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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

デイビット・カン説教・17 顔おおいを取りのけよ第6回 

2017年03月18日 | 日記

覆いとは何か

 

モーセの儀式律法、その中に含まれている深い真理、真理の光を、ユダヤ人たちも、私たちも見るべきなのです。しかし、覆いがかけられていたらその光が見えないのです。それは悔い改めていない心ということです。不信です。疑う心です。生まれ変っていない霊です。そして偏見を持っていることです。偏見を持っていれば、真理が見えません。

ところが、イエス様のもとへ行けば覆いが取り除かれ理解出来るようになります。それで先ほどの聖句では、キリストにあってはじめて取り除かれる」と語っています。光を覆ってはいけないのです。コリント第2の手紙3章15節では今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている」と言われています。

多くの人が旧約聖書は必要ないと言います。しかし、旧約聖書と新約聖書は本質的に同じ内容のことを語っていて、植物にたとえるなら、旧約聖書は根であり茎ですが、新約聖書は花であり実なのです。ですから、旧約聖書のモーセの律法は、実際には不必要なものではなく、その意味するもの、それが教える教訓はとても大切なものなのです。もちろん私たちは現在、ユダヤの祭りをその通りに守る必要はありません。なぜなら、イエス様が祭の実体になられたので、象徴は必要なくなったからです。ユダヤの祭り、犠牲制度が指し示していた方が来られて、それを完全に満たされたのです。しかし、私たちは間もなく、ユダヤの最後の祭りである仮庵の祭を守るでしょう。イエス様が再臨されて、私たちが天に昇った時に、仮庵の祭の大いなる祝会に参加することになるでしょう。

 

私たちは、旧約聖書の祭りや聖所制度の中から、多くのことを学ぶことが出来ます。それらは、イエス様を通してなされる救いの全体像、その時間経過などを詳しく教える制度なのです。しかし今日多くの人々は、聖書を見る時に、そこに書かれた文字以上のものを見ることが出来ません。白い紙の上に置かれた黒い文字としてしか見ていないのです。その文字の背後に隠れている、真理の輝き、命の光、私たちに語りかける神様の聖なるみ声として読むことが出来ないのです。それは私たちの心に、不信や疑惑、偏見があるからです。そのために聖書には覆いがかけられていて、その光を見ることが出来ないのです。いいえ、聖書に覆いがかけられているのではなく、自分の顏に覆いがかけられているのです。そのために、聖書は数多く出版されていて、多くの人が読むことが出来ても、一つの情報としてしか受け止められず、真理の光、魂の命、生きた神様の言葉として受け入れることが出来ないのです。ですから、顔を覆っているものをキリストにあって取り除きなさい、と言われているのです。そしてモーセのように、神様と顔と顔を会わせて会話する人になりなさいと言われているのです。

しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」(Ⅱコリント3:16)。

主に心が向く時に初めて、聖書が理解できるようになります。それまで、一つの物語、遠い過去の、遠い国の、自分とは関係のない話だったものが、生き生きとした、自分自身の物語として浮かび上がって来るのです。覆いがかけられて真っ暗だったものが、急に理解できるようになります。


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