ヒゲジイのアル中患者よもやま話

朝から飲酒で廃人=死の淵まで経験してしまったヒゲジイの断酒中に思い浮かべた「よもやま話」。まだ、チョット変かな?

プロの清掃員に間違えられた?

2017-10-17 06:27:54 | 随筆
 信号機のある交差点は歩道・車道を問わず吸い殻のポイ捨てが多いところです。国道の交差点を渡りきった歩道側でそんなポイ捨てゴミを拾っていると、マスク姿のオバさんが声をかけてきました。私は首にタオルを巻き、鮮やかグリーンの作業用ベストを羽織っていました。

「あっち側の道に衣類らしいのが落ちていたよ!」と車道側の方向を指差しています。車の騒音もあってちょっと聞き取れなかったので、
「えっ、なに? どこですか?」と聞き返してみると、オバさんは顔からマスクを外して
「衣類のようなの。あっち方向の二番目・・・。」と向かい側を再び指差しました。マスクを外した顔を見れば私より大分年上でした。向こう側の歩道なら、ついさっき見回ったばかりで何も落ちてないはずですが・・・。
「二番目? ひょっとして車道ですか?」どうやら私をプロの清掃員と思い込んでいたようです。
「車道なら清掃車じゃないとできませんよ。国交省の管轄ですかね。私がやっているのは歩道だけで、生憎ですが車道は無理です。」
「そうぉ? せっかくだから教えてあげた方がいいと思って・・・。」

 オバさんは、せっかくの善意が無にされたとでも言いたげな、幾分誇らしげだった顔が気分を削がれた表情に変わって行きました。

 心ある人であれば、道でゴミが目障りなら自分で拾って始末するとか、自分の手に余るようなら役所に連絡するとか、ゴミに始末を付けてやるのが筋なのです。年寄りならそれぐらいの心配りは当たり前のはずなのに、呆れたことに昨今の年寄りは見て見ぬ振りを決め込むばかり。そんな人任せの風潮が嘆かわしくてゴミ拾いを続けている私なのですが・・・。

 件のオバさんは、清掃員に教えてあげた(?)つもりなのですからまだマシなのかもしれません。私の方と言えば、清掃員姿が板に付いてきたのでしょうか、本職並に見られたことに少し複雑な気持ちなのでした。



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アル症者がひきずる “自分の古い考え方” とは?

2017-10-13 06:29:18 | 随筆
 AAはアルコール依存症(アル症)者の共同体で、創始者ビルとボブ二人だけのミーティングから始まりました。彼ら創始者の勧める行動指針と考え方は次の言葉に要約されていると私は考えています。

「私たちは、自分がいつもどんなふうだったか、そして何が起こって、いまどうなっているのか、おおよそのところをはっきりさせる。・・・(中略)・・・
自分の古い考え方にしがみつこうとしている仲間もいたが、完全にその考えを捨てないうちは結果は何も生まれなかった。・・・(中略)・・・
ここに一つどんな力でも持っているものがある。それは神である。・・・(中略)・・・私たちは思い切って神に保護と配慮を願った。」
(『アルコホーリック・アノニマス』第5章より。下線部筆者)

 まず、二番目の一文の解釈から始めます。この一文がAAの勧める飲まない生き方の前提条件だろう、というのが私なりの解釈です。

 当初、“自分の古い考え方” とは潜在意識に根ざした考え方では(?)と薄々察してはいたのですが、具体的に何を意味しているのかわかりませんでした。助け船を出してくれたのは専門クリニックの主治医の言葉 “認知のゆがみ” でした。そして、“認知のゆがみ” による典型的な考え方が、何かにつけ “(自分は / で)~(し)なければならない” とする思い込みだと知ったのです。思い込み、即ち固定観念のことです。アル症者は大なり小なりこの “認知のゆがみ” を抱えている人々です。

 “自分の古い考え方” を知るには、過去から現在に至る自分の思考パターンを知ること以外他に手段がありません。その手っ取り早い方法が自分の酒害体験を語ることであり、自分史を綴ることだとは容易に理解できます。最初の一文はこのことを言っているに過ぎません。

 かつて勉強のできる子だった私には、「自分は何でもできるハズだから、自分でなんとかしなければならない」という思考パターンが今でも染みついています。この思考パターンでは、どうしても自由な発想が縛られて選択肢の乏しい窮屈な考え方になりがちです。こんな考え方でいると、解決すべき課題が増えるばかりで身動きできなくなるのも当然なのです。主治医のお陰でそのことに思い当たりました。
 
 AAの言う “自分の古い考え方” が “(自分は / で)~(し)なければならない” という思考パターン即ち “認知のゆがみ” だと解釈すると、回復への第一歩はそれを捨て去ることから始まることになります。固定観念に囚われさえしなければ自由な発想で選択肢の多い生き方も自然にできるようになる、そういうふうに解釈できるのです。

 後半に出て来るのが固定観念に囚われないためにはどうするかです。ここでは “神” が出て来ますが、自分の将来はすべて自分の意のままにしなければ・・・と執着する代わりに、自然の成り行き(神)に “お任せ” するという緩くて気楽な生き方を勧めていると解釈できます。どうなるかわからないのが将来です。そんなわからないことをクヨクヨ悩むのは “下手な考え 休むに似たり” なのです。

 “認知のゆがみ” は長年色眼鏡を通して培われた見方・考え方です。極端に言えば幻想に囚われている状態とも言えます。幻想から抜け出すには色眼鏡を外せばいいだけの話なのですが、偏った見方・考え方を矯正するのはそう簡単ではありません。ともすれば “なんとかして・・・を直さなければならない” となりがちですが、無理に矯正しようとすると元の木阿弥になりかねないのです。

 それではどうするか? ことがある度また色眼鏡で見ているのでは(?)と自覚してさえいればそれで十分。「♪ ケセラセラ~、なるよ~うになる~」と気楽でいればそれでいい。これだけで自然に変われるはず。やっと、こう考えるに至りました。

 AAには “神” に祈願する言葉があります。願い事は次の3つからなります。 

 ● 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 ● 変えられるものは変えてゆく勇気を
 ● そして、2つのものを見わける賢さを

 これらの言葉はお祈りの体裁をとっていますが、無理にしなくて済むよううまく配慮した言葉になっています。AAでは、これら3つをアル症者の目指すべき達成目標としているようです。

 私はこの言葉の意味に気づくまで3年掛かりました。ちなみに私は、この言葉とは別に “ありのままの事実を ありのままに受け止める” を1日1回念ずるようにしています。



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孫 変貌す!

2017-10-10 06:22:19 | 随筆
 いつの間にか秋の運動会シーズンになりました。私も先日、二番目の孫の運動会に行ってきました。少し離れた所に住んでいる長男の息子で、小学6年生なので小学校最後の運動会です。地元の少年サッカー・クラブに属し、練習やら試合やらで忙しい孫とはここ半年ばかり会えていませんでした。

 約束通り見に来たと一刻も速く伝えたくて、児童席まで足を運んでみたのですが、後ろ姿からは誰が誰だか分かりません。そこで思い切って名前を呼んでみました。ところが、一斉に振り向いたのは皆同じ色の帽子を被った顔なのです。やはり見分けがつきません。辛うじて微かに残る顔のアザが決め手になりました。

 アザがなければ恐らく分からないままだったろうと思います。それほど顔が変わっていました。ヨコに膨らんでいた丸っこい顔がタテに伸び始めたのか、心持ち細長の精悍な顔つきになっていたのです。

 昼食にはシートを敷いた父兄席に孫が合流し一緒に摂りました。いつもと違った場所柄のせいか、改めて間近で見た孫はまるで別人のようでした。

 ちょっとした仕草で見せる横顔や苦笑いしたときの口元が父親ソックリでした。以前なら、はしゃいで無茶喰いなどもして見せたものですが意外に小食でした。サッカー・クラブについて詳しく聞き出そうとしても、ネットのHPに出ているからそっちで見たら、と素っ気なく言うばかりです。孫はさっさと昼食を済ますと、そそくさと友達のところへ戻って行きました。

 幼い頃の孫は、わざと爺婆に悪さをやっては気を引こうとばかりしていました。そんなにまでして構ってもらいたがっていた子だったのに、なんとも素っ気ないこの変わりようです。つれないったらありません。これも青年思春期特有の照れ隠しなのでしょうか、いつの間にか孫は青年思春期に入ったようなのです。背丈も母親ぐらいまで伸びていました。

 午後のプログラムでは騎馬戦や組み体操、リレーといった人気種目がありました。孫としては見せ場のはずなのですが、残念ながら遠目では孫の姿を見分けられませんでした。昼休みに一緒だったお陰で身体の特徴をしっかり掴んだはずなのに、なにぶん体格の似通った子ばっかりなもので・・・。

 ちょうど孫ぐらいの歳の頃、私は宇宙関係の科学者を夢見ていました。農作業を手伝う傍ら、刈り取ったばかりの稲藁の束に寝転がり、私はよく空を眺めていたものです。澄み切った青空の奥に広がる宇宙を想像しては、心が吸い込まれる心地よさを楽しんでいました。

 孫は今どんな夢を持っているのでしょう。今度会ったら是非聞いてみよう、ついそんなことを考えてしまったヒゲジイでした。まさか、プロサッカー選手? それはないでしょう。



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“言いっ放し 聞きっ放し” の効用

2017-10-06 06:03:25 | 随筆
 私がAAに繋がって正味丸3年半が過ぎました。参加したての頃こそ、緊張感と好奇心から聞き漏らすまいと耳をそばだてていましたが、集中力が1時間も長続きするはずがありません。当時は記憶障害も酷い状態だったので、ミーティングが終わった途端、ほとんどが記憶に残っていない有様でした。

 これではもったいないと、帰宅後辛うじて記憶に残っていたことをメモし始めたのが10ヵ月目からで、ミーティング中うつらうつらしている方が心に話が響くと気付けたのが2年過ぎた辺りでしょうか。今ではミーティング中は目をつむり、聞くでもなしに話を聞き流すことにしています。(実際にうたた寝していることもあります、念のため)。

 まだまだ経験不足の私ですが、つくづくAAが奇特(?)と思わされたことは “言いっ放し・聞きっ放し” のミーティング・ルールです。

 目をつむり聞き流すように体験談を聞いていると、時に様々な “気づき” があって自分の世界に没頭させられます。そしてなんとも言えない清浄な気分にもさせてもらえます。まどろむほどに寛いだ気分になればなるほど、却って “気づき”  が深まるのも不思議です。

 恐らく瞑想状態とは、こんなときのことを言うのでしょう。この時に脳波を調べてみれば、少なくともα波を、ひょっとしたらθ波をも検出できるかもしれません。α波は瞑想状態やリラックスした状態で、θ波は深い瞑想状態やまどろみの状態で、それぞれ検出される脳波だそうです。

 もしAAに  “言いっ放し 聞きっ放し” のルールがなかったら、こんなに盛んな集会となることはなかったでしょうし、他の依存症にも自助グループが派生するなどなかっただろうと思います。そう考えるに至ったのは次のような経験があったからです。

 以前、専門クリニックの教育プログラムで、一度だけ質問・コメント有りのミーティングに出たことがあります。教育プログラムでも具体的テーマ設定があって、いつもは “言いっ放し 聞きっ放し” のルールで患者に簡単な酒害体験を語らせるのですが、その時に限って相談員の司会者だけに質問・コメント可としたのです。

 司会者と話し手のやり取りを聞いていると、その場の空気がどうしても普段と違って行きました。どうやら聞き手側の気が散っていたようなのです。

 私などは、好奇心から質疑応答の方に気を取られ、自分の酒害体験の掘り起こしが疎かになりました。聞いたばかりの話についても質疑応答分だけ印象が薄まっていきました。そんな散漫な気分に加え、私自身も質問に備えて多少身構えたところがあったようです。このことは他の出席者も似たり寄ったりで、ミーティング後の顔つきでそれとわかりました。結局、集中力散漫となった分だけ何とも味気ないミーティングだったと記憶しています。
 
 話し手の立場からすれば、たとえ質問・コメント有りでも気持ちの持ち様はほとんど変わりません。質問に備える必要のないAAでも、聞き手を目の前にして話すという点では同じで、独り言とは全く違う外向けの論理立てに気を使わねばならないのです。

 こう考えてみると、“言いっ放し 聞きっ放し” の要であるのは、どちらかと言えば “聞きっ放し” の方ということになります。どうやらミーティング中余計なことを考えずに自分の世界に没頭できるのは “聞きっ放し” のお陰のようなのです。

 ミーティングでうつらうつらするのも瞑想状態に入っていた証でしょうか、単なるうたた寝ではなかったのだと自分勝手にこじつけし、意を強くしている私です。



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93歳のスーパーウーマン

2017-10-03 06:38:42 | 随筆
 このところ鎌を操って草取りをやっている高齢の女性をときどきバス通りで見かけ、その度に挨拶を交しています。夏の盛りでも長袖シャツに軍手、ゴム長靴、そしてつば広の帽子という出で立ちで、道端に生えている雑草相手に体力を消耗する草取り作業を黙々としているのです。それが何とも不思議でした。

 ゴミ拾いの途中、バス停のベンチ近くの植え込みで、たまたま作業中の彼女が見えました。一服がてらベンチに腰掛け、これ幸いと彼女に話しかけてみました。

「私なんか、しゃがむのさえ苦痛なのに、しゃがんだまま動いたりする草取りがよくできますね!? よっぽど足腰が丈夫なんですねぇ?」と私。
「実はこれが一番楽で、家で家事しているよりマシなのよ。」と彼女は答え、続けてこんなことを話してくれました。

 彼女は元来腰痛持ちで、5年前に受けた2回のブロック注射のお陰で痛みは取れたものの、今でも手押し車ナシでは歩くのも難しいのだそうです。歩くのとは違ってしゃがむのは苦にならないので、阪神大震災後に始めた草取りを今でも続けていると言うのです。土に触れるのが癒やしになるのでしょうか? 道の草取りは家事より楽でいいと言った彼女の言葉が意外でした。

 「おばさん、今いくつ?」と歳を聞いたら「93歳!」何と私より27歳も年上でした。

 確かに顔は皺だらけのシワクチャで、体つきも肉が落ちてやせ細ってはいるのですが、頭ははっきりしています。しゃがんだままで苦もなく動き回ることができ、長時間しゃがんでいても難なく立ち上がれるのです。白内障の手術を受けてはいるものの、ミシンで裁縫するのが得意で、リュック一杯分もの小物入れを作っては、手押し車を押し押し歩いて3km先の福祉施設に寄贈してもいるそうです。

 彼女ほどの高齢者なら、身体のあっちが悪いのこっちが痛いのという話になりがちですが、別にそんな話は出ませんでした。地味ながら、道の草取りも立派な社会貢献の手本となります。何もしないで文句ばっかりのそこらのジジ・ババとは大違いなのです。

 しゃがむのが苦痛で、たとえ手すりがあっても和式トイレで立ち上がるのにも難儀している私です。そんな私から見たら、彼女はまさに驚異的な高齢者と映りました。私が目指すべきは、社会参加しながら健康寿命を延ばし続けている彼女のような高齢者なのです! そう考えさせられました。

 彼女の夫は柔らかいものしか食べられない状態と言い、
「今日の夕飯も“おじや”よ!」と言って笑っていました。
恐るべし、93歳のスーパーウーマン!



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