「論」ブログヨシ樹

中年オヤジが、趣味、仕事、人生、宗教に至るまでを縦横無尽にガッツリ語るパラダイムの転換を惹起するブログ。老若男女必読!

死をガン見せよ!

2017年06月11日 | 人生観
わたしは問いたい。あなたは聖書を一度でもいいからお読みになったことはありますか、と。聖書は不滅の大古典であります。なんなら洋の東西を問わず、とか誰もが認める、とかいう表現を前に冠してもいい。

しかしながら、インテリを自負している有識者のなかにすら聖書をまともに読んでいない方々は多くいます。とりわけ日本には、という少々意地悪な但し書きを付け加えたいくらいです。これは日本のインテリの知的な怠慢であると思います。知的にちっとも誠実な態度とは言えない。

たしかに聖書は決して簡単に読める書物ではありません。そうなんです。浅薄な書物ではないのです。そしてボリュームがある書物なのであります。あの分厚い旧約聖書を一瞥(いちべつ)しただけで読む気が失せるかもしれません。誰であれ、あの分厚さを見るだけで容易に気づくはずです。ふつうの本ではないことに。けれども、そういうことも読んでみなければ心から合点することはできません。われわれ日本人は識者も含めて、もう少し聖書を深く学ぶ必要があるのではないか。旧約聖書も新約聖書も。

どうせ、われわれ凡人は一度、読んでもよくわかりません。けれども、わからなければ、あの太宰治のように十回でも百回でもそれなりの歳月をかけて納得のいくまで繰り返し読めばいい。読書百遍というではありませんか。

だけれども聖書を読む人は少ないです。もう少し正確に申しますと、聖書を真剣に読む人がほとんどいない。なぜでしょう。思うに、わたしたちは生きることについては一生懸命に考えますが死については一向に一生懸命に考えようとしない。これが、ほとんどの人が聖書を読まない理由であります。左様に述べたことが今回の記事でお話ししたい内容の眼目であります。

もちろん、そうは言うものの生きることを軽視していいはずはありません。一生懸命に生きることは責められるべきことではない。むしろ真摯に生きている人は認められて然るべきだと思う。しかしながら、それもおのずから限度というものがあります。わたしは左様に申すことにためらいを感じません。われわれは死についてあまりにも考えることをしません。死ぬることは生きることと同じかそれ以上に重要なことではないでしょうか。

皆、死について考えることを先延ばしにしています。否、わたしに言わせれば吾人は死について考えることを放棄しているかに見えます。大部分の方が生きることばかりに目が向かってしまっている。そうではありませんか。これをいわゆる思考停止と表現しても決して辛口な評価とは言えませんでしょう。

そういう次第で聖書に関心を持たない。興味も向けない。一顧だにしません。それでいて流行(はやり)の本をおおいに尊重して読んだ後に人生について何か悟ったと思い込んでいるのが現代の人です。だから最近の人は、たいてい非常に浅薄で幼稚な人生観しか持っていません。

なぜ吾人は聖書を読まないのでしょうか。聖書をキリスト教の教典と考えて自分には関係がないと思ってしまうのです。ゆえに無視するのであります。それが宗教に対する自分の偏見だということに気づけない。皆、してやられています。死について考えることをしないで死と対峙したとき一体どうするつもりですか。

日本の風土では死を直視せずに、むしろ死を忌み嫌う風潮があります。われわれ日本人は死から目をそらして生きている、というのが現状ではありますまいか。死から目をそらさず、むしろ凝視してください。そうです、タイトルどおり吾人は死を「ガン見」するべきなのであります。

読者諸賢よ、死の準備はできていますか。吾人のうち誰か明日、交通事故に遭わないとも限らない。そうでしょう。誰も否定はできないはずです。余命宣告でもされていない限り、いつ死ぬか誰も正確には知らないのです。

生と死は地続きです。これは、あの有名なマンガ、『カイジ』の作者である福本伸行の某作品に記されていたモノローグです。子供が読むマンガにさえそう書いてあるのです。

人生という旅の最終目的地は何処ですか。この質問の答えをご自分で、よく考えられるといいと思います。考える価値がある人生のおおきな疑問だとわたしは思いますね。なんなら有史以来という言葉を付け加えてもいい。いにしえの賢人、たとえばソクラテスや孔子もあんなに考えあぐねている人生の根本問題であります。

そういう人たちが書き残したものがあります。それが古典です。大昔に起こったことは現代も変わらずに起こっています。日の下に新しいことは何ひとつない、という言い方もできるのです。そういうことに気付いている人が古典を読むのです。古典を読む価値はそこにあるのです。読者諸賢よ、古典を読みましょう。そして、どうせ古典を読むなら不滅の大古典である聖書を読みましょう。読んで得るところ大ですよ。

ここまで記してきたにもかかわらず以上の記事の内容を宗教的だから考えることをしない、というあなた。聖書を読んで死について考えることをしない、というあなた。では実際に死に直面したとき何があなたを助けてくれるのですか。金か、知識か、家族か、イデオロギーか、友人か、仕事か、道徳か。もう、あなたは答えられないではないですか。
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文通する家庭教師 後編

2016年08月13日 | 仕事

X様

こんにちは。家庭教師のヨシ樹です。Pくんの学年末テストの結果はいかがでしたでしょうか?今週に入り採点された答案が続々と返却されてきているのではないでしょうか?その答案は大切に保管しておいてください。テストは自分の弱点が克明に記録されているきわめて重要な情報が記載された貴重な紙です。言葉を換えて申しますと、テストを受けることにより自分の弱点があぶり出されるのです。そして答案を見ることより自分の弱点を知ることができるのです。繰り返し申しますが答案には非常に重要な情報が記載されていますので一枚たりとも紛失しないように厳重に保管してください。そして明日、わたしが指導のためにX様のお宅に伺ったときにPくんの答案をぜひ見せてください。

さて、今回メールを送信させていただいたのは学年末テストの件ももちろん含みますが月末にまとめて頂く交通費の件についてのお報せを兼ねています。「月次指導報告書」の交通費の欄をご覧ください。「原付 1K=☓☓円(往復分)」と記されています。「往復分」ですので、わたしが頂ける交通費は一回の指導につき、☓☓☓円になります。わたしの住まいからX様のお住まいまで往復の距離が原付で☓☓kmになるからです。したがって明日は明日の分の指導料と今までの交通費を頂戴できれば、さいわいです。最初の指導日が今年の1月30日(金)でした。これまでに明日の2月28日(金)を含めず数えると4回指導したことになります。ゆえに明日は指導料☓☓☓☓円と交通費5回分の☓☓☓☓円を足した合計☓☓☓☓円をご用意いただけると幸甚です。

お母さま、あるいはお父さまから、わたしの指導に対して希望されること、あるいは、ご不明なこと等ご希望があれば遠慮されることなく何なりとお申し付けください。Pくんによれば今回の学年末テストでは初めて順位が出るとのことですが、テストの順位がよい意味でのカンフル剤となってPくんのやる気に火が点くことを期待しています。Pくんはおっとりしていて、たとえて申しますと他の人に席を譲るような美点があります。とても好もしい生徒さんです。けれども現在は、それが裏目に出ていて人との競争に本気になれないように見受けられときがあるように思います。よい意味でも悪い意味でも闘争心がありません。

成績向上を目指すならガツガツ勉強に取り組まなければなりません。Pくんがテレビを見ている間にも一心不乱に勉強に打ち込んでいる子供さんがいるのです。PくんがTVゲームに興じているときも歯を食いしばって研鑽している子供さんもきっといるでしょう。明日は学年末テスト終了後の一発目の指導日になりますのでPくんに、そういう動機づけ(英語では“モチベーション”と申します)の話もしてみたいと考えています。

最後に明日は午後7時から午後8時30分までの指導とさせていただきたいのですが、いかがでしょうか?もちろん午後7時30分から午後9時まででも構いません。短い文で結構ですので、ご返信をお待ちしています。それでは、これで失礼いたします。

ヨシ樹


X様

こんばんは。家庭教師のヨシ樹です。上記件名につきメールを送信させていただきます。先日は当方の体調管理が行き届かなかったため、ご迷惑をおかけいたしました。Pくんの勉強の進度に少なからず影響を及ぼしたことを衷心よりお詫び申しあげます。

ようやく風邪が治りました。咳き込むこともなくX様のご家庭にご迷惑をおかけすることはない、と判断いたしましたので本日、本メールを送信させていただきました。今週は明日より授業を開始することができます。日時はX様のご家庭のご都合に合わさせていただきます。ご都合のよい日時を当方にお申し付けください。なお、今週は金曜日のみの授業でよい、という場合はその旨をお申し付けください。どちらにも対応させていただきます。

Pくんもいよいよ新中学二年生ですね。中学二年生はなかだるみになる危険がある学年と申せます。逆に申しますと逆転できる唯一の学年になります。Pくんには是非この一年をがんばってほしいです。わたしも精いっぱい教えてさせていただきます。中学二年生の後半くらいからラストスパートをかけて、みるみる成績を上げてゆく生徒も何人もいます。これは適当な思い付きや勝手な意見ではなく、わたし自身の経験です。

勉強は苦しいです。本当に辛いです。どの子供にとってもそうである、とわたしは考えています。このことをPくんに早く悟ってもらいたいです。自分だけが苦しいのではない、ということを、です。そして逃げることなく怠ることなく勉強と真正面からぶつかっていってほしいです。

勉強が辛くて苦しいのもスポーツにたとえれば、よく理解できます。マラソン競技のアスリートたちは走ることを愉しいと思っているでしょうか?なかには愉しいと思っている選手もあるいはいるかもしれません。けれども結果を出さなければいけない大会(アスリートには結果を出さなくてもいい大会は皆無ですが)のときは、どの選手も例外なく精神的な重圧に歯を食いしばって耐えているはずです。加えて肉体的にも長距離走は辛いです。お正月に箱根駅伝のテレビ中継などを見ていると、たいていのランナーの顔はゆがみ、呼吸も荒く苦しそうです。

けれどもマラソンや駅伝のたとえなどしなくても親御さんには次の質問により深く納得していただけるはずです。その質問はこうです。「お仕事は愉しいですか?」。もちろん愉しいと回答される親御さんもいらっしゃるかもしれません。しかし、そういう回答をされた親御さんでも土曜日、日曜日のお休みは待ち遠しいはずです。緊張感を持って休みなく働くことは人間にとって肉体的に不可能です。

勉強も辛いです。苦しいです。まだあどけなさが残る子供に勉強を強制していいのか悩まれる親御さんももしかしたら、いらっしゃるかもしれませんね。けれども、わたしが思うに青春時代は決して春のように希望にあふれた明るい時代などではないです。むしろドイツのある作家は青春時代を疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代と呼んでいます。若い人たちは長い暗いトンネルの中をただひたすら進み、出口を求めてあがくのです。けれども出口がみつからず道半ばで他界する若人すらいます。青春は左様に厳しい時代なのです。

文豪夏目漱石はイギリスに留学している時この暗闇に錐(きり)で穴をあけて一条の光が差し込んでくれればいいのに、とその著書のなかで告白しています。天才夏目漱石にしてそういう弱音を吐いているのです。どんなに頭がいい人でも実生活は苦しいのです。もっと申しましょうか。どんなに頭が立派な人でも人生を生きることの方が難しいのです。そのことを早く悟らないと人生が後手後手(ごてごて)にまわり、いわゆる失敗した人生を悔やまなければならなくなります。わたしも現在、苦しい人生を辿っています。しかし、学生の頃に親に勉強しろと言われたことはありません。そんなことは言わせませんでした。

Pくんには良い意味での矜持(きょうじ)を持っていただきたい。矜持とプライドは似ていますが同じではありません。矜持とは人間としての尊厳と申せましょう。くだらないプライドなど捨てて一向に構わない。けれども人間としての誇りと優しさは持ってほしいです。以上のような知識は読書により獲得できます。受験とは関係ありませんが本を読む習慣も今のうちから養うべきです。Pくんには是非どんどん良い本を読んでほしいです。

わたしは塾講師時代に暴君のようなとんでもない威圧感を持ったしごく辛口の常務からヨシ樹は教養がある、と認めさせました。この経験により、わたしは、ますます本を読むことに力を入れています。たしかに教養や教育というものは目に見えません。けれども目に見えない財産こそ本当に価値があり重要である、と『星の王子様』を書いたフランスの作家も申しております。長くなりました。この辺で失礼いたします。それでは、ご連絡をお待ちしています。

ヨシ樹


以上のメール文を往復書簡といったら古い言い方になるでしょうか。以上に記載したメール文は全部わたしが書いています。それに呼応したお母さまのメール文も当然ありますが冒頭で申しましたようにプライバシーの観点からお母さまの文章はいっさい記載していません。それゆえに往復書簡であってそうでない妙なやり取りのように思われる読者もおられるかもしれません。お母さまの文章のブランクは読者諸賢が想像力を働かせて頭の中で埋めていただきながら掲載したわたしの文章を読むといいのではないでしょうか。暑さ厳しい折、読者諸賢よ、どうかご自愛ください。今これを執筆しているのはお盆です。読者の皆さんもご自分のご親族とご一緒によい交流の時が持てるといいですね。わたしも明日、原付で親族の集まる某市の温泉まで行き湯舟に身体を埋めホテルでバイキング形式の夕食を食べてまいります。それでは、これで失礼いたします。


おわり
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文通する家庭教師 前編

2016年08月13日 | 仕事

わたしは昨年の新春の一月末から年末のクリスマスまで名古屋市内で家庭教師として中学一年生の男の子(四月より中学二年生になっています)の勉強を指導してまいりました。そのときに生徒さんのお母さまと指導方針についてパソコンでメールのやり取りをしていました。とても理解のあるお母さまでわたしの指導に陰に陽に協力してくださいました。そのやり取りをこれから以下にご紹介するのは決して読者にとって無益なことではないと考えて現在パソコンに向かってキイをたたいています。読者に若いお母さんが、いらっしゃったら、お子さんの勉強のヒントになるかもしれません。

ただし、そうは言いつつもやり取りを掲載する際に、お母さまの文章は載せないことと仮名を用いて実名を特定させないことの二点を厳守することを徹底しました。言うまでもないことですが家庭教師先のプライバシーを守るための配慮であります。全部で四部構成になっています。文章は原文ママと記したいですが若干手直ししました。読者が読みやすいように少し手を入れましたが、ほとんど原文のママと言うことができます。やり取り全部を一度に載せると長くなりますので読み手に配慮して前編と後編に別けました。それでは早速お読みください。ちなみに現在、家庭教師はわたしの副業となっていることを付記しておきます。


X様

おはようございます。熱意あるご丁寧なメールを誠にありがとうございます。Pくんは将来、小学校の教師になる、という明確な目標を持っています。この目標を実現させるためには今、どのくらい勉強をしなければならないか、を考えなければなりません。これを「ゴールからの逆算」というふうに言います。目標に対する覚悟が強ければ、相応の努力ができるはずです。わたしの経験上、小中学生のときから具体的な目標を持っている子供はわずかです。具体的な目標を持っていることがPくんの一番の強みです。

ただし、せっかく具体的な目標があるのに努力が不足すれば成績は伸びません。これは太陽が東から昇り西へ沈んでゆくのと同じくらい自明なことです。今から述べることはPくんにも申しました。どういうことかと申しますと、こうです。スポーツで練習を怠れば上達はできません。勉強もスポーツと全然違いません。勉強しなければ成績が上がるはずがありません。みんな成績を上げようと考えて歯を食いしばって懸命に努力しているのです。そういうことを申しました。昨今、塾へ行ったり家庭教師をつけたりしている子供さんは少なくありません。厳しいことを申しますが努力してもあるいは報われないかもしれません。しかし、努力をしなければ成績が向上しない、というのはわたしの指導の経験上、確実に言えることです。同じことを昨年、亡くなった俳優の菅原文太も言っていました。

早い時期から本気で勉強に取り組む必要があります。首都圏やここ名古屋でも中学受験というものがあるのをお母さまもご存知だと思います。有名中学に入学するために小学生の頃から塾に入り必死に受験勉強をしている子供たちもいるのです。そういう子供たちは都会では決して珍しくありません。したがって、お母さまが述べられたとおり今がラスト・チャンスである、と認識されているのは正しいと思います。Pくんは早く本気にならなければなりません。

そのためには、お母さまがおっしゃるとおり「やる気のスイッチ」がオンになる必要があります。それも早ければ早いほどよいと思います。それでは「やる気のスイッチ」が入るためにはどうすればいいのか。「小さな成功体験」を多く積むことだ、とわたしは思っています。勉強はよい成績をとるから好きになってゆく、というのが、わたしの持論です。好きだから成績が上がるというのは誤った考え方だと思います。わたしの授業でこの「小さな成功体験」を積むためのノウハウをどんどん教えさせていただきますので、どうかご安心ください。

とりあえず、Pくんに対するわたしの指導方針のほんの一部を述べさせていただきました。お母さまからのご要望があれば遠慮されることなくおっしゃってください。毎回、少なくないお金を頂戴していますので、わたしをどんどん利用してください。今回、お母さまからメールを頂きましたがメール大歓迎です。わたしは文章を書くことが嫌いではありません。自分のブログもふたつ管理しています。くだくだしくなりますので、もうキイをたたくのをやめにいたしますね。最後に確認ですが次回の指導日は火曜日になりますので、よろしくお願いいたします。いつもPくんの指導の際にこまやかなご配慮をしてくださっていることを感謝しております。それでは火曜日にまたお邪魔いたします。最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。

ヨシ樹


X様

こんにちは。ご丁寧なメールを頂きありがとうございます。わたしは今日、午前中に某区まで出かける用事があり、外出していました。メールのご返信が大変、遅くなりまして誠に申し訳ありません。まずPくんに出した宿題の範囲を書いた「月次指導報告書」はわたしが誤って持って帰ってしまいました。本当にごめんなさい。したがって、このことでPくんを決してお叱りになるようなことのないようにお願いいたします。この件については火曜日にわたしがPくんに謝罪いたします。改めて申し訳ありませんでした。この件についての対応策として本メールの最後にわたしが出した宿題の範囲を記します。とはいえ学年末テストを間近に控えていますので優先順位としたらPくんの苦手な科目の苦手な範囲を優先的に勉強してほしいと思っています。どういうことかを以下で説明いたしますね。

苦手な科目の苦手な範囲を徹底的に勉強するというのは思う以上に困難であり辛い作業です。したがって、子供さんは勉強するときに苦手なところを避けたい、と強く思うものなのです。しかし、自分の弱点に真正面から向き合い勉強すれば効果はてきめんです。ただし、これは言うだけなら簡単ですが実行することは、とても難しい作業です。大人でさえ難しいと言えます。そうですね、たとえば苦手な人とお付き合いしなければならないときのことを想像すれば、お子さんの気持ちも容易に理解できるのではないでしょうか。

勉強はスポーツと似ていて楽なトレーニングばかりしていては、いつまで経っても成績は向上しません。スポーツの場合を考えてみてください。負荷をかけたトレーニングにも辛抱強く耐えなければいつまで技術は未熟なままで上達しないことはお母さまも簡単に想像できることと思います。自分が得意な教科や範囲ばかり勉強していれば精神的には楽です。しかし成績は向上しません。精神的に負荷がかかる勉強やプレッシャーに耐えつつ行う勉強こそコストパフォーマンスが高い勉強になります。このことをPくんが早く悟って自主的に勉強できるようにわたしも最大限努力いたします。お母さまも是非ご協力ください。

最後に、すでに述べたように宿題の範囲を以下に記します。

・2月15日(日)英語:P34、35 数学:P198、199 国語:P68、69
・2月16日(月)英語:P36、37 数学:P200、201 国語:P70、71
・2月17日(火)英語:P38、39 数学:P202、203 国語:P72、73

火曜日以降については授業の時に「月次指導報告書」をお母さまにお渡しいたします。それでは、この辺で失礼いたします。

ヨシ樹


後編へつづく
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論戦二日間 (二日目)

2016年03月21日 | その他

回答3月 17日 19時 27分
ご質問にお答えする前に、ご入札者様にお願いがあります。ご入札者様の文章の意味が判然としなくて大変困惑しています。ところどころに散見されます。ひとつ例を挙げましょう。《知人一人しか居なくて数人居ますし毎年この時期多忙なのを自分理解した上でお話をしてきました。 郵便の転送ですが転送をかても旧住所に配達されたり2月から3月放置されましたので無理です。》この文章(そう呼ぶに値するなら、という前提はつきますが)の意味が分かりません。再度、当方にも理解できるように分かりやすく書き直してください。 どうしたのですか?落ち着いてください。焦らなくても大丈夫です。理路整然とした文章での、ご回答をお待ちいたします。


Q質問9 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 19時 40分
すいませんが自分の質問の回答を頂けませんか? 商品を買うと言う意味を理解していますか?商品を購入して近々使うので買うのです。買って2ヶ月、3ヶ月も放置されていたのなら、別の購入方法で購入します。


A 回答3月 17日 20時 09分
ご自分の権利を主張される前にご自分に課せられている義務をまず果たすべきではないでしょうか?まず契約書についてですが、ありません。疑問の一。普段わたしたちが売買をする時にいちいち契約書を求めるでしょうか?スーパーで食品を購入する時や車に給油する時に誰がいちいち契約書を出せというでしょうか?疑問の二。ヤフオクでキャンセルした時に違約金が発生するのですか?疑問の三。誰がキャンセルすると誰に違約金が発生するのですか?疑問の四。出品者は出品時に、ご入札者様のいわゆる「違約金」が発生すると相手に分かるように提示する義務があるのですか?明確な文章で納得のゆくご回答をお願いいたします。


Q質問10 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 19時 43分
後、何回もお話していますが入札のキャンセルをお願いします。


A 回答3月 17日 20時 15分
次のご質問である「リスク」について。これは簡単明瞭です。出品者にとってのリスクとは、出品した商品が落札されて得られたであろう利益のことです。逸失利益などという場合もあります。もしキャンセルされてしまいますと利益が得られない。それを指してリスクと申しています。


Q質問11 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 20時 20分
①契約書の事を最初に言い出したの貴方様ですよ。話の内容をもう一度ご確認下さい。 ②契約書を交わして無ければ買う義務が発生いたしません。 ③契約を交わす時に普通に書き込まれてますよ。 ④自分、ヤフオクを始めて短い間でしたがキャンセル料金(違約金)の事を書き込みされてる出品者多い見受けられます。


A 回答3月 17日 20時 36分
①話の内容をご確認されるべきはご入札者様です。なぜなら、当方は「契約」の話はしていますが「契約書」の話はしていないからです。是非ご確認ください。②六法全書をお持ちなら民法の項をご参照ください。いわゆる売買契約は意思表示をすると有効に成立いたします。したがって商品を買う意思表示をした者には商品を買う義務が生じます。 ③ご入札者様の《契約を交わす時に普通に書き込まれてますよ》の意味が分かりません。何が書き込まれているのですか?④当方の質問に沿うように回答されていません。


Q質問12 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 20時 24分
リスクの事ですがスーパーで買い物かごに一度入れて、やっぱり必要無いので棚に戻すのも同じですよね。スーパーでその様な事をして無理矢理押し売る様な事致しませんよね。


A 回答3月 17日 20時 49分
スーパーでの例は「契約書」について、ご入札者様にご理解できるように配慮して記したのです。「リスク」についてではありません。よろしい。そういう論法を使われるのですね。では、こちらもご入札者様と同じ論法を用います。車に給油しておいて、やはり止めたといってガソリンを戻すドライバーはいないはずです。いったん給油しておいてガソリンが不要になったと主張し「お客様、それはできません!」とガソリンスタンドのスタッフが抗弁して以てスタッフを「押し売り」呼ばわりする人間はいませんよ。


Q質問13 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細) 3月 17日 20時 25分
そんなに商品を売りたければリサイクルショップに売に行った方が確実ですよ。


A 回答3月 17日 21時 26分
それはご入札者様が容喙することではありません。当方の裁量で当該商品をヤフオクに出品しているのです。


Q質問14 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 20時 45分
貴方様の質問に回答をしたらキャンセルを致してくれますか? だらだらと水掛け論をして無駄な時間を使いたくないです。 このまま、時間が経過して自分が落札しても個人情報を書き込まなければ終わりになるのです。 自分も一応ひがあるので事前に告知致しましたが、何時まで付き合えばいいのですか?


A 回答3月 17日 20時 53分
ご入札者様のご返事をそっくりそのままお返しいたします。ご入札者様のご質問にご回答をしたら落札していただけますか? だらだらと水掛け論をして無駄な時間を使いたくないです。何時まで付き合えばいいのですか?


Q質問15 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 20時 51分
話の観点ズレてます。


A 回答3月 17日 20時 55分
当方の話の観点のどこがどういうふうにズレているのでしょうか?納得のゆく説明をしてください。


Q質問16 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 20時 57分
落札出来ないのでキャンセルをお願いをしています。


A 回答3月 17日 21時 06分
ご入札者様がもし出品者の立場に立たれたとして一方的に入札のキャンセルを申し出られて、その理由が文意不明の筋の通らないロジックで書かれていて納得できますか?これだけ労力を使いスペースも割き(他の当方の商品に興味をもった閲覧者にはどう見られるでしょうか?)今さらキャンセルするのは道理にもとります。再度申しますが、ご転居に伴いご住所がご明確にならないのであれば、ご明確なご住所(たとえば、ご実家、あるいは知人、ご友人のご住所)に一時的に送付させていただく、という方法では駄目なのでしょうか?


Q質問17 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 21時 11分
すいません。その回答以前しました。 後、評価も悪いを付けて頂いても結構と伝えております。


A 回答3月 17日 21時 23分
ご自分の権利を主張される前にご自分に課せられた義務を果たしてください。何回も言わせないでいただきたい。具体的に申すなら当方の質問にご回答ください。なぜ、ご多忙なこの時期に定まったご住所もないのにもかかわらず、ご入札されたのでしょうか?無責任ではありますまいか?当方の得られるであろう利益を逸失してしまう点に全く配慮がなく身勝手な印象すらいたします。筋をとおしていただきたいのです。


Q質問18 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 21時 29分
出品者の筋とは買えって事ですよね。自分無理だからキャンセルをお願いしているのです。理解して下さい。 また、水掛け論になっていますが何時まで続くのですか?


A 回答 3月 17日 21時 33分
ご入札者様のご返事をそのままお返しいたします。ご入札者様の要求とはキャンセルしろ!ということですよね?当方はご入札者様の提示されたご理由では到底無理だから落札をお願いしているのです。理解してください。 また、水掛け論になっていますが何時まで続くのですか?


Q質問19 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 21時 37分
無理ですか。それなら、警察に通報しますね。キャンセルが出来なければクーリングオフも出来ない押し売りの人に困っています。伝えておきます。


A 回答 3月 17日 21時 45分
いよいよ警察を出動させますか?望むところです。ぜひ通報してください。最初から当方とのやり取りを丹念に読んでいただきたいです。どちらの言い分に理があるか?虚心坦懐に読んでいただければ、ご入札者様がご自分の非を認めざるを得なくなるはずです。


Q質問20 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 21時 51分
かしこまりました。警察の方に相談に行き然るべき対処をいたします。 それまで、一円足りとも払わないので悪しからず。


A 回答 3月 17日 21時 59分
警察を出動されて困るのはご入札者様の方ではないでしょうか?よろしい!必ず警察に通報してください。しかるべき対処を是非していただきたい。ご入札者様とのやり取りは全部、記録に残っているのですよ。むしろ、ご入札者様の手が後ろにまわるのではありますまいか。


Q質問21 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 22時 03分
何が言いたいのですか?はっきり、白黒つけるだけです。


A 回答 3月17日 22時 07分
何が言いたいのか理解に苦しんでいるのは当方の方です。ご入札者様の《はっきり、白黒つけるだけです。》とは具体的にはどういうことでしょうか?


Q質問22 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 17日 22時 36分
さっき出品者様がが警察に通報しても困らないと言いましたよね。だから、ここでの話のやり取りをふまえてキャンセルを出来ないのは違法に成らないのかを確かめる為に警察に行くだけです。


A 回答 3月 17日 22時 50分
《さっき出品者様がが警察に通報しても困らないと言いましたよね。》これは嘘です。「困らない」という表現は当方は全く使っていません。もっと丁寧に当方の文章を読んでください。「出品者様がが」とはなんですか?とにかくもう少し落ち着いてください。「警察に相談に行く」と必要以上に主張していますね。くり返されなくても理解できています。この文言の多用が刑法のいわゆる脅迫罪の構成要件に該当しないか調べてみますね。警察を出動されて困るのはご入札者様であることを老婆心ながらお伝えして以て、ご入札者様に厳粛にご警告いたします。


おわり
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論戦二日間 (一日目)

2016年03月21日 | その他

〈はじめに〉

今まで弟ブログである“ヨシ樹の雑記帖”の記事の更新は時々してまいりましたが“「論」ブログヨシ樹”の記事の更新はずっとなおざりのままでした。なぜなら、それなりのまとまった長い文章を書くのには相応の覚悟を必要とするからです。そして相応の覚悟が固まるためには執筆の際、強いモチベーションが不可欠となります。ところが思いがけず本日記事の更新をする運びとなりました。というのも実は先週ヤフオクで執拗なクレーマーに遭遇して二日間にわたり論戦をしたからです。その記録が、まだ残されているうちに当サイトにアップしようと考えました。振り返ると最後に本ブログの記事を更新したのが一年前です。皮肉なことにクレーマーとのやり取りが長いブランクを埋める久し振りの記事の更新のきっかけになりました。

わたしは長い間、生活防衛のためにできるだけ倹約、節約してまいりました。その際にヤフオクで多くの商品の売買をしてまいりました。ヤフオクだと多くの場合、高く売れて安く買えるからです。また現金決済のみならず切手での決済に応じてくれることがあるのも魅力的です。わたしは父が譲ってくれた切手を少なからず所有しているからです。ただし、良い事づくめかというとそうとも言えない場合もあります。長い間ヤフオクで出品や落札を続けていると避けては通れないのがクレーマーの問題です。今回はそのクレーマーとの二日間にわたる死闘(少し大仰な表現かもしれませんが)を本記事に再現してみました。読み手に配慮して分かりやすいようにレイアウトを最低限、手直ししただけで、誤字脱字すら訂正してありません。というのも、その方がクレーマーとのやり取りを読み手にありのまま知ってもらうことができる、と考えたためです。

読者諸賢にとって今回は読んでいて、あまり愉快な記事ではないかもしれませんが書き手のわたしとしてはブログに記事として残すことに意味があると考えています。紙ベースで記録を残しておいても将来、証拠が散逸しないともかぎりません。それゆえ、ウェブ上にあえて、やり取りを残すことに決めたのであります。ちなみに出品者がわたしで、入札者がクレーマーです。わたしが今回、ヤフオクに出品した商品は革の長財布で結局9000円で落札されました。わたしは筋のとおらないクレーマーの入札のキャンセルを許さず、落札を余儀なくされたクレーマーは、やはり今に至るまで連絡をしてきません。ただ、わたしはそのまま静観視することはしません。やりようはいくらでもあります。それでは以下にクレーマーとのやり取りを再現します。


質問一覧

Q質問1 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細) 3月 16日 12時 46分
すみません。入札をキャンセルしたいのですが、お願いしても大丈夫ですか?


A 回答 3月 16日 17時 30分
入札のキャンセルはルール違反になります。二点ご質問いたします。①どのようなご事情でキャンセルされるのでしょうか?②もし落札者様のご都合でキャンセルされた場合、自動的に悪い評価になりますが、それでもよろしいでしょうか?


Q質問2 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 18時 40分
質問の答え ①自分が転居する可能性が濃厚になり受け取り住所が明確に成らない。 ②評価の悪いを付けて頂いても結構ですよ。 すいませんが質問の答えを提示しました。キャンセルをルール違反となるならクーリングオフでお願いをすれば良いのですか?


A 回答3月 16日 19時 06分
ご回答ありがとうございます。①ご転居に伴いご住所がご明確にならないのであれば、ご明確なご住所(たとえば、ご実家、あるいは知人、ご友人のご住所)に一時的に送付させていただく、という方法では駄目なのでしょうか?②当方は悪い評価は、できるだけ付けたくありません。しかし、落札者様のご都合でのキャンセルの場合は自動的に悪い評価がつくシステムになっていると理解しています。


Q質問3 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 19時 49分
①の返答のアドバイスを頂きありがとうございます。自分でも一度アドバイスを頂いた事を考えて知人に相談したのですが知人も多忙な為1ヶ月位不在とお聞きして、今回諦めようと判断しました。


A 回答3月 16日 20時 14分
ご回答ありがとうございます。ご入札者様には知人やご友人がひとりしかおられないのでしょうか?あるいは、ご実家はないのでしょうか?いずれにせよ現在どこかに住まわれていて諸般のご事情により転居されて次のお住まいで生活されることと思います。そうであるならば最寄りの郵便局に行き、郵便物の転送手続きをすればよい、と思われますが、いかがでしょうか?


Q質問4 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 20時 22分
知人一人しか居なくて数人居ますし毎年この時期多忙なのを自分理解した上でお話をしてきました。 郵便の転送ですが転送をかても旧住所に配達されたり2月から3月放置されましたので無理です。


A 回答3月 16日 21時 04分
二点ご質問いたします。①旧住所に転送されて放置された、という記され方からすると現在は新住所にお住まいになっていらっしゃるのではないですか?「転居する可能性が濃厚になり」という記され方と矛盾しますが、この点いかが釈明されますか?②一歩譲って、ご入札者様のおっしゃるとおりだとしても(そう信じたいのですが)、ではなぜ、ご多忙なこの時期に定まったご住所もないのにもかかわらず、ご入札されたのでしょうか?無責任ではありますまいか?この点をいかが釈明されますか?


Q質問5 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 21時 00分
話の観点が大分ズレていますが、キャンセルをお願いします。


A 回答3月 16日 21時 21分
当方の話の観点が大分ズレていると記されていますが、どういう根拠を以てそうおっしゃっているのでしょうか?そして、ご入札者様がキャンセルされるご理由が到底納得できません。重大な用件になりますので当方の先のふたつの質問と今回の質問に誠実かつ真摯にご回答いただければ幸いです。


Q質問6 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 21時 41分
①今住んで居る所からの転居です。 ②入札の事ですが会社の人事異動が無い状態と判断して入札を致しましたが周りからの話を聞いて人事異動があると聞きました。 後、失礼ですがヤフオクでの出品者の人達ですが貴方様みたいに押し売りをする人達が多いのでしょうか?


A 回答3月 16日 22時 20分
ご入札者様にも辻褄は合いませんが、それなりのご事情はあると思います。けれども入札するというのは出品者と契約を結ぶということです。ご入札されたということは「買いたいと申し出ること」と同じです。いったん買いたいという約束をされながら理由にもならない理由により一方的に契約を破棄して以て「押し売り」という文句を当方に浴びせかけるのはいかがなものでしょう?突発的な人事異動というご入札者様側のご事情もあるのでしょうが、なぜそのリスクを出品者である当方が一方的に負担しなくてはならないのでしょうか?納得のゆくご回答をお願いいたします。


Q質問7 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 22時 33分
すいませんが契約書ありますか?キャンセルをした時に違約金が発生すると、相手に分かる様に提示してますか?逆に自分が納得する証拠を提示して下さい。 押し売りの件ですが、自分が商品を買うのをやめますと言って難癖をつけて強引に買わせようと自分が感じたので素直にお聞きしただけです。


A 回答3月 16日 22時 49分
ご入札者様からの二点のご質問には明日、当方の仕事が終わって帰宅してからまた改めて、ご回答させていただきます。どうかご了承ください。


Q質問8 投稿者:brightmoonlight_0122 / 評価:3 (評価の詳細)3月 16日 22時 35分
後、リスクが発生すると言っていますが何のリスクですか?この商品が売れるから出品しているのですよね。


論戦二日間 (二日目)につづく
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書評 『永遠の0』 後編

2015年03月26日 | 書評


長い間、当サイトの記事の更新ができずに心苦しく思っていました。それゆえ今日こうして久し振りに記事が更新できることを大変うれしく思っています。文章にしろ、スピーチにしろ、前置きは短い方がよい、というのは世の常識であります。したがって、前置きはこれくらいにしておきます。読者諸賢は早速、本文をお愉しみください。なお、本稿での引用文の改行は原文のママではないことをはじめにお断りしておきます。ちなみに、引用文中で“奴”と記されている人物は“宮部”のことを指しています。念のため。

《俺は模擬空戦といえど、死んでも旋回はやめないつもりだった。たとえ死んでもかまわない。俺は苦しみで悲鳴を上げたが、目玉は脳天の後ろにある宮部機を睨みつけていたし、力いっぱい引いた操縦桿はぴくりとも戻さなかった。突然、奴が旋回をやめて、水平飛行に移った。勝った―俺は奴の後方に回った。照準器に奴の機体が吸い込まれるように入ってくる。

次の瞬間、奴は宙返りした。劣位でしかも速度の落ちた状態での宙返りは自殺行為だ。俺はそのまま奴を追った。奴の機を上目で追ったまま、操縦桿を引いた。宙返りが終わった瞬間、奴の機は俺の照準器には入っているはずだ。その時、奴の命は俺の手の中にある―。その時、信じられないことが起こった―奴の機が消えたのだ。照準器どころか俺の視界から完全に消え去ったのだ。

俺は宙返りをしながら、頭をぐるりと回した。奴の機はどこにもなかった。俺は反射的に急降下に入った。その時、背筋に冷たいものが走り、振り返った―奴が後ろにぴたりとつけていた。あの衝撃は今も忘れない。俺は戦後、何度も命の取り合いをした。殺られたか!と思ったことも一度や二度ではない。しかしあの時ほどの恐怖を感じたことはない。奴の機体はもう俺の機体に触れんばかりだった。もう照準も何もない。発射レバーを引くだけで俺の機体は吹っ飛ぶ。勝負は完全にあった。俺は気がおかしくなりそうになった。今でいうパニック状態になった。》

読者諸賢にとっては長い引用になったであろうか。引用文を読むと主人公宮部の飛行技術が並々ならぬものであることが理解できるはずである。引用した文章は元海軍上等飛行兵曹、景浦介山(かげうらかいざん)という人物が宮部の孫に語り聞かせるという趣向で綴られている。ちなみに景浦は元やくざだ。戦後やくざになったのだった。彼は宮部に模擬空戦をしてほしいと執拗に頼んでいる。ついには土下座までして頼むのだが宮部は頑として聞かない。宮部は模擬空戦をはっきり断っているのだ。だが、景浦は「宮部飛曹長がやらなくても、私はやります」と強引に言い放ち、とうとうその機会を得る。

爆撃を終えた米軍の爆撃機B17と護衛する戦闘機グラマンの編隊を邀撃(ようげき)し、戦地からラバウルに戻りかけた時に何と下方に宮部機がいるではないか。この時、景浦は躊躇(ちゅうちょ)なく宮部機に仕掛けたのだ。しかし、結果は惨敗であった。惜敗ではなかった。先述の引用文によれば「勝負は完全にあった」のだ。ところで宮部に負けたのはなぜだろうか。照準器に入っているはずの宮部の零戦は突然、景浦の視界から消えたのだった―それも完全に。

景浦に語らせるとこうである。《答えは瞬時に出た―左捻り込み。日本海軍の戦闘機乗りの秘術と言われていた技だ。敵機に後方につかれた時、宙返りの頂点で左に捻るように旋回して、逆に敵機の後ろにつく技だ。飛行練習生時代に何度か聞いたことがあった。しかし教官にそれが出来る者は誰もいなかった。昔、その技を一度だけ模擬空戦で見たという教官がいた。それを使った者は日中戦争以来の熟練搭乗員だったと言っていた。

「空中で、飛行機が消えた。あれは魔法のような技だ」そしてこう付け加えた。「もう海軍航空隊に、この技を使える者はほとんど生き残っていないだろう」この日、宮部が見せた技がそれだった。まさに神技だった。飛行機にそんな動きが出来るなどということが信じられなかった。》

念のために述べておくが景浦は、いわゆるヘタクソではない。それどころか人間性を除けば非常に優秀なパイロットであった。戦闘機乗りとして大変な巧者だったのである。零戦のパイロットとして最前線で戦いながら終戦まで生き延びたという事実がそれを雄弁に物語っている。そして、この男こそ宮部の特攻を護衛するための直掩隊(ちょくえんたい)のひとりだった。けれども、宮部は景浦の実力をはるかにしのぐ戦闘機乗りとしての巧者中の巧者だったのであった。景浦のような歴戦のつわものでさえも宮部と比較すれば大人と子供だったのである。その辺の事情は既述した模擬空戦の様子からも容易に汲み取ることができる。景浦は宮部に烈しく憎悪を燃やしていた。宮部に対する憎しみは、なまじなものではなかった。一方の宮部は物語を読むうえで景浦に対して腹蔵するところはなかったように思う。宮部の景浦に対する感情はニュートラルなものであったということができる。

《「景浦が援護してくれるなら、安心だ」宮部はにっこり微笑むと、俺の肩を叩いた。それから爆装された零戦に向かって歩いて行った。》と景浦は当時を回想している。まさか宮部が特攻に行くとは。景浦に大きな衝撃が奔(はし)った。家族のために死ぬわけには行かぬ、という信念をかたく抱き続けていた男の命運が今まさに尽きようとしている。

宮部は生き残ることを何よりも優先させるその姿勢を卑怯者だとか腰抜けだとかいうふうに中傷された。心ない者の悪評に耐えていた理由は家族との再会のためであった。そんな男があろうことか戦闘機ごと命を叩きつけるように余儀なくされている。そう特攻である!実に酷薄な運命ではないか。「そうか宮部。お前の無念はようく分かった」と景浦は心のなかでつぶやいたに違いない。

次の文章も『永遠の0』からの引用である。《俺の頭の中は、ただ一つのことしかなかった。宮部を絶対に援護する―それだけだった。どんなことがあっても宮部の機を守り抜く。敵の銃弾は一発も当てさせない。宮部に襲いかかる敵機はすべて撃ち墜とす。弾がなくなれば、体当たりしてでも墜とす。しかし俺の機体は突然ものすごい振動と共に発動機から煙を噴き出した。(中略)宮部たちの編隊が遠くに消えていく。》

結局、景浦の願いは叶わなかった。それから数日後いわゆるラジオの放送をとおして天皇は恥知らずにも日本が敗れたことを抜け抜けと国民に伝えたのだった。皮肉にも血気盛んな景浦は生き残り、家族との再会を切望していた宮部は死んだ。後数日早く戦争が終わっていれば愛する家族に会えたはずであったのに…。さて、この文章もそろそろ締めくくる時が来たようである。けれども戦争は悲惨だ、とか天皇は豚よりも劣る人非人(にんぴにん)だ、とかいうあまりにも当たり前な結論で締めくくりたくはない。

人は歴史から何も学んでいない。人は歴史から何も悟っていない。そうでなければ戦争など起こる道理がないではないか。それゆえ、わたしはあなたに伝えたい。大歴史書を読んでごらんなさい、と。けれども、そう言われてもピンとこない読者諸賢もおられるかもしれない。もしそうであるならば、不滅不朽の大古典であり大歴史書である“旧約聖書”をお読みなさい、と言いたい。

一人ひとりの心が平和でなくて、どうして一国の平和、ひいては世界の平和を実現させて保ち続けることができるだろうか。実に世界平和は今この文章を読んでいるあなたの心の在り方にかかっている、といっても決して過言ではない。本稿でご紹介した百田尚樹の著した『永遠の0』を読んで、そう思わなければ誤読をしている、と言っても間違いではないような気がする。

もちろん同書から導き出される感想は様々であっていい。同書から導き出される結論はわたしが述べたことだけでは終わらない。読み手のあなたが引き出す結論はわたしが、これまで縷々(るる)述べて来た結論のみでなくても一向にかまわない。むしろ、わたしが記した文章を叩き台にしてコメント欄に読み手の感想を記して意見の交換ができるなら、わたしがこれまで書いてきた労も報われるというものである。それでは『永遠の0』の書評をここで擱筆(かくひつ)したい。                                              

【本記事で取り上げた本のご紹介】

・題名:『永遠の0』

・著者:百田 尚樹

・出版社:講談社                    


おわり
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書評 『永遠の0』 前編

2014年06月28日 | 書評


《高橋には忘れられない思い出があります。彼が我が家に遊びに来た時、たまたま私の妹が泣きながら帰ってきたのです。一緒にいた近所の女の子に聞くと、学校の帰り道、中学生たちに「知恵遅れ」とからかわれたりした挙句、さんざん頭を叩かれて泣かされたというではありませんか。これまでも妹は障害があることを笑われたりからかわれたりして、その度に私は悔しい思いをしていましたが、この時ばかりは本当に腹が立ちました。

知恵遅れだというだけで、他人に叩かれる謂(いわ)れはない。私は女の子に、そいつらはどこの中学生かと聞きました。その時、振り返った私は驚くものを見ました。高橋が妹の頭を撫でながら、泣いていたのです。「可哀想になあ、可哀想になあ。和子ちゃんは何も悪いことをしていないのになあ」そう言って、高橋は涙をぼろぼろ流しているのです。私は高橋の優しさに心打たれました。私はこの男のためなら何だって出来ると思いました。》

冒頭に引用文を記載したが、この文章は百田尚樹が著した『永遠の0』(講談社文庫)から引いた。過日わたしは同書を読了した。読み進めてゆくうちに物語に惹きこまれてゆき、果ては落涙することもしばしばだった。感動したのだ。感動した文章のうちのひとつが上記引用文なのである。田舎の人たちは弱い者をダシにして結束することがある由、大学生の時に通っていた神奈川県の教会の機関紙に記載されていた。わたしは、この歳になってもその文章を思い出すことがある。わたしは、これまで多くの職場を転々としてきたが弱い者をスケープゴートにして結束するという事は残念なことに田舎に限らずにたいていの職場で存在する。

同書で語られている和子もダシにされていたに相違あるまい。本来なら障害を抱えている和子のような年端もゆかぬ子供には優しく接するのが人の道ではないだろうか。和子はどんなに悔しかったことだろう。自分ではどうする事もできない事情によりいじめられているのだ。子供にも矜持はある。子供であれ泣きたくはないものだ。人前では涙したくないものだ。まして「お兄さまが一番好き。お父さまよりもお母さまよりも、お兄さまが好き」と口癖にしていた和子は大好きな兄の前でめそめそした泣き顔は決して見せたくはなかったはずである。

和子の兄は怒り心頭に発した。絶対に赦さぬ。すこぶる陰湿で卑怯なやり口である。ひとり残らず全員見つけ出して必ず妹を叩いた輩ひとりひとりに思い知らせてやる。中学生とて容赦はしない。そう思って拳を固く握りしめたに違いない。しかし、振り返ってみると高橋は妹のために大粒の涙を落としていたのだ。怒髪天を衝くような怒りに身を震わせていた兄も友の優しさに胸がいっぱいになった。

高橋の言うとおり和子は何も悪くない。和子はそうした子供の多くがそうであるように非常に純真で人を疑うことのない子であった。絶対にあり得ないことだが一歩譲って和子が何か悪さをしたとしても、なぜ徒党を組んでひとりを攻撃するのか。しかも相手は障害をもった幼い子供ではないか。少しでもいいから斟酌してやれなかったものか。わたしが陰湿で卑怯であると述べるゆえんである。思うに和子の兄が激怒したのも無理からぬことだった。否、愛すべき妹を持つ者として、きわめて当然の感情であった。

和子にまつわるエピソードは、いわゆる国家間の戦争の縮図として見ることができると述べても論法に無理はない、とわたしは考える。百田の『永遠の0』は太平洋戦争の時の零戦のパイロット、宮部久蔵という人物が主人公の物語である。おおむね史実と合致していて坂井三郎など実在した戦闘機乗りも登場してくる。前述の高橋の思い出を語っているのは宮部の戦友の元海軍少尉、岡部昌男だ。ちなみに岡部の妹のために涙を流した高橋は後の特攻で戦死している。

肝腎のこの作品の主人公である宮部のエピソードも多くあるが、そのなかでもわたしが気に入っているエピソードを以下に引こう。

《その夜、学生全員が整列させられた。兵学校出の中尉がヒステリックな声で叫んだ。「本日、事故があったことはお前たちも知っていることと思う」私たちは彼への弔いの言葉がかけられると思っていた。しかし中尉の口から出た言葉は思いもかけないものだった。「死んだ予備士官は精神が足りなかった。そんなことで戦場で戦えるか!」中尉は叫ぶように怒鳴ると、軍刀の石突(いしづき)を床にたたきつけた。伊藤のことをわざわざ予備士官と呼んだのは、私らに対する明らかな蔑視だった。「たかだか訓練で命を落とすような奴は軍人の風上にもおけない。貴重な飛行機をつぶすとは何事か!貴様たち、二度とこのようなことがないようにしろ」私たちはみな心の中で悔し涙を流した。これが戦争か、これが軍隊かと思った。人間の命はここでは飛行機以下なのだと思った。

その時だった。「中尉」という宮部教官の声が聞こえた。「亡くなった伊藤少尉は立派な男でした。軍人の風上にもおけない男ではありません」場が凍りつくとはあのような時を言うのだろうな。中尉は怒りで顔を真っ赤にさせてぶるぶる震えた。「貴様!」中尉は壇上から降りると、宮部教官を殴りつけた。宮部教官は足を踏ん張って、その拳を耐えた。中尉は尚も殴った。宮部教官の鼻と口から血が噴き出したが、彼は倒れなかった。中尉は背の低い男だった。その男が力一杯殴っても、宮部教官は倒れないどころか、逆に上から中尉を見下ろすように立っていた。中尉は半べそをかいたような顔になった。「伊藤少尉は立派な男でした」宮部教官は中尉に負けないくらいの大きな声で言った。》

真実の言葉を言う時に困難を伴う場合がある。そういう場合たいていの人は口をつぐんでスルーする。悲しい処世術と言わなければならない。わたしはその例外になりたいと思っているが、これは言うは易く行うは難し、である。主人公の宮部教官は真実の言葉をほとんど口にできないような場面で口にした。その結果、当り前のように殴られた。だが彼は殴られても信念を曲げなかった。あからさまに言葉には出さなかったものの宮部は、くだんの中尉に「その言葉は間違っている。取り消せ!」と抗議したい気持ちでいっぱいだったのだろう。事故当時の教官は宮部だったからである。そして何よりも前途有望な他ならぬ日本人のひとりの若者が死んだのである。

不当な圧力に対して屈服せずに信念を曲げない、それがいかに勇気が要ることか。少し想像力を働かせれば理解できるはずだ。あなたが仕事をするに際して上司から理不尽なことを命じられた時に、それは間違っていると突っぱねることができるだろうか。正直な読者なら「それはきわめて難しい。指摘すらできない…」と心の中でつぶやくに違いない。経費節減のため様々な口実を設けて首を切る事が罷りとおっているこのご時勢、自分や家族を守るためには嫌なことを言われても顔色を変えず、理不尽なことを命じられても言われたとおり仕事を粛々とこなすだけで精いっぱいというのが我々の実際のところではないだろうか。ましてや上命下服が絶対の軍隊においてをや、である。

宮部は鼻と口から血が噴き出しても構わなかった。自分の身はどうなってもよかった。戦場にゆく前にあたら急降下訓練で散っていった伊藤の名誉を守るために殴られても絶対に倒れなかった。死んでも倒れるものか!宮部は心の中でそう思っていたのではないか。思うに宮部にはいささかの打算もなかった。ただただ中尉によって蹂躙された亡くなった伊藤少尉の名誉を回復することだけを願ったのだった。「伊藤少尉、君は命を賭して必死の訓練をした。それの何がいけないのか。俺は知っている。仲間も知っている。君は立派な男だったよ」と。もし名誉回復の一事を以て打算と言うなら全ての博愛精神を打算と称さなければならなくなるだろう。宮部は骨のある男だった。そして優しい男だった。だが、それだけの男ではない。後編は飛行教官になる前の凄腕の戦闘機乗りとしての宮部について記してゆくつもりである。

つづく
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「ズボラ飯」万歳! 後編

2013年10月20日 | 健康

コミックの「花のズボラ飯」(原作:久住昌之 漫画:水沢悦子)を早速、古本屋で一冊、購入して読んでみた。読了後の感想を最初に述べると期待していたほど面白い漫画ではなかった。それゆえに1巻目は買ったが2巻目を買う気にはなれなかった。当初は1巻と2巻を併せて購入しようとしたが1巻目で内容を確認してから、それ以降の巻を買うか否か決定しようと考え直したのである。

もし2巻目以降を購入するとしたら同書が古本屋の105円のコーナーに移されるのを待ってからになると思う。ちなみに1巻目は300円で売られていた。そのうえで古本屋のポイントカードに貯まっていたポイントを100円分使ったので購入価格は200円である。期待していたほど面白くないとはいうものの漫画を読むと食べることの喜びが、ひしひしと伝わってきて「食」に対する興味が持てる内容ではあった。「食」についてコミカルに描かれていて憎めない漫画なのである。

ヒロインの花(名前です)は三十路の主婦である。彼女の食べっぷりが読んでいて愉しい。しかも花は夫のゴロさんが単身赴任中なのをいいことに家は散らかり放題、家事も手抜き放題のズボラぶりなのだが、それでも必ず自宅で料理をしている。同書を読むと自宅にきた友人をもてなすために宅配ピザを頼む以外には外食の場面は全く出てこないことに容易に気づく。

外食とは、つまるところ「食」の完全なるアウトソーシング(外注)である。思うに外で食べることが最もズボラな姿勢ではないだろうか。料理の丸投げをズボラではないと誰が反論できるだろう。そういう観点に立脚して考えてみれば、この漫画のヒロインである花は、まだ大事な一線を越えずに踏みとどまっているということができるのではあるまいか。

たしかに「花のズボラ飯」を読んでいると料理に手間暇をかけているわけではない。セオリーも無視している。要するにタイトルどおりズボラ飯なのだ。しかし、外注ではなく、それでもなお手料理なのである。思うに手作りに優る料理はない。たとえ、それがズボラ飯であっても、だ。一例を挙げるとインスタント・ラーメンに野菜炒めをのせるという簡単な料理が漫画でもレシピ本でも紹介されている。

インスタント・ラーメンに野菜を加えるくらいの工夫はわたしもやっている。だが、それは麺と一緒にもやしと刻んだキャベツを茹でるという程度でしかなかった。野菜を鍋の中で麺と共に茹でるのではなくフライパンに油を敷き炒めたうえで最後にどんぶりに入っている麺に盛り付けるという発想はわたしには考え付かなかった。それともうひとつ。今までもやしや適当な大きさに切ったキャベツをラーメンに入れて食べるということはしてきたが、それとピーマンを組み合わせるという発想も思い付かなかった。機会があれば是非ピ-マンを含めた野菜を炒めてラーメンと混ぜて食べてみたいと思う。

ちなみに『花のズボラ飯 うんま~いレシピ』(主婦の友社刊)では、このレシピを“サポイチ塩の野菜炒めドカのせ”と命名していた。わたしは幸か不幸か外で頻繁に食べるだけの経済的な余裕がない。それゆえにインスタント食品にひと手間かけるという文字どおりのズボラ飯から実践してゆきたい。ちなみに「サポイチ塩」とはインスタント・ラーメンの代名詞である“サッポロ一番”の塩味のことを指す。

それにしても実家で食べる母の手料理の何と旨いことよ!文句のつけようがない料理だ。親をのろける阿呆な息子にはなりたくないが事実は事実として記さねばなるまい。若い頃から今に至るまで毎日三度三度の食事を作ってきたのだから料理が美味しいのもむべなるかな、だ。レストランで出される料理とは一味も二味も違うのである。質、量共に家庭料理の方が外食に遥かに優る。

現代はファストフード全盛の時代である。わたし自身もしばしば、お世話になっている。なるほどファストフードは作る手間暇がかからず簡単に食べることができる。値段もそれほどかからない。忙しい現代人に受け入れられるのも道理だ。けれども、簡単で便利という謳い文句は常に疑う必要がある。その分、大事な何かが犠牲になっている惧れがあるからだ。

然り、大事な何かが犠牲になっていることが、ままある。インスタントにできる食事、安く済ませられる食事を毎日、食べ続けたらどうなるか、をわたしは前編の記事の冒頭で記した。その末路は栄養失調である。ファストフードには栄養が著しく不足しているのだ。したがって、お手軽なインスタント食品やレトルト食品はオヤツ感覚で食べなければならないのではなかろうか。

さもなければ、すでに述べたように即席ラーメンに一手間加えて炒めた野菜をのせるなどの工夫を是非するべきである。さらに言えば日常の食事にももう少しお金を遣う必要がある。節約、倹約は、もちろん大いに認められて然るべきである。わたしも生活防衛のための節約や倹約を認めるのはやぶさかではない。ゆえに原則として財布の紐をきつくすることにあえて異を唱えるつもりはない。

ただし、節約や倹約についても自ずから限度があるのであって食費を切り詰めて病気になるのであれば何のための節約や倹約であったのか、ということになる。節約や倹約も行き過ぎると単なる吝嗇(りんしょく)に堕してしまうことになる。思うに、わたしたちはお金の上手な遣い方を日々の生活をとおして賢く学ばなければならない。成人した大人の読者にむかっては改めて言うまでもないことである。

わたしたちは日毎の糧にもう少し関心を払い、食べられることに、もっと感謝し、喜ばなければならないのではないか。わたしの友人で店で食べる際に同道すると食べる前に必ず手を合わせ食べた後も手を合わせる男がいるが、それを見ていて、いつもわたしは感心する。彼はふだんは無宗教な人間であるが出された食事を感謝して食べることを知っている。キリスト者も食前に手を組んで感謝の祈りを神にささげることは、それなりに知られていることで、わたしもその例外ではない。

アフリカなどの発展途上国では非道い飢えのために石ころを食べる子供さえいるのだ。さらに耳を塞ぎ目をそむけたくなるような悲惨な事実をあえて述べるならば極限状況下では人は人の肉でさえ食らう。至極残酷な話ではある。だが事実である。真偽の程を確かめたいのならインターネットで簡単に調べられる。「カニバリズム」という単語で検索すればヒットする。

食事がただ、わたしたちの腹を満たすだけのものなら、それはエサである。食事とは呼べない。料理を作ることを愉しみ、ひもじい思いに苦しめられることもなく食べ物を口にできる恵まれた境遇に感謝しなければいけない。さように感謝しつつ家族や友人と食卓を囲みながら談笑する、それが本来の食事のあり方だと考えるが読者諸賢の意見はいかがだろうか。

おわり
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「ズボラ飯」万歳! 前編

2013年10月13日 | 健康

そもそも食べることは、わたしの指摘を俟つまでもなく健康と密接なつながりがあるはずだ。わたしが都内の大学に小田急線で通っていた頃、下宿がある神奈川県の専門学校に通っていた友人の同級生が若くして世を去った。死亡の原因は栄養失調である。彼は食費を抑えるためにインスタント・ラーメンばかり食べていたらしい。これは、わたしにとってショックな出来事だった。この飽食の時代に栄養失調で命を落とすことがあったのである。

来し方を振り返ってみると、わたしも食べることに、あまりにも関心を払わずに生きてきたと告白せざるを得ない。もしかしたら、わたしも栄養失調寸前までいったかもしれないのだ。夭折した彼と同じ目に遭わなかったのは神の恵み以外の何ものでもない、と振り返って考えるのである。

わたしたちは原則として一日のうちに三度、食べ物を口にする。特別な例外を除いて毎日、三回に分けて料理を食べることを習慣にしている。そうであるならば、わたしたちは、もう少し食べることに注目するべきではないだろうか。そして、こんなにも多くの回数、食卓につくのであればもう少し、その時間を大切に思わなければならない、とわたしは考えるようになった。食べ物を粗末にしてはいけない、とはよく言われることだが、思うにそれと同様に食べる時間も決して粗末にしてはならない。

こう書くとグルメを奨励しているように思われるかもしれない。けれども、そうではない。わたしは金持ち連中の食道楽について、いささかもよい印象を持っていない。たしかに多くのお金を支払えば旨い料理を味わい愉しむことができる。大切な友人や恋人をもてなす場合に時折それなりのレストランを利用して会食するのは決して責められるべき悪徳にはならない。

しかし、足しげくレストランに通い外食ばかりしている人たち ―それだけの経済的な余裕があるいわゆる富裕層― には一種の軽蔑の念が胸中に宿るのを禁じ得ない。こういう不見識な輩(こういう連中には遠慮会釈なく“輩”という言葉を用いても当然「可」である)のなかには店で出される一皿一皿をいちいちデジタル・カメラで撮影して自分たちのブログにせっせとアップすることに余念がない者もいる。

言うまでもなく、そういうブログの記事はお粗末である。それは要するに自慢話なのである。おそらく他に書くべき題材が見つからないので暮らし向きの自慢をして内容のない料理の写真ばかり掲載しているのだろう。本来の主役であるべき文章はその写真のキャンプションに堕してしまい、あたかも出来損ないの写真ブログのような様相を呈しているのである。嗚呼、情けなや、情けなや。

そういうしだいで、もちろん、わたしは読者にお金のかかる経済的とはいえない食道楽を勧めたりはしない。むしろ、いかにしてお金をかけずに栄養のある旨い料理で腹を満たすかについて共に考えてみたい。もし、あえて説明の便宜のために「グルメ」という言葉を使わなければならないとしたら、わたしの目指すグルメは栄養、味、コスト、時間といったあらゆる面でパフォーマンスが高いグルメである。

換言すればお金はかけず、その代わりにある程度の手間をかけて徹底してコストを削減するグルメなのだ。こう書くといかにもセンセーショナルに聞こえるが要するに自分で食材を調理して食べるという、いわゆる家庭料理の復権こそ本記事の主旨なのである。食べたいものを食べたいように自分で作ることに優るグルメはない、とわたしは考える。

わたしは、これまでインスタント食品やレトルト食品等を主に食べてきた。これは本当に味気ない食事である。これはふたつの意味で味気ない。まず味そのものが非常にチープである。値段に見合った味になる。そしてインスタント食品を食べる時の常として独りで会話もなく黙々と食べ物を口に運ぶ侘しさがある。勢いかきこむような食事になってしまうのだ。

それではインスタント食品を全否定してイチから料理をするべきである、と威勢よく主張するのかというと、まだその覚悟はない、と言わざるを得ない。料理初心者のわたしとしては、まずインスタント食品にひと手間加えて調理するという簡単なステップから始めてゆきたい。そして、ゆくゆくはイチから料理することに意義を感じて料理そのものを愉しむまでになりたいと希望している。

わたしが本記事冒頭で記したあの大学時代の衝撃的な出来事から長い時間を経て日々の糧について改めて考えるきっかけとなったのは、ある本を購入したことによる。その本とは、すなわち、主婦の友社から出版されている『花のズボラ飯 うんま~いレシピ』というレシピ本だ。

例によってウェブ・サイトの“アマゾン”で中古本を安く購入した。もともとは「花のズボラ飯」(秋田書店刊)という漫画に興味があって同サイトを閲覧していた時にくだんのレシピ本に出合ったのである。使えるお金には制限があるため(要するに貧乏なのだ!)漫画を買う前に漫画よりも実生活に役立ちそうなレシピ本を手に入れたのだ。ちなみにレシピ本の監修と画が漫画「花のズボラ飯」と同じコンビであることもレシピ本を購入するのに踏み切った理由のひとつである。

レシピ本は買って正解だった。わたしが、これまで「食」についてあまりにも無頓着だったことはすでに述べたが、それゆえ料理に関する本を身銭を切って入手したのは今回が初めての経験である。理の当然として買ったレシピ本は他のレシピ本と比較考量したうえで購入を決定したわけではなかった。

それではなぜ正解と断言できるか読者は訝(いぶか)しく思われるかもしれない。その理由としては同書に記載されている一つひとつのレシピが、とても簡単なことが第一にあげられる。何といっても「ズボラ飯」なのだから……。そして、そうであるがゆえに複雑な手順を踏まなくても本に掲載されている写真と同じように旨そうな料理が作れそうなやる気がふつふつと湧いてくることも正解である、と主張するゆえんなのである。

ちなみに同書のキャッチコピーは「なぜ、ズボラ飯なのに泣くほどうまいか」である。泣くほどうまい、というのはいくらなんでも大仰な表現であるが、こんな羊頭狗肉まがいのコピーも苦々しく思えず、むしろ読んでいて微笑ましくなるから不思議だ。

次回の記事はコミックの「花のズボラ飯」(原作:久住昌之 作画:水沢悦子)をクローズアップして「食」というテーマについて、さらに考察を深めつつ記述してゆくつもりである。

つづく
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科学に対する態度

2013年07月28日 | 読者との交流

■科学に敗けてはいけない■
わたしは科学という学問をやや懐疑的な立場に立ち色々と批判していますが科学を否定しているわけではないのです。第一、科学を否定するならば科学によってもたらされている様々な恩恵をも否定しなければなりますまい。現代は科学なしには生活することすらできないはずです。科学を否定するのではなく科学に敗けてはいけない、というのが、わたしの主張の眼目です。

そもそも進化論やビッグ・バン等について書かれている書物を読んだことはありますか。何冊、読みましたか。要するに科学についてどれだけ知っていますか。そう問われれば、しどろもどろになるくせに何かあったら科学の権威にすがり、これは科学的だから正しい、と強弁する。まさに虎の威を借る狐ですね。否、現代の鰯の頭ですよ。一つの信仰ですね。宗教ですよ。

科学というのは至極簡単に定義するならば、計測する学問です。何でも数値に置き換えてしまうのです。そうでないと計測できないからなのですね。大事なのは、この何でも数値に置き換えた上で計測する、という方法論が適用できる領域とそうでない領域がある、ということです。

例えば、月に行くには科学というのは非常に有用で人類に大いに貢献しています。宇宙船を造り、月に行き、調査して何がしかのデータを得るには科学は、われわれとって著しい貢献をしている、といっても決して間違いではありません。しかし、人間は心という計測できない、否、計測を拒んでいるともいえる科学にとって厄介なものを持っています。君の哀しみは計測できますか。愚問ですね。つまり科学の方法論は人の心という領域には入ってゆけないのです。

それなのに世人は科学を万能だと思い込んでいます。たしかに科学によって物質的には著しく進歩しました。それは、わたしも認めるのにやぶさかではありません。しかし、科学により人間の心は進歩したか、と問われれば、むしろ逆に堕落してしまったのではありますまいか、と浮かぬ顔をして返答するような気がします。わたしは昔の人の方が色々な意味で立派だったのではないかと思う時が、しばしばあります。現代に暮らすわたしたちは便利になった分、心や身体が鈍ってしまったのではないか、と思うのです。

現代人は神を信じている人を軽蔑しますね。前論理的だとか何だとか言って。もっと広く言えば程度の差はあれ皆、宗教に偏見を持っています。しかし、その軽蔑をしている現代人が信じているものは何ですか。君の哀しみを判ろうともしない無慈悲な物言わぬ学問ではないですか。科学は計測できないものなど何とも思っていやしませんからね。

■「科学」教の信者は少なくない■
そういうしだいで日本人のほとんどは宗教を毛嫌いしています。現代日本には無神論者が多くいるかに思えますが何のことはない「科学」教の信者なのです。科学は現代の神聖なるドグマの一つです。「科学的」ということと「正しい」ということは今や同義とみなされています。しかし、本当に同義か否かを検証したり反省したりする人は、ごくごく一握りの人たちではないでしょうか。

むろん、わたしたちは現代日本に生きている者として科学から多くの恵沢を享受しているので科学を全否定することはできません。さもなければ、アメリカやカナダに住んでいる、いわゆるアーミッシュの人たちのように現在も電気、水道、車など文明の産物を忌避(きひ)して数百年前と同じような生活をしている一群の人々のような暮らしをしなければならなくなるでしょう。科学を否定するなら、そこまでやりたまえ、とわたしは言いたい。

そうではなくて、科学の奴隷になってはいけないということを主張したいのです。科学に敗けてはならないのです。「科学的に証明された」となれば、それを無批判に受け入れ、そこで皆、それ以上、考えることを止めてしまう。いわゆる思考停止状態になってしまうのです。どこぞの怪しいカルト宗教団体と実によく似ているのですが、彼らはそれに気付いていません。わたしが無神論者と思える日本人のほとんどが実は「科学」教の信者であると主張するゆえんです。

わたしたちは科学を再度よくよく考え反省しなくてはならないと思います。思うに、わたしたちは科学は万能にあらず、ということを肝に銘じなければなりません。

■科学は万能にあらず■
科学という学問にとって一番、都合の悪い領域は何だと思いますか。それは心という領域です。繰り返しになりますが科学という学問をごく簡単に定義するならば対象物を数値に置き換えた上で、その値を測定する学問ということができます。この科学の方法論が大成功を収めて現在、人類は月にまでも行けます。

マテリアル(物質)に対する科学の方法論は、たしかに正しいでしょう。けれども、計測する対象を精神に向けると、たちまち間違ってしまいます。すでに述べましたが科学は君の哀しみなど何とも思ってはいないのです。君が涙を流し、打ちひしがれていても涼しい顔をして知らん振りを決め込む実に冷たい学問なのです。

なぜなら、科学は対象を数値に置き換えて計測する学問だからなのです。君の哀しみは数値化できますか。計測することはどうですか。科学は君の心という領域に一歩たりとも入れないのです。けれども、現在の科学は、やがて人間の心をも数値化して計測できるとまで自惚れています。

どういうことか。それはこういうことです。すなわち人間の頭の中にある脳を調べて、その全貌が明らかになれば心のメカニズム ―もし、そのようなものがあるならば― も理解できると考えているのです。つまり脳と心との間にはパラレルな関係があるという仮説を立てているのですね。換言すると心は脳に置き換えられる、ということです。科学は心を物質として捉えることができる、心の動きとは全くメカニックな動きにすぎぬ、と考えているのです。けれども、これは仮説に過ぎず実は科学的には間違っていることが、すでに証明されているのです。

心と脳は完全に照合し一致しているのか、というと実はそうではないことは科学的に証明済みです。けれども、なぜか科学者はそれを認めたがらないのです。証明した人物が哲学者だからです。科学者は、その証明は言葉の問題、つまり哲学の問題に過ぎず科学とは関係ないと主張するのですね。けれども哲学が要るか要らないかという選択もひとつの哲学に拠っています。

このように書くと誤解される惧れがありますので急いで申し添えておきます。それは、くだんの哲学者は書斎に閉じこもって机の上で論証したのではないということです。フランスの哲学者であるアンリ・ベルグソンという人物が証明したのですが彼は科学的な研究の結果、「科学的」に証明したという点が非常に重要です。彼は長い間、失語症の研究をしたのですが研究を重ねてゆくうちに心と脳は完全に一致し照合しているわけではない、ということが明確に判ってきたのであります。この研究については、ここでこれ以上、詳しく述べることはしません。興味がある方は、ちくま学芸文庫に収録されている『物質と記憶』という本をお読みください。著者は、もちろんベルグソンです。

■科学の方法論の限界■
わたしたちの悟性は存在するものは何時も空間を占めていると考えがちですが、そうではありません。一例を挙げましょう。自由は目に見えますか、形はありますか、質量はどのくらいですか。自由は目視できませんし、それゆえに形もありません。質量がどのくらいかは考えるだに愚かです。しかし、それにもかかわらず自由は厳然として存在します。

それと同様に心も目視できず色や形もありませんが厳然として存在します。何処に存在するのか、と問うことはできないのです。たしかに現代の科学は人類に便利さ、豊かさ、快適さを提供することに著しく貢献してきました。その点は大いに認めてよいと思います。しかし、世には数値化できないものもあるということを忘れてはなりません。それを忘れて無理をするから様々な問題が出来(しゅったい)するのです。

科学の方法論を色々とほかの分野に援用してはいけないのです。殊に目に見えない精神や心の分野はそうです。あまつさえ科学をよく知りもしないのに宗教を前論理的だといって色眼鏡をかけて見るべきではありません。考える前提が異なるだけです。誰であれ考える際に考える前提というものを持っています。この点に関しては宗教、無宗教の別を問いません。信仰者はその考える前提が無神論者とは違っているだけです。

科学という現代の神聖なるドグマはもう間もなく必ず綻びを露呈するに違いありません。気づいている人はもうすでに気づいているのだ。ちょうど戦時中に天皇が神として崇め奉られていて敗戦後に戦勝国の圧力に屈して自らの保身のために恥知らずにも人間宣言をしなければならなかったのと同様に。われわれは、この迷夢から ―否、悪夢かもしれませぬ― 一刻も早く覚醒しなければならない、とわたしは考えています。

■筆者コメント■
今回は弟ブログである“ヨシ樹の雑記帖”の記事に対する読者のコメントに書いたわたしの返事を科学という分野に絞って当ブログに再掲載いたしました。コメントに対する三つの返事をひとつの記事に編集し直して兄ブログである当ブログに改めてアップロードしたのです。いささか古い文章で、なお且つテーマが重要なので再度、掲載する意味は大いにあると確信しています。なお再び掲載するにあたり削除、加筆、変更等を施して小見出しを加えたうえでアップロードしたことをお断りしておきます。      

以上                                 
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