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2017-03-21 11:46:51 | 日記

4月 - 文化学院の講師を務める。安岡章太郎の紹介で構想の会に参加し、知己を広げる。奥野健男の紹介で現代評論に参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。
1955年(昭和30年)
7月 - 『白い人』で第33回芥川賞を受賞。
9月 - 岡田幸三郎の長女、順子と結婚。父の家で短期間同居の後、世田谷松原に転居。
1956年(昭和31年)
6月 - 長男龍之介誕生。上智大学文学部の講師を務める。
1958年(昭和33年)
10月 - アジア・アフリカ作家会議に参加。
12月 - 『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞。
1959年(昭和34年)
11月 - マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。
1960年(昭和35年)
4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。
1961年(昭和36年)
1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。
1962年(昭和37年)
- 5月、退院。
1963年(昭和38年)
3月 - 町田市玉川学園に転居。新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。
1965年(昭和40年)
- 新潮社の書き下ろし小説『沈黙』制作のための下調べ/取材で、三浦朱門とともに長崎・平戸を数回旅行。
1966年(昭和41年)
3月 - 『沈黙』を刊行。
成城大学の講師を務める( - 1969年)
5月 - 劇団雲で戯曲『黄金の国』(演出:芥川比呂志)初演。
10月、『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞を受賞。
1967年(昭和42年)
8月、ポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待を受け、アウブフェーラで行われた聖ヴィンセントの300年祭で記念講演。その後、リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。
1968年(昭和43年)
- 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。
4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、紀伊國屋ホールでウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を上演。
1969年(昭和44年)
1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、イスラエルに旅行し、2月に帰国。
4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。
1970年(昭和45年)
4月 - 矢代静一、阪田寛夫、井上洋治とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。
1971年(昭和46年)
11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、ベナレス、イスタンブール、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。ローマ法皇庁からシルベストリー勲章を受ける。
1972年(昭和47年)
3月 - ローマ法王謁見のため、三浦朱門、曽野綾子とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。
10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。
1973年(昭和48年)
3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン(アンダルシア州)を廻り、4月に帰国。
1974年(昭和49年)
5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。
10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。
1975年(昭和50年)
- 2月、北杜夫、阿川弘之とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。
1976年(昭和51年)
1月 - 面白半分の編集長に就任( - 6月)。
6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で大韓民国へ旅行し、豊浦、釜山、熊川、慶州、蔚山を廻り、同月帰国。9月にはジャパン・ソサエティの招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨークで講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。
12月 - ピエトゥシャック賞を受賞。授賞式参加のため、ポーランドのワルシャワに旅行、その後アウシュヴィッツを見学し、同月に帰国。
1977年(昭和52年)
1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。
5月 - 兄死去。
1978年(昭和53年)
6月 - 『イエスの生涯』で国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。
1979年(昭和54年)
2月 - 『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。
3月 - 中華人民共和国に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地大連を訪れる。同月帰国。
4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。日本芸術院賞を受賞[18]。
1980年(昭和55年)
5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33回野間文芸賞を受賞。
1981年(昭和56年) - 日本芸術院会員になる。
1985年(昭和60年)
4月 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルでグレアム・グリーンと鉢合わせし、文学論を交わした。
6月 - 日本ペンクラブ第10代会長に就任( - 1989年)。サンタクララ大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、カリフォルニア大学のジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所で講演を行ない、同月に帰国。
1986年(昭和61年)
2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。
11月 - 台湾の輔仁大学の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。
1987年(昭和62年)
5月 - ジョージタウン大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。
10月 - 韓国文化院の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。尹興吉との知遇を得る。
1988年(昭和63年)
4月 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。
8月 - 国際ペンクラブのソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。文化功労者に選出される。
1989年(昭和64年・平成元年)
12月 - 父常久死去。
1990年(平成2年)
2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。
7月 - 仕事場を上大崎に移す。
10月 - アメリカのキャンピオン賞を受賞。
1991年(平成3年)
1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。
5月 - ジョン・キャロル大学(英語版)の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、マーティン・スコセッシと『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。
12月 - 輔仁大学の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。
1993年(平成5年)
5月 - 腹膜透析の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。
1995年(平成7年)
9月 - 脳内出血で順天堂大学病院に入院。
11月 - 文化勲章受章。
12月 - 退院。
1996年(平成8年)
4月 - 腎臓病治療のため、慶應義塾大学病院に入院。
9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。
家族・親族[編集]
遠藤家[編集]
(鳥取県、東京都)
家系
初代・元衛(元哲)
遠藤家は代々東分知家の御医師で、初代を元衛(元哲)といい、鳥取の町医師であった[19]が宝暦14年(1764年)3月四代池田澄延に召抱えられ、名も元哲と改めた[20]。明和3年(1766年)侍医となり四人扶持を受けた[20]。続いて五代池田延俊の侍医となり、明和9年(1772年)に詰江戸を命ぜられ、二十俵支配と詰高五俵の二十五俵の加増を受けた[20]。
二代目・玄益
元哲に医師とする男子なく、藩医真嶋三随の甥である玄益を養子とした[20]。安永4年(1775年)6月病没した[20]。玄益は養子のため、三人扶持を受けて家督相続し、天明8年(1788年)より藩邸や城中勤務をした[20]。勤務良好とあって翌寛政元年(1789年)には四人扶持となっている[20]。そして御近習医師に昇格し、詰江戸を命ぜられ寛政6年まで江戸三田邸に勤務した[20]。その後も度々江戸詰を命ぜられ五人扶持二十五俵の加増となり、寛政12年3月から七代池田仲雅の御匕代役をした。享和2年に諸役から退き文化7年(1810年)正月に病没した[20]。
三代目・玄里
三代玄里は玄益の実子で四人扶持を継いだ。文政2年(1819年)より藩邸、城中勤務をし、江戸詰も度々命ぜられている[20]。安政2年同じ東分知家医師であった石原玄碩長男の隼見を養子とした[20]。玄里は翌安政3年(1856年)9月病没した[20]。
四代目・玄益
四代玄益は父玄碩や本藩の藩医大島秀洞(本道、二〇〇石)に学んでおり、医術もよくできた[20]。養子のため四人扶持十九俵を受けたが、翌年より城中勤務となり、安政6年には九代池田仲立の御匕役[21]を勤めた[20]。
玄益に子供がなく慶応2年(1866年)6月中村鼎斎の門人で、邑美郡田島村の岡田新左衛門の子である岡田謙三を養子に入れた[20]。明治元年(1868年)よりその謙三に代番勤めをさせている[20]。しかし明治2年(1869年)より再び藩に勤務している[20]。維新後の経歴は明らかでないが、河村郡下浅津村で開業していた[20]。そして医業のかたわら創立して間もない浅津学校の訓導兼校長を勤めた[22]。明治13年(1880年)に没した[22]。
謙三の子たち
謙三の子に又蔵、河津三、隼見の三子がいた[22]。又蔵は医師とならず東大理学部を卒業して早稲田の数学の教師となり、三男隼見は、東大経済学部を卒業して三菱商事に勤務した[22]。
謙三の二男河津三
二男河津三は、岡山の三高医学部を卒業して東京に出て済生学舎で修行し明治33年(1900年)開業試験に合格した[22]。一時横浜十全病院に勤めたのち明治35年(1902年)下浅津村に帰り、父の跡をついで医業をした[22]。医業は多忙を極め、その上、需められ東郷池の向う花見村長和田に出張診療所を設けて日夜診療に明け暮れたという[22]。河津三は郡医師会理事もつとめ、戦時中は満州開拓団の医師として2年ばかり夫婦で渡満し、帰国後再び浅津、長和田地区の診療をした[22]。昭和24年(1949年)2月病没した[22]。
家庭
父 常久(銀行員)
養子常久は医師とならず東大法学部を卒業して安田銀行に勤務した[22]。
母 郁
義母 秀子 - 父親の再婚相手。
兄 正介
東京大学法学部卒、電電公社総務理事。
妻 順子(実業家岡田幸三郎の娘。俳優岡田英次の従妹)
東洋英和女学院、慶應義塾大学仏文科卒業。遠藤周作の死後、思い出を語った作品を数作残している。
長男 龍之介
芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。父周作は「大学受験は、なんの役にも立たない[23]。そんなものに貴重な青春時代を浪費するのは愚の骨頂だ[23]」といって、龍之介には大学受験を勧めなかったという[23]。フジテレビジョンに入社し、現在専務[23]。父周作との子どものころの約束は3つあり「うそをつかない。ともだちを裏切らない。弱い人間を馬鹿にしない」だった。また会話は、敬語を用い、周作からは含みを残す言い回しや比喩を用いた表現を常としたとの回想がある。
作品一覧[編集]
日本[編集]
書籍[編集]
『フランスの大学生』(1953年、早川書房)のち角川文庫、ぶんか社文庫
『カトリック作家の問題』(1954年、早川書房)
『堀辰雄』(1955年、一古堂)「堀辰雄覚書」講談社文芸文庫
『白い人・黄色い人』(1955年、講談社)のち文庫、新潮文庫、講談社文芸文庫
『神と悪魔』(1956年、現代文芸社)
『青い小さな葡萄』(1956年、新潮社)のち講談社文庫、文芸文庫
『タカシのフランス一周』(1957年、白水社)
『恋することと愛すること』(1957年、実業之日本社)
『月光のドミナ』(1958年、東京創元社)のち新潮文庫
『海と毒薬』(1958年、文藝春秋新社)のち角川文庫、講談社文庫、新潮文庫
『恋愛論ノート』(1958年、東都書房)
『恋の絵本』(1959年、平凡出版)のち大和書房・女性論文庫
『おバカさん』(1959年、中央公論社)のち角川文庫、中公文庫、ぶんか社文庫
『蜘蛛 周作恐怖譚』(1959年、新潮社)
『若い日の恋愛ノート』(1960年、青春出版社)「恋愛とは何か」角川文庫
『新鋭文学叢書6 遠藤周作集』(1960年、筑摩書房)
『火山』(1960年、文藝春秋新社)のち角川文庫
『あまりに碧い空』(1960年、新潮社)
『聖書のなかの女性たち』(1960年、角川書店)のち講談社文庫
『ヘチマくん』(1961年、新潮社)のち角川文庫
『結婚』(1962年、講談社)のち文庫
『宗教と文学』(1963年、南北社)
『わたしが・棄てた・女』(1964年、文藝春秋新社)のち講談社文庫
『浮世風呂』(1964年、講談社)
『一・二・三!』(1964年、中央公論社)のち文庫
『偽作』(1964年、東方社)
『留学』(1965年、文藝春秋新社)のち新潮文庫
『狐狸庵閑話』(1965年、桃源社)
『哀話』(1965年、講談社)のち文庫、文芸文庫
『沈黙』(1966年、新潮社)のち文庫
『金と銀』(1966年、佼成出版社)のち文春文庫
『楽天主義のすすめ』(1966年、青春出版社)
『協奏曲』(1966年、講談社)のち文庫
『さらば、夏の光よ』(1966年、桃源社)のち講談社文庫
『闇のよぶ声』(1966年、光文社)のち角川文庫、ぶんか社文庫
『遠藤周作のまごころ問答』(1967年、コダマプレス)
『ぐうたら生活入門』(1967年、未央書房)のち角川文庫
『キリシタン時代の知識人-背教と殉教』(1967年、日本経済新聞社)
『現代の快人物-狐狸庵閑話巻之弐』(1967年、桃源社)のち角川文庫
『どっこいショ』(1967年、講談社)のち文庫
『私の影法師』(1967年、桂書房)
『古今百馬鹿-狐狸庵閑話巻之参』(1967年、桃源社)のち角川文庫
『影法師』(1968年、新潮社)のち文庫
『周作口談』(1968年、朝日新聞社)「ぐうたら交遊録」(1973年、講談社
『それ行け狐狸庵』(1969年、文藝春秋)のち文庫
『遠藤周作ユーモア小説集』(1969年、講談社)のち文庫
『大変だァ』(1969年、新潮社)のち文庫
『薔薇の館・黄金の国』(1969年、新潮社)
『楽天大将』(1969年、講談社)のち文庫
『遠藤周作怪奇小説集』(1970年、講談社)のち文庫
『愛情論-幸福の手帖』(1970年、虎見書房)
『遠藤周作の本』(1970年、KKベストセラーズ)
『石の声』(1970年、冬樹社)
『切支丹の里』(1971年、人文書院)のち中公文庫
『母なるもの』(1971年、新潮社)のち文庫
『黒ん坊』(1971年、毎日新聞社)のち角川文庫
『埋もれた古城』(1971年、新潮社)のち集英社文庫
『遠藤周作シナリオ集』(1971年、講談社)
『ただいま浪人』(1972年、講談社)のち文庫
『狐狸庵雑記帳』(1972年、毎日新聞社)
『ぐうたら人間学』(1972年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)
『牧歌』(1972年、番町書房)のち新潮文庫
『狐狸庵型』(1973年、番町書房)のち角川文庫
『灯のうるむ頃』(1973年、講談社)のち角川文庫
『ぐうたら愛情学』(1973年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)
『死海のほとり』(1973年、新潮社)のち文庫
『メナム河の日本人』(1973年、新潮社)
『ぐうたら会話集』(1973年、角川書店)のち文庫
『イエスの生涯』(1973年、新潮社)のち文庫
『遠藤周作第二ユーモア小説集』(1973年、講談社)のち文庫
『ぐうたら怠談』(1973年、毎日新聞社)
『ぐうたら好奇学』(1974年、講談社)
『ピエロの歌』(1974年、新潮社)のち文庫
『周作快談』(1974年、毎日新聞社)
『遠藤周作文庫』〈全51冊〉(1974-78、講談社)
『口笛をふく時』(1974年、講談社)のち文庫
『うちの女房、うちの息子』(1974年、講談社)
『喜劇 新四谷怪談』(1974年、新潮社)
『最後の殉教者』(1974年、講談社)のち文庫
『恋愛作法』(1974年、いんなあとりっぷ社)
『日本人を語る』(1974年、小学館)
『遠藤周作文学全集』〈全11巻〉(1975年、新潮社)
『君たちの悩みにまじめにお答えします』(1975年、集英社)
『彼の生き方』(1975年、新潮社)のち文庫
『この人たちの考え方』(1975年、読売新聞社)
『怠談』(1975年、番町書房)
『身上相談』(1975年、毎日新聞社)「小説身上相談」文春文庫
『ぼくたちの洋行』(1975年、講談社)のち文庫
『吾が顔を見る能はじ』(1975年、北洋社)
『観客席から』(1975年、番町書房)のち角川文庫「観客席から 私の大好きな映画と芝居」
『続・日本人を語る』(1975年、小学館)
『遠藤周作ミステリー小説集』(1975年、講談社)
『ボクは好奇心のかたまり』(1976年、新潮社)のち文庫
『勇気ある言葉』(1976年、毎日新聞社)のち集英社文庫
『私のイエス-日本人のための聖書入門』(1976年、祥伝社)
『砂の城』(1976年、主婦の友社)のち新潮文庫
『悲しみの歌』(1977、新潮社)のち文庫
『鉄の首枷-小西行長伝』(1977年、中央公論社)のち文庫、ぶんか社文庫
『走馬燈-その人たちの人生』(1977年、毎日新聞社)のち新潮文庫
『旅は道づれ世は情け』(1977年、番町書房)
『自選作家の旅』(1977年、山と渓谷社)
『日本人はキリスト教を信じられるか』(1977年、講談社)
『愛情セミナー』(1977年、集英社文庫)
『ウスバかげろう日記』(1978年、文藝春秋)のち文庫
『人間のなかのX』(1978年、中央公論社)のち文庫
『キリストの誕生』(1978年、新潮社)のち文庫
『ぐうたら会話集』第2-3集(1978、80年、角川書店)のち文庫
『王妃マリー・アントワネット』全3巻(1979-80年、朝日新聞社)のち新潮文庫
マリー・アントワネット (ミュージカル) - 2006年にミュージカル化され、ブレーメンにてドイツ語でも上演された。
『銃と十字架』(1979年、中央公論社)のち文庫(ペトロ岐部)
『十一の色硝子』(1979年、新潮社)のち文庫
『異邦人の立場から』(1979年、日本書籍)のち講談社文芸文庫
『周作怠談・12の招待状』(1979年、主婦の友社)
『お茶を飲みながら』(1979年、小学館)のち集英社文庫
『ぐうたら社会学』(1979年、集英社文庫
『結婚論』(1980年、主婦の友社)
『天使』(1980年、角川書店)のち文庫
『侍』(1980年、新潮社)のち文庫
『狐狸庵二十面相』(1980年、文藝春秋)
『父親』〈上・下〉(1980年、講談社)のち集英社文庫、講談社文庫、集英社文庫
『かくれ切支丹』(1980年、角川書店)
『作家の日記』(1980年、作品社)のち講談社文庫、福武文庫、講談社文芸文庫
『遠藤周作による遠藤周作』(1980年、青銅社)
『真昼の悪魔』(1980年、新潮社)のち文庫
『狐狸庵うちあけ話』(1981年、集英社文庫)
『愛と人生をめぐる断想』(1981年、文化出版局)のち光文社文庫
『王国への道-山田長政』(1981年、平凡社)のち新潮文庫
『名画・イエス巡礼』(1981年、文藝春秋)「イエス巡礼」文庫
『僕のコーヒーブレイク』(1981年、主婦の友社)
『女の一生』(1982年、朝日新聞社)のち新潮文庫
『足のむくまま 気のむくまま』(1982年、文藝春秋)のち文庫
『自分をどう愛するか〈生活編〉』(1982年、青春出版社)のち文庫
『冬の優しさ』(1982年、文化出版局)のち新潮文庫
『あべこべ人間』(1982年、集英社)のち文庫
『遠藤周作と考える-幸福、人生、宗教について』(1982年、PHP研究所)
『悪霊の午後』(1983年、講談社)のち文庫
『私にとって神とは』(1983年、光文社)のち文庫
『よく学び、よく遊び』(1983年、小学館)のち集英社文庫
『イエス・キリスト』(1983年、新潮社) - 『イエスの生涯』『キリストの誕生』の合本
『イエスに邂った女たち』(1983年、講談社)のち文庫
『自分づくり-自分をどう愛するか〈生き方編〉』(1984年、青春出版社)のち文庫
『生きる学校』(1984年、文藝春秋)
『快人探検』(1984年、青人社)
『私の愛した小説』(1985年、新潮社)のち文庫
『何でもない話』(1985年、講談社)のち文庫
『ほんとうの私を求めて』(1985年、海竜社)のち集英社文庫
『宿敵』〈上・下〉(1985年、角川書店)のち文庫(小西行長,加藤清正)
『狐狸庵が教える「対話術」』(1985年、光文社)のち文庫 
『心の夜想曲(1986年、文藝春秋)のち文庫 
『ひとりを愛し続ける本』(1986年、青春出版社)のち講談社文庫
『スキャンダル』(1986年、新潮社)のち文庫 
『風の肉声』(1986年、大和出版)
『狐狸庵が教える「対談学」 その方法と実地指導』(1986年、光文社)
『私が見つけた名治療家32人』(1986年、祥伝社)
『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(1986年、読売出版社)
『あなたの中の秘密のあなた』(1986年、ハーレクイン・エンタープライズ支社)のちPHP文庫
『男感覚女感覚の知り方』(1986年、青春出版社)のち文庫
『わが恋う人は』(1987年、講談社)のち文庫
『死について考える-この世界から次の世界へ』(1987年、光文社)のち文庫
『新 ぐうたら怠談』(1987年、光文社)
『ピアノ協奏曲二十一番』(1987年、文藝春秋)のち文庫
『眠れぬ夜に読む本』(1987年、光文社)のち文庫
『あまのじゃく人間へ』(1987年、青春出版社)のち文庫
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