大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、平成17年リタイア後ブログをはじめました。

嵯峨野散策

2017年05月17日 | 高齢者大学
昨日、高大歴考同窓会の例会で嵯峨野方面へ。
阪急梅田駅9時集合、例の如く定刻前に全員(男女各5人)集合し予定より早い9時発の特急で出発。
桂で乗り換え嵐山駅からバスで愛宕寺前下車すぐの愛宕念仏寺へ。
降りますと少しヒヤッとします、京の避暑地としてかつて栄えたそうです。

立派な仁王門に迎えられ境内へ。
すぐに急な石段と多くの羅漢像が目に飛び込んできます。

愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)
奈良時代、聖武天皇の娘称徳天皇によって山城国愛宕(おたぎ)郡(現在の東山松原通)に寺を建立、愛宕寺と呼ばれる。
鴨川の洪水で全て流され廃寺となるが、平安時代天台宗の僧千観内供(念仏上人)が復興し愛宕念仏寺と呼ばれる。

大正時代に入り堂宇保存のため今の地に移築され、嵯峨の愛宕念仏寺として再興されたが、戦時中無住寺となり昭和25年の台風で甚大な被害を受け廃寺となる。
昭和30年仏像彫刻家西村高朝が住職を拝命し清水寺貫主大西良慶の援助を得て復興。
その際、復興に賛同した人々の手により彫られた1200体の石造の羅漢が境内に並び、訪れる人々の心を和ませ癒しの寺として親しまれ、また火除地蔵菩薩や厄除千手観音が祀られていることから火の用心や厄除けに霊験あらたかとして信心されている。

次の訪問地化野念仏寺へ下りますと左右に萱葺の民家が点在、鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区です。
愛宕山頂に近い愛宕神社への参詣道にあたり、その一の鳥居付近に集落が形成され宿場町として栄えた。

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
約1200年前、弘法大師が如来寺を開創され、野ざらしであった遺骸を埋葬された。
その後法然上人の常念仏道場となり現在に至る。

境内に祀る八千体を超える石仏・石塔は、昔風葬に地であったこの辺り一帯に葬られた人々のお墓であったが、何百年を経て無縁仏となり化野の山野に散乱埋没していた石仏・石塔を明治中期地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。

8月23・24日に行われる千日供養は地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり多くの参詣がある。
短い距離ですが誰も歩いていないひっそりした竹林の小径も風情がありました。

近くで昼食を摂り嵐山までゆっくり下山。

途中、平清盛の愛妾であった祇王が清盛の心変わりにより都を去り、母と妹と共に出家・入寺した悲恋の尼寺として知られている祇王寺と
平重盛(清盛の息子)の部下で滝口武者の斎藤時頼が建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛の美しさ、舞いの見事さに一目惚れする、しかし時頼の父に反対されいったんは思いとどまるが、これは仏道への手引きである、として出家した往生院(現在の滝口寺)へ立ち寄り、また通行人は全て外国人ではないかと思われる竹林の道を通って嵐山へ。

皆さん1万歩以上のウオーキングでお疲れでしたが、ソフトクリームで息を吹き返し嵐山駅から帰途に。
私にとっては、化野念仏寺へは行きたかったところで天候にも恵まれ、青紅葉の中とても爽やかで楽しい旅でした。
幹事役の第1班の皆様有難うございました。
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