私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室9 「高砂・堀川めぐり」

2017-09-12 16:06:42 | 歴史探索
 9月12日(火)   天気:曇り のち 晴れ    室温:29.6℃

 きょうは 久しぶりの公民館の歴史教室です。 今月は 元城郭研究室長の中川 秀昭さんの
「高砂・堀川めぐり」 です。 公民館だより9には 「申義堂」 とあったので 事前に 申義堂を調
べて 出席したのですが 江戸時代 姫路藩の池田輝政らにより 建設された 高砂城周辺の
説明でした。 10月には 実際に 高砂を訪れ 現地で説明されるそうです。
 先生は 「姫路城をを歩く?」 という本を出版されるそうで いま 校正などで 大変 忙しいそう
です。
追記:9月15日の新聞に・・

1.高砂・堀川
 〇慶長6年(1601) 池田輝政は 加古川改修による 新高砂港を建設、さらに 堀川の開削、
  収納米蔵(百閒蔵)を設置し 港の機能を整えた。
  百閒蔵:南蔵、北蔵からなる。 4斗俵で9万俵の米が 収納可能。
 〇慶長10年(1605) 池田輝政は 播磨の海の守りを固めるため 高砂城を築く。
  高砂神社を 西北の森に移し、普請を 中村正勝に命じ 本丸は 東西51間、南北70間を配す。

 15日(金)の新聞に ”歴史 照らす”の見出しで 「たかさご万灯祭」 が催されると載って
いました。 出汐館、十輪寺本堂、申義堂辺りが ろうそくで ライトアップされるそうです。

 〇元和3年(1617) 本多忠政は 元和元年の一国一城令で 高砂城が廃城になった後 町割りを
  行い 塗材382間、南北360間の市街地をつくりだす。(高砂28町十寺町)
   武家諸法度:諸国居城 修補を為すと雖も 必ず言上すべし 況んや新儀の構営 堅く停止せしむる事
  また 寛永3年(1626) 高砂神社を 元の場所に戻す。
     -市街地は 計画的に建設された碁盤目状で 高砂町の原型となるー


2.十輪寺
  弘仁6年(815) 弘法大師が 嵯峨天皇の勅命により 鎮護国家や 航海安全の祈願所として
 創建され 地蔵菩薩を安置し 「地蔵山十輪寺」 と称す。
  建永2年(1207) 法然上人が 後鳥羽上皇から流罪を申し付けられ 四国・讃岐へ流される
 途中に 高砂の浦に上陸、老漁夫八田次郎太夫夫妻を教化、村民に歓迎され 中絶していた十輪寺を
 中興開山し それ以降 真言宗から 浄土宗に改宗。
  大永7年(1527) 堺の十万上人が 讃岐・生福寺に詣で 法然上人の自画像の 「宝瓶の御影」を
 得て 帰途 十輪寺に帰納、 以来 「地蔵山」 から 「宝瓶山」 と改められた。
  境内には 文禄元年(1592) 秀吉の朝鮮出兵で 挑発された高砂の水子(かこ) 100人のうち
 96人が溺死。 その菩提を弔うため 江戸時代に建立された 宝篋印塔がある。
 また 旧高砂城主・梶原景秀の墓や 美濃部秀芳(元東京都知事 美濃部達吉の祖父)や 工楽松右衛門の
 墓がある。
 
3.申義堂
 設立は 文化年間(1804~1818) 姫路藩・家老 河合道臣が 岸本吉兵衛(高砂の木綿問屋) に
 命じ 創立。 姫路藩が 半分支出、岸本吉兵衛が 土地・建物を提供。 町民の子弟 10~15人。
 四書五経など 中国の古典の素読、進歩したものは 会読や子供同士で 講義。
 教授は 菅野真斎、三浦松吉、小林梧陽、美濃部秀芳、菅野白華
 明治4年(1871) 廃校。 岸本家に払い下げ。 廃校後は 加古川に移築されていたが 平成24年
 高砂町横町に 復元された。  屋根に 「飾瓦六角露盤」 (忠義区の故事に由来) がある。

4.高砂神社
 ・祭神:大己貴命、素戔鳴命、奇稲田姫命
 ・神功皇后が 外征のとき 大己貴命の神助を得て 敵を平らげられた。 帰国の途中 この地に船を
  寄せられ 国家鎮護のために 大己貴命を 祀られたのが 高砂神社の始まり。
 ・天禄年間(970~972) 国内に疫病が流行し 神託により 素戔鳴命、奇稲田姫命を あわせ
  祀ったところ 疫病が収まったので 人々は お礼参りをしたという。
 ・『高砂や~この浦舟に帆を上げて・・・』 と 古くから めでたい謡曲 「高砂」 で 有名。
 ・慶長10年(1605)に 池田輝政が 高砂神社を移転させ ここに 高砂城を築いたが 元和元年(1615)
  の一国一城令で 廃城となった。 元和3年(1617) に 伊勢・桑名から 姫路に転封になった
  本多忠政が 寛永2年(1625) に 高砂神社を元に戻し 「相生の松」 を境内に植えた。
 ・相生の松:高砂神社を創建して間もなく 生い出た一本の松。 その松は 一つで 雌雄の幹左右に分かれ
  神木霊松と称えていたところ ある日 「尉と姥」 の二神が現われ 「我は 今より神霊をこの木
  に宿し 世に 夫婦の道を示さん」 と告げた。 これより 人は この松を 「相生の霊松」と呼ぶ。
   相生とは あいともに老いる と言う意味にもなり 縁ある人との出会いを大切にし 夫婦愛と
   長寿の願望をあらわしている。  松くい虫の害などで 現在は 五代目松。
 ・工楽松右衛門の銅像:寛保3年(1743) 高砂の漁師・宮本松右衛門の子として 生まれる。
  18世紀末まで 厚い帆布を織ることができなかったが 松右衛門は 太い丈夫な帆布の制作に 成功。

<参考>
 [姫路藩の教育]
 ・藩校・好古堂
   元禄5年(1692) 酒井忠挙が 前橋範・藩校として設立。 寛延2年(1748) 酒井家の姫路転封
  に伴い 好古堂を 城下の総社門内に置いた。 対象は 8歳以上の姫路藩士の子弟。
 ・仁寿山校
   文政4年(1821) 河合道臣は 城主から賜った山荘の地に 私塾・仁寿山校を開校。 廃校となる
  まで 多くの有意な人材を 世に送り出した。
 ・郷学(郷校):半官半民で 設立された庶民のための学校。
  ・申義堂(高砂北本町):設立は 文化年間(1804~1818)
  ・熊川舎(姫路元塩町):設立は 申義堂と同時期と言われる。
  ・国包郷校(国包村・現加古川市): 天保4年(1833)以前に 三谷伊左衛門が 中心となり
   設けられた郷校。
  ・寺子屋:従来(中背う期末頃まで)は 僧侶、神官が 地域の基礎教育の中心を担っていた。

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