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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

聖所 第7回 デイビット・カン講演

2016年02月27日 | 日記

愚かなおとめたち

 もう一つ、私たちが、明白にしておかなければならないことがあります。それは、多くの人々が、新神学の影響で、福音に対する理解、つまり、「信仰による義」についての理解が間違っていることです。私たちが、いくら真剣に信じていたとしても、それが真理と一致していなければ、私たちを救うことはできません。多くの人が、真剣に偽りを信じていながら、自分は救いの道に確実に立っているかのように、勘違いしています。それは、実に恐ろしいことです。聖書に出ている、一つのたとえ話で、私たちはそのことを知ることができます。 

『キリストの実物教訓』からの引用です。

「思慮の浅い女たちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。彼らは、真理に関心をもち、真理を擁護し、真理を信じる人々に引き付けられてはいるが、聖霊の働きに自分自身をゆだねていないのである。彼らは、岩なるキリスト・イエスの上に落ちて、彼らの古い性質がくだかれていない。この種の人々はまた、石地の聴衆とも言われている。彼らは喜んでみ言葉を受けいれるが、その原則をかみしめて自分のものとはしないのである。その感化が永続しない。聖霊は、人が心の中に新しい性質の植えつけられるのを望んで、同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。ところが、思慮の浅い女によって代表されている人々は、表面的の働きに満足している。彼らは、神を知らない。

彼らは、神の品性を学んでいない。神と交わっていない。であるから、彼らはいかに神に信頼し、ながめ、生きるべきかを知らないのである」。(387p)

マタイ25章1節から13節で、イエス様は、十人のおとめのたとえを語られました。このたとえに出てくる愚かな(思慮の浅い)おとめと言われる五人は、偽善者ではありませんでした。彼女たちは、真理に関心を持ち、真理を擁護し、真理を信じる者たちにひきつけられていて、花婿がおいでになることを待ち望んでいる、賢い(思慮深い)おとめたちと合流した者たちでした。しかし、彼女たちは、聖霊の導きに従っていませんでした。彼女たちは、岩なるイエス様に落ちて、古い性質が砕かれていませんでした。「すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(ルカ20:18)という経験を持っていなかったのです。

 また、思慮の浅いおとめに代表される人々は、石地へ落ちた種として描写された人々も表しています(マタイ13:1~9)。それらの人々は、真理のみ言葉をすぐに受け入れましたが、そのみ言葉の原則に従って、それを生活に生かそうとしませんでした。真心からの屈服と悔い改めの経験が不十分であったため、み言葉の感化力は長続きしませんでした。聖霊は、人が心の中に新しい性質が植え付けられるのを望んで、同意するのに応じて、心を新しくして下さるのです。ところが、思慮の浅いおとめたちや、石地の聴衆は、表面的な信仰で満足していて、本当の意味で神様と出会うことがなく、神様の品性を知らなかったのです。そのために、完全に神様にゆだねることもなく、どのように日々神様と交わり、神様と共に生きるかを知らなかったのです。そして彼らは、神様の品性を反映していなかったために、「あなたがたを知らない」(マタイ25:12)と言われてしまうのです。


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