を匙で甞めたりしましたやうなこと、又髪は御互に結ひ合ったのです。
 廿五六日も経まして、サンフランシスコに着きましたが、見物人の夥しいことといったら実に非常なものでした。それから「ホテル」へ着きましたのですが、見るもの聞くもの、一として珍しくないものはない。殊に最異様に感じたのは「ホテル」の給仕が皆黒奴 くろんぼ であったことなんです。物珍しくもあるが、何だか恐ろしかったでした。
 何処へ参りましても大層珍しがられまして、「ホテル」へは沢山な人が尋ねて来まして、私共をいろんな所へ連れて行って、様々のものを見せて呉れ、手真似で以て何やかやの説明をして、私共を喜ばさうとせられました。私共が彼地に着きます少し以前に、大陸鉄道は出来上って居たのでして、すぐ其の鉄道に乗りましたが、大雪の為に不通となったものですから、ソールト、レーキ、シチーに暫の間滞在して居ました。
 それからシカゴへ行って洋服に着換へたのです。最サンフランシスコへ着けば、すぐ洋服に替へる筈であったのでして、其のことはデロング夫婦に頼んで置いてあったのですが、デロング夫婦は却って和服の方が善いといって、容易に買ってくれないのです。強 たっ て頼まうと思っても、言葉が通じないものですから、とうとう岩倉さんにお願い申して、漸うシカゴで買ってもらったのです。もとより洋服の着様さへ知らなかった、又品だとか恰好だとかいふやうなことも分りませぬに、それにまた気候が大層寒かったものですから、赤い「ショール」をひっかぶって旅行をしたのでありますから、あちらの人には如何にも野蛮の状態に見えましたことでせう。
 それからワシントンへ連れて行かれました。此地で大使の一行と別れて、其の時の米国臨時公使森有礼さんに、我々五人は預けられたのですが、森さんには私共が随分迷惑をかけましたので、こんな赤坊などよこしてどうするのですかといはれたこともあったさうですが、兎に角一つの家を借りて、其処へ五人のものを入れて、教師を傭ひ入れ、其処で教育しやうといふことで、一人の女教師は私共と同じ家に起臥して私共を監督することとなり、他の職員は通ふことになって教育を受けたのですが、何分教師のいふことが全く通ぜぬものですから、我々は勝手なことばかりして居るのです。それで教師が夜分になれば、早く寝ろと申して二階の寝所へ入れる。けれども我々は寝所へはいれば、おとなしくして寝なければならぬのだといふことも知らぬものですから、瓦斯燈抔 など をつけて、寝所で以て色々な遊をして、大騒をやるのです。それで何時かかういふ所へ、教師が上りて来て見付けられたこともあるのです。かういふ風にして、半ケ年程続けましたが、併しこれでは言葉も日本語を使ってるし、国ぶりの風俗を続けてゐるといふ有様で、甲斐が少いといふ所から、みんな分れ分れになりまして、私は日本公使館の書記官で、著書などもしてる一寸名の聞いたチャレス、ランマン(ダュールウヱブストルの秘書官たりし人)といふ方の宅へ世話になることとなり、「ジョジ、トウン」の小学校へ入学したのです。又其の中で二人の方は向ふへまゐりましてから、一年ばかし経った時分に、病気で帰朝しましたから、後には今の大山侯爵夫人(捨松)と、瓜生海軍少将の夫人(しげ子)と、私と三人残ったのですが、かく分れてしまひましたけれど、休暇の時には必一つ処へよって、海辺へ参ったり、又避暑に行きなどしました。
 私の世話になったランマンといふ方は、小供のない御夫婦でしたが、初めは迷惑ながら兎に角世話を願ったので、他の所を見付けるまで、暫くといふ約束であったのですけれども、段々と馳 な れるに従ひ、非常に親切にして下さいまして、とうとう永く御世話になることとなったのです。併慣れるまでは、随分双方とも困難は一通りのことではなかったので、通弁はありませず、手真似ばかりですから、ランマン夫婦もよい御迷惑でしたらうが、私も実に窮屈なことでした……それで公使館へ遊びに行くのを一番に楽 たのしみ にして居ったのですが、全権公使の吉田(清成)さんにも、色々御世話になったのです。
 彼の国の人にも、亦日本より御出の皆さんにも親切にして貰ったのでして、それに、あちらにいまだ日本人などといふものは、決して知られてゐなかった。支那と日本との区別すらつけられなかった位の状態でしたから、大変に妙に思はれ、珍しがられまして、のみならず米国人は、新奇なもの、変ったものを好く方ですから、学校へ入りましてからも珍重されまして、多くの人々からも日本は支那のどちらに当るか抔、其の他妙な質問を時々受けましたが、決して軽蔑されることはなくて、内国人同様、寧ろ同地人民よりも格別の扱 あつかひ を受けましたので、大変な同情の下にあったのでした。
 それで私はいつもかうおもひます。今日朝鮮や支那から我邦へ留学に参るものに、我邦人が其等の留学生を軽蔑することはあるまいか。又よし軽蔑しないにしても、私共が米国で受けた様な同情を以て、親切にしてやられるであらうかといふことは気遣はれます。
 それから私は、「ミシス、ヱル、アーチャル」の女学校を明治十五年に卒業して、翌十六年に帰朝しましたが、あちらへ渡ったときと同様の不便を感じまして、帰りましても、父母に挨拶一つも出来ないやうなことでしたから、習字を始めるやら、裁縫の稽古にかゝるやら、非常なものでした。
 又一昨々年向ふへ参りましたが、私が居ました時分とは、余程進歩して居て、何もかも大層相違して居ました。一昨々年は米国に居りました時、英国の貴婦人より招待をうけまして、英国に渡り、彼の国にて有名の人々に面会いたしましたが、其節ナイチンゲール嬢にも御逢ひ申して、親しく御話しを承ったことでした。(記者云其詳細ハナイチンゲール伝に記すべし)

 上の文は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の 附録 に掲載されたもである。
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