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2017-05-19 17:00:28 | 日記

原田正純追悼講演会
原田正純追悼講演会(主催:水俣フォーラム)が29日、有楽町の朝日ホールで行われ参加してきました。
原田先生と親交のあった8人の方(柳田邦男さんは欠席のため、前日に届けられた原稿の代読)が、原田先生との思い出を話しました。

6月11日に原田先生が亡くなってからもうすぐ4ヶ月。
原田先生との思い出を私なりに書いたものを公開します。


・・・・・・・・・・・
原田正純さんが6月11日、午後10時12分、急性骨髄性白血病のため亡くなった。77歳
だった。

●最後は自宅で

4月末から日本赤十字病院に入院していたが、5月初旬、ご自身の意思で退院され
た。血液のがんを患っていたが、自宅では抗がん治療を行わず、減少する血小板
を補う輸血だけを定期的に受けていた。

すでに60歳直前に胃がんの手術をし、06年8月には脳梗塞の発作におそわれ、07
年9月には食道がんの手術を受けた。血液のがんとは2011年から闘っていた。

自宅療養中は、アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」を聴きながら、青春
時代をふりかえり、妻の寿美子さんが大事にされていた自宅の庭をながめながら
過ごした。見舞客を笑顔でむかえ、亡くなる一週間ほど前の6月3日には、家族で
結婚45年を祝った。

最期は、妻と二人の娘、弟に囲まれて息をひきとった。

葬儀は家族だけで13日におこなわれ、14日のお別れ会には1000人近くが集まり、
原田先生との最期を惜しんだ。

・・・・・・・・・・・
●被害者によりそう医師

1934年鹿児島県に生まれた原田正純さんは、熊本大学医学部を卒業(59年)した
翌年、医師国家試験に合格。61年に初めて現地調査のため水俣入りをした。熊大
医学部助手、講師、助教授をへて、99年に熊本学園大学教授、同大学水俣学研究
センター長、2010年に退職し研究センターの顧問に就任した。

水俣病の被害者に正面から向き合う医師としての顔以外に、三井三池炭鉱爆発事
故(1963年)の一酸化炭素中毒患者や、カネミ油症被害者にもよりそう医師だっ
た。世界各地で水銀問題、公害問題に携わる人からの弔意のメッセージも次々に届
いた。

水俣病患者のなかでも、幼少のころから原田先生とつきあいのある胎児性・小児
性患者は、6月初旬、最期のお別れになるかもしれないという覚悟のもと、原田
先生を見舞った。

胎児性水俣病患者・半永一光さんが撮った原田先生のアップの写真は、手ぶれがひどいが、それがかえって、原田先生の笑顔を輝かせる素敵な写真にした。原田先生と半永さんのこれまでの交流の全てが凝縮されているような、とても暖かな一枚だ。

胎児性患者の永本賢ニさんは、原田先生が水俣に診察に来たときにもっていたカバンの中身を覚えていた。カバンのなかは、子どもにプレゼントする人形でいっぱいだったそうだ。そんな話しを原田先生のご家族としているのを、原田先生は、静かに笑顔で聞いていた。

・・・・・・・・・・・・

6月12日、原田先生の訃報に、胎児性・小児性水俣病患者が通う「ほっとはうす」の患者はショックを受け、涙するものもいたという。

熊本水俣病第一次訴訟の原告団長をつとめた渡辺栄蔵さんの孫・渡辺栄一さん(60)は「残念だ」と電話口で私に語った。「原田先生との思い出は、一緒にヨーロッパに行ったこと」。栄一さんは1977年、ポーランドで開催された環境セミナーに、当時、熊本大学助教授だった原田氏や支援者らと出席した。


●個人的な思い

訃報がネット記事に流れだした11日の深夜から、私の心は、水俣病の被害者に寄り添い続けた原田先生を失った悲しみ、喪失感ととともに、これからも水俣病事件の行く末をしがみつくような覚悟で追いかけていかなくては、という気持ちが同居していた。

私が最後に原田先生にお会いしたのは今年の1月、水俣で開催された水俣病事件研究交流会の会場だった。同じ会場で続けて行われた「溝口秋生さん頑張れ 水俣病認定制度の根本を問う水俣大集会」では、原田先生はお疲れになったのか、最初に話をされて、集会の途中で退席されてしまった。

これまでにも何度か原田先生にはお会いする機会があったが、この日に限って私は、原田先生に著書へのサインをお願いした。そのとき、その場に居合わせた知人が原田先生とのツーショット写真を撮影してくれるという機会にも恵まれた。しかしこれが最初で最後の写真になった。

サインをいただいた本は原田先生が「このままでは多数の水俣病患者たちは救われない。その想いで一気に書いた」という『慢性水俣病 何か病像論なのか』だった。原田先生が「挑発の書」と呼ぶ書だ。

原田先生に最初にお会いしたのは4~5年前だった。
日本環境会議(JEC)の会議の席だった。原田先生はJECの代表理事だった。環境問題の現場を見ることを大切にしているJECは、2008年には、広島県福島市の鞆の浦を訪問。道路開発か景観保護を優先させるかでゆれる地域の人たちの話を聞いた。
同行した私は、この旅で原田先生のお連れ合い、妻の寿美子さんとお会いした。このころ、原田先生の出張先には、常に寿美子さんが同行されていて、その後、東京・立川の講演会でもお会いした。

鞆の浦では仙酔島に宿泊し、夕食後の宴会では、浴衣姿でリラックスされた原田先生の姿が思い出される。原田先生からプレゼントされた『水俣病小史』というブックレットは、ページ数は薄いが、内容は濃く、今でも手元において活用している一冊だ。

●患者に学ぶ

原田先生がよく話されたのが、水俣に通いだしたころ、二人の息子をもつ母親に叱られたという話だ。

縁側で遊ぶ兄弟の症状が全く同じだったので、母親に二人とも水俣病なのかと聞いたところ、「お兄ちゃんは水俣病だけど、弟は違う」というので、どうしてかとたずねると、母親は「先生たちがそういっているじゃないですか」と怒った口調でこたえたという。

母親によると、兄は魚を食べて発病したから水俣病だが、弟は生まれたときから病状があったので水俣病ではないのだという。確かに水俣病は魚を食べて発症するものだ。原田先生も一瞬納得した。すると、母親は続けて、

「先生たちは魚を食べないと水俣病にならないといっているけど、私はそう思っていない」と続けた。

母親と家族は、みな水俣湾の魚を食べていたと。
夫は水俣病で亡くなり、長男は小児水俣病(幼少時に発病)になった。その間、ずっと長男と同じ食事をしてきた母親が次に出産した弟は、うまれながらに障害をもっていた。母親には、ほとんど水俣病の症状がみられないのは、妊娠中に体内の水銀がおなかの子どもにいったのではないか-―。そう母親は自分の考えを話した。

原田先生の頭には、胎盤は毒物を通さないという医学の定説がよぎった。しかし、母親の話を「素人考え」として聞き流さなかったことが、後の胎児性患者の水俣病認定につながったのだった。

母親の名は胎児性水俣病患者・金子雄二さんの母親・金子スミ子さん(81)。生前、原田先生が切望してたスミ子さんとの面会は、5月に実現した。

原田先生は固定概念に縛られない人だった。だからこそ、患者の声や現場から学ぶことを実践し、水俣病事件の解明に多大な貢献をした。

患者の言葉に耳を傾ける--。このことについて原田先生はあるドキュメンタリー番組でこう医学生に語っている。

「強いものと弱いものの力関係が違うとき、中立の立場をとるということは、強いものに組することにほかならない。医者は患者の声をきく・・・」

原田先生が先ほどの「挑発の書」を書かなければならない状況にあったのは、水俣病の被害者がおかれている状況に、医学者、専門家が向き合ってこなかったからではないか。

ガン患者の場合、進行の程度によって、ステージ1、2と分類することができる
が、ガン患者はガン患者である。ところが水俣病においては、行政認定された水
俣病だとか、司法認定された水俣病、政治解決による水俣病といった奇妙な表現
が広く浸透している。メチル水銀を経口摂取した人は程度の違いがあれど、みな
水俣病なのだ。


9月29日の追悼講演会で川本愛一郎さんが、原田先生の検診時のエピソードを紹介していた。
昨年行われた患者掘り起こしの一斉検診でのこと。
70代の夫婦がみえた。漁師で、結婚して50年。同じものを食べてきた二人だが、妻の水俣病の症状は軽く、夫は重い。
ふつうの医者は、妻は軽く、夫は重いとそのとおり書く。ところが原田先生は、首をひねりながら、「おかしいね。流産したことはありますか?」と妻のほうに聞いた。
すると妻が「4回しました」とこたえたそうだ。
原田先生は、うなずいて、「つらかったね。その赤ちゃんが、毒を吸い取ってくれたんだね」と話したという。

これは別のところで聞いた話だが、家族に認定患者がいる女性が、かつて医者に水俣病かどうか診てもらいに行ったら、ひどく嫌味をいわれた。そのときの医者の言葉で、その女性は、水俣病かどうか調べることを諦めてしまったという。
もう何十年も前のことだから、といった感じで、あっけらかんと話してくださったが、この女性のように医者にいやな思いをさせられて、水俣病の申請を断念した人はほかにもいるだろう。


追悼講演会で「原田さんは、ニセ学者には全身で怒っていた」と話した佐高信さんは、雑誌『週刊金曜日』に小出裕章さんのことを書く際、原田先生に電話をしたところ、
「自分の場合はチッソという会社(が相手)でした。電力はもっと大きい会社だから、もっと大変だったでしょうね」と語ったとのこと。小出さんを気づかうやさしさを感じたという。

最後に。
原田先生は、水俣病を伝えていく人が必要だと考えていた。
それは当事者である患者だけが担うのではいけないとも。
水俣では、水俣病の語り部を育てる勉強会が発足したそうだ。
私もこれまでに取材させていただいたことを伝えていきたい。
私の声は小さくても。

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