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2017-05-19 17:27:56 | 日記
水俣病と原田正純医師シンポジウム1
                       原田正純医師についてのシンポの紹介
   
 司会(中山):さて、続いて、「水俣病裁判における原田正純医師の証言」と題してシンポジウムに移りたいと思います。
 ここからは、板井優弁護士にコーディネーターをお願いいたします。板井弁護士は、第三次訴訟当時、水俣法律事務所を開設され、馬奈木先生に続いて水俣市に事務所を開設された二人目の弁護士です。
 発言者は、ご着席の順に、医師団の藤野糺先生、馬奈木昭雄先生、不知火患者会長の大石利生さん、園田昭人弁護士であります。
 一人ひとりの自己紹介につきましては、冒頭で自己紹介をしていただくことになってありますし、お手元の資料にプロフィールも紹介をしてございますので、私からの紹介は割愛いたします。それでは、板井先生お願いいたします。

             
コーディネーター(板井弁護士)
 弁護士の板井です。本日のシンポジスの方々から一人3分くらいで自分と水俣病との関係を中心に自己紹介をしていただきたいと思います。最初に藤野先生からお願いいたします。

藤野糺:こんにちは。私は1968(昭和43)年、ちょうど水俣病が公害病として政府から公式認定されたその年に医師になりました。1年間の研修の後に熊大医学部の神経性精神科に入局して、先ほどお話のありました立津政順先生、あるいは原田正純先生に精神医学の指導を受けました。私が最初に水俣病の患者さんを診ましたのは、1970(昭和45)年の3月ですね。立津教授の審査会検診の際に診察補助者、お手伝いとして、水俣に行った時が初めてであります。その後、同じ年の昭和45年6月、ボランティアの活動ということで、県民会議医師団事務局長として、水俣病第一次訴訟の支援と潜在患者の発掘に従事しました。教室における研究の課題としては先天性、すなわち胎児性水俣病の多発した地域で、多発した年に生まれた者が生徒として在籍していた水俣市袋中学校での一斉検診に取り組みました。翌年にはその校区の三分の一に当たる濃厚汚染地域である湯堂、出月、月の浦の赤ちゃんからお年寄りまでの全住民を対象とした悉皆調査へと発展しましたが、この調査にも教室員の一員として参加しました。
 その後1972(昭和47)年より水俣に転居しまして、多発地区内にありました精神科の病院、現みずほ病院に勤務して、治療と潜在患者のさらなる発掘に取り組んできました。それでは不十分ということで、1974(昭和49)年に水俣診療所を建設しまして、4年後に水俣協立病院へと皆さんのお力で発展させていただきました。そして、定年の60歳まで勤務しております。その後現在でも週一回水俣に通っています。

コーディネーター:それでは次に馬奈木昭雄弁護士にお願いします。

馬奈木昭雄:私は、1969年(昭和44年)4月に福岡で弁護士になりまして、6月の水俣病第一次訴訟の提訴に参加しました。その後福岡から熊本の会議や裁判に通っていましたが、訴訟をめぐっていろいろ困難な状況が生じていましたので、弁護団の誰かが水俣に事務所を開き、裁判に専従すべきだということになって、一番下っぱだった私がその任に当たることになったのです。1970年12月から水俣に来て県民会議医師団が宿にしていた月の浦の山田ハルさん宅に下宿しました。翌年3月水俣で正式に事務所を開設しました。一次訴訟が73年3月に勝訴し、同年始められためられた水俣病第二次訴訟の母体の患者たちを中心に結成した水俣病被害者の会がチッソとの補償協定を翌74年1月に成立させたため、3月31日をもって水俣の事務所を閉め福岡に戻りました。その翌年久留米で事務所を開き、二次訴訟、水俣病第三次訴訟に参加してきました。水俣時代は藤野先生と一緒に、芦北や出水沿岸の集落をまわり、隠しこまれた患者の発掘活動や被害者の会の組織、支援の組織などを取組みました。水俣診療所建設の呼びかけ人として、診療所を建設できたのもうれしい思い出です。

コーディネーター:ありがとうございました。大石さんお願いします。

大石利生:みなさん、こんにちは。私は水俣病不知火会の代表を務めておりますし、患者としてみなさんとともに闘ってきたものです。私の生まれは1940(昭和15)年5月17日、水俣市で生まれ、水俣市で育ちました。
生まれた場所というのはチッソの排水門から600メートルぐらい離れたところで、私が小学校の頃、水泳をおぼえたのも排水門のところでした。その中で、大人の人が言っていたのは「ここに船をつなぐとフナ虫がつかないよ」ということを言っていた記憶があります。その時になんで虫がつかないのかもわかりませんでしたけれども、今になって思い出すと、確かに虫をも殺す有害な汚水を流していたのはチッソだと、だからそういう結果だなというふうに感じています。
 昭和36年のころ、たまたま市民病院に入院して水俣病の劇症の患者さんを自分の目で見たんです。その姿を見たときに頭の中が真っ白になりました。というのは、やせ細って骨と皮だけになりながら、生きるために一生懸命努力して頑張っている患者さん、そしてその患者さんの側で看護しているのは同じ患者さんです。そういうのを見て、これが水俣病かというふうに思っていたもんで、あの時、私はほかの病院で診察途中に、針で刺してわかりますかということをされたんですけれども、その時に私はわかりますと答えて、起き上がって「先生今のは何やったんですか?」と聞いたところが、針で刺された。「私は痛くはなかったですよ」と言うたところが、先生が「それはあんた、水俣病です」ということを言われたときに、劇症型の患者さんを見とったもんだから、そういうのと自分の身体は違うということで先生にくってかかっておりました。そういうのが水俣病との初めての関わりです。
 2004年に最高裁の判決があって、水俣病の検診を受けてみませんかという病院のチラシを見て、3日間におよぶ検診を受けた結果は、診断は水俣病という病名がついていました。それから患者会を結成することになり、「あなた患者会長をしてくれんか」というようなことを言われたときに、私は即答できませんでした。患者会の会長を引き受ければ、新聞にも載るしテレビにも出るだろう。そうなれば、奥さんをはじめ子どもたちは3人おりますけれど、それぞれ独立をし生計を立てていたので、子どもたちに影響はないかなと思っておりましたが、帰って来てそれぞれに電話したら、「父さんがそういう気持ちなら反対はしないよ」と言ってくれたので、患者会を結成し代表に入りました。それからが本当の闘い。それまでには、自分の身体というのは痛み、痛いということがわからない。味がわからない。肩がこる。カラス曲がりはもちろんです。そういう症状はいっぱいありましたけれど、自分の身体で体験したのは、本当に自分の身体は痛みが感じないのかと思って、寝るときにちょうど身近にあったはさみで10センチぐらいの傷を引いてきたんですけれども、その時に血は出たんですけれどもイタチとは思いませんでした。
 またあるとき孫が来て、お風呂に一緒に入ってみたいなと思って、私が先に湯船に浸かってその子を入れたとたんに大声で泣きました。その時に妻が飛んできて、「あなたはこの子を茹で殺すつもりか」と私に怒鳴りました。そのときに私は本当に自分の身体はそういう熱も感じないのかと思って、実際に温度計を入れて50度に設定したお湯を自分の膝にかけてみたんですけども、熱いと思わずに、ただ足首を見たら真っ赤になっておりました。そういうのを見て、やっぱり自分は水俣病かなと思いつつ、患者会に入っていきました。そういうのが、私の経歴です。今日はよろしくお願いします。

コーディネーター:どうもありがとうございました。それでは園田昭人弁護士よろしくお願いいたします。

園田昭人:園田でございます。私は1987年に弁護士になり、熊本共同法律事務所入所しました。熊本共同法律事務所は当時、水俣病第三次訴訟の弁護団の事務局がおかれておりまして、千場茂勝弁護士が団長をされ,所属している先輩弁護士全員が弁護団に入っておりました。その関係で自然に私も水俣病弁護団のメンバーに入ることになりまして、弁護団活動の中で原田正純先生と知り合ったんです。
2005年10月に水俣病被害者の新たな国賠訴訟でございます「ノーモア・ミナマタ」国賠訴訟が提訴されましたが,その弁護団の団長になりました。この訴訟は当初50名でスタートしたわけでございますけれども、後には3000人規模ということになりまして、2011年の3月にチッソと国と熊本県との間で和解が成立しました。これで訴訟はすべて終了することになりました。以上です。

コーディネーター:原田正純先生が亡くなってもう1年が経ちました。
 今日は、原田先生と水俣病裁判の関係でシンポジウムをして、水俣病における裁判の役割について考えてみたいと思います。1972年10月に公刊された岩波新書の『水俣病』を紐解きますと、その「あとがき」で(精神科の)医師として水俣病にかかわるか、本を書くことによって水俣にかかわるのかを悩んだ上で、この本を書いたということを述べています。この本の「はじめに」で原田先生が水俣にかかわったのは昭和35年(1960年)で、最初は、熊大精神科の宮川九平太教授に師事し、宮川先生が昭和35年9月に病死した後は立津政順教授に師事し、昭和36年7月に立津先生と一緒に水俣現地に行き、そこで水俣病患者の症状のひどさと多彩さに驚いています。
 そこで、藤野糺先生の『水俣病の真実』(大月書店)には、原田正純先生が「立津政順教授と藤野糺先生―遺産の継承者」のテーマで寄稿しています。その中で、立津先生について「診察室で診て、病棟の中で様子を観察し、さらに生活の場で診ること」をやかましくいっていたと書かれています。そのことについて、本日のトップバッターとして藤野先生にお話をして頂きたいと思います。
 余談ながら、立津政順教授は、旧姓玻名城(はなしろ)といって、沖縄の旧制県立2中の出身で私の遠い親族のようです。

藤野糺:立津政順先生は昭和36年4月に着任されまして、すぐに「水俣病は学会報告では脳が重篤に傷害されているのに比べ、臨床症状が単純すぎる。もっと多彩な病状を示すのではないか?」。さらに「報告されるのは重症者だけだがもっと軽症者はいないのだろうか?同じ魚を食べた家族に症状はないのだろうか?」。そのような疑問を持たれたということを原田先生が本の中で書かれています。
 そして36年7月に立津教授が誘って水俣現地へ行かれました。この時が原田先生にとっても初めての現地訪問でしたこういう事になっているようです。なぜ、現地調査ということになったかという事ですが、立津先生は戦前に東大精神科におられた時、東京都の三宅島という島で、「どのような精神疾患がどれくらい存在しているか」を明らかにするために、全住民を対象にした悉皆調査をすでにされた経験があるのです。精神疾患の有病率の調査ですから、当然初めからひとり一人を精神科医師が直接診察して診断を下すわけです。このように生活している現場で診る、家族ぐるみで診るということを戦前から会得されていた、そういう素晴らしい先生でした。
 先ほど話しましたように、私が水俣病患者を初めて診察したのは1970年3月立津先生に連れられて認定申請者の検診に水俣市立病院に行ったときです。私は初めての水俣病診察だったものですから、教授の筆記者(べシュライバー)となり、水俣病の所見の取り方を直接に教わりました。この時、立津先生が神経・精神症状が日常生活の中でどのような障害として現れているか、症状の経過はどうか、家族の中で同じような症状を呈する者はいないかなどを重視して患者さんを確認されていました。私は、勿論ですが、原田先生もこのような診察や診断の仕方を学んだと述べておられます。
そのようなことから、立津先生は患者さんの生活の場である自宅での診察を重視して、気軽に行かれていました。その後の水俣病に関するエピソードで原田先生の本に、71年の紅白歌合戦が始まってもまだ診察を続けていたという湯堂Iさん宅での検診の時は、実は私も一緒におりました。
 原田先生が書かれていないことで、私が経験した二つの特徴的なことがあります。1972年七五三のお祝いのとき、水俣市月の浦の坪谷というところの第一、第二号患者さんの発生していたTさん宅のことです。それらの患者のうち姉の方のお祝いが襖一枚隔てた隣室では真っ盛りの中、立津先生はお祝いの言葉と同時に診察を願い出て、生存していた妹の二号患者さんと共にその両親や一号患者の姉を診察しました。
 同じ頃、同じ坪谷で、今度はお通夜の時です。Yさんといって、一つの会派の代表をされていて、子共さんが中学1年の時発病して非常に苦労された方です。そのYさんがお亡くなりになって、お通夜の時ちょうど通り合わせましてお参りに行ったのです。そうしたら、急性の重症患者さんの兄弟が一緒におられたのです。お通夜ですから集まっておられるわけですね。その人たちをちょっと診させてもらえないだろうかと御願いして、隣の部屋で診察をするという、そういうふうなこともありました。ですから、「機会を逃さずに診られるときにはちゃんと診ておかなければいけませんよ」ということも合わせて私たちに指導して下さいました。
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