ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「娘は宇宙飛行士」

2008-12-12 07:11:03 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「娘は宇宙飛行士」という本を読んだ。
言うまでもなく1999年エンデイバー号で14日間の宇宙飛行をした日本人初の女性宇宙飛行士・向井千秋さんの母親の話である。
宇宙飛行士というような、誰でも彼でもおいそれとなれない人になるには、本人の努力もさることながら、親の影響も大きく左右しているに違いない、ということは十分に察しがつく。
「何事も成せばなる」というのも、ある程度までは真実であろうが、本人の努力だけではおよばない何かがあると思う。
ただ金さえ儲ければいいという単純なものならば、本人の努力だけで何とか納得出来るところまで上り詰めることも可能であろうが、宇宙飛行士ともなると、本人の意志や気持ちだけでは何ともならない関門が幾つもある。
それを一つ一つクリア―していくについては、恵まれた資質が要求されるわけで、その恵まれた資質を形成するには、持って生れたものそれを上手に育む環境が不可欠だと思う。
そういう条件を全部クリア―して始めて、宇宙飛行士という頂点にたどりつくものと考える。
私は自分の生い立ちから鑑みて、人間の人格形成には両親の薫陶が極めて大きく左右するものと考える。
俗に、「トンビが鷹を産む」ということもあるが、普通の人間の営みでは、そんなことが頻繁にあるわけはない。
宇宙飛行士ともなれば、英語が出来るだけでも駄目だろうし、頭が良いだけでも駄目だろうし、人格温厚なだけでも駄目だろうし、その総合的なバランスが要求されているものと思う。
ただ夢を持って、その夢を追い掛けて努力すれば夢は実現する、などと子供だましの説教は通用しないと思う。向井千秋さんの母親・内藤ミツさんと、父親・喜久雄さんは、この本を読み終わった後の感想としては、どこにでもあるちょっと異質な夫婦という感じである。
母親は店を切り盛りして、父親は学校の先生ということで、押し並べて言えば、ごく普通の市民という感じである。
ただこの本で強調されていることは、親が子供に対して善悪の見極めをきっちりと伝えている点であろう。
母親の威厳を惜しげもなく振りまいて、善悪の見極めでは子供に妥協しないという点ではないかと思う。
そのことは子供を愛していないということとは全く違うわけで、子供が世間に出て恥をかかないように、という愛のムチなわけで、それをわからせるためには苛酷とも思われるお仕置を辞さないという態度である。
親が子を育てるにおいて、このことこそ本当の子育ての基本であり、それを経た子供たちは極めて幸せだと思う。
子供が成長して親を超えるのは当然のことで、それこそ自然界の法則、摂理そのものであろう。
子が親を乗り越えて一回りも二回りも大きくなるとき、幼少の時受けた親からの薫陶は、その子の大きな財産となるわけで、そういう財産を授けられたからこそ、その上に本人の努力が接木されて、その力が級数的に大きくなるのではなかろうか。
親を乗り越えるという場合、その親の置かれていた環境ということも極めて大きな要因だと思う。
親が貧乏で、子供に十分なことができなかったというケースも世間には掃いて捨てるほどあるが、そういう子供はやはりそれだけチャンスが少ないことは歴然としているわけで、人が生きる目標というのはなにも宇宙飛行士になることだけではないはずだから、そういう人はそういう人にあった選択をすればそれはそれでいい。
しかし、世に名を成すには本人の努力が欠かせないことは当然のことで、本人が努力をする環境を整えるというのも、ある意味で親の責任だと思う。
家が貧しくて、子供の労力までかき集めなければ生計が成り立たないようでは、本人の努力にも限度がある。
そういう意味で親の資産が潤沢にあって、勉強のできる環境が整っていたというのも、本人の努力に大いに貢献する要因だと思う。
ただ昨今では女性でも高等教育を受ける人が多くなって、その意味では向井千秋さんもその渦中の一人であるが、女性が高等教育を受けると、自然の摂理に疑問を持ち、その自然を打ち負かし、自然に逆らい、自然を克服しようとする。
それはそれでいた仕方ない現象であるが、問題は、それに論理で整合性をもたせようと、自分勝手な思考を巡らすようになることにある。
女性が高等教育を受けて職に就く、そして子供が出来るとその赤ん坊を社会全体で面倒を見よ、という論理になるが、古い人間からすれば「自分で好きなことをしておいて、その後始末を社会でせよとは何事か」という論理になる。
女性が高等教育を受けるのは本人のかって、職に就くのも本人のかって、子供をつくるのも本人のかって、さんざん勝手なことをしておいて、子供ができたらその世話を社会全体でせよ、とは明らかに本人の我儘であって、その我儘を黙って聞くとは一体何事かと私は思う。
ここにあるのは学歴至上主義と拝金至上主義なわけで、学歴を得ることで勝ち取った目の前の金の成る木を手放したくないという我儘にすぎない。
高等教育を受けるのも金のため、職に就くのも当然金のため、自分であまりにも金、金と固執しては心がわびしいので、たまには男と寝る、その結果として子供ができると、自分自身は金蔓が絶たれるわけで、それでは困るから世間全体で何とかせよ言われても、あまりに虫のいい要求ではなかろうか。
女性が高等教育を受けることは大いに結構なことで、その女性が学んだことを社会に還元するという意味で職に就くことも大いに結構なことである。
給料が多ければなお結構なことである。
だが自分の子育ての期間ぐらいは、少々実入りが減っても、それを我慢して、我が子の養育に専念し、子育を終えてから再度社会復帰すれば何ら問題はない。
ところがそうすると子育ての間の給料が目の前にちらついて、損をしたような気になるものだから、自分の赤ん坊を他人に面倒みさせようとするのである。
こんな発想は、我儘の典型的なものだが、世間の理解ある人々は、こういう個人の我儘を奨励する方向に向いている。
世間に名の知れた人で、「そんな我儘を許すな」と叫ぶ人は全くいないわけで、なんとなく働く女性のための育児施設を作ることはいいことだ、という雰囲気におされぎみである。
こういう風潮だから、個人の我儘と本当の不合理の見境が限りなく不透明になってしまって、行きつく先が倫理の破壊ということになる。
我が身に何か不都合があると、それを他人、他者の所為にする風潮というのが、こういう綺麗事だけを並べて、個人の我儘を我儘として糾弾しないところからきていると思う。
向井千秋さんのお母さんという人も、本人が受けた教育という面では、そう大したことはないが、その分自然の母親という感情をまる出して、自分の家族に対して無償の愛を貫いたわけで、それは頭で頭脳を使って考え抜いた行為、行動ではなく、人間としての本質的な自分の子供を愛するという自然の振る舞いであったわけである。
その過程の中で、子供のために、その子たちが成長した暁に社会にすんなり順応できるように、ミニマムのモラルを叩き込むことに、母親としての威厳を最大限使ったというのが、この母親の偉いところだと思う。
普通の親ならば程ほどのところで妥協してしまうところを徹底的に押し切ったという点が素晴らしい。
とはいうものの子育ては実に難しい。子育てを終わった今でもつくづくそう思う。
親の心子知らず、その逆も又真であって、子供は親の思う通りには全くなってくれない。
人間社会はそれだからこそ進化し続けてきたのかもしれないが、親として子供のためと思ってしたことが全部裏目に出るということも、往々にしてあると思う。
ただ不思議な事に、人間というのは裕福な社会になると、後は下降線をたどるものらしい。
それは過去の人類の歴史が歴然と示しているわけで、太古から今日まで、いつも右肩上がりで来た民族はいないわけで、すべての民族が最盛期を過ぎると下降線をたどり凋落している。
だとすれば、日本もアメリカもこれから先、今まで通りの右肩上がりの成長はありえないということで、今が終末期、世紀末であったとしても何ら不思議ではない。
人間が自然の摂理を冒涜して、人間がつくった薄っぺらな真理もどきの知識に溺れ、自分で自分の首を絞め、自分で天につばを吐いてそれが顔に落ちるのを眺めている図である。
人は皆等しく同じ生存権というものをもっているのだから、差別は罷りならぬという考え方なども、明らかに自然を冒涜した思考だと思う。
人は自分の意志でこの世に出てくるわけではない。
ならば、この世から去る時も、自己の意志とは無関係に死ぬケースも、つまり病気、事故、戦争、その他さまざまな理由で命を落とすケースも多々あるはずだ。
ところが現代の知識に塗れた人間が、それを自然の摂理とは思わないわけで、示威的な殺人とみなして誰かを犯人に仕立て上げなければ気が済まないのである。
人は自分の意志で生まれてくるわけではないのに、死ぬ時は自分の意志で死ねば納得するかといえば、自殺は逃避だなどと勝手なことを言う。
人は自分の意志で生まれて来たわけでもないのに長生きは目出度いなどと勝手なことを言っている。
自分の意志で生まれてきたわけでもないこの世に、サッサと見切りをつけようとすると、自殺の防止などと勝手なことをする。
人は自分の意志でこの世に生まれ出たわけでもないのだから、長生きは自然の法則に反しているのではなかろうか。
話を元に戻すと、向井千秋さんは日本で最初の女性宇宙飛行士ということであるが、人間の能力は基本的に性による優劣はないものと私は思う。
ただ性による体の構造の違いというのは何人も克服できないので、その部分を考慮するということは、人として当然であるが、女性だから宇宙飛行士になれない、できない、してはならないという発想は、人間を冒涜するものだと思う。
昔の軍隊というのは、どこの国でも男の世界で、男だけの職場、集団であったが、昨今では女性の戦闘員も出現している。
特にテクノロジーが発達して、戦争そのものがボタン戦争と化し、重い荷物を背負って原野をかけ回るような古典的な戦争はこの世からなくなってしまった。
あるのはコンピューターで管理されたゲーム感覚の戦争なわけで、これならば女性でも容易に順応できる。
大の男が、ちまちまとスティクやマウスを弄り廻さなくても、女性のしなやかな手で十分である。
向井千秋さんの宇宙飛行士の仕事というのも、その手の仕事なわけで、筋骨隆々としたマッチョな男でなくてもできるからこそ、そういう仕事が女性にも開放されてきたに違いない。
今の地球上には極めて未開な民族がまだまだ大勢いる。
アフリカや南米、中国奥地やエスキモー、ネイテイブ・アメリカン等々物質文明から隔絶された人々がいるが、こういう人たちも赤ん坊の時から日本人やアメリカ人や、イギリス人や、ドイツ人と同じ教育を授ければ、成人した時の優劣はほとんどないと思う。
だから、向井千秋さんのような人が出るというのも教育の結果であって、その意味からすれば、公教育の充実というのは民族の根幹にかかわる問題だと思う。
ところが社会が豊かになると、労しなくても食うだけならば食っていける環境が整ってしまうわけで、そこでその現状に浸りきって、向上心を失ってしまう人が出てくるのである。
我々は過去の経験から、教育が人間の人格形成に極めて重要だということは理解しているが、これが教育に携わっている人にかかると、教育のための教育になってしまうのである。
偏差値というのは、教育のための教育を、数値化してあらわすことだと思う。
教育の目的は、読み書きそろばんを教えることに尽きるはずであるが、今の日本の公教育というのは、偏差値の優劣を競い合う場と化し、人格形成の部分を蔑にしているにもかかわらず、父兄はそれを公教育に求めている。
基本的には、子供の躾というのは親が我が子にすべきもので、公教育の場ですべきことではないはずである。
公教育というのは、純粋に読み書きそろばんを教えることに徹し、先生をクラブ活動の指導だとか、生活指導などという雑用から解放すべきだと思う。
クラブ活動などというものは本来、趣味の範疇で、地域のボランテイア―が教えるべきものであって、教育の一環にすべきことではないはずである。
本来の公教育は、先生をすべての雑用から解放して、その分、読み書きそろばんの基本をしっかり教えることに傾注すべきである。
先生も、如何に生徒の頭脳にインプットさせたかで評価されるべきだと思う。
いくら先生が一生県命教えても、それを受け入れる側には個人差があって、優劣が出ることは自然の摂理であるから、その優劣は問題ではない。
日本人の向上心というのは、その優劣にこだわりすぎると思う。
だから偏差値などという個人の能力を数値化して一喜一憂しているのである。
昔と比べて教育を受けた人間が多くなれば、世の中の犯罪は減らなければならないのに、決してそうなってはいないではないか。
犯罪者の学歴について詳しく知るわけではないが、メデイアの報ずるところから推察すると、経済事犯の大部分は、大学出の犯人ではなかろうか。
こういう背景から考えると、大学はもっともっと学生に倫理や道徳を教えなければならないのではなかろうか。
慶応大学の大麻所持の件でも、一体大学はどうなっているのかと問いたい。
大学生にもなって、して良いことと悪いことがわからないということはあり得ないわけで、知っていてしたとなれば確心犯であって、完全に犯罪者である。
だとすると、こういう人間を学生と認めた大学は一体どうなっているのかということになり、その親は一体どういう子育てをしたのか言うことになる。
明らかに向井千秋さんの母親・内藤ミツさんの言う、親の威厳で子を諭すことをしてこなかった、ということであろう。


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