私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史捜査 もうひとつの真田丸

2016-12-20 16:41:21 | 歴史探索
 12月20日(火)   天気:雲地のち晴れ   室温:16.5℃

 大河ドラマ 「真田丸」 は 18日で 終わりましたが 最近 テレビで 真田信繁関連の番組が 続いて
います。 「片岡愛之助の歴史捜査」 で  ”もうひとつの真田丸” が 放送され 「歴史秘話ヒストリア」
で ”真田丸を掘る” が 放送され ニュースでは 信繁の死に際に関する文書が出てきたとか・・・。
 きょうは 12月15日 BS日テレの ”片岡愛之助の解明! 歴史捜査 大坂の陣 2時間スペシャル
新発見! もうひとつの真田丸 信繁の勝算 と 誤算” を アップします。
 9月の歴史教室の「大坂の陣」 や 12月の歴史教室の 「後藤又兵衛の生涯」 では 出てこなかっ
た 新しい情報が出てきます。

番組案内には
 大坂の陣に迫る。 少ない兵で 徳川家康を切腹寸前にまで 追い詰めた といわれる真田幸村こと
 真田信繁は どんな作戦を立てたのか。 難攻不落といわれた大坂城は 北に 淀川、西に 上町
 台地、東に 大湿地帯がある要害に位置し 信繁は 手薄だった南側を守るために 真田丸を造った。
 
 話は 奈良大学の教授・千田さんを中心に 進められます。 慶長19年10月 信繁が 大坂城に入り
ます。 大坂城には 牢人が集められ 大坂五人衆といわれる 真田信繁、明石全登(キリシタンで 
浮田秀家のもと家臣)、長曾我部盛親(土佐 長曾我部元親の四男)、後藤又兵衛(黒田官兵衛・長政
の元家臣)、毛利勝永(豊前小倉6万石 毛利勝信の子)らがいます。 兵力約10万人。

 秀吉が 大坂城を造ったとき 家康に 内堀、中堀、外堀があり 守りが堅固なので この城を攻め
るには 堀を全部埋めるしかないわ というのです。 これが あだとなる・・・。
 大坂城は 北に 淀川、西に 上町 台地、東に 大湿地帯がある要害に 位置し 弱点は 南側のみ。
大坂城に籠城して戦うには 南側の防御が 重要になります。 信繁は ここに 出城・真田丸を築きま
す。 位置は 家康が 陣をはった茶臼山と 大坂城の中間辺りです。

 大坂城の北にある大川(旧淀川) は 大阪湾に通じていて 武器や 食糧の補給路になっていました。
下の真田丸の模型は むかし真田丸があったとされる所にある 明星高校の有志が 作ったものです。

 冬の陣では 真田丸での活躍で 徳川軍に大被害を与えますが・・・。 信繁が 和睦は なりませぬ!
家康に騙される と言うのですが・・。 大河ドラマを見ていても 大蔵卿局(大野貞長の妻・茶々の乳母?)
が 出しゃばって 和睦を結び 堀を埋められ 大坂城は 丸裸に・・。 慶長19年12月19日 和睦。
 真田丸も 取り壊されてしまいます。  和睦後 夏の陣まで いろいろありますが・・・。
信繁が 徳川方へ寝返ったとのうわさも流され・・。 テレビでは 知謀とか 調略などの言葉が 出ていました。

 秀頼が 牢人たちに 褒賞を与えたため 浪人たちは それで 武器を買いあさり 徳川方に戦いの
口実を与えることになり 夏の陣へ突入。 堀は 埋められ 真田丸は 取り壊されたので 野戦で
戦うしかありません。 
 奈良街道を 南下する徳川軍と戦うには 狭い山の鞍部を通るところで 戦うのが 最善。 これが
道明寺の戦い。 戦いの前日 信繁、毛利、又兵衛の三人が 明日 早朝 ここで 落ち合って 戦お
うと 分かれますが 翌日は 濃い霧で 信繁と毛利勝永は 到着が遅れます。 又兵衛は 二人の
軍の到着を待たず 勝手に 一人で 徳川軍に突っ込んで 討死。 又兵衛は 何を考えたのでしょう。

 道明寺周辺は 古墳が 密集しています。 千田先生は 岡ミサンザイ古墳に 真田丸と同じような
陣が 築かれていたとおっしゃいます。 東から攻めてくる徳川軍は 狭い古墳の間を 抜けるしかな
いので それを 討つという作戦を 立てていましたが・・・。

 本格的な夏の陣になります。 徳川軍15万:豊臣軍5万。 信繁は 冬の陣で 家康が陣をはった
茶臼山に 陣をはります。 千田先生は この茶臼山が もうひとつの真田丸だった と言われます。
 西には 岡山(御勝山) があり ここにも 陣がおかれ 茶臼山と 岡山の間には ガケ(空堀)が 造
られていたようです。

 茶臼山に 信繁、岡山に 勝永、その中間に 大野が 布陣し 徳川軍を迎え撃つという作戦でしたが・・・。
戦いの途中 大野治長に 秀頼に出陣要請するため 大坂城へ向かわせる・・・。 大野は 千成瓢箪を持っ
て行ったため 大坂城では 真田(豊臣軍) が 敗れたと 勘違いし・・。 秀頼が出陣すると 現場の士気が
一気に上がるのですが・・。 こうなれば 信繁としては 家康の首だけを 狙うしかない・・。

 勝永が 小競り合いを起こし 徳川軍が 集まってきたとき その背後の敵陣のうすいところを狙って
一気に 家康の陣めがけて・・。 ところが 勝永は 本気で戦い始め 大混乱。 信繁は 家康めがけ
突進しますが あと一歩というところで・・・。

 信繁の死に際についても いろいろあるようで 池波正太郎の小説では ワシが 信繁じゃ 首をとって
手柄にするがよいと 首を差しだしたとか・・。 最近 出てきた書状では 槍と槍で 戦って 討死したとい
う話もあるようです。 大河ドラマでは いかにも 切腹するような そぶりを見せていますが 腹を切る場
面はありません。 はっきりと 切腹した場面を 描くことは できなかったのでしょう。 秀頼と 九州へ逃げ
たという話もあるし・・・。
 先日は 後藤又兵衛の死に際に関して 書かれた書状が 発見されましたが・・。  秀頼様から賜った
この脇差で 首を切って 秀頼のところへ持って行ってくれ・・。

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