575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

父、竹中皆二の短歌から ~老松(おいまつ)~竹中敬一

2017-07-14 08:47:34 | Weblog

  老松に渡らふ風のひびきあり うば玉の夜にわれはきくかも

福井県小浜市阿納尻(あのじり)にある私の生家近くの村有地に、父の初期の代表作、
老松の歌碑があります。歌友によって、父が存命中の昭和59年(1984)に建てられました。
牧水風で言葉の響きがよく、朗詠に向いているように思います。父はよく牧水や
自作の歌を朗詠していました。

私の生家「いるかや」は、内外海(うちとみ)半島の根っこに昭和7年に建てられました。
今でいうコンビニです。「いるかや」という屋号は、家のすぐ前にあった「いるか地蔵」
からもらって、父が名付けました。
私の家の裏に広がる入江では以前、天草がよく採れました。天草は寒天の原料になるため、
村人のよい現金収入になりましたが、時々、イルカの群れが現れ、天草を食い荒らしました。
こんな時、お地蔵さんにお参りますと不思議とイルカの群れは入江から去ったと云います。
それで、いつの間にか、このお地蔵さんを「いるか地蔵」と呼ぶようになったとか。
また、雨乞い地蔵としても崇められています。

「いるか地蔵」の傍には、樹齢500年という一本の大きな老松がありました。私も幼い頃、
強い風が吹くと枝枝の松葉が一斉にヒユーヒユーと音を立てて、唸ったのを覚えています。
父の書斎は「いるかや」の二階にあって、窓から目の前に老松を見ることができました。

昭和40年代、日本が高度成長時代になると、かって陸の孤島といわれた内外海半島にも
開発の波がひたひたと押し寄せて来ました。
昭和47年(1972)、道路拡張のため、お地蔵さんをどこかにお移しすることになりました。
父がこよなく愛し続けた老松をどうするか。なかなか決まりませんでした。

昭和47年2月10日付で、母から私の妻宛に来たハガキが残っています。
「…家の前の山も とうとう削られ、道がつくられることになって、昨日から立木を
切ってゐます。大きな松は のこされることになりましたので安心してゐます。
お地蔵様は三十メートルほど阿納尻よりの山ぞいに かりに おうつし申しました。
大変 変わりますでしょう。…」

この母からの便りがあった数ヶ月後、老松の運命が・・・。    (続く)

     写真は、昭和48年(1973)当時の老松。手前が「いるか地蔵」後ろが「いるかや」。

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