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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪から逃れる道 ソン・ケムン 第2回

2017年12月06日 | 日記

カトリックと大半のプロテスタント教会では、原罪説を教えています。アウグスティヌスとカルヴァンの見解は、教会史の中で長い伝統を持っているかもしれませんが 、聖書の教えとは決して一致していません。

これが正しい見解だと信じる人は、罪は生まれてから死ぬまで継続される、という見解を持つことになります。

私たちは堕落した本性を持って生まれて、その本性を持っているために、

私たちが罪を犯さなくても、私たちはいつも罪人で、私たちが人間として生まれた以上、 罪を犯さないようになることは不可能になります。まさにこれが、ほとんどのクリスチャンが信じている罪の定義です。

原罪論の問題は「罪の傾向を持った性質」と「罪」を同一の概念で見ることです。

それでカトリック教会は、幼児洗礼と告解が、絶対に必要な教理として位置づけられるようになりました。なぜなら人間は「罪の傾向を持った性質」で生まれてきて、その性質を持っていること自体が罪ですから、簡単に言って人は生まれた時から「殺人者」なのです。 殺人者として生まれたから早く悔い改めて罪をなくすべきで、もしその子が洗礼を受けずに死んだらどうなるでしょうか? 殺人者が悔い改めずに亡くなったのだから、救いを受けられません。そこで、幼児洗礼をするのです。

私も、母の代からのクリスチャンで、幼児洗礼を受けた者の一人です。皆さん、聖書のどこに幼児洗礼について言われていますか? この原罪思想を解決するため、反キリストが考案したのが幼児洗礼です。

しかし、問題が生じました。原罪説によると、人間は生まれた時から、自動的に「審判を受けて永遠の滅亡」を受けるしかない罪人であり、受肉されたキリストも罪人になってしまうため、再びカトリックはジレンマに陥りました。

これを解決するため、「マリヤは原罪に汚染されておらず、存在する最初の瞬間から生涯一度も罪を犯さず、そのような状態でイエス様を出産した」という無原罪懐胎(Immaculate Conception)の教理を作りました(カトリック教会憲章56項)。それで現在、カトリック教会では聖母マリヤも、キリストと同じ中保者となっています。 この原罪説を受け入れたプロテスタント教会では、マリヤの教理は受け入れない代わりに、「イエス様はアダムが罪を犯す前に持っていた、罪のない人間性を持って生まれた」という立場を取りました。